純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2010年10月


/この世に生きているだけで、すでにチャンスが先払いされている。つまり、すでに報酬は得てしまっているのであり、これにどう応えるかこそが問題だ。甘い自分に酔って日々の努力を怠れば、この世に生きた証(あかし)を失う。/



 卒業して十年、二十年、三十年という節目ともなると、誰からともなく、同窓会をやろうか、という話になる。あいつはどうしているだろうか、というとき、運動会で、学園祭で、修学旅行で、そしてまた、映画やドライブに行ったり、夜遅くまで公園で無駄話をしたりして、生き生きと活躍していた友だちの顔が次々と思い出される。

 成績のことも、勝敗のことも、よく憶えてはいない。あのときはそれが日々の目標であったはずなのに、今となっては、まるで他人ごと。だいいち、しょせん学生生活で、成績がAでもBでも、勝敗が3位でも4位でも、結局、その後の人生には大差ない。とにかくよくがんばった、辛かったけれど、楽しかった、という思いしか残らないのだ。

 球を打ってホームランになるか、白いファウルポールの外側にそれるかは、飛んできた球にもよる。試験、試合、仕事は、問題次第、相手次第、景気次第。もちろん、それを見極めるのも技量のうちだが、それでも、結果は運不運でどちらにも転ぶ。しかし、だからといって、バットを振らずに、ただ球を見送るのか。せっかくバッターボックスに立てたチャンスをドブに捨てるのか。

 そう、ちんたらと努力などしていられること自体、すでに相当に恵まれているのだ。世の中には、体調悪しく、わずかの努力も無理な人がいる。家族の世話など、より大切なことに追われている人がいる。それどころか、あなたのその年になる前に、事故や病気、災害で亡くなってしまった人も大勢いる。それを思えば、勉強でも、運動でも、仕事でも、集中して努力できる余裕が与えられた時点で、すでに大きなチャンスをつかんでいる。

 甲子園のバッターボックスでがんばるのは、そこに立てること自体がすでに充分に報われているからだ。つまり、その報酬は、周囲の大きな期待とともに、すでにそこで先払いされている。そして、次があるかどうかはわからない。それなら、ホームランになろうと、ファウルになろうと、そのチャンスが与えられたことに報いるべく、とにかく持てるかぎりの力でフルスイングする、というのが、当然のことではないだろうか。

 しかし、実際は、がんばる、というのも、ずいぶん自分を甘やかしている者が多い。ちょっとなにかしただけで、犬でもあるまいに、すぐに自分に御褒美ビール。だが、東大の図書館は夜22時半まで、代ゼミの自習室は朝7時半から。昼間は会社で人と同じに働き、直帰して自宅でコツコツと深夜まで小説を書いている人がいる。朝、5時に起き、朝食や弁当を準備し、自転車の前と後に子供を乗せて託児所と幼稚園をはしごしてから出勤する母親がいる。いったいこのどこに酔っている暇があろうか。酔って愚痴っているやつは、酒に酔う前に、甘い自分に悪酔いしているのだ。ほんとうにがんばっている人は、そんなどうでもいい余裕があれば、せめて5分でも寝たい、と思うだろう。

 同窓会で、名前はもちろん、顔を見ても思い出せないやつがいる。さて、あのころ、いったい何をしただろうか。いや、そいつは、何もしなかったのだ。だから、だれも憶えていない。これでは、本人さえも、自分がそこにいたのかどうか、定かではあるまい。

 我々は、生きるというチャンスが先払いされている。命という報酬をすでに得てしまっている。この期待に、どう応えるのか。この有り難さに、どう報いるのか。もちろん、無理をすることはない。だが、甘い自分に酔って日々の努力を怠れば、いずれ罰が当たり、生きた証(あかし)を失う。そして、それは、後からは絶対に取り繕えない。


/ヘラヘラ笑って済ますのは、悪事を助長する共犯者だ。正しく怒ることで、相手にもまた自分と同じ真剣さを求める。だが、相手は逆ギレするかもしれない。いまの時代、もっと用意周到な、毅然たる怒りが求められている。/



