純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2013年07月

/いまどき作家でプロになっても、まず喰えない。いっそ日曜の趣味と割り切れば、自分の頭ひとつでどこでもできる贅沢な楽しみ。尽きることのない想像の中で、身近な風景が虹色に輝き出す。/

 小説を書 く、というと、すぐ、どうやったら賞を取れるか、とか、自費出版でも本を出したい、とか。だが、趣味の油彩や楽器で、絵を売りたい、CDを出したい、なん てやつがいるか? 絵を描くこと、演奏することそのものが楽しいから自分で好きでやっているんで、べつにそれを人に見せびらかしたりする必要などないし、 まして、それで一発当てようなんていうやつは、まずいない。なのに、いつから小説だけ、こんなに山っ気が強くなってしまったのだろう?

 たしかに、かなり昔、ちょっと小説を書いただけで大もうけが出来た時代もあったのかもしれない。テレビさえも無いころは雑誌というものが絶大な全国的影 響力を持っており、それに載るだけで、一躍、文化人の仲間入りができた。しかし、それははるか昔。いまどき雑誌なんかに出たところで、そんなのを読んでい る人は限られている。読んだ人でさえ、翌週には何も覚えてはいない。もちろん人気作家で作品も映画化されているような人もいるが、それは、ほんの数えるほ どの特異な例外。それだって、次々と新しいのが出てくるから、昔と違って売れ行きは何年ももたない。大半の作家は、喰い詰めている。本を出したところで数 千部。百万円にもなれば、かなり運がいい方。

 いまどき作家なんて、喰える商売ではない、日曜の趣味だ、と割り切った方が話が早い。喰えないならやらない、というような人は、そもそも向いていない。 だいいち、作家になりたいというだけで、どうしても書きたいことがあるわけでもないような空っぽのやつが無理やりページを字で埋めたところで、読ませる中 身があるとはとうてい思えない。

 むしろ逆だ。ぜひ読んでみたいことがずっと頭から離れず、ところが、それを書いてある本がどこにも無くて、それでついには自分で書いてしまう、というの が、小説を書く動機なんじゃないだろうか。たとえば、近所に古い道標がある。かつてこのあたりは宿場町だったらしい。どんな人がいて、どんなことがあった のか、いろいろ調べてはみたがよくわからない。そんなことを考えているうちに、なにか人目を避けて道を急ぐ旅人、それを呼び止めた宿屋の女将、おりしもこ の宿場では古顔の親分が亡くなってチンピラたちが云々と、登場人物たちが次々と現れ、それぞれが自分の人生を語り、それがこの時、この場で絡み合い、意外 な展開になって、それを追いかけている自分の方が驚かされる。

 小説を書くのに、何もいらない。絵具も楽器も必要ない。ぎゅうぎゅうの満員電車の中でも、つまらない会議中でも、自分の頭ひとつでできる。窓の外を眺 め、そう、あれはちょうどこんな空模様の日だった、というところから、物語は始まる。どうせ人に読ませるわけでもないのだから、べつに書かなくたってい い。ただ細部に目をこらしていくだけで、そこにヒントが現れ、それがきっかけで、話は先へと転がっていく。

 とはいえ、実際に書いてみると、これまたおもしろい。というのも、おうおうに話のつじつまが合わないからだ。だれかがウソをついている、何かを隠してい るのかもしれない。いや、自分の知らない間に、それがそうなった重大な出来事があったのかもしれない。さて、それはいったい何だったのか、と探っていく と、いろいろまた裏がわかってきて、興味は尽きない。そうでなくても、場面を書き出してみると、そこに出て来ていない人物たちはどこで何をしていたのか、 とても気になるではないか。

 小説作りは、一生に一度限りの人生を何倍にも増やす方法。しょせん妄想じゃないか、と言われても、そうだよ、それで悪いか、どうせ趣味の遊びだからさ、 というところ。他人の作った売りものの物語を読むのもいいが、そんなものをわざわざ買わなくたって、きみにだって、自分で作れる。そうすれば、もっと身近 な風景が虹色に輝き出す。ほら、こんな時間なのに、だれかが玄関のチャイムをならした。さて、いったい誰だろう?


