純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2013年10月

/予定は、今から先に順に入れていくものではなく、先から今に逆算で入ってくるもの。締め切りこそがライフライン。実感できるもっとも遠いところに自分の灯台を立て、その明かりを頼りに、花道を切り開こう。/

 あなたの予定表、年末で終わり? その先は? 滝になって奈落の底? ようするに何も考えてないんでしょ? 一方、東京。オリンピックが決まったとたん、2020年まで予定がどんどん埋まっていく。それまでに建設だ、おもてなしだ、そうだ語学だ、と。


 予定というのは、今日から見て、順に先に入れていくものじゃない。むしろ反対。未来にある大切なことが決まって、そこから逆算で、予定がつぎつぎと入っ てくる。地図やカーナビでも同じ。いくら眺めていたって、ただ平面が果てしなく広がっているだけ。ところが、目的地を決めたとたんに、ルートが決まり、そ の途中のあれこれが輝き出す。


 人間の時空間というのは、意外に狭い。五感で直接に感じられるより先は、理屈ではわかっていても、実感としては存在していない。たとえば、電車の中。自 分の世界なんて、自分と自分の手元くらいのもの。隣の隣の人が何をしているのか、本を読んでいるのか、外を眺めているのか、すら、わからない。それどころ か、隣の人ですら、まったく関心が無い。部屋に居れば、コタツとミカン、スマホにテレビがすべて。窓の外の空の色すら知らない。


 おれは将来、マンガ家になりたい、独立したい、留学したい。言うのはけっこう。だが、そんな夢は、実感がない。言わば、お題目かお念仏か。呪文のように 無意味な音声が踊るだけ。五感で感じられないから、きみの時空間の中には、永遠に入ってこない。蜃気楼のように、近づいても、どんどん遠ざかる。いつまで も夢のまた夢のまま。しかし、締め切りをデッドラインと言うが、むしろ、それこそライフライン。おれは、来年の四月には留学する、と決めてしまってこそ、 そこにきみの人生の花道が開ける。


 妊婦は幸せだ。妊娠した、十ヶ月後には赤ちゃんが生まれる、となれば、その十ヶ月後のクライマックスに向けて、一気に人生の花道が照らし出される。この 世に新しい命、なにも持っていない新しい人間が一人増えるのだから、それはもうたいへん。産院の予約に始まり、産着におむつ、ベビーベッドにベビーカー。 動けるうちに部屋を片付けないと。お金の算段はどうする。そもそも出産ってどうなんだろう。やらなければいけないこと、調べなければいけないことが、山の ように押しかけてくる。そのうえ、おなかが大きくなる、中で動く。まさに子供といっしょの新しい時空間が実感として感じられる。


 今週の予定もろくに無い、それどころか、予定表も持っていない人。テレビの画面で今やっている番組を選んでいるだけの人。スマホで他人の人生、他人の言 葉を眺めているだけの人。そういう人は、言ってみれば、真っ暗ら闇の森の中で、テレビやスマホの薄暗い明かりだけを頼りに、かろうじて、いる、というだ け。どこに行く当ても無く、これからなにが起こるのかもわからない。行き当たりばったりでも、なるようになるさ、と言えば聞こえがいいが、実際は、まった く無意味な時間が過ぎ、ただ老いていくだけの毎日。


 直接にきみが実感できるぎりぎり遠いところ、かろうじて明かりが見えるところ。一年後でも、半年後でもいい。そこに自分の灯台を立てよう。それが、この 荒波を乗り越えて生きていくための、きみのライフライン。その灯台にたどり着くには、なにをしなければいけないのか。そのためにはなにをすべきなのか。逆 算して、いつまでになにを、と探っていけば、今ここから、その灯台まで、きみの花道が開ける。フットライトが、まっすぐにその道を照らし出す。そんなとこ ろでずっとぼーっとしている暇は無いはずだ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/私のせいじゃない、などと言えば、実権を失う。成功はもちろん、失敗さえも、自分こそが鍵だ、という人物であってこそ、そこに求心力が生まれる。目先の損得を捨てて、人生に勝ち、運命に勝つ度量があってこそ、トップに登る資格がある。/


