純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2014年10月

/本物は、自分になろうとしたりしない。自分ではないなにかになろうとすることそのものが、かえってそれではないことを露呈し、キャンプにして、乗り越えられない壁を立ててしまう。自分の「野生」を受け入れ、そのままに磨いてこそ、自分を取り戻せるのではないのか。/

 近ごろは手術で戸籍まで変えられるそうだ。『マイフェアレディ』やその原作の『ピグマリオン』、さらに古くはヘーゲルでも言われていたように、たしか に、その人が誰であるかは、周囲がその人を誰であるとするか、にかかっている面も大きい。とはいえ、周囲が誰であるとするか、は、本人がどうであるか、に 基づくのも事実だ。医者が認めればいい、というのであれば、近ごろのやたら元気なお年寄りも、医者が身体年齢を測定して戸籍の年齢を正し、年金を打ち切っ た方がいいんじゃないか。

 しかし、戸籍がどうあれ、世間がどうあれ、本人がダブルスタンダードであるかぎり、アングリーな1インチが残って突っかかってしまう。『ヘドウィック』 は、今年2004年、ようやくトニー賞を得た。1998年にオフブロードウェイで始まって、2001年には映画も作ったが、当時は「おかま」の話として、 かならずしも世間の目は暖かくはなかった。登場人物が少ない小型の作品なうえに、主人公がドラァグ(トランスジェンダーのゲイ)では、業界としては商売に ならない、という問題もあった。しかし、テーマや楽曲がしっかりしており、映画を媒介に広く知られるところとなり、いまやカルト的な人気作として各国で繰 り返し上演されている。とはいえ、もともとプラトンの男女(おめ)神話という、哲学のハイブロウなトピックが核にあり、また、追う者と追われる者を主演俳 優が一人二役で演じる形式が映画版などで失われたために、かえって難解になった。

 ボーヴォワールは、1949年、『第二の性』において、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言い、「女」が男社会に捏造された欺瞞であるこ とを暴き、戦後のフェミニズムの道を切り拓いた。しかし、「女性が輝く」なんとかなどと言って、「野生」の女性を去勢し社畜化し、昨今の人手不足を補おう などという姑息な政治がいまだに表通りをまかり通る。だが、大阪のおばちゃんじゃないが、「野生」の女は、べつにいまさら男社会に捏造された欺瞞としての 「女」になったりしないし、しようとも思うまい。家の一仕事でもうまくやり終えたなら、化粧もせず、こたつに寝転がってテレビを見てていたとしても、女は 女だ。それで十分に輝ける。総理大臣など、知ったこっちゃあるまい。

 一方、「おかま」が新たな男女の壁なのは、それがダブルスタンダードで、わざわざ「女」になろうとするところにある。自分で壁を立てて、それでその壁を 乗り越えられなくなる。ソンタグの言う「キャンプ」だ。女ではないからこそ、表象としての「女」の記号をてんこ盛りにして、わけのわからない満艦飾のド ラァグになってしまう。やればやるほど、「野生」の女とは似ても似つかない、まさに男以外のなにものでもない「おかま」になっていってしまう。追えば追う ほど、追われる対象が、砂漠のオアシスの蜃気楼のように逃げていく。芝居の主人公ヘドウィックは、その典型だ。

 これは「おかま」だけの問題ではない。老人が、年甲斐もなく、むやみに山に登りたがったり、仕事で現役にこだわったり、若い女や男に手を出したがったり するのは、救いがたい老いの証拠。やればやるほど、見苦しい「キャンプ」になる。ヤクザ者や成り上がり社長がゴテゴテの贅沢品で身の回りを飾り立てるのも 「キャンプ」。仕事の出来ないヤツが、最新の電子機器を発売初日に並んで買って、四六時中いじってばかりいるのも「キャンプ」。自分に自信のない男がぐ ちゃぐちゃの改造車を自慢するのも「キャンプ」。ぱっとしない女がものすごい厚化粧だの整形だのをするのも「キャンプ」。もともと本物なら、それになろう とする必要がない。ところが、わざわざそれにになろうとすることで、自分がそれでないことをかえって露呈し、絶対に乗り越えられない壁を前に呆然とする。

 ボーヴォワールの相方、サルトルは、『実存主義は人間主義である』などで「人間は自由(libre)であることを呪われている」と述べている。英語のリ バティに「自由」の訳を当てたのは、福沢諭吉だとも言われているが、ラテン語の「liber」がギリシア語の「ἐλεύθερος」、すなわち、生まれに 属する、を引き継いだ語であることからすれば、それはけだし適訳ということになる。つまり、自由とは、自分が理由になる、ならなければならない、というこ と。生まれながらの「野生」の自分が決める、ということ。自由である以上、自分が何であるか、は、人のせいにはできない。他人のスタンダード(基準)で は、絶対に自分にはなれない。

