純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2013年02月

/地方に期待しても、キミは悪役外国人レスラーとしか思われていない。連中には連中の絶対固定の序列があり、報復を恐れて、だれもそれを動かすことを望んではいない。短期的に搾取して成果を踏み台に中央返り咲きを狙うか、さもなければ何もしない方がまし。/

 春から新生活。ゴミゴミした都会を離れ、自然も豊かで、通勤知らずの地方都市に赴任するという人も多いだろう。だが、行っても何もするな。連中はかなり面倒だ。

 第一に、キミは中央での敗北者、都落ちの左遷と思われている。地位肩書がどうあれ、連中からすれば、キミは、地元のトップより下。田舎国体に見られるように、連中は、外のやつを呼んでおいて、こてんぱんに叩き潰し、地元の強さ、すばらしさを確かめないと気が済まない。戦争疎開で都会の転校生がイジメられた時代からまったく進歩していない。そこでのキミの役は、地元のトップとやらに叩きのめされる悪役外国人レスラーだ。

 第二に、キミ自身がどう思っていようと、キミにとって地方が中央に返り咲く踏み台にすぎないと思っていると連中は思っている。実際、地元出身を売りものにして当選した有名人県知事たちですら、その後も地元に残って尽くしたやつなど、ほとんどいない。それどころか、任期も早々に切り上げ、さっさと中央に戻ってしまう。

 第三に、地元には絶対固定の序列がある。高校でも、デパートでも、住む地域でも。キミがはりきって赴任先の成績を伸ばし、上位に押し上げたりしたら、押し上げられた支社の従業員たちですら、居心地が悪くなり、ひたすら当惑する。おー、偉くなったもんやなー、ついこないだまで、はいつくばって、買ってください、買ってください、言うとったのに、てな、嫌みをどこかしこで浴びせられる。そんな支社の従業員の家族が近所のスーパーで牛肉を買っただけでも、すぐにウワサになる。田舎とは、そういうところ。

 なにをこの時代に、と思うだろうが、とにかく驚くような閉鎖的旧弊体質は厳然としてある。もちろん、損得勘定でスレていない、地方ながらの人のいい人もいる。こんな体質は、いいかげんもう変えてほしいと思っている革新的な人もいる。だが、だれもかれも、自分では何も始めない連中だ。水戸黄門みたいなのがやってきて、なんとかしてくれないだろうか、と他力本願。いや、それだって、ほんとうは困る。というのも、黄門さまが帰ってしまった後には、反動で、もっとひどい報復をされるのがわかっているから。とにかく現状のまま、なにごとも無いのが一番いい、というのが、すべての人の共通意見。

 こんなところへ行って、キミがはりきってみたところで、みんな掛け声だけ。キミひとりが空回りするだけ。いっそ開き直って、XX運動とか、OO宣言とか、資産売却経費節減、環境ボランティア、など、大胆極端なスローガンを度派手にぶち上げ、過去が積み上げてきた資産と人材の蓄積から短期的な成果を一気に絞り出し、とっとと退散するのも手。そんなの、長期持続可能な戦略ではないのはわかってはいるが、後は野となろうと山となろうと、どうせ結局は地元連中の自己責任。一時でも中央から注目されれば、その結末も知らず、連中もその気になって喜ぶ。そして、インチキがばれるころには、また次のやつが来て、また別の搾取で騙くらかすから、恨み辛みを言われるいとまもあるまい。

 いや、さすがに人として、そんなエグいことはできないよ、と思うなら、何もするな。たとえほんとうに左遷だったとしても、次にまた落ちてくるやつがいるから、キミは玉突きで中央の窓際くらいには戻れる。それでも、田舎で陰湿なイジメを受け続けるよりは、はるかにまし。何かしたって、いや、何をしたって、しょせんキミはヨソモノだ。キミを良く言うやつは一人もいない。なぜ幕末の志士たちが田舎の因習を打破するために中央集権樹立に文字通り命を懸けて戦ったのか、行ってみればよくわかる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/縁故もバックも無しに就職活動をがんばってみたところで、この国の不公平さを思い知らされるだけ。だが、それは政治家の選挙やモデルのオーディションでも同じ。本当の就職先は、売り物ではない。扉の無いところにこそ、きみの天職はある。/

