純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2011年10月

/バルトは、現代の批評を、生身の人間としての文体の体温さえも失った零度の書き付けと論じたが、自販機のような決まり仕事は、人々を、書き付けることでしか自分の存在を確かめられないところに追いやる。だが、そこには出口は無い。/


 スマートフォンだかなんだか知らないが、街や電車にはずっとなにか携帯に打っている人たちがいっぱい。すごいのになると、携帯をいじりながら自転車に乗ってたりする。一方、私のメールボックスには、間断なく膨大なツィッターみたいのが送られてくる。そんなの、フォロー設定した覚えはないのだが、どこぞのSNS経由らしい。内容は、いま駅、とか、飲み会なう、とか、XXさんが2つめの宝箱を見つけました(ゲームか?)、とか。あまりにもどーでもいいので、悪いが、みんな迷惑メールに指定させてもらった。
 
 私のようにちんたら暮らしているのは論外なのだろうが、みんな、がんがん機械を活用して、どんどん仕事して、ばんばん交遊して、とにかく、もーのすごい充実した毎日を送っているようで、そりゃ、なにより。人生の実況中継をやるくらい、きっと周囲や世間の人々の注目を一身に集めているのだろう。
 
 古い話で恐縮だが、戦後の雑誌全盛時代に世界中に大量の自称批評家が湧き出て、批評家同士が批評の批評(というより、罵り合い)をするようになり、そのう
ち、みんな、なにをやってるんだか、わけがわからなくなった。で、バルトという批評家の一人が、言論(ラング)・文体(スティル)・書き付け(エクリチュール)の区別を言い出した。社会における言論としてではなく、とにかくただ、自分のいまを一方的に書き付ける。それも、それは文体のような生身の人間の体温さえもはや零度で、誰かに何かを伝えるわけでなし、直接目的語も間接目的語もない体験の自動詞だけが羅列され続ける。
 
 デカルト風に言えば、我書く、故に我在り、というところか。逆に言えば、いまを書き付けていないと、自分自身が秋風の中の焚き火の煙のように消えて無くなってしまうのだろう。映画の『さらば箱舟』だの『メメント』だのに、なんでもそこら中に書き付けておく記憶障害者=自己喪失者が出てくるが、それにそっくり。そのうち、自分で書き付けたことさえも忘れ、だれも読まない書き付けだけが、底なし壺の中に落ちていく。
 
 だが、言葉は、だれかのために、なにかのために、語りかけるものだ。この文章だって、あなたのために書いている。余計なお世話、とは思うが、あなたは、あなたの人生を、もっと大切にした方がいい。たしかに、いまの時代、決まり仕事を自販機のようにこなすだけで、生身の人間として疎外され、本人でさえ自分がどこにあるのか不安にもなるだろう。しかし、だからといって、そんな日々を人にさらしても、さらに安っぽく、貧しくなる。なにかを自慢すればするほど、本人の自己評価が透けて、融けて、消えてしまう。
 
 人生は、売りものでも、見せものでもない。まして、サラ金のチラシでもあるまいに、どこのだれだかわからない相手に、ただで配り歩くようなものではあるまい。どうせつぶやくなら、ちゃんと目の前の人に、目を見て話したらどうだろうか。すいません、ちょっと通してください。このラーメンのおかげで芯から温まったよ。帰りが遅くなって悪かったね。
 
 自分からだれかに関わり合おうとしない人に友だちなどできるわけがない。人の痛みや悩み、喜びや悲しみを引き受けないなら、そんな体温零度の死体のことは、だれも理解しようがない。ツイッターに書き散らす前に、携帯から顔を上げて、目の前の様子を見たらどうだろう。そこで一呼吸置いて、現実を受け入れたらどうだろう。そこにいる者こそが現実のあなたであって、それを自分で殺して、自分が他に生きるところなど無いよ。

/夢の多くは、あなたの我がまま。世間はむしろ潰そうとする。一方、実現した現実は、夢であったことを忘れて、あなたが自分で潰してしまう。苦労を承知であなたが夢を追い続けるならば、それが人々の夢ともなる。/


