純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2015年04月

/昨今の恋愛はオークション。選ばれるのは一人だけ。入札に応募できるのは、ピラミッドの上の方だけ。それ以下に勝ち目は無い。でも、どのみち世界 が違うなら、もともと関係も無いし、存在もしない。君にふさわしい相手は、君の世界のすぐ隣にいる。あとは、君が直接に会って話しかけてみようとするかだ け。/

 デパートやショッピングモールのレストラン街、すごいねぇ。有名店は、ずらーっと人が並んでいる。前の方はイスもあるが、そこから隣の店を越えて トイレの方まで立っている。一時間待ちです、なんて言われても、まだまだ後に並んでいく。あれ、ほんとうにそんなにおいしい店なのか? そりゃ、一度、並んで入ってみないとわかるまいし、いくら人がいいと言っても、自分の口に合うかどうか。一日中ひまな人はいいけれど、君のように仕事の合 間なのにそんなところに並んでいたら、昼休みが終わってしまって、何も口にしないまま夜まで仕事だよ。


 情報化社会なのはけっこうだが、拡大しきった国境無き市場のおかげで、ピラミッドの上の方には、下の方からケタ違いの数のお客が駆け上ろうとするように なってしまった。それで、新発売だの、人気商品だのは、すぐに売り切れ、入荷待ち。なのに行列。レストラン、飲料や玩具なら、待っていさえすれば、いずれ はきっと順番に買える。でも、限定品のオークションとなると、後から来たやつが高い入札で君を追い越していく。売り切れたら、そこでおしまい。待ってい たって、絶対に君は手に入れられない。


 驚いたことに、恋愛でも、同じ現象が起こっている。まさにオークション。それどころか、締め切り無しに、ただみんなのビットだけをかっさらい続けて釣り 上げるプロのアイドルまがいの連中もいる。それさぁ、いくら君ががんばって入札しても無理じゃない? いくら並んでいても、いくらカネと愛情を注ぎ込んでも、君が落札できる見込み、ゼロでしょ。だいいち向こうからすれば、君なんか絶対多数のワンオブゼム で、顔も名前も知らないよ。無償の愛。永遠に生きられるなら、それもいいけれど、四十になって一人っきりの部屋って、そのときになってから後悔しても遅い と思うけどなぁ。


 めかし込んで、着飾って、美男美女がいそうなおしゃれな場所に出入りするのもいいけれど、ごめんね、はっきり言うけれど、君に勝ち目は無いんだよ。客観 的に見てごらん。世の中には君よりも魅力的な人がいくらでもいる。君は高学歴、高収入、高身長か? 中高のころから、ミスなんとか、ミスターなんとか、って、近所で評判だった? そうでないなら、時間と努力のムダ。落札できるのは、一人に、たった一人だけ。競争になるのは、ピラミッドの上の方だけ。それ以下は、壁の花、どころか、 外に並んで待っているだけで四十越えのタイムアップ。きびしい言い方だけど、ただのストーカーで一生を終える。


 無理な場に無理に行っても、どうせ無理。そういう場に慣れているやつらにかなうわけがない。どうせすぐに馬脚が出るし、そんなお高い相手と君が長続きす るわけがない。君とは最初から住んでいる世界が違うんだ。でも、だからといって、家にいて、ネカマだか、ネナベだかわからない相手とゲームをしているだけ では、なにも始まらない。まあ、オフで会ってみたらどうだろう。ネットもしない、ゲームもやらない、知り合いなんかだれもいないなら、とりあえず、スー パーでも、図書館でも、公園でも、公共のスポーツ施設でも、どこでもいい。ちょっと外に出てみよう。ランニングやトレッキング、ちょっとしたハイキングも 悪くない。一人じゃ気恥ずかしいというのなら、子犬でも飼って、その散歩ということにすればいい。いっそネコに首輪をつけて散歩でもしていれば、だれか きっと声をかけてくれる。それが、おばあちゃんでも、なかなかの孫娘や孫息子がいるかも。


