純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2015年07月

/気晴らしやガス抜きはやめておけ。明日の朝、君をまた不満の現実に引き戻すだけ。それを繰り返していても、ただ年だけとって、いよいよ泥沼にはまり込むだけ。本気なら、その毎日の不満を、ただ未来の脱出口の一点だけに集中しろ。/

 ユトリ世代が社会に出て、いまや新しいサービス業のいいカモ。もともと自己管理のできない自堕落な連中だから、ほっこり、のんびり、ゆったり、「癒やし」だの、「気晴らし」だの、「自分への御褒美」だの、適当な美名をつけ、チヤホヤと甘やかしてやれば、入っただけのカネを、すべて吐き出す。そして、明日も、ちょっとしたことで仕事や人間関係で不満を募らせ、また気晴らしに来てくれる。


 ようするに、ストレス耐性が無い。我慢して節約して貯金する、なんていうことができない。そのくせ、半端に自己慢心のプライドと見せかけの向上心だけはあるから、努力しなくてもいい、しかし実際にはまったく役に立たない低テンションの語学教材や健康食品、トレーニング機器に飛びつく。それで、ちょっとがんばったと言っては、低アルコール低カロリーの缶をプシュっと開け、緩いSNSに緩い写真を載せ、自分を褒めてあげる。


 昔から上司は酒の席で酔った部下に好き勝手に語らせ、わかった、今日、オレはオマエの話をしっかり聞いた、後は任せろ、などと言ってガス抜き。結局、何もしない。会社や政治も同じ。いくら文句を言ったって、上司も会社も政治も変わらない。変える気も無いし、そもそも変える能力が無い。よし、じゃあ議論しよう、とか、おたがい話せばわかる、とか、もっともらしく言うが、それは単なる時間稼ぎのやり過ごし。どうせ君が自分自身では何もできない、逃げ出すこともできないのを見透かされているから。


 それがいまや個人レベルでも。ごちゃごちゃガタガタ、やたら口先で大言壮語を語るばかりで、決定的なことは何もしない。いや、これまでなにも具体的なことはやってきていないのだから、今日もまたやはり何もできないのは当然。それでまたすぐに不満が溜まり、それでまたすぐに自分で気晴らしのガス抜き。文句を垂れては、気張らしのガス抜き。夜になるたび、気晴らしのガス抜き。毎日、その繰り返し。そのうち、ただ年月が過ぎ、年だけとって、不満そのものにも勢いが無くなっていく。結局、何にもならない。


 先日、うちの子に水鉄砲を買ってやった。とはいえ、昔のピシャァというだけの力無いやつじゃない。ポンプ式でプシュプシュやると、エアが水タンクに貯まり、10メートル近くも飛ぶ。人間も、不満こそが向上心の源泉。こんなところに居たくない、こんな自分で居たくない。もっと別の自分になって、もっと別の世界に飛び出していきたい。


 しかし、ほんとうに生活を変える、自分を変えるとなると、その敷居は驚くほど高い。資格を取る、語学を身につける、転職する、国外脱出する、小説家・漫画家・デザイナーになる。自分で自分に自信が持てるだけの実績を積む。どれも一朝一夕でできることじゃない。まるで刑務所から脱獄するようなものだ。周到な計画と準備、周囲への完全な隠蔽、そしてなにより、たった一点に穴を掘り続ける、けっして諦めない本人の執念。


 本気なら、気晴らし、ガス抜きはやめておけ。仕事や職場で腹が立ったら、家族や友人、彼氏彼女に納得できないことがあったら、資格の教科書、語学のテキストを開いて、すべてを忘れ、その勉強に打ち込め。スポーツジムで、ロードランニングで、体を鍛えろ。自堕落仲間からケチくさい、付き合いが悪いと言われようと、カネも、時間も、労力も、いっさいの無駄遣いをせず、いずかならず必要になることのためだけに貯めておけ。すべての不満を脱出口の一点に向けて集中しろ。


 少なくとも気晴らしやガス抜きはやめておけ。明日の朝、君をまた不満の現実に引き戻すだけ。それを繰り返していても、ただ年だけとって、いよいよ泥沼にはまり込むだけ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/カネを出す以上、口も出す。それが出資の絶対条件。いくら思想と良心、信教の自由があるとはいえ、それはせいぜい、国立大学や公立美術館に徴用されない権利でしかない。こうなるのがわかっていたから、先見の明のある人物たちは、苦労を重ねて私学を興し、私財を投じて民間美術館を作ってきた。独立自尊の気概気骨と財政基盤を抜きに、学問の自由、芸術の自由は成り立たない。/

