純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2012年11月

/絶望的なやつは、あまりにも絶望的で、絶望的なことに気づくこともできない。だが、希望は、今の自分ではない自分をめざすという意味で、もともとそこに絶対的な断絶を含んでいる。そして、この絶望の深淵を知るものだけが、これを踏み越えて真に希望を叶えることができる。/

 おれは酔ってねぇ! と、どの酔っ払いも言うものだ。酔っ払ってしまっているのだから、酔っ払っていることなどわかるわけがない。同様に、ほんとうに道に迷っているやつは、道に迷っていることにすら気づきようがない。バカは、自分がバカであることすらわからないほどにバカ。逆に、酔ってるかも、迷ったかも、オレってバカかも、と気づいているやつは、まだ救いの道が残されている。

 ふつう絶望というと、希望があって、それが絶たれた状況のように思われがちだが、じつは、現状に安住して、なんの希望も持たないのも絶望的だ。まして、叶いっこないような希望に夢を膨らましているのも、これまた絶望的だ。そして、絶望的な連中は、あまりにも絶望的であるがゆえに、自分が絶望的であることにすら気づくこともできない。

 あなたの周りにもいるだろう。ある日、突然、政治家になる、とか言い出して、なけなしの全財産を選挙に注ぎ込んでしまう瞬間沸騰なやつ。アルバイトなんか割に合わない、とか言って、ごろごろと引きこもりを続けている粗大ゴミなやつ。本人は何を考えているのか知らないが、端からすれば、どう見ても絶望的。そんな生き方は、ある意味で、毎日が自殺だ。今日の自分を生かすことを知らないから、明日にはけして辿り着けない。

 そもそも希望というのは、もともと絶望的なもの。今の自分と、なりたい自分は、別。そこには絶対的な断絶がある。だからこそ、それをどうつなぐかに腐心する。こんな自分のままではイヤだ、という、そのイヤな自分しか持ち合わせていないのに、そのイヤな自分をどうにかこうにかナダめスカして、一歩でも半歩でも理想の自分へと近づけていく。それも、ときには、思いっきり遠くの道へ迂回しなければならないかもしれない。

 言ってみれば、人生はスゴロクだ。一発で18の目でも出せれば楽だが、サイコロの目はどうがんばっても6まで。それどころか、今のダメな自分は、3の目までしかなかったりする。それでは割に合わない? だが、一歩ずつでも前に進んで、うまく表通りに出られれば、サイコロを2個使ってよい、3個使ってよい、というような身の上になれるかもしれない。もちろん世の中には、最初から恵まれているやつもいる。しかし、人をうらやんでいても何も始まらない。まずは手持ちのサイコロから始めるしかあるまい。

 また、今日という日は生ものだ。明日には取っておけない。パスをしたからといって、後で二回振ってよいわけではない。とはいえ、幸いに、それはまた日配品でもある。明日にはまた、かならず新しいチャンスが保証されている。今日、6の目が出ても、明日もサイコロを振る権利は与えられる。だったら、振らないより振ってみた方が良いに決まっているだろう。何の目が出るにせよ、今日は今日として、威勢良く振ってみよう。

 とはいえ、今日は右へ行き、明日は左へ行くのならば、結局、何日経ってもどこにも進まない。もっと遠くの山の頂かなにかを目標にして、それに向けて今日も一歩、明日も一歩。だが、歩き出せば、道はあまりに遠い。絶望的な気分になる。しかし、その絶望こそが本当の希望だ。キミはその絶望を見据えてこそ、日々の間に横たわる絶対的な断絶に落ち入ることなく、着実に一歩一歩、その断絶を跨ぎ越えて進むことができる。

 絶望の深淵を知る者だけが、本当の希望へと近づく。世の希望に酔っているバカたちを見て怖じ気づくことはない。道に迷っているキミこそが、迷っていることを知っているがゆえに、いつかきっと真にキミの希望を叶えることができるのだから。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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/計画と言うと、シロウトはスケジュール表のようなものを考えるが、そんなオール・グリーンライトなどということを前提とする方が間違っている。想定外の赤信号が出るなら、計画の方に根本的な欠陥がある可能性が高い。ムリなリカバリーは、それこそ致命的な大事故を引き起こす。/

 関西に来て最初に聞いた冗談。青は進め、黄色は気をつけて進め、赤は覚悟して進め。だが、まったく冗談にならない。赤信号になろうものなら、赤信号に、なんでや! と文句を吐きながら、そのまま直進してくる。あきらかに右折矢印が出ているのに、何度、強行突破の直進車で恐い思いをしたことか。

 計画学などというものをやっていると、一般の人とは話が合わない。みんな、計画と言うと、スケジュール表のようなものを考えている。プロジェクトでも、旅行でも、そこでは、ひとつの手違いもなく順調に進むことになっている。そして、それしか考えていない。だが、ものごと、最短でうまく行くことは、まずありえない。それは、言わば、すべての信号機がオール・グリーンライトになって、目的地までノンストップで直行できるような状況だ。

 5つのサイコロを振って、全部、ピン目が出ることを期待するのが、そうとうにバカげていることくらい、だれにでもわかるだろう。なのに、計画、というと、それをやる。そればかりか、ピン目が出なかった、と言って、当たり散らす。さらには、かってにごまかして、ピン目が出たことにしてしまおうとする。

 まあ、気持ちはわからないでもない。すべて青信号の状況しか計画として考えていない連中は、たった一つでも途中で赤信号になると、それがそのまま、計画全体の遅れ、ということになってしまう。だから、それを無視して、突っ走ろうとする。困ったことに、これがときにはうまく行ってしまう。だから、そうするのが一番だ、と思い込む。だが、そのうちいつか、命に関わるような大事故を起こす。

 しかし、どこでも一回も赤信号は出ない、という前提で計画していたことの方が間違いだったのだ。自分が間違っていたくせに、当たり散らされても、赤信号も、いい迷惑だろう。そもそも、赤信号は、誰のためにあるのか。赤信号が出ているのは、それなりの理由があるからだ。それが出ているときは、横からくる車にぶつかる危険性が破格に高い。

 もっとまずいのは、赤信号を計画に織り込んでいなかったために、すぐ次のステップで遅れを取り返して、もとの計画通りに戻ろうとムリをすること。そのムリは、もとよりまったく計画していなかった行き当たりばったりのムチャクチャなのだから、いよいよガタガタになる方が当然で、この途中でそれこそ予想外の別の事故を起こす危険性が高い。

 病気でも、赤字でも、契約破談でも、申請却下でも、そこで当たり散らし、ムリを重ね、その赤信号を無かったことにしようとしても、なにも解決しない。それどころか、より悪い危険な状況にみずから飛び込むことでしかない。そもそも、計画外の赤信号に引っかかるということは、その計画そのものがどこか根本的に間違っていた、ということだ。その先で、赤信号どころか、いずれかならずいきなり大事故や大失敗に陥る。ムリに遅れを取り戻すことより、いったん手を引いて、一から見直した方がいい。

 ようするに、赤信号は、止まれ、ということだ。ヤクザのようなやり方でゴリ押しをして周囲を黙らせ、かろうじてその場を乗り切ったとしても、人々の不満は消えるどころか、いつか倍返しにしてやろうと、恨みを募らせただけ。やればやるほど、どんどんリスクが高くなる。だったら、ムリをせず、それを機会に、それを口実にして、計画そのものを止めてしまうという選択もあるのではないのか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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