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。


/いまの日本は、一億、オレはお客様教。自販機で缶コーヒーを選ぶかのように、どの宗教がどうこう、どの神仏がどうこう、と、能書きを垂れる。だが、どの宗教でも、神仏の側が人を選ぶ。選ばれるに値するだけのことを日頃から精進しなければ、話にもなるまい。/

 近頃はパワースポットがはやりだそうだ。休みともなれば、観光気分で国内外の寺社や教会に押しかける。なかでも、縁結びだの、合格祈願だの、商売繁盛だ の、御利益のありそうなところは、車やバスや飛行機で大勢が押しかけ、次々と御札や御守を「買って」いく。結婚式では、心にも無い賛美歌をみんなで合唱 し、誰だか知らない牧師だか神父だかの音頭で愛を誓い、葬式では、とりあえず適当な坊主を呼びつけ、とりあえず適当な経を読ませておしまい。通販だか雑貨 屋だかで買ったムダに豪華な数珠や十字架をチャラチャラと周囲に見せびらかし、仏教だ、キリスト教だ、やっぱり神社だ、などと語るありさまは、まるで自販 機の前で缶コーヒーでも選んでいるかのようだ。

 あらひとがみ、が、あっけなく米国に負け、戦後の小市民平等主義とバブルの拝金資本主義の結果、いまや、そこら中に、一億二千万もの、オレはお客様教、 の御神体が闊歩している。ホテルやデパートはもちろん、病院や学校でさえ、おれハ大金ヲ使ウ上得意ノお客様ダゾ、丁重ニ扱エヨ、と、喚き散らし、ふんぞり 返る。その同じ調子で、寺社や教会でも、ワザワザおれ様ガ現なまヲ落トシニヤッテ来テヤッタンダカラ、アリガタク思エ、とばかりに、好き勝手にどこにでも 入り込んで、不作法に写真を撮りまくる。そして、オイコラ、ソコノ神仏トヤラ、かねガホシイカ、ソラヤルゾ、サア、トットトおれ様ヲ救ッテミセロ、と、小 銭を投げつける。

 だが、まさか賽銭ごときで、いや、たとえ法外な大金を寄進したところで、現世のカネで神仏の御心を「買収」できるわけがあるまい。神仏に祈る窓口として 人が宗教や寺社教会を選べたとしても、どの宗教、どの寺社教会であっても、誰を救うかを選ぶのは、神仏の方だ。あれこれ寺社教会に奉納して祈願するのも けっこうだが、その思いを神仏に聞き届け入れてもらえるに値するだけのことを実際にやってから来ているのか。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、モーゼに神様御本人(?)がお答えになったように、ありてあらん者、という神様。それは、いつでもどこでもすぐそ こいる神様だから、この世に唯一で絶対的。別の神様の選びようなどない。それは、仏教やヒンズー教でも同じこと。神道でさえ、八百万の神々すべてを畏れ尊 んでこそ。現代の日本人のように、どの宗教にしようか、などと、偉そうに人間ごときが神仏を選ぶ余地などない。

 人力人智の及ばざるところに突き当たり、神仏の御加護を願うのなら、まず人間の身の程を弁えることから始めないといけないだろう。現世のカネごときでは 買えない、もっと大切なもの、難しいことがあることを思い知らないといけないだろう。そして、御加護を求める以上、すくなくとも神仏が御加護してくださる に値するだけのことはすべてまず自分自身でやってからでないと、話にもなるまい。そして、それでもなお、神仏がいかに計らうかは、結局、神仏が決めるこ と。

 そんなのずるい、不公平だ、とか、いまだに自分を神仏とタメに考えているようなやつは、どのみち神仏とは縁はあるまい。むだに寺社教会に入ってくるな。 そこは人々の真剣な祈りの場であって、遊園地のアトラクションではない。いかに「拝観料」を払ったとは言え、神仏は見世物ではない。そこでは、どんな人間 も、お客様、ではない。

 人が神仏を選ぶのではない。神仏が人を選ぶ。神仏に選ばれるに値するよう、日頃たゆまず精進に努めてこそ、祈りというもの。祈りを忘れれば、いつか罰が下る。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。

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