 私のせいじゃない、現場が悪い、想定外だった。だが、責任が無い、ということは、能力が無い、必要が無い、存在意義が無い、いてもいなくても同じ、とい うことだ。こんなやつが、自分の責任で善後策を、などと言っても、もはやどこにも求心力は無い。逆に、私の責任だ、私があそこで間違った、と言い切る人物 は、すべての鍵だ。失敗は成功の元、と言うが、失敗があってこそ、失敗の原因が明るみになる。そして、その原因を正せば、次にはきっと成功する。だから、 もう一度、彼に任せてみよう、ということになる。こんなことは、世界共通のリーダーシップの要諦だ。日本も、フランスも無い。

 たとえば、徳川家康。『家康しかみ像』と呼ばれる絵がある。一五八三年、武田信玄の浜松通過に、家康(二九歳)は、重臣たちが勧める籠城策を振り切って 三方ヶ原に撃って出て、待ち伏せに遭い、完膚無きまでの大敗。諫めてくれた多くの重臣たちをも失い、命からがら浜松城に逃げ帰った。今日の最悪の自分の責 任を忘れまい、と、苦虫をかみつぶす自分の最低の惨めな姿をその場で絵に描かせ、生涯、これを座右に掲げ続け、軽挙妄動を慎み、賢臣識者に諮り、将兵友軍 を重んじた。だからこそ、彼は、関ヶ原に勝った。

 小賢しい弁護士の助言など、当てにならない。連中は、目先の訴訟の勝敗程度のことしか考えていない。だから、しょせんやつらは永遠に、ちまい訴訟に明け 暮れる弁護士止まりの人生なのだ。ほんものの経営者、指導者であるなら、いま一回の勝ち負けなどというようなちっぽけなことにこだわるようでは話にならな い。心の底から頭を下げ切ってこそ、人生に勝つ、運命に勝つ、真剣勝負の時というものがある。いや、自分が滅びても、自分の首を差し出しても、城を残し、 国を残さなければならない戦いというものもある。そういう決戦の時に、おのれ自身のプライドにも打ち勝つ図抜けた度量があってこそ、あの人に任せてみよ う、あの人に着いていこう、と、部下も、世間も、多くが付き従う。

 とはいえ、私のせいじゃない、なんて言うような、どうしようもないやつが上に乗るような組織だから、現場でトラブルが続発する。そのうえ、こういう腰砕 けのトップは、もとより求心力がないから、なにをどうやってもトラブルの後始末などできない。そして、どうせ世間の厳しい目に耐えきれず、しばらく間を置 いて、責任を取る、などと言い出し、法外な正規の退職金だけを持ち逃げしようとする。後始末など、ババ抜きのようなもので、運の悪いやつが次に祭り上げら れるだけ。どうせ、これまた求心力があるわけではないから、時間稼ぎの先送り。いよいよダメになって、人の救済を頼ることになるが、結局、バカを見る、ツ ケを払うのは、最後まで上に付き従った下の者たち。

 なにがどこであろうと、すべてはトップの責任に決まっている。すべての最終責任者だから、トップ、と言うのだ。そして、トラブルのときこそ、トップの出 番だ。こんな最高の腕の見せ場で、腰が引けて舞台を仕切れないなら、最初から壇に登るな。そんなやつは、人の上に立つ器ではない。平時のための中間管理職 は、年功序列のハシゴでもいい。だが、トップは違う。順送りで下から挙げても、前にのめって落ちるだけ。

 企業文化、組織風土は、トップの人柄による。トップが、私のせいじゃない、とやれば、末端まで、私のせいじゃない、と、真似をする。そんな腐ったところ からは、まともな人材は次々と逃げ出していく。だから、いよいよダメになる。外から、率先垂範のできる人物を呼んできて、企業文化、組織風土から改革をし ないと、再建は難しい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/環境は人を洗脳する。奴隷根性に染まると、その外の世界があることもわからなくなる。だが、常識に根拠などない。自分の心の枠組を変えれば、世界は変えられる。ただし、それは、足を引っ張り合う奴隷だらけのここではない。だから、黙って壁に穴を掘れ。/

