純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2014年01月

/使い捨てはムダと言うが、鉄骨とコンクリで固めて、時代の変化に対応できなくなり、撤去廃棄している方がよほどムダ。再生産可能な資源を前提にした日本の使い捨て文化の美徳を見直そう。/

 使い捨てはもったいない、などと言うが、インフルエンザでも、ノロウィルスでも、使い捨てこそ、予防と対策のかなめ。政治でも、建設でも、寒冷で断絶的 な欧米の内陸都市の猿マネをしても、結局、日本の風土には合わない、それどころか、そういう風土に合わない欧米かぶれこそが、この国に多くの問題を引き起 こし、大きな危険をもたらしているのではないだろうか。

 昨年は伊勢も出雲も式年だったが、神道の根本はミゾキとハライ。建物でもなんでも、使い捨てて一新する。いや、宗教だけでない。障子でも、畳でも、年ご と、事ごとに、ぜんぶ捨て去って、取り換える。首都でも、政権でも、使い捨てが肝心。そうでないと、ケガレにやられてしまう。高温多湿で、紫外線も強く、 害虫や雑菌も発生しやすい。人間関係も義理人情もやたら濃厚で、ほっておくと縁故情実ですぐに腐敗する。だから、使い捨て、定期的な遷都改幕は、この国を 清浄に保つための、古来からの日本の知恵だった。

 ところが、明治になって欧米の猿マネをして、制度も、国土も、がんじがらめに固めまくった。しかし、四方を海に囲まれ、世界の影響を受けやすい国で、未 来永遠完全固定の制度など維持できるわけがない。潮風を受ける海沿いに多くの都市があり、端から端まで火山と地震だらけの国で、鉄骨やコンクリがもつわけ がない。

 たしかに内陸都市のローマでは、二千年も前のコンクリ建造物が健在だ。我が国も、明治以降、とくに戦後の高度成長期、あちこちに鉄骨とコンクリで橋やト ンネル、ビルや地下街を作った。当時、鉄骨やコンクリは、百年、いや数百年は持つ、と言われた。しかし、旧都庁舎や丸ビルは、時代が変わって使いものにな らず、建て直しを余儀なくされた。戦後のシンボルだった東京タワーですら、時代に合わなくなり、別のスカイツリーを作るハメに陥った。それ以外のほとんど すべての建造物にしても、2020年のオリンピックを前に、どれもこれも老朽化、規格ズレが著しい。関東で大地震が無くても、このままではそこら中で崩落 や事故が起こり、東京は自滅する。

 その一方、古くさく、ぼろっちい奈良だの、馬籠だのの街は、しぶとく生き残っている。木造建物や砂利道なんて、ぶっ壊れるのが前提だから、定期的に手入 れして、その都度に時代に合わせて適当に形を変え、なんとなくやり過ごしている。気がついてみれば、周回遅れで、時代の先端なのかもしれない。

 どんな人間にも寿命があるように、都市や建物にも、制度や政権にも、寿命がある。むしろ欧米の石の街、石の制度の方が、世界の中では異常な鬼子だ。実 際、あれだけ街を立派に作ったギリシアはローマは、時代の変化に身動きが取れず、結局、その自重で滅び去ったではないか。永遠に繁栄する世界支配の帝国都 市を造ろう、などというのは、人間と自然と歴史の摂理に逆らう愚昧で無謀な野望ではないのか。

 使い捨て=ムダ、というのは、根拠の無い盲信だ。とくになんでもすぐに腐る日本では、固定固着は危険な上に、むしろ、結局、大きなムダになる。物事の寿 命と安全のための使い捨てを前提にし、再生産できる分だけを消費して暮らす、鎖国江戸時代のような持続可能な閉鎖循環型社会の方が、ムダが無く、その部分 部分の絶えざる更新のために人間もその中にそれぞれの仕事を得て、みんなが幸せになれるのではないか。もう一度、使い捨ての正しさを見直し、日本的な使い 捨て文化の美しさの方を世界に広めてはどうか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/人間の五感は、いまここの近接した物事しか感じられない。世界や未来は論理と想像を駆使して考えることでしか捉えられない。おもしろおかしいいまここの娯楽に溺れていれば、あなたは世界や未来を失う。/