 テレビ局の仕事をしていたころ、ある著名な文化人といつも御一緒させていただいていた。だが、この人物は、どうも世間では大きく誤解されたままのようで、とても残念だ。彼は、番組の中で顔を真っ赤にし、額に青筋を立てて激昂し、ものすごい剣幕で相手を怒鳴り散らす。ところが、CMに入ると、瞬時に表情を変え、飲み物を交換するアシスタントににこやかに礼を言っていたりするのだ。そして、オンエアが始まると、以前の調子に戻って、怒り出す。

 だが、それが芸風だから、などというわけではない。よく見ていると、じつは番組の中でも、相手によって適格に態度を使い分けているのだ。怒るべき相手に怒り、聞くべき相手に聞き、褒めるべき相手を褒めている。番組の始まる前も、後も、けっして偉ぶることなく、どんな若手の出演者にも、どんな下っ端のスタッフにも、丁寧に接している。作品や思想はともかく、私はこの人物に大きく影響を受け、いまでも尊敬している。

 むしろ、テレビの業界は、もともと逆のタイプの人間の方が多いのだ。カメラに映っているときは、ニコニコと笑顔を振りまいているくせに、タリーの赤ランプが消えたとたん、スタッフにネチネチと嫌みを言いながら、控えのイスにふんぞり返っていたりする。下っ端をいじめることで、自分を大物に見せようとする。チンピラヤクザと似たようなものだ。まあ、ハッタリで生きている人たちだから、それもやむをえないのか。

 キリスト教のイエスも、人を許し愛せ、とは言うが、神殿を汚す商人たちをみずから蹴散らしたように、怒るな、とは説いてはいない。何でもヘラヘラと笑って済ますのは、悪事を助長する共犯者だ。先日、ショッピングセンターで、子どもたちが友だちを泣かしていた。すると、いかにもどこかの学校の先生らしき人が飛び出てきて、こらっ! きみたち、どこの学校だ? きみたちは友だちをいじめて、恥ずかしくないのか! と、止めに入った。ヘラヘラと笑っていた子どもたちも、顔色を変え、我に返り、うなだれた。

 怒るべきことにきちんと怒るのは、人間の責務だ。笑ってごまかすのは許さない。妥協の余地も無い。こうして怒ることで、自分の真剣さを伝え、相手にもまた同じだけの真剣さを求める。だが、なにかに怒ると、人は怒りそのものになってしまい、四方八方に八つ当たりをしてしまう。怒るべきではないことにまで、怒ってしまう。孔子が亡き弟子を惜しんで、怒りを遷さず、と褒めているが、これがまた、とても難しい。

 そのせいか、近ごろは、テレビの出演者でもあるまいのに、外づらばかりよく、嫌いな相手にまで愛想笑いを振りまきながら、裏では、あること、ないこと、ネチネチと人の悪口を言いふらしていたりする人物も少なくないようだ。たしかに、いまどき人前で激昂するのなど、大人げないのかもしれない。また、ヘタに人に注意でもしようものなら、逆恨みされ、電車のホームから突き落とされたりしかねない。しかし、だからといって、怒るべきことを見逃し、それで、あなたは後ろめたくないのか。

 上司や同僚が不正に手を染めているのを知ったとき、電車の車内でスリや痴漢に気づいたとき、近くで子どもが危ないことをしているの見かけたとき、笑って見て見ぬふりをして、それでいいのか。もちろん、面と向かって怒鳴り散らしてみても、それで簡単に相手が引き下がるとは限るまい。もっと用意周到に、毅然とした怒りが保てるかどうか。むしろ、ここでは、あなたの人間性の根幹の方が問われている。

/一人勝ちをしても、その内実はおうおうに空虚だ。根の無い花は、すぐ枯れる。全体の部分にすぎないにもかかわらず、その背後を顧みることがなければ、業界ごと壊滅してしまう。裾野の広がりがあってこそ、繁栄も支えられる。/