 君は自分に騙されている。直接に会って話したことも無い相手なんて、君の世界には最初から存在なんかしていなかったんだ。君は、人気レストランで素敵で 豪華なメニューを見せられているけれど、実際には、どれを注文しても、ぜんぶ売り切れ。結局、最初から最後まで、なにも口にはできない。本当に存在するの は、もともと君の世界のすぐ隣の世界にいる人。もともと君の世界のすぐ近くだから、会って話しかけさえすれば、話もはずむし、心も打ち解ける。あとは、君 が自分の狭い世界から、そのすぐ隣の世界にまで足を運んで、直接に会って話しかけてみようとするかどうかだけ。


 一人ではあまり収入が多くなくても、二人で協力すれば、部屋でもなんでも折半で、生活もすこしは楽になる。一人でテレビやマンガを見ているより、二人で 商店街でも歩ければ、いままで気づかなかったいろいろな楽しみが見つかる。スマホなんかペコペコやらなくたって、目の前に相手がいれば、いつでもその場で 話ができて、その場で生きた言葉が帰ってくる。なにより余計なムダ使いも減るし、幸せは増える。さあ、いろいろ始めるにはいい季節だ。せっかくの人生、 チャンスを逃すな。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/わかった、わかっている、と思う君自身こそが、君の思考力、想像力、共感力のリミッターになってしまっている。すべての現実を芸術作品のように、わけのわからないものとして見直すならば、そこには新鮮な発見がある。/

  これ、なぁんだ? 見りゃわかるだろ、って、そりゃそのとおり。ウサギだろ。えっ、アヒルじゃないの? ウサギはアヒルじゃない、だからアヒルなんて言っているやつは、頭がおかしい。いや、そもそもアヒルだって。アヒルだったらウサギのわけがないじゃない か。政治でも、経営でも、しょっちゅう、この手の言い争い。でも、これはほんとうはウサギアヒルかも。


 ウサギはアヒルじゃない、というのは、観察に基づく事実問題ではない。君が君の頭の中でかってに言ったこと。君は、君の頭の中でそう思ったとたん、事実 を観察するのを止めてしまう。ひとつのことがわかったら、それですべてだ、と君が決めつけ、それを絶対の基点にしてしまって、後はすべて頭の中だけで済ま そうとする。


 1から100までの数字をすべて足せ。これなんか、もっとひどい。こんな問題を与えられても、どうせ君は読むだけで、なにもやりもしない。面倒くさい。 でも、面倒くさいというのも、事実問題じゃない。君が頭の中でかってに言ったこと。逆に、あぁ、これ、ガウスの足し算じゃないか、と、すぐにわかって、 101x50=5050と即答する人もいるかもしれない。しかし、こういう人も、わかってない人と似たようなものだ。100+(1+99)+ (2+98)+……(49+51)+50=100x50+50という、ひとつずらした解法だって他にある。


 ようするに、人間、なにかわかると、わかった、解けた、って、そこで観察したり、考察したりするのを止めてしまう。面倒だ、とか、ムダだ、とか、できっ こない、とか、わかるのも同じ。そうわかると、そこで止めてしまう。でも、わかる、なんて、そもそも事実問題じゃない。君の頭の中のできごとにすぎない。 君がわかっても、わからなくても、事実の方はなにも変わってはいない。目の前に問題としてあり続けている。


 マニュアルや図解、警告音なら、読んですぐ、見てすぐ、聞いてすぐにわからないといけない。その先にやるべきことがあるから。一方、芸術は、いくら考え ても、結局、むしろよくわからないものが多い。もっともらしく、わかったかのような解説をしている評論家連中がいるが、そういう連中は、そもそも芸術とい うものそのものがよくわかっていないのだろう。むしろ、芸術は、ありのままのわけのわからないものに向き合うことで、自分の小賢さを思い知り、自分がかっ てに作ってしまっている思考と感情の壁から自分を解き放ってくれる。


 面倒だ、ムダだ、できっこない、いや、もうわかっている。でも、それこそが、君をムダに苦労させている元凶だ。君がいつまでも同じことを毎日繰り返し、 すこしも前に進めないのは、君自身が君自身の頭と心のリミッターになってしまっているから。君がそこに自分自身で思考と感情に壁を建ててしまっているか ら。たとえ、面倒だ、と思ったとしても、次には、さて、いったいどこがどう面倒なのか、じっと観察し考察を続けてみたらいい。こうして面倒の場と形がわ かったら、それに触れない道を探求してみたらいい。ガウスのような面倒ではない道が他にあるかもしれない。