 努力すれば、いつかかならず夢は叶う。こんなひどい戯れ言もあるまい。努力している以上、絶対にうまく行く。だから、ゲットナウ、ペイアフター。金持でもないうちから、クレジットで物を買いまくり、有名でもないうちから、タレントばりに高慢ちきに振る舞い、出世してもいないうちから、地位があるかのような大口を叩いて歩く。
 
 しかし、こんなあなたの夢は、絶対に叶わない。金持になりたい、有名になりたい、出世したい。そんなの、あなた一人の我がままじゃないか。世間からすれば知ったことではない。応援するどころか、鼻持ちならぬ。そもそも夢の設定がおかしい。金持とか、有名とか、出世とか、それは、なにかをやり遂げた人に結果として付随してくるものだ。
 
 でも、芸人でも、モデルでも、アーティストでも、実際、正体不明なやつなんて、いくらでもいる。本まで出して、世に高説を垂れる。たしかに。だから、彼らは叩かれ続けるのだ。そして、いつかかならず潰される。膨らみすぎたツケの方は、そのとき、きっちり払ってもらうことになる。落ち目になったアイドルの末路ほど、みじめなものはない。払えもしない豪邸を買って追い出される一家も、ばらばらに離散するしかあるまい。
 
 一方、あなたの本当の夢は、じつは、ちゃんと叶っている。だが、夢は、叶ったら、もはや現実だ。それで、それが夢であったことがわからなくなる。たとえば、あの人と結婚して、毎朝、目玉焼きを作ってあげるのが夢。ところが、結婚したら、朝起きるのも面倒になる。なんで私が、毎朝、目玉焼きなんか作らなきゃいけないの? 子供も、生まれるまでは天にも祈って授かることを願う。ところが、生まれたら、クソやゲロの始末ばかり。そのうえ、泣きわめき、熱を出し、ケガをして心配ばかりかける。なんで私が?
 
 でも、それこそ、あなたが望んだことだったのじゃなかったのか。進学する、結婚する、仕事する。良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、健やかなる時も病める時も。この誓いは、何事にも当てはまる。なにかを望めば、都合の良いことばかりではない。それどころか、なにか別のことを犠牲にしなければならないかもしれない。だが、それが望むということだ。夢を見るということだ。
 
 本人にはともかく、周囲の人々には、それがわかっている。だから、人が本気で夢を追い求めるとき、それが、みんなの夢ともなり、その苦労を含めて、なんとか応援してやりたいと思う。進学、結婚、仕事。自分も苦労したからこそ、その人には最後まで立派にやり遂げてほしいと願う。さらには、人々の夢、時代の夢を大きく見ることができる人もいる。政治を変えて人々の争いをなくしたい、薬を作って人々の病気を治したい、新しい技術、新しい芸術で人々の生活を明るく楽しくしたい。自分にはできないからこそ、その人に本当にそれを実現してもらいたいと願う。
 
 なのに、その本人が途中で投げ出してどうする? グチばかり言っているやつの御機嫌取りをしているほど、いまの時代は、まわりにも余裕がない。けれども、あなたが自分の夢のために立ち上がるなら、それこそあなたは人々の希望だ。夢の無い時代なら、新しい夢を作るのが、あなたにかけられた人々の夢だ。
 
 夢のために苦労を厭わないこと。その実現まで、いや、それが実現してからも、その夢を見続けること。そして、いま、この手元にある夢に心から感謝し、その幸せを大切に慈しむこと。それならば、あなたの夢は、かならず叶う。