 アドリア海に浮かぶ水の都、ヴェネチアは、ヨーロッパの人々のだれもがあこがれる歓楽の街だった。カネのある貴族の子弟たちは、遠くイングランドやデンマークなどからも、家庭教師に率いられ、グランドツアーとして、この街を訪れた。しかし、20世紀初頭の哲学者のジンメルは、そのヴェネチアを、摘み取られた花のようだ、と酷評した。その場ではすべてが美しく思えるが、心に浸み残るほどのものは何もない。

 人工的で閉鎖的なテーマパークだけではない。現代の文化の多くもそうだ。見かけ倒しの映画や小説を、話題沸騰、たちまち重版、などと、洪水のような宣伝で煽り立て、売りまくる。そのときは、おもしろい、かのように思え、見てきた、読んだ、と、人に自慢すれば、それで用済み。筋もろくに思い出せない。半年もしないうちに古書店に本は山積み。運転手や美容師、水商売など、人に話題を合わせなければならない仕事ならともかく、一般の人々は、こんなもの、人生に何の関わりがあろうか。木戸の呼び込みのうまさに騙されて、ただカネを巻き上げられるだけの昔ながらのインチキ見せ物小屋と同じ。

 仕事もそうだ。華やかに経済誌やテレビの特集を飾っている新事業の風雲児も、数年で化けの皮がはがれ、見せかけだけの虚業の実体が露呈してしまう。伝統ある立派な巨大企業ですら、芯から腐って、全社これ不良債権の塊まりというありさまだったり。かと思えば、品質管理は納入業者任せで、正体不明のものを売っていたりする。それどころか、不良在庫処分の確信犯ということさえある。

 ジンメルに言わせれば、その花には根が無い。全体の部分にすぎないにも関わらず、自立し独立であるかのように錯覚している。ヴェネチアなど、橋というヘソの緒でかろうじて命を支えられている胎児のようなもの。都市も、周辺から、物資や労働力を供給されていればこその繁栄だ。まして、薄っぺらな作品や虚業は、それで騙される人々の生き血をすすって血色がよいだけのこと。

 20世紀半ば、ココ・シャネルがデザインした働く女性のためのシャネルスーツは、すぐに模倣され、安価な既製品があちこちで大量生産された。このままほっておくのか、と問われた彼女は笑って答えた、マネをするならするがいい、私は来年には来年のデザインを出す、誰も追いつくことはできない、それよりもファッション業界全体を率いて、働く女性が着飾れる時代を切り開いてみせる、と。

 人は、家族の一員であり、地域の一員だ。作品も、歴史や文化の中にこそ根づいている。都市や企業も、社会との関係においてこそ生かされている。自分だけが特別だ、などと勘違いして、その背後を顧みないならば、やがてその連携が枯れ絶え、足下から崩れていく。『実語教』に曰く、山は高きがゆえに貴からず、裾野の広く、樹木の茂れればなり。縮む市場での生き残り戦略だと言って、他社を叩き潰し、市場を食い荒らしていると、その業界そのものが壊滅する。たとえば、ただの普段着だった和装は、大正時代に、高価な洋装と張り合い、町の呉服屋と差別化するために、デパートがむりやり高級化したが、かえって戦争とともに贅沢品として世間から見捨てられてしまった。

 特定の企業のみが勝ち続け、経営者一人だけが利益を得ていれば、やがて人心は離れていく。従業員がいて、取引先がいて、顧客がいる。同業他社があってこそ、業界があり、競争があり、進歩がある。健全な社会があってこそ、そこで健全な仕事ができる。

/言わなければいいのではなく、本音で思っているのなら、その正体は、その位にふさわしくあるまい。まして、位に足る能が無いにもかかわらず、賞として位にあるのは、周囲にとって迷惑。自動操縦に任せる時にこそ、その再設定の仕事に気を抜けないはずだ。/