 建築家や工務店が勝手な家を作っていたら、依頼者たる施主が文句を言うのは当然。国立大学の文系潰しや国歌国旗強要、巨大建造物の計画中止、公立美術館からの作品撤去など、みな同じ問題。戦後ずっと、学問の自由、芸術の自由、という美名の下、国民の税金を好き勝手に使って、ワガママ放題にやってこれた方が不思議。


 学問や芸術の振興は、天上の神仏への喜捨ではない。あくまで現世の事業だ。カネを出す以上、口も出す。それが出資の絶対条件。カネは出せ、口は出すな、学問と芸術の自由だ、などという、無茶がまかり通ったのは、戦前のあまりの悪行に対する世間の反動で政府が萎縮させられていたから。しかし、政府にはさらに税金を払うスポンサーの国民がいる。いくら学者だ、芸術家だ、と言われても、国民が反発すれば、政府の方も、いつまでもその好き勝手を容認しているわけにはいかない。


 ふつう、大人の社会常識として、朝礼などで、あえて社歌に口をつぐみ、社旗をないがしろにする社員は放逐される。もちろんちょっとやそっと勤務態度が悪いくらいで会社側が簡単に解雇にできるわけではないが、会社の業務や信用にまで著しい影響を及ぼすのであれば、社内不倫などと同様、私的な自由では済まない。ただし、歌や旗の拒否は、たしかに解雇禁止事項(労働基準法第3条)の「信条を理由とする」に抵触する虞があり、それを直接の解雇理由にしたら裁判はかなり面倒。しかし、だからと言って、それで図に乗っていると、会社は別の致命的なアラを探して合法的にやる、というのが大人の世界。


 もちろん、学者や芸術家も、憲法によって個人として尊重され、思想と良心、信教の自由を認められるべき国民。だが、その他の国民一般と同様、国立や公立の組織の方針や運営まで勝手に決めたり変えたりできるほどの高次権限は与えられていない。せいぜい、就職を強要されない自由(むりやり公務員として強制労働させられない自由、国立大学の教員にならない自由、公立美術館で展覧会を開かない自由)。あえてみずから進んで自由意志として国立大学や公立美術館の職務契約のパッケージ(これをこれまで信義則に頼って労使双方とも曖昧な口約束で済ましてきたのが、大きな問題の元凶)を受けておきながら、後になってその職務の一部を一方的に拒否改変するのは、どうみても契約違反だろう。それどころか逆に、思想を根拠に、御同類の特異な反体制的連中ばかりを優先採用、優遇抜擢してオルグしている気配がある、となると、政府も放置というわけにはいくまい。


 国と国民の象徴たる天皇がいっさい口を出さないのをいいことに、国と国民に仕えるはずの政府や与党ですら憲法を曲解するのだから、同様に憲法を利用して個人のワガママをゴリ押しする学者や芸術家が出てくるのも時代の流れか。端から見ていれば、どっちもどっち。この国にして、これらの小人あり、という印象。学者たちや芸術家たちが国民の代表であるかのように振る舞うのも、ずいぶんな思い上がりだと思うが、それを管理支配しようとする、たかだか一時の政権が、本来の主権者たる国民一般の声を正しく反映しているとも思えない。コソ泥たちと押込強盗のケンカのようなもの。


 いつかこうなるのがわかっていたから、先見の明のある人物たちは、湯水のように国民の税金を無限投入して暴れ回る国立大学、公立美術館の民業圧迫の下で、苦労を重ねて私学を興し、私財を投じて民間美術館を作ってきた。カネの問題を自分たちで解決しないかぎり、学問や芸術であろうと、金主の意向の従僕、政府の方針の奴隷。モーツァルトは、それが嫌で、パトロンの下から逐電し、郊外の免税館劇場で庶民に直接にチケットを売って『魔笛』を成功させた。学問の自由、芸術の自由は、独立自尊の気概気骨と財政基盤を抜きには成り立たない。税金にぶら下がる限り、政治の介入は防げない。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大学の意義は、講義で教わる内容ではない。不思議なことに、まじめに講義に出ているだけで、ほんとうに人は四年間で大きく変わる。人の話を聴いている間に、人はいろいろ考える。長い人生に備え、心の覚悟を整えるために、どうにか行かれるなら、多少の無理を融通してでも、若いうちに行っておけ。/


