純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2015年10月

/自分なんて地平線と同じ。いくら探したって、見つかるわけがない。これまでの二十年間がまっすぐ、これからの五十年間に延長していると考える方がおかしい。むしろ、これから仕事、貯金、結婚、出産、転勤、教育、病気、介護など、経験したことも無い出来事が襲いかかる。そこで、どんな自分になりたいのか、そんな自分に、その会社に入ってなれるのか。分析というより、決断だ。/

 就活のエントリーシートなどに、そもそも志望企業探しのために、「自己分析」をしろ、と言われる。おまけに、それを面接でもアピールできるように、具体的で印象的な過去のエピソードを見付けろ、と。で、自己分析ってなんだ? 自分がどんな人間であるか、見つめ直し、理解して、特性を活かせ、ということ?


 哲学なんで、就職で役に立たない、関係が無い、と思うかもしれないが、じつは、この話、哲学の大物、カントがさんざんに論じている。カントに言わせれば、自分なんて、どう分析したって見つかるわけがない。それは、これが地平線だ、という線と同じ。いくらあちこち歩き回って探してみたって、そんな永遠の向こう側に、だれも絶対に手が届くわけがない。つまり、自分探しなど、理論的に、根本から時間のムダ。


 いろいろな過去のエピソードを寄せ集めて、そこから共通する「本質」を探り出す、というのは、帰納法。そして、一般の物事であれば、こうして見つけたその本質を延長して外挿する演繹法で、未来も正確に予測することができる。


 ところが、人間は、カント以降の実践哲学、実存哲学で注目されるように、過去がどうであれ、未来は、自分がどうするか、に懸かっている。君の自由意志しだい。つまり、こと人間に関しては、過去の事実から帰納法で導かれた結論は、そのまま未来へまっすぐ延長しているとは限らない。もとより学生の自己分析など、たかだかサンプルが二十年そこそこの話。これからにこそ、いろいろな経験を積んでいくのに、そんなガキのころの話が四十歳、六十歳になっても、まったくぶれない、変わらない、という方がおかしい。


 かといって、自己分析なんてムダ、なんて言っているやつも、どうかと思う。バカの自覚を持ったやつだけが、しっかり学ぼうと思うもの。ブスの自覚をもったやつだけが、きれいになりたいと願うもの。つねに自分に足らぬ物事の勉学に努力している人が、賢明、どんなときにも自分の至らなさを気に掛けて愛想を心がけている人が、かわいい、というもの。


 人間は、過去をすべて捨て去って、いきなりまったく別人になることなどできない。あくまで、いまここ、が出発点だ。しかし、かといって、出発点に留まり続けているやつは、その延長線上にある未来さえ手に入れることができない。自分がどんな人間であるか、ではなく、問題は、自分がどんな人間になりたいか、だ。未来は、たしかに過去の延長だ。だが、延長線など、どんな風にも曲げて引くことができる。そして、その延長線が辿り着くべき、果てしないかなたにある地平線は、実在ではなく、君が歩いていくべき永遠の目標。


 自分がどんな人間であったのか。それは無視はできない。だが、より重要なのは、最終的に、どんな人間になりたいのか。五十年後、七十歳のとき、どんな人々に囲まれ、どんな生活をしていたいのか。そこから逆算して、これからの五十年の間に、どんな会社、どんな仕事、どんな経験を積んで行くべきなのか。たった五十年。五十回の春、五十回の夏、五十回の秋、五十回の冬。いいことばかりとはいくまい。面倒や事故、不幸や災害もあるに決まっている。だから、それらへ備えもして当然。こんなギリギリの状況で、とりあえずみんなと同じ人気企業へ、などと寄り道をしている時間の余裕は無い。