 すぐにわかってしまう君の小賢しさ、君の怠惰が、せっかくの君の無限の才能、君の思考力、想像力、共感力を妨げている。どんな現実からも目を逸らさず、 むしろそれを芸術作品のように、むしろまさにわけのわからない問題として見直すならば、そこにはいままで気づかなかった新鮮な発見がある。いつも見慣れた 通勤途中の車窓からの風景、うんざりするほど毎日、顔をつきあわせている上司や部下、取引先。君の目を曇らせてしまっているのは、君自身だ。わかったふり を止め、でも、あれは、どうしてなのかな、何なのかな、と、すこしもわかっていなかったことに気づけば、そこに新たな発見がある。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/今年、萩本欽一さんが大学に入ったとか。人生や社会の当たり前を疑って、よくわかっていないということがわかると、そこから新しいパラダイムが見えてくる。賢ぶって無理な見栄を張り続けているのを止め、大学でちょっとバカに学んでみることも、ときには大切。/

 プラトンはこう言った、カントはこう考えた、って、いまさらそんな現実離れした昔の人の変な話ばっか並べられても、なんの役にも立たないよ、現代 科学だけやっていれば十分、そもそも大学なんかよりネットの情報の方がずっと詳しい、大学の先生は世間知らずのバカばっかだ、って言うけど、そりゃそうだ よ。大学って、バカばっかだよ。バカのためにこそ大学はあるのだから。

 古代ギリシアの昔から、オレはなんでも知ってる、なんでも聞いてく れ、君に人生を教えてやろう、これで勝てる、これで成功できるという、とっておきの秘訣を伝えてあげよう、という自己啓発のグルみたいなのがいっぱいい た。彼らは「ソフィスト(知恵者)」と呼ばれ、街々で法外に高額の講演会をやって、人々から大金を巻き上げていた。でも、それ、ホントか、よくわかんない ぞ、と言って出て来たのが、ソクラテスみたいな「フィロソフィスト(知恵渇望者)」。つまり、もともと知恵が無いから、バカだから、哲学者。

  「パラダイム」なんていう言葉を聞いたことがあるだろう。野球とかサッカーとかいうのは、みなパラダイム。同じトランプで、七並べもできれば、ポーカーも できる。人生や社会も同じこと。体力が有り余って、なんでも冒険してみたい若者と、家族を守り、仕事をやり遂げたい大人、残り少ない余生を最後まで深く味 わいたい老人とでは、同じ人生でもゲームがまったく違う。生まれながらの身分世襲社会と、どんな方法を使ってでもカネを儲けたヤツが勝ちの資本主義社会、 組織の中で他人を蹴落として昇進すれば身分もカネも手に入る立身出世社会もまた、それぞれ別のゲーム、別のパラダイム。

 あるパラダイムが 主流になり、そこでさまざまな工夫が試されると、やがておおよその必勝法ができあがってくる。こうなると、その必勝法を徹底的に磨き抜いた連中の最先端の 戦いになるが、ゲームの競争からこぼれた連中の方の不満が高まり、こんなの、つまんねぇよ、なあ、みんな、別のゲームやろうぜ、って、パラダイムの大転換 が起こる。

 問題なのは、あるパラダイムにどっぷり染まると、そのパラダイムでの必勝法は当然絶対のもので、それ以外の可能性はありえな い、考えられない、となってしまうこと。しかし、そこには、そのパラダイムの中であれば、という大前提があって、じつはそのパラダイムの方はすこしも当然 絶対ではない。

 地球から夜空を見ていた時代、その動きを再現するために精緻複雑な天球儀が探求された。しかし、ガリレオが出て来て、地動 説という新パラダイムになると、地球の方が太陽のまわりで自転、公転している、という話になった。ニュートンが、天界も地上も運動法則で理解できる、と、 二つの研究ゲームを統一。そしてアインシュタインは、時間も空間も互換性がある、と、さらに統一。じゃ、最新最先端の現代科学だけ勉強すればいいじゃん、 と思うかもしれないが、世界がのっぺりとエネルギーで満ちた空間なのか、それとも、粒々と真空の隙間でできているのか、いまだに両方の研究ゲームが連携し ながら並立していたりする。人生だって、世襲ゲーム、資本ゲーム、昇進ゲームのように複数のものが絡み合って同時進行している。

