純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2012年12月

/今年、仕事を失ってしまった人、その家族は、今日をどう過ごしているだろうか。テレビや商店街がしらじらしく浮かれ騒いでいるときにこそ、ほんとうの現実に目を向けてみよう。せめて人の悪口は止め、心静かに祈って、一年の終わりを過ごそう。/

 妻が帰ると、夫はイスに座って黙り込んでいた。「ただいま、どうしたの?」「今日、あの人に呼ばれたんだ」「……」「仕事を探さないとな」「だ、だけど、なにもこんな日に」「年を越したくなかったんだろ。前からウワサはあったんだ」「でも、あの人、この前、新しい車に買い換えたって」「あの人はあの人だよ。人減らしは会社の方の問題だ。あの人だって、ほかにどうできるわけじゃない」「それにしたって、あの人」「そりゃ、オレだって思うところはあるさ。だけど、いま、人のことを悪く言うのは止めようよ。今日はクリスマスイヴだろ」「そうね……」

「それはそうと、わたし、朝から早番だったから、今晩の準備はまだなにも……」「ああ、ほんとうにお疲れさま。それじゃ、買い物に出ようか。オレの仕事が無くなったって言っても、まだ一家で一文無しになったわけでもないんだからな。次の仕事が見つかるまで、あまり贅沢はできないが、今日は特別だ。鶏とケーキくらい、いいだろ?」「ええ。それと、あの子の……」「ああ、そうだったな、ここのところ、それどころじゃなかったからな」

 部屋の奥で黙って絵本を眺めていた子供が、目をそらしたまま言った「いいよ、パパ。ボクだってパパが大変なことくらいわかるんだ。サンタなんかいないことくらい、もう知っているよ。無理しないでよ」「……悪いな、おまえにまで心配をかけて。だけど、なにか」「それなら、ミニカーが欲しいんだ。ほら、ミニカーがあれば、この部屋中を旅行できるんだ」「おもしろそうね、いつかみんなでほんとうの旅行にも行きましょうね」「ああ、暖かくなるころには、きっとなんとかするさ」

 店で買い物を済ました帰り道で、三人は近所の人に出会った。「おや、御一家でお買い物ですか?」「あ、こんばんわ、おひさしぶりです」「いやいや、よかった」「え、なにがです?」「いや、先日も御主人を見かけて声をお掛けしたんだが、なにかとても思い詰めていたようで」「おや、それは失礼しました」「なにかあったんですか?」「はあ……」「あの、じつは主人、今日、会社をクビになってしまいまして」「えっ?」「おい……」「いいじゃない、あなたのせいじゃないんだから」「しかし、クリスマスに……」「しかたないですよ、こんな時代ですから、なにか新しい仕事を探しますよ」「……あの、あまり御期待に添えるかどうかわかりませんが、よかったら、ちょっと知り合いに聞いてみましょうか?」「え、ほんとうですか! ぜひ、よろしくお願いします」「ええ、わかりました。では、よいお年を」「よいお年を!」

 街には明かりがきらめいている。「ねえ、ママ、やっぱりサンタはきっとどこかにいると思うんだ」「ええ、そうね」「ああ、どうやら今年はうちには来なさそうだけどな」「なに言ってるの、いつか来るわよ」「ああ、そうだ」「きっとそうだよ」

 この国の失業者は、おおよそ300万人。就職就業そのものを諦めてしまう場合も多く、統計は、ウソっぱちの横ばいを保ち続けている。何億を稼いでブランド品に酔いしれている人々がいる一方、失業や災害、家族の病気などで、毎夜、不安に苦しんでいる人々もいる。テレビや商店街がしらじらしく浮かれ騒いでいるときにこそ、ほんとうの現実に目を向けてみよう。政界や財界の無能をなじる前に、自分でなにかできることはないか考えてみよう。せめて人の悪口は止め、心静かに祈って、一年の終わりを過ごそう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/鸚鵡はよくしゃべるが、ろくに自分で飛べはしない。真実を包み隠し、ウソを売り付ける煙幕のような語りは、身辺から遠ざけよう。神様は、無言の努力のみを聞き届ける。天使は、沈黙の恭順にこそ囁き掛ける。/

 先日、ラジオの仕事をさせていただいた。だが、限られた時間で、聞いてくれている人たちに伝えたいことを伝えようと、もがけばもがくほど空回りする。きっと、ほんとうに伝えるべきことは言葉ではないからだろう。

 『自転車泥棒』という古いイタリアの映画がある。なけなしのカネでようやくに手に入れた自転車を人に盗まれ、仕事ができなくなってしまった父親が、止むに止まれず、そこにあった自転車を盗み、自分の子の目の前で人々に捕まり、なじられ、こづき廻される。どうにか許されたものの、父親も子も、もはや言葉も無い。ただ手を握り、その手を握り返す。父には子の、子には父の気持が痛いほどわかっている。だからこそ、なんの言葉にもできない。