 来年、卒業する学生たちは、いま就職活動のさなか。だが、遠からず現実を思い知らされるだろう。どうしてあんなのが、と思うようなやつが、安々と内定を取り付ける。一方、資料を読み込み、ペンだこを作りながら一つ一つの履歴書を丁寧に書き、前夜からスーツだのなんだのきれいに準備して、高い交通費をかけ、遠方まで時間に余裕を持って訪れるきみは、いつまでも何の手応えも得られない。どこも、だれも、きみを歓迎してはくれない。気が滅入るのも当然だ。

 だが、いままで気がつかなかった方がどうかしている。たとえば、この国の総理大臣を見てみろ。小泉さん、阿倍さん、福田さん、麻生さん、鳩山さん。俳優やタレントも、二世ばっかり。さもなければ、外国人のハーフだの、在日だの、SGIだの、業界ドンのオキニだの。この国は、そういう国なんだよ。同じ大学だろうとなんだろうと、親がどうこう、親族がどうこう、バックがどうこうの方が圧倒的に人事に影響する。それ以外の出る杭は叩かれる。かろうじで中に入れても、一方は、傷物にならない安全ポジション。派手に立ち回っても、有望な若大将と歓迎され、ほっておいても箔を重ねる。だが、きみは、使い捨ての汚れ要員。がんばればがんばるだけ、泥をかぶらされ、最後は心を病むか、体を壊すか。

 学歴社会なんて、とっくの昔に壊れている。明治維新のとき、門閥打破、有為登用のために帝国大学を作り、本物のエリートを育てたが、昭和になるころには、すでに官僚と財閥の名門姻戚で骨抜き。戦後の受験競争と言われた時代にさえ、卒業生の子弟は事実上の無試験なんていう有名私立がいくつもあった。まして、いまは全入。有名大学に入れさえすれば、先輩たちのように良いところに就職できる、なんて、もはや十年以上も昔の夢物語。これは、最初からフェアなイス取りゲームじゃない。全部のイスが、きみからはるか遠いところに並んでいて、後から全力で走って行っても、きみには手も届かない。

 さて、ここでいくつか戦略がある。ひとつは、人を押しのけ、引きずり倒し、実力で門閥さえも打破する。叩かれてナンボ、その叩くやつの腕を逆手に捻り上げ、大声で騒ぎ立て、知名度を揚げて成り上がる。ただし、この場合、女関係から金関係までよほど脇を固めておかないと、とにかくみんなが徹底的にアラ探しをして、八方から全力で潰しにかかってくる。つぎは、門閥の腰巾着。上にへばり着いて滅私奉公で忠誠を尽くせば、それはそれで便利だから、そうそう捨て駒にはされず、秘書室長くらいにはなれるかもしれない。とはいえ、最後の最後は不審死かも。三つ目は、どっち着かずで、右へふらふら、左へふらふら。風見鶏とそしられようと、とにかく見極めを誤らず、そのつど確実に勝ち馬側に乗って生き残る。もっとも、これも、甲乙伯仲してキャスティングヴォートを握っているうちはいいが、一方が圧勝した末には、最初に切り捨てられる。

 そして、最後。こんな勝ち目の薄いゲーム、最初から参加しない。実際、きみは、地盤も看板も無いのに、若くして国政選挙に立候補しようなんて思わないだろ。美女美男子でもないのに、モデル事務所のオーディションなんか受けたりしないだろ。なのに、なんでこんな不利な就職活動だけはやるわけ? 政治家の選挙や、モデルのオーディションと、どこが違う? 運良くどうにか入れても、その後の最終的な勝ち目が無い、限りなくゼロであることにかけては、どれもこれも同じだぜ。

 とはいえ、それこそ親がよほどの資産を残すのでもなければ、なにも働かずに一生を暮らしていくことなどできまい。だが、だれも取りに行こうとしない意外なところにも、そこそこに座り心地のよい、一生もののイスがあったりする。ずいぶん前からイスの方がきみが来るのをずっと待っていたりする。それを探すのが、本当の就職活動なんじゃないのか? 