 それぞれ のゲームの中で、どうすれば最適最善か、なにが必勝法か、みたいな話は、企業が命運を賭けてやればいいし、巷に溢れる有名なソフィストの「先生」に習えば いい。一方、大学でやっているのは、理系でも、文系でも、根本はみな一種の哲学。いま○○ということになっているけれど、根本的な見方を変えたらXXなん じゃないだろうか、って、バカみたいなこと考える。生物と物質、情報と道徳、歴史と現在、個人と社会、等々、ぜんぜん別のパラダイムと思われているけれ ど、一つのゲームに統一できるんじゃないだろうか、とか。

 オレは頭がいい、大学の先生なんかより、歴史のことなら、映画のことなら、ずっ といっぱい知ってるぞ、ぜったい勝てるぞ、というような秀才は、せいぜい世間で評論家でもやっていればいい。それは、わかっている、のではなく、わかって いると思っているだけ。あくまでも、現行パラダイムの中でのソフィスト。一方、うーん、やっぱりよくわかんないんだよなぁ、と、わかっていないことをよく わかっていて、ぼやいている天才肌の「バカ」な人だけが、現行のパラダイムの隙間やアラに、まったく別の新しいパラダイムに抜ける突破口を開く。

  だから、大学の先生方に「バカ」はむしろ褒め言葉。数学バカ、化学バカ、歴史バカ、文学バカ、大学は「研究バカ上等」の業界。べつに世間がなんと言おう と、同時代同分野の凡百の研究者がどう評価しようと、業績の意義は、業績の結果、そこから見え、そこから切り拓かれてくる新しい時代、新しいパラダイムに よってのみ決まる。もちろん最近は、大学の中でも企業化してしまって、パラダイム内での研究開発競争に明け暮れている分野も少なくないが、たとえどんなに 隅っこに押しやられていても、本筋はあくまで研究バカ。みんな、それぞれに研究を楽しんでいる。

 時代に決められ、人に与えられたゲームの 中で、あれこれのソフィストのビジネス書で、その必勝法を極めるのもいいけれど、べつにそれだけが唯一絶対のゲームじゃない。人間、年齢や健康とともに ゲームを乗り換えていかなければならないし、世の中も、同じゲームがいつまでも続くわけじゃない。旅をして他の国の他の生き方、暮らし方を知るように、大 学でバカな研究を知るのも、人生を豊かにする方法のひとつ。

 若いくせに、すでに狭いパラダイムの中に頭も心も凝り固まり、なんの伸びしろ も無いなんて、あまりに情けない。いったん大学の先生のバカさ加減に本気でつきあってみれば、こんなバカなことをやって生きてる変なやつらもいるんだ、と 驚くだろう。フルタイムの学生に戻るほど、カネや時間や体力の余裕は無いという人でも、昨今、どこの大学でも聴講生という手がある。オレはもう功遂げ、名 を成したなんていう、どこかの終わったパラダイムでのつまらないプライドなんか放り出して、若い連中に混じって、近所の大学にでも、毎週、遊びがてら勉強 に行ってみてはどうだろう。年寄り同士が集まって昔の自慢合戦ばかりしているより、よほど新鮮で刺激的だ。

 人生、いつでもまだ、なにも終わってはいないし、なにも始まってもいない。ちょっと大学にでも行って、いったんバカになって、世界の常識の方を疑ってみれば、いくらでもまた他の生き方、考え方、仕事の仕方の可能性はある。


(大 阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン  洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/新人は自分たちの変な常識を職場に持ち込もうとする。それも、ユトリ世代は、少子化社会にあって、ゴリ押しでうまく世渡りしてきた。しかし、使えないやつは、勝手に不満を募らせ、どうせ自分から辞めて行く。それより、自分が新人に足を引っ張られないようにすることが大切。/

 信じられないことばかりかもしれない。おまえ、社会人にもなって、なんで遅刻してくるわけ? なんて、ぶち切れてみたどころで、二十分くらい、いいじゃないっすか、てなところ。いや、おまえ新人だろ、オレより先に来るのが当然だろ、と言い返して も、当然ってなんすか、先輩の方が先に来てるんだから、先輩が先に仕事を始めているのが当然なんじゃないんすか? と、やり返されるだけ。