 テレビや雑誌には、気の利いたひねくれごとを喚き散らして、してやったりと悦に入っている連中が溢れかえっている。だが、そんなことをしたところで、世の中はなにも変わらない。概して声の大きいやつは、世の大勢ですらない。外野のヤジは、しょせんガス抜き。鸚鵡はよくしゃべるが、ろくに自分で飛べはしない。べらべらと能弁に語っていることからして、すべてどこかのだれかの受け売り。それを時代の指導者だ、予言者だ、とありがたがるのは、まさにエラスムスやブリューゲルの言う痴愚神礼賛。

 ネットの時代になって、ブログだの、ツィッターだの、一般の人々もいよいよ多くを語る。過去のいいわけ、未来のはったり。見栄と虚飾のオンパレード。しかし、語れば語るほど、中身の無さが見え隠れする。話せばわかる、などと言うが、あなたの言い分を聞いて、相手が黙り込んだとしても、それはあなたの言い分に納得したからではない。あなたが語れば語るほど、あなたのこずるさが透けて見え、あなたと向き合うことがまったくの時間のムダであることが相手に思い知らされたからにすぎない。

 願いごとでも同じ。あれがほしい、これが必要だ、ああなりたい、こうしたい、と、言っているだけで叶うのならば、だれも苦労はしない。そもそも、それが実現して、あなたはほんとうに幸せか。アホなやつが上に登って好き勝手をした日には、当人はもちろん、周囲までもがみんな不幸になる。自分の手に負えないようなことをあれこれと言っている時点で、その人がその責を負うにふさわしくないのは明白だ。

 あなたのことは神様の方がよくわかっているに決まっている。だから、ただ、どうかよろしく、とだけ祈って、あとは笑顔で自分のすべき一つ一つの物事に誠実に取り組もう。神様は、無言の努力のみを聞き届ける。天使は、沈黙の恭順にこそ囁き掛ける。声にならぬ声、言葉にならぬ言葉に耳を傾けよう。立ち止まり、振り返り、来た道を眺め、天を見上げれば、進むべきまっすぐな道もおのずから指し示されている。

 本当の人物たる人物は、一事専心。語るのが商売でもなければ、さして口がうまいわけでもあるまい。なにを語っても、いつも同じ話ばかり。そもそも本業に忙しく、人にあれこれ高説を垂れている暇などあるまい。

 真実を包み隠し、ウソを売り付ける煙幕のような語りは、もう聞き飽きた。口先ばかり威勢のいい鸚鵡連中は、身辺から遠ざけよう。あなたが知恵と勇気を得るのに、彼らに頼る必要はない。現実は、言葉ではない。目の前にある。手を差し延ばし、自分で掴み取ってみよう。両手をうち広げ、全身で抱き締めてみよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/歩も王将も、しょせんは同じ木のコマ。いくらでも取り替えがきく。社長の肩書自体が26%の組織の基礎支持率を持っている。これを割り込めば、その社長は組織そのものの信頼性を毀損している。いっときの員数合わせではなく、その後にどれだけ有能な人材が集まってくるかが、その社長の偉さだ。/

 社長が来れば、頭を下げる。でも、なぜ? 社長だから。誰が社長であっても、社長ならば、従業員はみなそうする。では、社長になる人は偉いのか。それは、わからない。将棋のコマを見てみろ。全部、同じ木で出来ている。王将と書いてあるコマだけ、特別の材質で出来ているわけではない。桂馬や歩と同じだ。

 とはいえ、みんな同じだ、などと、従業員が頭に乗ってはいけない。この将棋盤の上にいる以上、王将が大事。そういうゲームだから。ゲームを否定すれば、そこから放り出される。そうでなくても、歩から桂馬、飛車角と、王将の都合によって捨てられる順番でもある。下っ端のくせに社長をあなどるなどという身の程知らずは、危ない、危ない。

 しかし、それは社長も同じこと。おそらく第一派閥のトップであることによって、社長になったのだろう。つまり、第一派閥が51%以上の支持を得、その第一派閥の中で51%以上の支配を持っている。これは、0.51x0.51で、社内全体では、じつは26%にすぎない。第一派閥出の社長なんだから、ということで、最低最悪でも、社長という肩書自体が26%の基礎支持率を持っている。これにいかに上乗せができるかが、その本人自身の実質的な支持率ということになる。

