純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2013年11月

/過去が理由なら、それはリアクション。永遠に過去から逃れられず、仕方ない一生から脱しえない。だが、きみは未来を理由にすることもできる。自分の未来を取り戻したければ、きみはけっして過去を理由にしてはならない。/

 けさ起きたら雪が降っていて、電車が遅れました。ああ、それじゃ仕方ないね。ええ、そうなんです。だって、こうなんだから仕方ない。それで、ああした ら、こうなっちゃったんだから、仕方ない。そして、仕方ない、仕方ない、で、そういうやつは、その後もずっと仕方ない一生を送る。人生のすべてが、過去の 状況に対するリアクション。なにか聞かれても、すべてが言いわけ。

 なぜそうするのか、と聞かれて、理由が過去なら、それはきみが選んでいる行動ではない。仕方なく状況にそうさせられているだけ。過去を理由にしているか ぎり、きみは永遠に未来にはたどり着けない。過去が次から次に追いかけてきて、けっして過去から逃れることはできない。家が貧しかったから、才能が無かっ たから、ひどい上司だったから。

 だが、世の中には、もっと別の生き方もしている人もいる。雪が降るそうなので、遅刻しないように、今夜は早く寝て、明朝は早く起きます。つまり、理由 は、過去ではなく、未来に求めることもできるのだ。留学したいので、英会話の学校に通っています。家を買いたいので、節約して貯金をしています。その理由 は、きみが自分で立てたもの。理由を立てることそのものが、未来の状況に対する、きみの側のアクションだ。

 嫌な過去から逃れたいのなら、きみはもう二度と過去を理由にしてはならない。過去など、現実にはもう、どこにも実在しない。あるとすれば、せいぜいきみ の嫌な思い出の中だけだ。だから、きみがそれを今の理由としたりしなければ、その瞬間に、きれいに消える。つまり、きみの方こそが、嫌な過去にへばり付い て、その嫌な過去を何度も何度もこの世に引っ張り出し直している元凶。その悪癖をきみが止めれば、過去は消える。ほんとうにいまあるのは、さまざまな未来 の可能性に満ちた、まさにいまここだけだ。

 昨日までのことは、いまこの状況として、もはやすべて精算済み。いまこの状況そのもの以外には、なんの負債も、なんの負い目も、きみには無い。いままで にきみが故もなく支払わされてきたつらい痛みも、悲しい思いも、なにももう、いまこの状況には無い。積もりに積もった積年の恨み辛みも、犬のようなやつら への憎しみとともに、まとめて捨ててしまえ。そんな連中を、きみの大切な未来にまで、きみがいっしょに連れて行ってやる必要などあるまい。重要なのは、き みに、いまこの状況が十分に与えられているということ。そして、いまこの状況から、どんな未来の理由でも、きみは自由に立てることができるということ。

 過去といまを理由で繫ぐのではなく、いまと未来を理由で繫ごう。過去に生きるのではなく、未来に生きよう。他人の昨日を断ち切り、自分の未来を取り戻そ う。風邪気味だから、寝不足だから、まだ寒いから、もうすこし寝ている、そして寝坊したから、ドタバタとあわてて出て行く、というのではなく、風邪を早く 治すようにうがいをし、明日のために夜は早く寝て、寒くないようにガウンでもなんでもはおれば、きみはもっと余裕をもって起きられる。あわてて出て行くこ ともない。状況そのものが、きみのものになる。

 すべてはきみの決断だ。決断とは、過去の理由を切り捨て、未来の理由を切り拓くこと。状況にきみがつつき回されるリアクションから、きみが状況の方を駆 り立てるアクションへ。後向きから前向きへ、守勢から攻勢へ、180度の転換。そして、未来の理由に向けて、きみは橋をかける。その橋を渡っていけば、き みは、きみの未来へ近づく。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/予言は、予言を信じるがゆえに予言を実現させてしまう。ただし、信じることは、策を弄したりせず、真剣に向き合うこと。あなたは、自分をC組と決めつけ、そのC組のダメな人生を自分で実現させてしまってはいないか?/

 新しい校長が来た。かなりのやり手だそうだ。受験対策のために、今年から学力別のクラス編成にするらしい。そんな話を学年担当教員たちは聞いた。A組は 精鋭。たしかにA組は教えやすい。一方、ダメを集めたC組は、なんだかいつも騒がしい。A組の学生たちは、みんな目が輝いている。彼らの期待を裏切るまい と、どの教員も張り切って授業の準備をする。だが、C組は、どのみち授業などろくに聞いてもいないのだし、連中はとにかく卒業さえできればいいだろうか ら、と、教員たちも当たりさわり無くやり過ごす。

 もちろんA組にも、間違えたり、戸惑ったりする学生はいる。しかし、彼らは、ていねいに教えてさえやれば、きちんとすぐにわかる。それに比べてC組の学 生ときたら、まったくどうしようもない。たまにうまく出来ても、しょせんはマグレ。次はやはりダメ。こまかな間違いを指摘してやっても、連中の機嫌を損ね るだけで、どうせムダ。

 じつは、新任校長は、学生たちを、名前のアルファベット順で、A、B、C、A、B、Cと、3つのクラスに割り振っただけだった。学力別編成など、どこか のだれかがかってに言い出したウソのウワサにすぎなかった。にもかかわらず、A組の学生たちは、次々と難関大学に合格。C組の学生たちは、卒業どころか中 退が続出。予言は実現する。いや、予言こそが、予言を信じることこそが、予言を実現させてしまうのだ。

 褒めて延ばす、なんて言う生ぬるい連中がいるが、教員や上司が無理やりネタを探して学生や部下を褒めているのなら、それはただのおべんちゃら。どこの世 界に、学生や部下に媚び諂うバカな教員や上司から真剣に学ぼうとする学生や部下がいる? そもそもそれは、むしろバカな教員や上司が、学生や部下をなめて バカにすることだ。あいつら、しょせんバカなガキだから、おだてれば木でも登るぜ、というのが本心。だから、褒めても、予言は実現しない。いや、そのバカ な教員や上司の本心どおり、ほんとうにみごとなバカになる。学生たち、部下たちは、まともな基準を見失い、図に乗ってうぬぼれ、それで、どうにも始末に悪 いモンスター・ユトリのガキたちが、いまの時代に大量に溢れ出した。

 信じる、ということに、褒めるもけなすも無い。かならず伸びると絶対的に信じているからこそ、ダメをダメと言い、ヨシをヨシと言って、導く。正面から向 き合い、かならず着いてくる、と信じて、待つ。それ以上でも、それ以下でもあるまい。何の策も弄しないことこそが、信じる、ということ。信じているから、 老獪な教育技術だの指導方法だの、はなから必要ではない。そして、策を弄していないことがわかっているからこそ、学生や部下は、自分を信じてくれている真 剣な教員や上司を信じて、真剣にその期待に応えようとし、ほんとうに予言を実現してしまう。

 だが、この話、ほんとうの焦点は、きみ自身だ。きみは、自分自身をC組だと思っていないか。どうせオレなんかダメ。がんばってもムダ。だから、がんばら ない。それで、ほんとうにダメになっていく。どんどんダメになっていく。こうして、きみは、自分の予言どおり、みごとにダメな自分を自分で実現させてしま う。

 自分自身ですら、自分のことを信じていないやつが、他の人から信じられたりするものか。むしろ、他人にはわからないだろうが、自分自身の隠れた力は、す くなくとも自分自身はよく知っている、と自分自身を信じ、その信じるところを、ほんのわずかの疑念も邪念もなく、ただひたすらに突き進んでいってこそ、予 言はほんとうに実現する。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

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