  べつに新人が君をなめているわけじゃない。単純な文化摩擦。連中は、連中のこれまでの生活習慣を職場にそのまま持ってきただけ。君は新人の方が職場の習慣 に合わせるべきだと思っているが、やつらは君の方が自分たちの常識に合わせるべきだと思っている。現実問題として、君には権限がなさすぎる。君が怒ったと ころで、新人をクビにできるわけじゃない。叱ったところで、連中はむしろ君の方が間違っていると確信している。本気になって、手なんか上げたら君がクビ。 大声でどなっただけでも、パワハラだ。かといって、このままだと、新人の指導係として君の評価に係わる。君はもう八方ふさがり。

  だが、これは、いつの時代にも繰り返されている新人の世間知らずとはわけが違う。ユトリ世代の連中は、子供のときから、そうやって無理のゴリ押しで生きて きた。自分ことだけで手いっぱいの親は、子供のことなんかほったらかし。問題だらけで手に負えない学校も、見て見ぬふりで先送り。屁理屈で強硬にゴネてい れば、相手の方が折れ、問題そのものまで揉み消してくれるのを、彼らはよく知っている。学生時代のバイトも、すっぽかそうと、デタラメしようと、慢性的な 人手不足で、店長の方が御機嫌取り。少子化社会というのは、こういうこと。一人っ子政策の中国の「小皇帝」「小皇后」と同じことが、日本でも社会的に自然 発生した。

 戦後復興期の生産拡大にも、団塊世代の中卒単純労働力が「金の卵」としてチヤホヤされ、ちょっとでも気に入らないこ とがあると、すぐに集団就職の職場から失踪。都会には他に働くところがいくらでもあったからだ。当時の離職率は20%を越え、彼らは単純によりよい待遇を 求めて仕事を渡り歩き、熟練技術を習得することもないまま、73年のオイルショック不況の自働生産の合理化で放り出され、使い捨てになった。

  おそらく、今後の日本経済でも同じことが起こる。生産性の低い、それどころかムダに人事管理コストの高い現在の若年層の単純労働力は、遠からず技術革新に よって置き換えられる。連中が使えなければ使えないほど、接客や販売、サービスにおけるコストダウン・イノヴェイションの開発と投資が割に合うものとな り、利益率を飛躍的に向上させるものとなるからだ。

 それまでの我慢、我慢。怒ったら負け。新人の指導係なんて、いましばらくだけのこと。 半年もすれば、どこか別の職場に転属になる。もっとも、運が悪いと、もっとすごいのが君の職場に送り込まれてくるかもしれない。でも、大丈夫。新人研修 は、遠心分離機みたいなもの。あちこちをグルグル回しているうちに、ダメな砂やゴミを外に弾き飛ばす。とくにユトリは頭の中がお花畑だから、三年以内に、こんな地味な職場にいられるか、とか意味不明にブチ切れ、独立するとか転職するとか大言壮語して、自分の方からどこかにいなくなる。そして、これまた自然淘汰で、同じ新人でも、腹の据わっているやつ、世間の厳しさがわかっているまともなやつは、きちんと中に残る。

  真の先輩後輩になるのは、それからのこと。それより、その前に君が切られないことこそ、一大事。バカな新人に足を引っ張られることくらい、折り込み済みに しておかないと。とりあえずは、そうだね、わかるよ、うん、そうそう、と、微笑んで、ものわかりのいい先輩を演じ続けよう。時 間などは、最初から、三十分くらいサバを読んで、彼らに伝えておこう。そして、後から行って、ごめん、ごめん、遅くなっちゃったかな、などと、笑ってガキ の常識に迎合。怒らないのも、仕事のうち。こういうのが、老練な「大人」の余裕というもの。君に任せた以上、上司たちは口を挟んだりはしないが、君が新人 相手に苦労してがんばっていることは、みんなよくわかっている。新人連中のタメ口に引きずられ、本気になったら負けだよ。


(大阪芸術大学芸 術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大量のラーメンで「栄養」を摂っているつもりも、そんなの、体に悪いだけ。どうでもいい情報ばかり集めていても、バカは拗れるばかり。知って気づいたことを身につける、自分を変えていく勉強でしか、自分自身の問題は乗り越えられない。/