 逆に、26%を少しでも割り込んだら、いくら肩書が社長でも、あいつだけは気にくわない、許せない、という、その人物個人に対する強烈な反発が渦巻いている、ということだ。こうなると、もはやその将棋盤そのものに新規に人が集まらなくなる。それどころか、徐々にぽろぽろと人が逃げ出す。ここでおうおうに社長の方がぶち切れて、自分に露骨に反発している連中を見せしめとばかりに叩き出すが、これはまずい。紛糾が内外に知れて、いよいよ将棋盤が不安定になる。そして、しまいには他の将棋盤に根底からひっくり返される。ひっくり返った将棋盤など、すでにゲームの体をなしていない。だれが王将に頭を下げるものか。それどころか、将棋盤ごとひっくり返ったせいで落っことされた他のコマに刺し殺されても文句も言えまい。

 神輿が上がるのは、担ぐ者たちがいてこそ。それもガチンコのぶつかり合いで数が勝負とあれば、一人でも多い方がいいに決まっている。そして、さらにどれだけ新規に有能なコマを多く集められるかこそが、今後の趨勢を決する。一方、社長が社長でいられるのは、従業員がいて、取引先がいて、株主たちがその人を黙認しているというだけ。どのみち、上になにが乗っかっていたって、実際に現場で戦うのは、桂馬や歩、飛車角なのだ。王将など、しょせん同じコマの一つ。桂馬や歩以上に、いくらでも人としては取り替えがきく。組織の基礎となる26%の支持さえも取り付けられていないなら、実質的にはその人はすでに完全に社長失格。もはや組織本体の信頼性を食い潰して延命しているだけ。会社のためを考えて、早く取り替えないと、会社そのものが沈没する。

 あの人の下で働いてみたい、と、人に思わせるのは容易なことではあるまい。ただでさえ、人はだれも自尊心が高い。実際、26%は、会社と第一派閥に頭を下げているのであって、その社長本人に頭を下げているわけではない。そして、たとえいっときの員数合わせで社長になれても、それ以上の人間的な魅力なければ、会社の方が傾く。つまり、社長が偉いのは、社長という肩書ゆえにであってはならない。より多くの有能な人材が進んで集まってくるような人間的な魅力があってこそ、だれもがその人物にみずから頭を下げる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/世間は、それぞれ、白黒はっきりしろ、とうるさい。だが、人間は多色の多面体だ。あっちこっちをやりくりし、辻褄合わせをして、全体を結びつけていることにこそ、その人が生きている意味がある。/

 世間によく嫁姑の争いは聞く。あなた! どっちの味方なの! 白黒つけなさいよ! と双方が喚き散らす。だが、間に立つ男が死んでしまったらどうなる? 嫁も、姑も、赤の他人。この男が生きていて、白も黒もつけないからこそ、嫁が嫁で、姑が姑でいられる。会社でも同じこと。中間管理職というのは、上層の意向と現場の状況とすりあわせるために存在している。上の話を伝えるだけなら、いなくても同じ。

 そうでなくても、人は、あれやこれやを同時に抱え込んでいる。親の子であり、子の親であり、妻や夫でもあり、家庭人で、社会人で、仕事三昧に、趣味道楽に、近所つきあいも。持病もちでも元気な毎日。時間や予算はもちろん気持ちや気配りも、あちらこちらにやりくりし、どうにかこうにか辻褄合わせ。

 さらには、一人の中にも、いろいろな自分がいる。過去の自分、未来の自分。表向きの自分、内向きの自分。世間は、あいつは、ああいうやつだから、と言うが、だからといって、ほんとうにそういうやつであるともかぎらない。過去のままでいられるわけもなく、かといって、未来を先取りできるわけでもない。外面だけ良くしようと思えば、心の内にきしみが生じる。しかし、傍若無人に好き勝手、というのも、自分らしくない。

 だれだって、いろいろな矛盾を抱えている。そして、どうにかそれらを「いいかげん」に折り合いをつけている。人間は、色とりどりの多面体なのだ。にもかかわらず、そのそれぞれの一面だけしか接していない連中が、自分の都合で、あなたを自分の側に向いた一面だけの存在に貶めようと、とにかくうるさい。のらりくらりしていないで、白黒をはっきりしろ、とうるさい。だが、絶対にはっきりなどしてはいけない。この曖昧さこそが、あなたの生きている意味なのだから。あなたがそのどれかひとつだけを選んでしまったら、全部がばらばらに崩壊してしまう。

 まわりの意見に振り回され、本人まで思い詰め、本気で白黒をつけようと無理を重ねて、しまいには自分から死を選んでしまう、なんていう人もいる。だが、それは間違いだ。身近の誰かが偏執的にうるさくて、自分が鬱ってヤバいと思ったら、もう余計なことはいっさい考えず、仕事も、家庭も、借金も、なにもかもすっぽかし、すぐに病院でも駆け込め。失踪したっていい。あなたがいなくなってほんとうに困る、あなたを鬱に追い込んで、全部の絵図をワヤにしたと世間から激しく叱責されるのは、追い込んだ側だ。