 天空が 回っているのではなく、地球が回っている、コペルニクスは、それに気づいた。デカルトやパスカルを経て、カントは、それを哲学に応用した。世界が回ってい るのではなく、自分が回っている。それなら、自分が変われば、世界は変えられる。ここから多様な実存主義、さらには近年のNLPも生まれてくる。


 人は、生まれたときから、他人が捏ち上げた環境に投げ込まれる。親も、家族も、しょせんは他人。そして、他人の作った村、他人の作った国、他人の作った 学校、他人の作った会社。環境は人を洗脳する。ああすべきだ、こうすべきだ、あれが当然、これはダメ。ここでは、これこそが「常識」だ、と洗脳される。そ うやって、環境は、人の心を殺し、奴隷根性を植え着ける。心底までそれに染めて、奴隷として何も考えられなくする。ああ、ぼくはダメなんだ、何をやっても ムダだ、だからこれでいいんだ、と。


 それだけではない。きみもまた、奴隷を増やす仕事を手伝わさせられる。きみは、周囲にも自分と同じ奴隷根性を強いる。自分が苦労してこうしているのに、 同じようにしようとしないなんて生意気だ、潰してやれ、と。だから、その環境にいる連中は、足の引っ張り合いで、だれひとり、そこから脱出できない。い や、洗脳が徹底すると、そもそも脱出しようなどとも思わなくなる。その外の世界があるなどと想像さえしない。人生はミジメなものだ、それで納得して、ミジ メな一生を送る。

 それは、インチキ宗教に騙されているのと同じ。「常識」なとどいうことに、じつはなんの根拠もない。それは、その環境が、その中の古い連中が勝手に決め ていることにすぎない。白人が絶対だ、黒人は奴隷だ、と言われ、その中でいくら従順に努力しても、黒人はけっして白人にはなれない。重要な第一歩は、与え られた環境そのものを撥ね除けること、自分自身の意識の枠組を変えること。ブラック・イズ・ビューティフル、黒人の方が美しい、と言って、奴隷の心情から 飛び出した人々こそが、世界の差別を変えた。


 しかし、実現まで余計なことはなにも言うな。心の底まで奴隷根性で硬直してしまった連中は、話しても聞くわけがない。連中は、すでに人生の大半が蝕ま れ、もはや変われないのだ。新しい世界には対応できない。彼らにとって、いまさら世界が変わるなどということは、大地が崩れ去るほどの恐怖でしかない。軍 国主義や社会主義の安逸な生活に慣れきった旧体制の特権連中が、最後の最後までその崩壊に抵抗したのは、知ってのとおり。余計なことを言えば、きみは危険 分子として徹底的に叩き潰される。


 脱獄は、黙ってやるものだ。スプーン一本しかなくとも、コンクリの壁であろうと、努力を続けていれば、いつか穴が開く。だが、時間がかかる。先に気づか れれば、かならずジャマされる。だから、いつもにこやかに笑っていろ。そして、夜中に密かに穴を掘れ。きみの世界は、ここじゃない。外にある。外の世界が きみを待っている。


 騙されるな。きみが変われば、世界は変えられる。きみは自分の世界を手に入れることができる。しかし、それはここではない。きみはここから出て行かなけ ればならない。グチを言っても、だれもなにもしてくれない。それどころか、危険分子として監視を強化し、ジャマをしよう、揚げ足を取ろうと狙うだけ。そう でなくても、さまざまなシガラミが、きみの決意をくじけさせようとするだろう。だが、諦めたら、そこで終わりだ。だから、黙って密かに穴を掘れ。振り返る な。壁の向こうにきみの世界が待っている。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/他人の思いつきの用事のせいで、永遠に自分の仕事にたどり着かない。同様に、簡単な仕事から先にしていると、難しい仕事には取りかかれない。予定は、自分の人生の難しい課題に取り組むためにこそ立てるもの。他人に媚び、安直に甘んじるのを止めることから始めよう。/