 大学には行っておけ。どうにか行かれるなら、多少の無理を融通しても、若いうちに行っておけ。もちろん、いまどき大学の講義で教わる程度の内容など、いくらでも本が出ているし、知らなくても、その場ですぐにネットで調べられる。だが、大学の意味というのは、そんなところには無い。なぜ古代から人間は学校というものを重視してきたのか。人間を変えられるのは、人間だけだからだ。


 私の担当は一般教養の「哲学」だから、いつも大教室だ。目は良い方ではないが、学生の席から教壇の教員が見えるのと同様、教壇から最前列はもちろん、最後列の教室の隅の学生までよく見える。年30回。同じ学生は、たいてい同じ場所に座っている。メールで毎度、講義後に小レポートを送らせているので、どの学生が何を考えているのか(なにも考えていないのか)も、よくわかる。まあ、学生の側からすれば、週の間にも多様な教員の講義や演習があり、それぞれのコマは、その中の一つにすぎないのかもしれないが、教員の側からすれば、むしろ一つのコマを通じて、それぞれの学生を通年で見続けることになる。


 これが、変わるのだ。本当に変わる。驚くほどに。さぼりまくって学期末、年度末になって久しぶりに出て来た学生とは、まったく違う。後者は、最初と同じ、ガキのまま。顔が緩みまくって、ヘラヘラとにやけている。いや、前者だって、最初はガキだった。教室に来たって、友人たちと落ち着かず、ごそごそもそもそやっていた。それが半年、一年を経ると、男も、女も、りりしく、ひきしまった顔、落ち着いて遠くを見据えた目つきに変わる。大学というものが、昔から人間が少年少女から青年に変われる時期に設置されているのも、なるほどと思わせる。


 一年の講義が終わっても、意外に教員は、以前の学生たちの顔を覚えている。いつも最前列にいた学生、文句ばかり言いながら三年も取り直してきた学生。ろくにノートも取らず、後ろの方でずっと腕を組んで聞いていた学生。学内で会えば、声を掛ける。よう、元気? 専門科目の方はどう? 向こうが私を知らないことはない。だが、なんで自分のことを覚えているんだ、というような怪訝な顔。それでも、ええ、大変ですよ、と話始めてくれる。賞を取ったんです、留学することにしました、と、うれしそうに自慢を語ってくれることもある。これが一番、私もうれしい。


 街中で、何年もたって声を掛けられることもある。すっかり社会人になって、しっかりとした大人の雰囲気に変わっている。それでも、覚えている。ああ、君か、いま何してるの? ええ、いろいろあって。ほんの立ち話だが、あまりの変わりようにびっくりする。十年もすれば、子供を連れていたり、自分で会社を経営していたり。一方、受講を途中で放りだした学生はダメだ。顔を背けて、コソコソといなくなる。どうせ自由選択科目の一つにすぎないのだし、その単位を取れなかったくらい、大したことではなかろうが、おそらくその後もすべてにおいて、その調子なのだろう。あいかわらずガキ。


 なぜ大学で講義を聴くと人間が成長できるのか、私にもよくわからない。正直なところ、それほど御立派な話をしているわけじゃない。それどころか、大学の教員も多様だから、どうしようもなくひどい講義もないわけではあるまい。だが、自分の経験からしても、黙って座って人の話を聞くことにおいて、人はいろいろ考える。そのとおり、と思うことも、違わないか、と思うことも。その分野のおもしろさを真剣に語ってくれる熱血先生、いくら偉くてもこんな人間にだけはなりたくないなと思わせる反面教師。言ってみれば、それはいろいろな人間像を見る動物園のようなもの。週25コマ、30週、4年間。自分のこれからの人生について考えるところ。


 役に立つとか立たないとか、専門がどうこう、就職がどうこうとか、そんな話は、じつは大したことじゃない。若いうちに4年間、人の話を聞いて、友人たちと付き合い、遊びや恋愛、バイトや旅行など、子供でもなく、大人でもない、まさにモラトリアム(執行猶予)を満喫しつつ、長い人生に備え、心の覚悟を整える。たしかに学費は安くはない。だが、行かれるなら、多少の無理を融通してでも、大学には行っておけ。きちんと勉強すれば、一度限りの人生において、それだけの意義と価値はまちがいなくある。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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