 むしろ、一色一面しか持たないやつの方が危ない。仕事一辺倒で、家族も友人もなく、夜はうつろな表情でぼーっとテレビを見ているだけとか。今日も明日も無く、四十も過ぎて、いまだに二十代のような服装髪型のやつとか。この多面体は、自分の年齢や時代の流れとともに、前へ前へ転がしていかないといけない。未練があっても、ある面は引き剥がし、心配があっても、新しい面を磨き出していかないといけない。だが、一色一面だけでは、転がりようがない。いずれ、ぱったりと裏返って倒れることしかできまい。

 仕事も、家庭も、趣味も、世間も、バランスが大切だ。昨日を忘れるわけではないが、明日のこともきちんと夢見る。相手のことも考えるが、それで自分が振り回されたりしない。そして、面は多い方が、うまく、なめらかに転がる。それぞれは、以前よりつきあいが悪くなった、と、グチるかもしれないが、それ違う。あなたがより多面になってこそ、より広くを繋ぎ合わせることができる。そこにこそ、あなたが生きている意味がある。


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/大きな物事に取り組むには、大きな空白が必要だ。予定を立てる、とは、雑用を詰め込むことではなく、それを切り捨てること。予定が空白でも、現実まで空白になるわけではなく、そこには空白の予定でしか得られない直接の現実の体験がある。/

 夏ならスイカ。冬ならケーキ。仕事帰りに商店街を通り抜けると、閉まりかけの店で夕方の特売。え、この値段でいいの、だったら丸ごと、とは思うものの、ちょっと待てよ、冷蔵庫に入るかなぁ、と考え込む。昨日の食べ残しだの、バターだ、ヨーグルトだ、それに、マヨネーズやケチャップなどの調味料で、あれこれごちゃごちゃ。なんて、やっているうちに、後から来たこざっぱりとした主婦が、あ、それ、いいわね、ちょうだい、と即断即決で買っていってしまう。

 野っ原でもそうだ。百メートル四方もあれば、サッカーでもできる。だが、そのどこかに木が一本、生えているだけで、どうやっても正規のフィールドは取れない。せいぜい、その木のまわりをグルグル回って練習することしかできない。3時間も集中して考えてこそ思い浮かぶようなアイディアも、2時間のところで、どうでもいいセールスの電話にほんの三分じゃまされただけで、また一からやり直しになってしまう。

 大きいことをやろうと思うなら、始末が先だ。食べれるんだかどうだかわからないような残りものだらけでは、冷蔵庫に新たに大きなスイカなど入るわけがない。予定表が空いていると、職そのものまで無くなるような不安に駆られ、くだらない雑用をギシギシに詰め込みたがる人は多い。だが、そんなものは、なにも新しいことを生み出さない。むしろ、予定を立てる、というのは、いつでも大きな新しいチャンスがつかめるように、そういう、すっぽかしても大したことがないような、くだらない雑用をごっそりまとめて切り捨てて、自由に動ける空白を作り出すことだ。

 仕事に集中したいなら、電話がかかってきそうな重要な相手には、こちらから先にかけておく。途中でかかってきた電話は、自分の仕事が終わってからかけ直せばいい。とにかく重要なのは、まとまった大きな空白を手持ちで残していること。週末はもちろん、夜や夏休み、さらには、就業時間中でも、午前と午後の中心時間帯は、いつでも融通をつくようにしていてこそ、新しいことが始められる。そのために、朝一や午後一、定時直前に片付けるべきことを詰め込む。どうせ、やった、書いた、作った、という事実の有無だけが問題なのだから、その時間内で終わる程度のやっつけ仕事で済まして、とにかく中心に大きな空白を作り出すことの方が重要だ。

 いくら予定表が空白でも、現実まで空白になるわけではないのだ。予定が空白であってこそ、内外のだれかとじっくり情報交換したり、以前から気になっていたことを調べものしたり、抜け落ちていたことを再発見したり、思わぬことをひらめいたりする。むしろ、予定を詰め込んでしまっていると、予定を立てるときに頭の中で考えたことだけで手一杯になり、現実の方が手薄になる。しっかりと事前にチェックマニュアルを作っていたりする方が、チェック項目にリストアップされていないところに致命的な欠陥が潜んでいたりする。こういう大きな問題は、むしろ空白の予定の中での直接の現実の体験においてしか、見つけ出すことができないのだ。

 細切れの時間では、それこそムダになるだけ。せめて2時間、できれば3時間という単位で、空白を作ろう。週末でも、夜でも、あえて予定を入れず、気ままに本を読んだり、あてもなく街を散歩したりしてみよう。そして、これだ、と思う物事があったら、さらにごっそり雑用を切り捨てて、即断即決でそれに取り組んでみよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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