 予定表に to doを書き込む。だが、それが一日にいくつもあるとき、あなたはそれを[今すぐ/後で]に分け、とりあえず[今すぐ]を片付けてしまおうとする。だが、こ れはまずい。それが片付いたころには、次の[今すぐ]がまた大量に入ってきて、[後で]は、もっと先送りになる。それで、いまだに[後で]は[後で]のま ま。


 他人の仕事/自分の仕事と言い換えてみると、本質がよくわかる。なぜ[今すぐ]なのか? 自分自身の予定であれば、自分自身で前もって心の準備をしてい る。ところが、他人は、自分の思いつきで、突然に言い出し、周囲を振り回す。それで、あなたが他人の[今すぐ]をなんとかしなければならないハメに陥る。 たとえば、電話。出ないわけにもいくまい。それで、あれどうなってた? と聞かれれば、折り返しかけ直します、と言って、すぐに調べることになる。だが、 よく考えてみよう。それを優先すれば、本来の仕事が遅れる。すぐに返事をしないと、相手はむくれるかもしれないが、本来の仕事を遅れさせて、むくれる連中 だっている。どっちが大切なのか。どっちが自分の本来の責任なのか。両方にいい顔をすることはできない。

 また、人は、とりあえず簡単な仕事から片付けようとする。楽勝だから、その先の予定も立てやすい、などと言う。しかし、これまた同じ。簡単な仕事が片付 いたころには、次の簡単な仕事が山ほど入り込んでいる。それで、難しい仕事は永遠に先送り。とはいえ、楽勝なら、そんなのは、もうあなたの仕事ではない。 後輩かなにかにやらせて、自分は自分しかできないもうひとつ上のレベルの難しい仕事にチャレンジすることこそ、自分の責任じゃないのか。もちろん、チャレ ンジは失敗するかもしれない。だから、やっぱり簡単な仕事のルーティンワークの方がいい、って、それではハムスターが回し車を漕いでようなもの。そこでど んなに努力しても、どんなに早く回しても、永遠にそれは前には進まない。前に行くには、[後で]の自分の難しい仕事に自分が乗り出してこそ。[後で]のこ とに手を掛けてこそ、自分自身が前に、外に進み出る。

 人生は、だれでも1日24時間、1年365日、せいぜい80年しか無い。どうでもいい他人の思いつきの暇潰しに、自分の人生を食い潰されてたくないな ら、義理ごとは、まさに義理程度の最低限に絞り込んで、自分の人生の次の難しい課題に取り組んでいかないといけない。義理ごとに必要以上の最善を尽くして 相手を喜ばそうとしたところで、相手は当然としか思わない。それどころか、あなたは、よほど暇で、いつでも安く便利に使えるやつ、として、さらに搾取され るだけ。いくら簡単な仕事を要領よくこなせるようになっても、それは、人間として夢を失い、ただ堕落していっているだけ。

 忙しいのは誰が悪いのか。他人に媚びへつらい、安直な毎日に甘んじて、一度限りの自分の人生を大切にしていないあなた自身だ。自分の予定は、自分の人生 に沿って立てるもの。自分の人生を生きること、これこそ、すべてに最優先されるべきto do。そして、自分が立てた予定であれば、段取もわかっているだろうから、べつに慌て急ぐこともなく、一歩一歩、着実にこなしていけばいい。24時間、 365日、80年。この限りある時間の中で、自分自身の本来の仕事をやり遂げるためには、他人の用事、楽勝な雑事は、大胆に切り捨て、余裕を捻出しないと いけない。電話に出ない決断、テレビやネットを切る覚悟。用事を断る勇気、他人に媚びない信念。まず自分の時間を大切にすることから始めよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/人の情報は、自分の経験ではない。ところが、毎日を忙しく情報に追われていると、自分自身ではなにも経験を積んでいないこともわからなくなる。だが、人の情報だけでは、あなたは永遠の空っぽ。自分の幸せのためには、自分自身の経験が必要だ。/

