純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2010年11月

/群衆は敵を必要とする。かつて敵は、扇動家によってでっちあげられたが、群衆がネットを手に入れた結果、その自律性を攪乱する扇動家そのものが敵となった。それゆえ、現代では、情報を隠すより、むしろオープンにして、真の敵を示して、群衆を味方につける情報管理が重要になる。/

 子供のころ、デパートの食堂にお子様ランチを食べに行くのが楽しみだった。ところが、あるころから、行かれなくなった。ヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠し、ゲバ棒を持った変な連中で、街が占拠されてしまったのだ。口先でピースなどと歌いながら、やつらは、警官隊に石を投げ、建物に火炎瓶で放火した。

 1895年、社会心理学者のル・ボンは、次の時代は群衆が支配する、と予言した。それは、個人の意識を持たず、容易に世論に操作される人々。フランス革命においては、まだ、それぞれの派の筆頭に立つ人物がいた。ところが、群衆においては、だれが頭だかわからない。そのときどきで何人かの名前が挙がったとしても、全体を統率できるほどの力があるわけではない。たまたま波の上に乗っているだけ。群衆は、だれもがリースマンの言う「レーダー型」であり、周囲の顔色をうかがって、すぐに同じ色に染まる。

 もちろん、だれかが仕掛けている。いわゆるデマゴーグ、扇動家だ。絶対的な仮想の敵をでっちあげ、その敵の側か、それに反対するかを、二者択一させ、群衆を自分の側に引き寄せる。敵は、ユダヤ人でも、鬼畜米英でも、国賊姦臣でも、帝国主義でも、資本主義でも、環境破壊でも、なんでもいい。重要なのは、群衆のひとりひとりに、自分がその敵の側ではないという、身の潔白の証明としての行動を無理に求める点だ。だから、群衆自身は、それぞれが自分の意志で動いていると思っている。しかし、この敵か、味方か、二者択一の枠組みに入れられてしまっている以上、もともと選択の余地などない。

 戦前において群衆工作、世論操作を引き受けてきた諜報組織は、戦後、広告代理店に発展し、高度経済成長においては、遅れている田舎者か、進んでいる都会人かの二者択一で、人々を消費へと駆り立てた。しかし、いま、そのエンジンが壊れてきた。仕事無し、カネ無しで空ぶかししても、もはや群衆は動かない。それどころか、逆に、広告代理店的な政治手法そのものが敵とされるようになってきた。群衆がネットというメディアを直接に手にしたことで、その自律性を攪乱する扇動家に対し、反撃を始めた。

 群衆というのは、なにも街に出てくる暴徒だけを言うのではない。現代の国際的な通信手段であるネット上で「荒らし」と呼ばれるような集中攻撃が起きれば、その部分は簡単に麻痺してしまう。いや、「電凸」として実体化することもある。もはや群衆は、顔を隠したりしない。自分の名前を名乗ったところで、現代では名前の意味そのものが奪われているので、なにも恐いものはない。まして、多数の群衆によるゾーン監視によって「実況」にさらされれば、現場の動きが情報的に丸見えにされてしまう。

 この問題は、情報の機密性を高め、ネットの規制をすれば解決する、などという古い発想では対処できない。むしろ、そういう発想こそが、いまや群衆の「敵」そのものであり、情報の内容にかかわらず、標的にされる。もちろん、世の中には、オープンにすればこじれる問題もある。しかし、いずれオープンになることは、いまや避けがたいと思った方がよい。むしろ、後日にオープンになったときにも、群衆をなるほどと感心させられるだけの仕掛けを入れ込んだ解決が、最初から求められている。

 暴徒の行動は、敵対すればエスカレートする。なにも好んで敵対して、暴徒を誘発することもあるまい。情報の危機管理というのは、むしろ情報を積極的にオープンにして、真の敵を明らかにし、群衆を自分の味方につける技術のことだ。

/Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka

/どうでもいいことに執着しても、どうにもなるまい。欲が無ければ、無いものは無い。むしろ、楽しみもまた、心の中にある。楽しみは、自分で捜さなければ、生まれない。悪いこと捜しはもう止めて、人の良い所、世の中の楽しいことを捜そう。/

 大航海時代、だれもが新大陸の奥地を目指した。夢の黄金都市エルドラド。自分たちがそこに先にたどり着くために、他の探検隊をじゃまをし、ときには戦って殺した。十七世紀初頭になっても状況は変わらない。カリブ海貿易を行っていると称する英国の南海株式会社を巡って、人々は争奪戦を繰り広げ、その株価は天井まで高騰し、やがて破綻した。いや、近年でも、大量破壊兵器を破壊しに、米国は大軍を送り、多くの人命を失った。しかし、エルドラドも、カリブ海貿易も、大量破壊兵器も、最初からありはしなかった。

 たとえ本当にあったとしても、いったいそれが自分と何の関係があるのだろうか。そこに自分が住んでいるのならともかく、だれも行ったことも、見たこともない島のことで、人々が憎み合ってみても、いったいなにを憎み合っているのやら。どうせどちらかの国のものになったところで、どこぞの人々ががっぽりと儲けるだけで、そのほんのわずかなおこぼれさえ、あなたの手元には落ちてはくるまい。そんなどうでもいいことを騒ぎ立てて、それで、あなたは、いまの仕事を失い、命さえ落とす覚悟があるのか。

 よく言われるように、自分の死は、自分のものではない。生きている間は、死んではいないし、死んでしまえば、死ぬ自分がいない。ところが、殺されまいとして、人に戦いを挑み、殺されてしまう人がいる。生きるために働いて、働きすぎて死ぬ人もいる。自分は病気ではないか、と、気に病み、病気になる人も多い。

 捜しものは、捜すものが手元に無いから捜すのだが、捜す気も無ければ、じつは、もともとなにも無くなどない。ありもしないものを求める欲こそが、無い原因だ。無いものは、最初から最後まで、ただ無いだけ。だから、どうにかそれを手に入れるか、なんとか無しで済ますように工夫するか、仕方ないとしてほっておくかしかあるまい。

 もっとも、楽しみもまた、心の中にある。明日は晴れるかな、と思ってこそ、朝、起きて空を見あげる楽しみが生まれる。そうでなければ、晴れていても、曇っていても、自分とはなんの関係もあるまい。つまり、楽しみは、自分で思わなければ生まれないのだ。それも、宝くじだの、野球の勝敗だの、人の売りものをわざわざ買わせていただくまでもあるまい。おっくうな満員電車であろうと、途中のあの駅の反対側のホームに、いつものあの人はいるだろうか、と思うだけで、それが楽しみに変わる。

 旅もそうだ。行こう、と思ったときから、もう旅は始まる。どこへ行こう、どんなところだろう、と思うだけで、心はもう遠くの空へと飛び立つ。今日はなにかちょっといいことがあるかもしれない、と思うだけで、今日はもういい一日になる。それで、たとえ大してついていなかったとしても、いやいや、これがまた意外に大逆転したりするものだ、さて、どうなったらそうなるのかな、と考えれば、明日がさらにおもしろくなる。

 捜す気がなければ何も見つからない。なにも、人の嫌な所、世の中の悪い事ばかりアラ捜しをして、直接にはまだ何の害になってもいないことを思い煩い、日々、不愉快に暮らすことはあるまい。それよりも、人の良い所、世の中の楽しい事を捜して、それがきっといつか自分にも幸運を振り分けてくれるにちがいないと信じ、あれこれ妄想していれば、こんなにカネもかからぬ楽しみもあるまい。

 悪いこと捜しはもう止める。ある程度、考えてみてダメなら、もうなるようにしかならない。むしろ、まずは明るく気分転換。これなら、退屈な会議中にも簡単にできる。

/by Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka

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