 自己分析、というが、ほんとうは、厳密な意味での帰納法的な「分析」ではない。むしろ決断だ。仕事、貯金、結婚、出産、転勤、教育、病気、介護、などなど、これまでの二十年間には経験したことも無いさまざまな出来事が山のように襲いかかる。会社選びは、これらすべての問題とのバランスによってのみ決まる。一口で飲み終わる缶コーヒーを自販機で選んでいるのとはわけが違う。むしろ自分選びだ。何かを得るために、別の自分を捨てることだ。どんな自分になりたいのか、そんな自分に、その会社に入ってなれるのか。選ぶのは会社ではない。君が人生を選ぶ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/いくら正論を言ったって、通らないときは通らない。世の中がデタラメな以上、デタラメなのが正解。そういうもんだ、と、認めてしまって、いろいろ適当にやってみて、どれかうまくいけば、それでいい。/

 最近は子供の学習教材もパソコンだ。ところが、うちのやつが英語の問題にごちゃごちゃ言っていて、ずっと先へ進まないまま。仕方ないから見てやった。「次の言葉の終わりと同じ発音の言葉を選びなさい。問題1.door 選択肢 a)fox、b)desk、c)table」まあ、言いたいことはわからないでもない。どう見ても、問題がおかしい。「ねえ、やっぱり変だよね、こんなの、どうしたらいいのさ?」


 だが、私は東大卒だ。だてに熾烈な受験勉強をくぐり抜けてきたわけではない。問題が変でも、どうしたらいいのかは、わかる。で、a)を押す、ダメ。b)を押す、ピンポ-ン! 以上、終わり。さあ、次、やれよ。「え? door と desk じゃ、言葉の終わりの発音が同じじゃないよ」そうかもしれない。だが、そんなことは知ったこっちゃない。とにかく正解は正解だ。


 「それ、ズルじゃん」まったくこうるさいガキだ。問題が変なんだから、ズルもへったくれもあるものか。問題がまちがっているのだから、まちがっているのが正解で、どこがおかしい?「でも、選択肢の三つとも、どれも押して、うまくいかなかったら?」そんときは、そんときだ。その問題は無かったことにして、とっとと次の問題に行く。「だけど、問題を飛ばしたら、100点は取れないよ」それがどうした。なんで100点を取らないといけない? そんな変な問題で100点を取ろうとすることがまちがっている。


 いくら正論を言ったって、通らないときは通らない。むしろ、適当におべんちゃらを言って、キミのプロジェクト、よくわからんが、予算はつけてやったよ、まあ、がんばりたまえ、ということになれば、それでいい。そんなのハイカロリーなものを喰ってたらダイエットの意味が無いだろうに、と思っても、デートで彼女をスィーツの店に連れて行って、それで上機嫌なら、それでいい。なんでこんなガラクタみたいなの買うのかなぁ、と思っても、顧客が見栄をはって、バカスカと、むだな買い物してくれるなら、ありがとうございました、と、頭を深く下げて、それでいい。


 世の中がデタラメなのだ。矛盾している、とか、首尾一貫してない、とか、文句をつけても、世の中が矛盾していて、首尾一貫していない以上、答えもまた、矛盾していて、首尾一貫していなくて、それでちょうどいい。丸い地球に、きっちりした三角定規を当てても、なにも計れない。地球が丸いのだから、むしろ曲がった巻尺を使う方が正しい。


 なんで女はそうなのか、なんで男はそうなのか、なんで子供は、なんで年寄は、なんで人生は、なんでこの国は、などなど、いろいろ不満を言い募ってみたところで、なにも変わらない。なんでオマエはネコなんだ!と文句をつけても、ネコはニャーと鳴くだけで、イヌになるわけではない。女は、男は、子供は、年寄は、人生は、この国は、そういうもんだ、というところから始めないと、どうしようもない。


 いくら考えたところで、正解なんかわかるわけがない。もともと他人が勝手に作った、まちがった問題だ。わからないこと、どうでもいいことに頭を悩ませるな。そういうもんだ、と、認めてしまって、いろいろ適当にやってみて、どれかうまくいけば、それでいい。100点なんか、取ろうと思うな。この世の人生は、まちがった問題だらけで、最初からぜったいに100点なんか取れっこない。まあ、これがダメでも次がある。むだに考え込んで立ち止ったりせず、手探りに、とりあえずなにかやってみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

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