 古い映画 のあらすじのうろ覚えをネットで調べたりすることがある。ところが、逆に、あれ、こんな話だっけ、と、かえって疑問が膨らんでしまうことも。それで、実際 の映画を自分自身で見直してみると、書いてあることと、ぜんぜん違っていたりする。これは、ビデオが普及する以前、作品を実際に見られる機会が極端に限ら れており、そのころの人が映画館やテレビで見て、もしくは、人から伝え聞いて、うろ覚えで書いた文章がそのまま本になり、それが何度も伝聞孫引されて、い までも新しい著者によって新しい本に載り、そのうえ、さらにその話がネットに再録されていたりするから。

 情報社会。居ながらにしてちょっと調べれば、世界中のことがわかる。だが、それはあなたの経験ではない。にも関わらず、人は、他人の経験でも自分の経験 のように共感できてしまう。この共感がうまく働くこともあるが、間違いも多い。たとえば、京都が大雨で壊滅的であるとレポーターが言っているのをテレビが 伝えているのを私が聞いた、としても、京都は大雨で壊滅的である、に勝手に縮約してしまう。とくにテレビはそう。テレビで見たら、私は実際に見た、に、す り替わる。しかし、テレビなんて、もっともひどいところを苦労して探してきて、大げさに伝えてナンボの商売。実際に行ってみたら、とっくに復旧していたり する。壊滅的だなんて、レポーターが勝手に騒いでいただけ。

 部屋にずっと引き籠もっているヒッキーは、だれが見てもわかる。問題は、学校や会社に通い、友人や同僚、顧客と話をし、テレビやネット、読書、さらには 講演会だの勉強会だのにも積極的に参加しているのに、恋愛や商売の出会いが無い、チャンスが無い、なんて言っているやつ。これは、いろいろ動き回っている のだが、ほんとうはカタツムリのように自分の狭い部屋を持って歩いているだけの隠れヒッキー。その人の毎日は、膨大な情報があるばかりで、どこにも自分自 身の生の経験が無い。だから、こういうやつの話は、他人の受け売りばかりでつまらない。それで、よけい、新しい人も寄っては来ない。

 そもそも、ほんとうの自分の経験は、ほんとうは他人とは絶対に共有できない。たとえば、このリンゴは甘い、という話には、じつはすでにそこに私が入り込 んでいる。私が食べたからこそ、リンゴが甘かった、のであって、誰も食べていないリンゴは甘くも酸っぱくもない。そして、この自分が味わっている甘さが、 同じリンゴを他人が味わっている甘さと同じかどうかなんて確かめようもない。パリはよかった、とか、あの小説はおもしろかった、とかも同じ。その人にとっ てよかった、おもしろかった、のであって、別の人がまったく同じように追体験できるわけではない。

 ガイドブックを何百冊読んでも、それは、あなたの旅行ではない。何千の恋愛小説を楽しんでも、それは、あなたの恋愛ではない。他人の幸せな経験談をいく らかき集めても、あなた自身は絶対に幸せにはなれない。旅行でも、恋愛でも、自分自身が経験するのでなければ、けっしてわからないし、まったく意味も無 い。もちろん実際の経験は、ガイドブックや恋愛小説のようにうまくいく場合ばかりではない。しかし、失敗も含めて、それこそがあなたの本当の生の経験。そ れこそが、あなたの人生、あなたの存在意義。

 テレビを消し、ネットを閉じて、後を振り返ったとき、そこにあるものが、それがあなたの本当の生活。いくら情報を集めても、あなた自身は永遠に空っぽのまま。それがイヤなら、自分の狭い世界から自分自身で一歩を踏み出し、自分自身の生の経験を積んでみよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


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