純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2013年03月

/学校の講義なんて週十数コマだけ。一方、友人は学校生活はもちろん、日常のあれこれから、彼氏彼女、アルバイト、さらにはその後の仕事や結婚にまで大きく影響する。最初のガイダンスの日、どんなやつの隣に座るか、そのきみの勇気がきみの一生を決める。/

 四月から新生活。夢は膨らむばかりだろう。だが、それを実現するのは、学校じゃない。自分自身だ。講義が良いとか悪いとか、それもこれも友人次第。教員なんて、たかだか週に1回、1コマ会うだけの存在。ところが、友人は、四六時中ついてまわる。どんな講義だろうと、嫌な友人に隣でひっかきまわされたら、勉強に集中なんかできるわけがない。逆に、どうしようもない講義であっても、気の合う友人に会いに行くと思えば、自然と足も向く。学校だけではない。素敵な彼女彼氏ができるかどうか、おもしろいバイトが見つけられるかどうか、さらには、卒業してどんな仕事や結婚をするかまで、学生時代の友人に依るところが大きい。

 その選択は、最初のガイダンスのときに、すでに始まっている。きみは、教室のどの席に座ったっていい。ところが、きちんと初日から早目に来て前の方の正面の席に座るやつは、その後も一生、前の方の正面の席に座る人生を送る。一方、遅れてきて、後の陰の方に座るやつもまた同じ。出来そうなやつは、出来そうなやつのそばに、また、ダメそうなやつ、不細工不器用そうなやつは、それはそれでたむろってしまう。その方が気分的には楽なのだろう。だが、楽ばかりしていては、人生の勉強にはならない。

 繰り返すが、学校の講義なんて、週に十数コマしかない。それも年に数十週だけで、残りの半分近くが休みだ。学生生活が楽しくなるかどうか、有意義にになるかどうかは、講義なんかではなく、友人で決まる。ガイドブックに顔を埋め、どの講義を取るかで悩んでいるヒマがあったら、顔を上げて、まわりを見回し、だれを友人にするか、どんな学生生活を送りたいかを、よく考えてみろ。そして、勇気を出して、自分より一歩前に行きそうな連中の隣に座れ。あとは、よくわからなくても、そいつらが取る講義にいっしょに付いて出ていればいい。中身がわからずに困ったって、連中に教えてもらえる。

 なんにしても、逆はまずい。オレはオレの道を行く、なんてかっこいいことを言ったって、最初から孤立無援では、掲示や講義で公式にアナウンスされた以外の細かな話は耳に入っては来ない。先輩や後輩、学内外のウワサ、服装や化粧、趣味や流行、まして初めての一人暮らしなら、あれこれの生活上の問題など、友人の助言、手つだいを必要としていることは山積みだ。最悪なのは、どうせ講義の中身はすぐは始まらないから、二週目くらいから出ればいいや、というバカなやつ。友だちは出来ない、情報は入らない、学校はおもしろくない、日々の生活もずっと垢抜けない。そして、なにがなんだかわからないまま、夏休み明けには引き籠もり、年末には中退。あそこはひどい所だった、なんて、学校のせいにして、家族にまで当たり散らし、また次の年も同じことを繰り返す。

 もうひとつ、気をつけるべきこと。いったんダメな連中と関わってしまうと、連中は以後、絶対にその仲間からの足抜けを許さない。自分たちが単位を落とすなら、おまえもいっしょに道連れに、ということになる。あんなの、くだらねぇよ、出たってムダだよ、と、自分たちと同じダメな側に引きずり込む。そのうえ、いろいろと余計で面倒な世界に巻き込んでいく。こうなると、学生生活をリセットするのは、かなり難しい。最初から、そういう気配の連中には絶対に近づかない方がいい。

 なんにしても、きみの人生は、ガイダンスの始まる前、席に座るところから始まっている。だれを友人にするか。きみの一生は、この四月の最初の一週間の勇気で決まる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/東北に「同情」する以前に、我々はもともとみな同一。だれもがいつ災害にあっても不思議ではない。なのに、またぞろ、金だ、不動産だ、マンガだ、アニメだ、セレブだ、オサレだ、と、この必至の現実から目を背けている場合か?/