 ラーメンをすすり、焼き肉にがっつき、ジャンクフードをばりばりやってたら、人は強くなるだろうか。体力をつけるのに、たしかに栄養は必要だが、 むだに余分な「栄養」ばかり摂っていても、かえって体に悪いだけ。そんなことは、だれでもわかっている。ところが、勉強となると、大量の情報さえ吸収して いればいい、と勘違いしているやつが少なくない。いくら雑学、雑知識が溢れていても、バカはやっぱりバカのままだよ。それどころか、よけい拗れて、救えな くなる。

 勉強のキモは、自分自身の心を磨くこと。むしろどうでもいい迷妄を振り捨て、精神を筋肉質にシェイプアップすること。ボディビル と同様のマインドビル。心にしっかりとした背骨があれば、ムダな情報、余計な変化に振り回されて右往左往したりしなくて済むようになる。とにかくただ量的 に知識を増やそうとする諸科学に対して、哲学の方が根本だ、とされるのも、こういう理由。

 知識は、自分を作る勉強のための気づきのきっか けにすぎない。知って気づいたことが身にならなければ、学んだことにはならない。修練とか、修業とかいうと、かつての戦争や宗教のせいなのか、昨今の日本 では、なにか高圧的、妄信的な印象だが、どんな知も、学んで修めないと、智にはならない。やたらムダに大飯喰いをしただけでは体力にならないのと同じこ と。

 とはいえ、現代は、自己肯定感が強い。いや、むしろ逆に、自己肯定感が危機的なのかもしれない。おまえ、そのままじゃダメだよ、なん て、口に出して人に言われてしまうと、激昂して逆切れする。それって、大量のラーメンを食べて、大量の栄養を取っているから大丈夫なんだ、オレはまちがい なく健康だ、と、言い張るようなもの。底辺連中の妙ちくりんなプリクラ写真のように、若いくせに早くも、こんな自分が大好き、とってもかわいい、ずっとこ のままでいい、と自分に酔ってしまっているやつには、もう伸びシロが無い。あとは、そうして酔っ払ったまま、気持ちよく、今よりさらに下へ下へ、ただ墜ち ていくだけ。

  心の「体型」は、顔に出る。目に出る。健全な心の人は、目が輝いている。顔つきが引き締まり、胸を張り、あごを上げて、しっかりと前を見据えている。一 方、心が死んでしまっている人は、死んだ魚の目をしている。猫背で、落ち着きが無く、やたら饒舌なわりに、口角が下がり、不平と不満、ウソと自慢しか出て こない。ほら、君も鏡を見てごらん。いくら髪の毛を染めたって、カラコンを使ったって、目つき、目の動きはごまかしようもない。

 ベートー ヴェンは、絶大な評価と人気を得て、交響曲をいくつも書き、その九つ目の第四楽章に至ってなお、自分の書くべきはこんな音じゃない、と自分を全否定し、そ の向こう側へと乗り越えて行った。ただ、こんな未熟な自分は、まだ自分じゃない、もっとりっぱな、もっとしっかりした自分になれるはずだ、と、いまの自分 を否定できるやつだけが、前に進み、上に登れる。

 でも、前に進み、上に登って何がある? 今を楽しまなくて、何が楽しい? そうそう。たしかに、それはそうかも知らんねぇ。だけど、いまの自分に納得できずにリストカットを繰り返し、ダメ仲間同士で傷をなめ合い、他人のフリのコ スプレに明け暮れてムダに時を過ごし、人が唯一注目してくれていた若ささえも失って、ただ老いさらばえていくくらいなら、苦しい思いをしながらも、一歩、 一歩、山を登っている方が、生きていることも実感でき、世間の展望も開けて、自分が進むべき方向も見えてくるものだよ。

 他人や世間のあれ これを知って、うらやんでも、けなしても、自分の腹の足しになるわけじゃない。不平不満ばかり言っていても、それで世の中が君の機嫌を取ってくれるわけ じゃない。今が嫌でも、昔に戻れるわけじゃない。この自分は、これからどうしたらいいのか。生きて、この世で何ができるのか。就職も、結婚も、仕事も、子 育ても、そして、老いるのも、病むのも、すべてが勉強。うまくいかない自分の方を否定して、問題に気づき、新しい自分自身を作り上げていくことでしか、そ れを乗り越えて行く道は無い。


 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ 朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を 流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報 告書』などがある。)

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