純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2013年01月

/空に浮かぶ風船は、その紐を掴まないかぎり、キミの夢にはならない。前向きなだけでは、前には進まない。古い自分自身を踏みつけてこそ、半歩前に踏み出すことができる。/

 こんな自分ではダメだ、と思うとき、ダメだと思われている古い自分に対して、それをダメだと思っている、もう一人の新しい自分がいる。その、古い自分をダメだと思う新しい自分こそが、現実のダメな自分を半歩前へと進める足がかりだ。

 人間は、前にしか眼がついていない。だから、先のことばかり、調子よく語る。夢はあるか、と聞かれると、あれこれと雄弁に語る。だが、空高くどこかへ飛び去っていく風船を指さして、あれは自分のものだ、と言い張ってみても、むなしくはないか。なんとか飛び上がって、せめてそのヒモの端だけでも掴み取ってこそ、自分のものになるのじゃないのか。

 そうでなくても、前しか見ないやつは、自分より前を行く人々のことばかりを気にしている。彼らをうらやみ、アラを探し、ああだこうだと後から言い立てる。しかし、そんなことをしてもムダだ。連中も、自分たちより前しか見ていない。後のやつの言うことなど、聞く耳は持ち合わせていない。なんにしても、キミが何を言おうと、相手にはもちろん、キミ自身とはなんの関係も無い。

 キルケゴールやニーチェ、ハイデッガーなどの実存主義者は言う、生きる、ということは、ただここにいる、ということではない。いまのこの自分自身と向き合い、積極的に関わり合っていくことだ、と。自分自身とは直接の関係が無い物事にばかり眼を向け、肝心の自分自身のことを留守にしているようでは、それは自分の人生の傍観者だ。

 引きこもり、というのは、社会との関係を持たないのではない。なによりまず自分自身との関係を持とうとしないのが問題なのだ。いまのこの現実のダメな自分に対して眼を向けることがない。だから、アル中の飲んだくれだの、パチンコジャンキーだのも、引きこもりと同じこと。社会の中で、他人のカモにされているだけ。その現実を直視しないから、永遠にその現実から抜け出すこともできない。

 ああ、ぬくい。とコタツで寝転がっているやつ。ぬくいのは、コタツか、自分か。いや、ぬくい自分と、ぬくいコタツが一体になってしまっている。だから、抜け出せない。ベートーベンを見てみろ。峻厳な交響曲を九つも書き、その最終楽章の半ばも過ぎた所に至って、オレの作りたいのは、こんな音ではない、と言い出して、これまでの自分を全部をひっくり返して、合唱の壮大なマーチとともに、さらに前へと進もうとする。

 自分は、自分自身を足場にして、その頭を踏みつけて行くことでしか、上には登れない。それどころか、そうしなければ、日々、自分は古びていってしまう。黴びるのが嫌なら、毎日、自分を磨くしかない。まして、今日より前に進もうと思うなら、こんな自分ではない自分を前へ、前へと打ち出していくしかない。

 前向き。それもけっこう。だが、向きだけでは、前には進まない。待っていても、だれも引いても、押してもくれない。重要なのは、自分自身で自分自身を前に進めることだ。しかし、ニーチェの言うように、我々は自分自身の重さに苦しむ。重力の悪魔が、現実の底なし沼に我々を引きずり込む。だからこそ、沈むより速く、上へ、上へともがかないといけない。

 古い自分など、沈んでしまってもかまわない。それを足場に、次の半歩を踏み出すことができれば、それを弛みなく続けていれば、私は生きていることができる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
 生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
 ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp

/会長が社長をバックアップしても、副社長はもとは社長の同僚。担ぐどころか引きずり下ろそうとするかもしれない。子分たちまでは譲り受けることはできない。上に登るなら、あらかじめ自分自身の子飼のチームを準備しておかなければならない。/

 お山の大将を自称するやつは、いくらでもいる。だが、いまどき、なんの後ろ盾も無しに、大将ぶっても、世間は相手にしない。しかしまた、後ろ盾だけに頼って、大将ぶってみても、これまた薄ら寒い。

 この問題は、組織トップの世代交代で頻繁に起こる。社長が取締役の一人に地位を譲り、自分は会長として彼をバックアップする、と宣言する。で、それだけでうまくいくか。鍵になるのは、新副社長の挙動だ。彼もまた社長を支えるのであれば、以下、その他の取締役や取引先も、新社長を中心にうまくまとまっていくだろう。

 ところが、副社長というのも、ついこの前までは取締役として現社長と同格。前社長、つまり会長の子分であっても、現社長の子分ではない。それどころか、現社長が早々にしくじってくれさえすれば、むしろ自分が取って代わって社長なれる、と思っている。こんなやつが、元同僚の新社長を担ぎ上げたりするだろうか。

 これが世襲であると、もっとまずい。副社長ほかの取締役たちは、みんな若社長より年上だ。現会長の引き立てがあってこそ自分たちは今の地位に昇ったのであって、若社長の世話になった覚えはかけらも無い。それどころか、この未熟な若造の世間体を取り繕うために、さんざん尻ぬぐいをさせられてきた。恨みこそあれ、これ以上、世話を焼いてやる義理もあるまい、ということになる。

 二君にまみえず、と言えば聞こえがいいが、その根にあるのは、前社長に対する忠誠というより、新社長に対する嫉妬。新社長を担ぐどころか、あいかわらず会長だけを持ち上げ続け、わざと新社長が失脚するように周囲を画策するかもしれない。その妙な動きを、前社長である会長自身が黙認していて、最初から自分が実権を握り続けようという魂胆かもしれない。