 いまどき哲学なんて、はやらない。売れないし、儲からない。市場原理からすれば、いらない、ということになる。なぜはやらないか、と言えば、楽しくない から。売れるのは、グルメにスポーツ、映画やマンガ、そして風俗と賭事。こういうのは、カネさえ払えば、すぐに楽しめる。努力なんかいらない。ようする に、五感を直接に刺激してくる。

 しかし、人間の五感には致命的な欠陥がある。そのどれもが近接感覚だということ。つまり、目の前の物事しか「感じる」ことができない。一方、鷹は数キロ 先のものでも見える。犬は数キロ先の匂いも嗅ぎ付ける。象もまた数キロ先の音に反応する。これらに比すれば、人間は、動物の中でも極端に近視眼的なのだ。 これを補っているのが、論理と想像を駆使して「考える」ことのできる大きな脳。目の前の物事から考えて、遠くのこと、過去や未来のことを知る能力を得た。 それが、我々の今日の文明の繁栄をもたらした。みんなで自分に近接するところの情報を持ち寄り、それらを元に、他の動物では考えられないほど壮大なことを 考え出し、成し遂げる能力を得た。

 だが、文明が巨大化しすぎると、情報は過剰になる。話も考えも、たがいに相克拮抗してしまい、なにも決められなくなる。それで、間断無き情報の洪水に浸 らせて、大半のセンサを停止させる方法を考え出した。ローマ時代、考えても考えが役に立たない愚民たちは、パンとサーカスに漬け込んで、四六時中、その五 感を飽和させ、余計なことを考えられないようにした。これがローマの平和。みんな、おもしろおかしく、幸せに暮らした。

 とはいえ、ローマの平和なんて、長くは続かなかった。中枢は権力闘争に明け暮れ、権謀術数が渦巻き、帝国維持に内部消耗して自滅。こういう自滅的な権力 闘争や権謀術数をなんらかの方法で止めることなど、娯楽ですでに脳が溶けきってしまっていた帝国民たちは考えもしなかった。ただ目先の情報に振り回され、 文字通り帝国内を右往左往と逃げ回るだけ。

 現代も似たような状況だ。どこの国も、パンとサーカスで五感を麻痺させ、愛国心の美名の元に一方的な大本営情報を洪水のごとく垂れ流し、自国民をバカに 染め上げている。そして、このバカたちを使って、自分自身の目や耳で見聞きし、そこから自分で考えようとする者を叩き潰す。だから、よけい、だれも、遠く のこと、過去や未来のことを考えない。その一方で、中枢の権力は歯止め無く不安定になっていき、だれも望んでいないような破滅的な道を突き進む。

 まあ、他の国のことはいい。だが、日本は、ローマ帝国同様、かつてそれを大々的にやって、取り返しがつかないほどの大失敗をし、世界中に迷惑をかけ、い まだにそのせいで袋だたきに遭っている。うっとおしいと言えば、うっとおしいが、我々の過去の愚を繰り返して自滅へ向かいながら、身を挺して、我々に我々 の過去の愚を思い起こさせてくれていると思えば、まことにありがたくもある。

 五感では、いまここのことしかわからない。そして、いまここに甘んじていれば、世界も未来も失ってしまう。いまここではないものごとなど、五感には無い のだから、当然、おもしろくも、おかしくもないだろう。それどころか、悲観的なことさえ次々と思い浮かぶ。だが、正しく問題を捉える者だけが、その問題を 解くことができる。たとえおもしろくも、おかしくもなかろうと、世界と未来を考える者だけが生き残ることができる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

このページのトップヘ