 それは、売り物ではないから、就職はこちら、などと扉に案内されていたりしない。それどころか、この国の中ではないかもしれない。だからと言って、きみのイスが、この世界中のどこにも無いというわけじゃない。扉の無いところを探せ。窓を叩き、中の人を呼び出して、自分の話を聞いてもらえ。世界がきみを両手(もろて)で歓迎してくれていなくても、世界のどこかには、かならずきみを待っている場所がある。そうやって自分の天職を手にした人は、世界中にいくらでもいる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/くじが当たっても、当たったのはくじで、あなたではない。かりに勝っても、それは売り物の嘘。嘘が膨れるほど、現実がしぼむ。博打にカネを使うのは、妻や子、孫、友人知人を裏切るのと同じ。だから、あなたは、絶対に幸せにはなれない。/

 夢を買う、などと言うのは、売り手の側の嘘。逆だ。ほんのわずかとはいえ、せっかく苦労して手に入れた貴重な現実を、あなたは自分でドブに捨てている。だから、あなたは絶対に幸せにはなれない。たとえくじが当たっても、当たったのはくじであって、あなたではない。だから、そのカネは、すぐにあなたの手元から逃げていき、二度と戻っては来ない。そんなことを続けているかぎり、あなた自身は絶対に幸せになれない。

 パチンコは、もっとタチが悪い。あれは、大半の客は、基本的に勝つようにできている。だから、みんなはまる。人生の敗北者たちを大量にかき集め、見せかけの「勝ち」を味合わせる商売。出玉率が100%以上でも、客の数さえ多ければ、スーパー並みの景品の仕入れ値との差で、店は絶対に儲かる。つまり、スーパーで同じものを買ったらずっと安く買えるのに、わざわざパチンコ台の前でムダに時間をかけ、法外な差額を払い、ニセものの、勝った、という気分をカネで買っているだけ。どんくさいオヤジが夜の風俗店で高いカネを払っておべんちゃらを言ってもらって、モテている気分を味うのと同じこと。これらは全部、売り物の嘘だ。そして、嘘が膨れるほど、現実がしぼむ。

 昔、江戸の大店に馬鹿息子がいた。金使いが荒いので父親が咎めたが、いっこうに従わない。そこで、早起きすれば、店の前の道にカネが落ちているかもしれない、拾ったカネなら、ワシの小言など聞かずに、いくらでも自分で好きに使えるぞ、と教えてやった。そいつはいい、と、馬鹿息子は夜遊びも早々に切り上げ、毎朝、毎朝、早起きすることにした。だが、昨日も、今日も、明日も、銭一文すら落ちてはいなかった。

 金持ちにとって1万円など鼻紙程度のものにすぎないかもしれない。だが、自分自身の現実を見てみろ。貧乏人にとっての1万円がどれだけの重さか、よく考えてみろ。その1万円があれば、妻や子、孫、友人知人をどれだけ喜ばせることができるか、その顔を思い浮かべてみろ。それを紙切れに変えてしまうのは、家族や友人を博打のカタに売り渡すのと同じ。たとえそれで当ったとしても、そんな仕打ちをしたあなたの元に、家族や友人の心は絶対に戻っては来ない。あなたは楽しいかもしれないが、まわりはすこしも楽しくはない。それどころか、そんなあなたがこの世にいるだけでも不愉快に思っている。

 孫子も言う。絶対不敗の必勝法は、勝負をしないこと。いい年をして、この世の中が最初から不公平にできていることさえ知らないのか。物事を始める前から優遇されているやつらがいて、微妙にうまく連中が勝つように作られている。くじは、胴元が絶対に勝つ。パチンコは、店が儲ける。あなたは、足を踏み入れた時点で、負けが決まってしまう。それがわかっていて、なにもわざわざあなたが連中のカモになりに行く必要はあるまい。強制されているわけでもないのだから、近寄らないのが、一番の得策。

 ほんとうの夢は、売り物の嘘とはまったくの別ものだ。もちろん現実は、甘くはない。だが、煮ても焼いても喰えぬ、遠くの空に絵に描いただけの夢と違う。その苦さ、辛さを含めて、ちゃんと味がある。いつまでも、ガキでもあるまいに、あさっての夢だけを見て遊んでいる場合でもあるまい。コーヒーやビールではないが、大人になるということは、苦さ、辛さを含め、うまい、と思えるようになること。そののどごしに、生きている実感を味わうこと。手元にある現実がたとえ不足不満だらけだとしても、そこからなんとかして自力で這い上がろうとすること。その現実を見据えてこそ、本当の運が開ける。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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