 東北の話で盛り上がっているところで悪いが、1995年の阪神淡路大震災は忘れたのか? 1989年から六年間にも渡る雲仙普賢岳噴火との苦闘はどうした? 直近の被災地への「同情」にかまけて、これから我々自身に襲いかかる恐ろしい災害から目を背け、遠ざけ、忘れたのでは、本末転倒。同情もなにも、支援されるべき被災地の「彼ら」と、それを支援する「安全圏」の我々が、別々にいるわけではない。我々はみな同一。だれもがともに災害と隣り合わせ。生きとし生けるすべての人は、いつ災害で死んでも不思議ではない。

 今あるものは次の瞬間にもあることを保証されていない。今夜、眠り、明朝、目覚める根拠などない。今日、確かなものこそ、明日、崩れ去る。実際、95年の1月16日の晩、もう明日は来ない、などと覚悟して床に就いた者がいただろうか。11年の3月11日の朝、通勤通学に出るとき、夕べには帰るべき家も家族も跡形無くなるなどと思った者がいただろうか。そして、それが今日のあなたではないなどと、なぜあなたは思えるのか。

 あの涙の止まらぬ災害のさなかに、天罰だ、などと言い切ったバカがいたが、それこそ天罰が下る。17世紀の哲学者デカルトは、すべての瞬間に神の再創造の恩寵が働いていると考えた。今日があり、明日があることへの神仏への感謝無しに、人の命は無い。いや、いかに神仏に感謝を捧げたところで、神仏の思慮は人智には計り知れず、すべての災害は、ダモクレスの剣のごとく、つねにすべての人々の頭上にある。どんなに高い塔を建てようと、天空をしのぐことはかなわず、地上の災害を免れることはできない。

 不景気はもう終わった、消費税が上がる前に、などと言って、金だ、不動産だ、と、目の色を変えている連中も、いつか思い知る。金庫も証書も、それどころか命さえも流し去り押し潰す災害を前に、金塊や土地にどんな意味があるのか。札束を積んで津波が防げるのか。株価が上がれば地震が止められるのか。免震建築だのなんだの言うが、一日中、そこに立て籠もっていられるわけでなし、地下鉄も乗れば、高速道路も走る。どこで何が起こるかわからない。そうでなくても、人は、小さな鉄看板が落ちてきて当たっただけでも命を失う。火山噴火のイオウで河川が汚染すれば、飲み水が無くなる。

 普賢岳から阪神の震災のころ、ちょうどテレビの報道の仕事を手伝わせてもらっていた。災害の悲惨さもさることながら、人生観が変わった、という多くの人々のインタヴューの方を、いまでもよく覚えている。いざというときに頼れるのは、家族や町内。そして、どこでなにがあっても、それを周囲の人々とともに乗り越えていかれる体と心の健康、コミュニケーション。だれか助けてくれ、と言ってみたところで、地方全体が被災していては、だれにもどうにもできない。支援だ、復興だ、などというのは、数年も経た後の話。災害直後の一週間を孤立無援、自助自給で生き延びることができてこその話。

 いわば、我々全員が死刑囚だ。最後の審判の日を知らないだけ。たとえ自分が生き延びられないとしても、命懸けで、なにをやりとげ、なにを守るべきなのか。スマホだ、マンガだ、小説だ、映画だ、と、現実に目を背けて、暗い穴蔵に頭を突っ込んでいても、地震がすべて潰し崩す。金満オサレセレブのふりをして贅沢三昧、恋愛三昧の虚構に溺れていても、津波がすべて流し去る。リアルな生活というのは、中身が詰まっている、いざというときに対する備えと覚悟があるということ。災害を忘れない、ということは、毎日、毎日に後悔を残さず、最善を尽くすこと。東北を、そして、阪神淡路、普賢岳を忘れるな。犠牲者たちが命を賭して我々に伝えてくれた教えを忘れるな。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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