 そうでなくとも、こういう新社長周辺の不和を見ると、会長も心がぐらつく。もしかしてあいつに社長は無理だった、まだ早かったのではないか。それで思わず現場に手を出してしまう。こうなると、いよいよ求心力は前社長、つまり会長の方に戻っていく。副社長以下、取締役たちは、現社長を飛び越し、会長と直接に相談してすべてを決めるようになる。社長は、はしごを外された形となり、社内で孤立。有名無実の存在となる。

 しかし、もとはと言えば、会長の力添えで昇格し、会長が苦労して集めた子分たちまで譲り受けて地位を固めようなどと甘く考えている社長が悪い。自分自身の子分を持たない社長など、もともと有名無実なのだ。トップになろうというのなら、あらかじめ自分自身で社内外から自分を担いでくれる子分たちを集め、彼らをまるごと引き連れて、チームとして上の地位に登るのが筋だ。もし古顔の副社長たちの挙動が怪しければ、社長になってすぐに、副社長を含む元の同僚たちを外に追い出して、自分自身の子飼たちを新副社長などに据えた方がいい。

 上層部でこういうドロドロした権力ゲームをやっている組織は、外から喰い潰される。真剣誠実に組織の行く末を考えるなら、会長も、子分たちまで新社長に譲ってはならない。自分とともに引導を渡し、現場からは手を引かせるべきだ。一方、新社長の方も、会長の以前の子分たちを当てにすべきではあるまい。自分の子分は、どんなに苦労しても自分で発掘するのが当然。それができないなら、上に登っても力を発揮できない。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
 生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
 ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp 

/なんの能も実績もないやつに限って、すぐ人に頼って、相談だ、会議だ、と言う。そのくせ、なんの聞く耳も持たず、一方的に面倒を押しつけてくる。だが、そんなものに関わったら、キミがほんとうに守るべきものの方を失うことになってしまう。/

 ちょっと相談があるんだけど、などと言われたら、あぶない、あぶない。それ以上、いっさい何も聞かずに電話を切った方がいい。それは、絶対にまともな相談なんかじゃない。金を貸してくれ、手を貸してくれ、名を貸してくれ、等々、一方的な頼みごとだ。キミがなにか意見したって、まったく聞く気などあるまい。いや、すでに人の話を聞く余地など無くなってしまったから、キミに頼っているのだ。そいつは、かってに自分で始めてしまったくせに、収拾がつかなくなって、他人を巻き込もうとしている。そんなデタラメなやつの後始末になんか、なんで関わる義理がある? すでにトラブルになっているのだろうから、話を聞いたという事実を作っただけでも、いまあの人に相談中なんだ、などと、やつにかってに名前を利用され、いずれ渦中に引っ張り出させてしまう。

 会議もそうだ。会議というのだから、みんなで話し合うのか、というと、そんなことはない。話は、全部もう決まっている。それを一方的に伝達し、ただ同席させて連帯責任を負わせる。つまり、決めたやつは、本来はかってに決める権限もないくせに、独断で決めてしまうような、職務分掌も無視するいいかげんな野郎。そのうえ、伝達されるのは、そいつがそれこそ職務分掌も理解せずにかってに決めた、わけのわからない妄想プランで、やる前から破綻しているのに、その正体不明のプランの分担だけが割り振られる。あのなぁ、机上で考えるのは簡単だが、現場はそのとおりにはいかんのだぞ。まず先に現場の意見を広く聞いてから話を考え始めろよ。と思っても、もとより、そんなデタラメのやつに人の話を聞く耳は無い。

 相談でも、会議でも、関わったら最後。関わった事実が出来てしまった以上、途中で投げ出すこともできない。だが、問題はそれだけじゃない。なんの義理も無いのに、キミがそいつが引き起こした面倒の後始末に掛かりきりになれば、キミが本来所属している部署やキミの家族の方ですぐに揉め事が生じる。なんでキミがそんなことをしないといけないんだ、それはキミの仕事じゃないだろ、そんなヒマがあるなら、そんな余裕があるなら、云々。その文句の言い分の方がもっともだ。しかし、キミは引き受けてしまった以上、本当の身内の方に屁理屈を言い立てて、よけいに雰囲気を険悪にしてしまう。だが、それもこれも、キミが必要のない面倒を引き受けてしまったのが悪い。

 あいつが話があると言うんだから、まずは聞いてやろう、というのだけでも、人望や信任というものが必要だ。それを築き上げるには、長年のウィンウィンの実績が必要だ。ところが、最近、その真逆の、何の能も実績もないやつに限って、すぐに、相談だ、会議だ、と、人に頼る。ようするに、自分一人ではなにも出来ないから、人を集めて、という発想らしい。だがな、仕事は、進路指導や学級会じゃないぞ。仲良しごっこでもない。自分の仕事は、自分でやれよ。自分でできないなら、自分で責任を取って辞めろ。それに、他人は、儲けの無いことはやらない、関わらない、聞きたくもない、というのが当たり前なんだよ。たとえ知り合いでも、あんたの友だちでもないし、子守役でもない。

 ウィンウィンの見通しの立たない面倒話は、相談でも、会議でもない。ただの一方的な頼まれごとだ。そんな話は、聞いただけで、キミはもちろん、キミの周辺の人間関係までガタガタになるぞ。キミがほんとうに守るべきものは何か、その優先順位を思い出せ。冷たいようだが、その守るべきもののために、余計は話は最初からきっぱりと断れ。



by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
  生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
  ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp

このページのトップヘ