 自分が、自分でないなにかを追い求めているかぎり、それは自分ではない、追い求めているものの方が自分のレゾンデートル(存在理由)になってしまう。し かし、追い求めるかぎり、それではない現実の自分というアングリーな1インチがじゃまをして、あと一歩のところで、絶対的に手が届かない。結局のところ、 自分は自分にしかなれない。たとえそれを世間が「おかま」とけなそうと、「女」らしくないとたたこうと、「じじ」くさいとけむたがろうと、だからといっ て、それに迎合してなにかしたところで、せいぜい「キャンプ」になるだけで、永遠に自分が自分ではないなにかになれるわけではない。

 自分に自信を持とう。背筋を伸ばそう。ありのままの「野生」の自分と和解しよう。あれこれ言うやつには、好きに言わせておけ。人目に媚びて、世間をごま かし、自分をごまかしたところで、そのごまかしていることの方が、きみを追い詰めることになる。いくらごまかしたところで、世間はせいぜいきみに気づかず 陰口を言わなくなるくらいで、どうせなにかしてくれるわけじゃない。それに、そんなことをしていたら、きみは、ついには、ただの透明人間になって、自分の 存在そのものを消し殺してしまう。

 世間がきみのような存在を好まないとしても、きみにも、きみのような存在を好まない世間を好まない自由はある。目をふせたりず、むしろ世間のまなざしに きみのまなざしを向けよう。裁く者こそが、その裁きゆえに裁かれるべきだ。きみは、人の決めたなにかになる必要などない。どんな自分であれ、自分ではない なにかになろうとしたりせず、そんな自分であることをそのままに磨こう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/本当の幸福は目には見えない。見えるものは、幸福の結果にすぎない。幸福でもないうちから、地位や財産、人脈など、幸福の結果だけを追い求めれば、自分の人生を安売りして、かえって不幸が増すばかり。/

 本人が幸せだと思っているなら、それが幸せなのだ、などと言う人がいる。いわゆるシロウト哲学者の通俗的な幸福主観説。だが、これはまちがっている。そして、こんなまちがった考え方こそが、あなたをむしろ不幸へと導いてしまう。

 たとえば、麻薬。本人は多幸感に包まれている。しかし、麻薬に溺れている人間、溺れる状況が幸福か。そのうえ、こういうまちがった幸福、つまり不幸に 陥ってしまっている人間は、自分でそこから脱出することもできない。詐欺や悪徳宗教に騙されている人も同じ。本人が幸せであると思っているほど、不幸なこ とはない。アリストテレスの定義によれば、幸福とは、恵まれた人生のこと。それは、事実の問題で、感覚の問題ではない。麻薬や詐欺に取り囲まれてしまって いる生活が、恵まれた状況であるわけがない。

 逆に、本当に幸福であると、幸福であるとはわからない。それは、背の高い人が、背が高いと実感できないのと同じ。人間は、差分しか認識できない。不幸か ら幸福になれば、もしくは、幸福から不幸になれば、それはすぐにわかる。だが、いつも幸福であれば、それがいつも当たり前で、空気同様、とくになにも感じ ない。それどころか、恵まれすぎて、どうでもいいようなことを大きく考え、やたら不幸がっている人もいる。それは、そんなことで不幸がっていられるくらい 恵まれていればこそ。

 地位や財産、人脈など、人は、幸福そうに見える人をうらやみ、自分もそうありたいと願う。ところが、奇妙なことに、これらを追い求めると、逆に幸福を失 うことも多い。これらは、あくまで幸福の結果であって、幸福でもないうちから、幸福の結果を先に得てしまおうとするのは、無理な前借と同じ。いずれそのツ ケが戻って、クビを締めることになる。たとえば、円満な夫婦に赤ちゃんが授かるのであって、赤ちゃんを授ってさえしまえば、円満な夫婦になれるなどと考え るのは、大きなまちがいだ。

 逆に言えば、見せかけとして結果しない幸福もいくらでもある。たとえ赤ちゃんが授からなくても円満な夫婦がいくらでもいるようなもの。生活能力があっ て、やりくりがうまく、良い家族や友人がいるのであれば、それが恵まれているということ。地位を昇り、財産を成し、一派を築く、などというのは、むしろ言 わば、幸いに恵まれた人の、世間のためのおまけのボランティアのようなもの。

 いまだふだんの生活が整ってもいないうちから、地位や財産、人脈を追い求めるのは、自分の人生を世間の見栄のために安売り、切り売りしているのと同じ。 見せびらかしの偽の幸福の代償として、体を壊し、家族を裂き、友人たちを裏切っては、本当の幸福を味わうはずの自分も失ってしまう。そのうえ、たとえそこ までして地位や財産、人脈を得ても、能力が値しない、親族知人が争う、見えかけばかりが立派で、本人が劣等感に打ちひしがれる、等々、かえって不幸が増す ばかり。

 目に見える偽の幸福を他人に見せびらかしている人は、人に騙されているか、人を騙そうとしているか。だが、ほんとうにたいせつなものは、けっして目には 見えない。日常のことは、およそ実感できない。しかし、目に見えない、実感できない、としても、だからといって、それは、無いということを意味しない。本 当の幸福ということ、恵まれた人生というものは、まさに目にも見えず、実感もできない。幸福を特別に意識せずにいられるような生活を整えられるように 日々、無事に努力していられてこそ、それが幸福。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。)

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