/業定義は、個人でも重要だ。しかし、仕事へのコミットメントの深さとスコープの広さは、かならずしも比例しない。気晴らしのほとんどは、スコープの遮断にすぎず、かえって自分を追い込んでしまう。今日と別に明日があるのではなく、ここと別に世界があるのではない。/  いま、何をしている? たとえば、会社で聞いてみよう。ある人いわく、見てのとおりのコピー取りですよ。また別の人は、いやぁ、午後からの会議資料が多くてね。そしてまた別の人は、例のプロジェクトの件、こじれちゃって、もう大変ですよ、と。しかし、じつはこの三人、みなコピー機を操作していた。  企業では事業定義が最重要とされるが、個人でも同じ。何をやっているのか。やっている行動は同じでも、やっている行為が違うということがありうる。ひとつには、コミットメント(関与)の深さ。コピー取りをしているだけ、という人は、とりあえずコピーがきれいに取れていればいい、そこに何が書いてあるかなんて、知ったこっちゃない。午後からの会議うんぬんというひとは、資料を揃え、とにかく会議に間に合わせれば、なんとか会議を乗り切れば、というところか。そして、最後の人は、問題のプロジェクトのためなら、自分でコピーでも、会議でも、できることはなんでもするつもりだろう。  とはいえ、前者より後者の方が偉い、などということはない。人それぞれに、地位があり、責任がある。地位も責任もなければ、仕事にコミットメントなどしようがあるまい。小さな仕事しかさせてもらえていないのに、きみたちはいま、世界の平和と幸福と繁栄を築いているのだ、などと上から言い聞かせられても、責任のあるやつが責任を果たすのが当然であって、下の者にまで責任を言うなら、あんたと同じ待遇にしてからにしてくれよ、というのが本音だろう。  ところが、ここには、もうひとつ、スコープ(視野)の広さ、という別の座標軸もある。コミットメントの深さとスコープの広さは比例すると思われがちだが、そうでもない。見てのとおりのコピー取り、と冷たく言い放す人物が、こんな案件でこじれているような会社、もう長くはもつまい、早く留学資金を貯めて、とっとと辞めてやる、と思っているかもしれない。一方、プロジェクト大事と熱く語る人物が、後先を見失い、こうなったら裏金を使うのもやむをえないか、と考えているかもしれない。  どうなるかわからない明日のために今日を犠牲にするなんてバカげている、明日は明日の風が吹くさ、オレはいまに生きるぜ、なんていう若いやつは珍しくない。中高年でも、禅だか、キリスト教だかの生半可な聞きかじりを引っ張り出してきて、「いまここ」に全力をつくせ、余計なことは考えるな、なんて説教を垂れるやつもいる。だが、連中は、結局、現状にあぐらをかいているだけ。毎日、目先のはやりすたりで大騒ぎして、人生をやりすごすだけ。結局、けして大成しない。  ましてや、タバコや酒、パチンコ、ギャンブル、麻薬、過食、不倫、買い物に溺れる者の末路は哀れだ。ちょっと気晴らしに「出かける」と言うが、じつは逆。脳の血管を絞り、神経を麻痺させ、世の中の後先の面倒をすべてを遮断し、恐ろしく狭いスコープの「いまここ」に逃げ込んでいるだけ。自宅の部屋から出てこない引き籠もりと同じ。実際、タバコを吸い終わっても、酒に酔い潰れても、なにも解決などしていない。外に押しのけたはずの不安の闇が、心の内側から食い荒らす。そうでなくても、現実は、そういう人物を、この「いまここ」から弾き出す。  禅やキリスト教の言う「いまここ」は、過去から未来まで、ここから地の果てまで広がる壮大な神仏のスコープの話だ。「いま」は、数十時間前から数十時間後まで、数年前から数年後まで、数千年前から数千年後まで、とぎれなくつながっている。「ここ」も、同様に、仲間内のみならず、会社、社会、世界、と、どこもみな、ここ。  今日とは別に明日があるのではない。こことは別に世界があるのではない。その間に線を画す時点で、あなたは、自分のスコープを狭め、現実から目を背けている。そして、あなたの方が、「いまここ」から追われる。この現実以外に現実はない。いまここで何をするのか、どれだけ大きなスコープで、自分のすべきことを打ち立てられるか、あなたの人間としての度量が問われている。

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