 いらないことを言って信を失う人は、言わなければよかった、言わなければ信を失うこともなかった、と思うものらしい。だが、たとえ口に出して言わなかったとしても、本音ではそう思っているのであれば、その人は、もともと人々の信を得ていない、信を得るに足らないのだ。そして、そんなこともわからない程度なのだから、もともと、その位に就く能も無い。内輪での失言程度で済んだのなら、まだ被害が小さかったと言うべきだろう。もしそうでなかったなら、いずれ遠からず対外的な大失策をしでかして、取り返しのつかない事態に世の中を追い込んでいたかもしれない。

 ようするに、言った、言わないの問題ではない。そう思っているのであれば、そう思っている人であることの方こそが、その人の正体ではないか。正体として、人に言えないようなことを思っているような人物であるのなら、周囲を欺いて人前に出てくること自体、信に足る人物ではなく、当然に、むしろ事前に排除されるべき人物だったのではないか。

 もちろん、世の中には、本心を隠して人々を欺き、しかるべからざる地位に立っている人物も少なくはあるまい。実際、文民統制を、軍人に対する言論弾圧だ、と思っている軍人は、どこの国にも少なくないようであるし、いつか社長の寝首をかいてやろう、と思いながら、揉み手で社長にすりよっていく経営幹部など、どこの会社にもいるだろう。しかし、いずれにせよ、その真意の善悪是非以前に、表づらと本音が分離しているということだけで、本来であれば、信ぜらるべからざる人物だ。

 まして、位に足る能が無いにもかかわらず、賞として位を得るのは、本人にとって喜びであっても、周囲にとって迷惑、それどころか害悪でしかない。種々雑多な人々が艱難辛苦の末に実現した明治維新に際して、西郷隆盛も、この問題を大いに懸念し、新政府に対し、勲労は、禄をもって賞し、位をもってするなかれ、と進言する。そして、位は、人を選びてこれを授けよ、と言い残して、自分自身も故郷に退いてしまう。ところが、現代においても、お友だち取締役会では、仲良しというだけで、社長が自分の一派一党を周囲にはべらそうとする。というより、こんな社長には、そんな人材しか周囲にいないのだろう。しかし、こんな人材しか周囲にいないのなら、その社長本人からして、その位に足る能が無いのではないか。

 昨今、飛行機も、離陸以外はほとんど自動操縦でなんとかなる、と聞く。つまり、機長たちは、とりあえずは操縦席に座っているだけでいい、というわけだ。社長や重役も似たようなもの、と思っている向きもいる。だが、世の中は、いつも、いつもどおりというわけではない。状況が変れば、自動操縦でも、その再設定が必要になる。というより、その再設定をするためにこそ機長たちがいるのであって、むしろいまやもともと操縦するためにいるのではないと考えた方がよい。きちんと状況に応じて正しい再設定をすることができないのなら、そこにサルを座らせておいても同じことだ。

 位は、その位そのものが、その位としてすべきことを求めている。そこに、私心本音の余地など無い。ただ虚心坦懐に、その位そのものとしてすべきことを適格にするのでなければ、その位にいないも同然。機長たちも、自動操縦など、さして当てにならない、という大前提の上にこそ、存在意義がある。自動操縦に任している間こそ、それを見守る仕事に気を抜くことはできまい。ここに、余計な冗談など言っている暇はあるまい。

/by Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka


/投機は転売が目的。自分で使う基幹能力無しに周辺技能ばかり身につけても、自分自身が道具としてしか扱われない。だれもが同じ技能を習得すれば、数年後には暴落する。自分の仕事のために新たな能力を創り出してこそ、投資だ。/

 以前、六本木のテレビ局で仕事をしていた。同じ高層ビルには外資系企業がいっぱい。エレベーターの中でも、英語が飛び交っている。若いOLたちも、米国人社員たちとスマートに会話。どぅユーらいくツクネ? オー、ちきんみーとぼーる。あいラヴいっと。しかし、こんな調子では、まともに英語の能力を仕事に活かしているとは言えまい。

 投資(インヴェストメント)と投機(スペキュレイション)は異なる。投資は、フロー(流動資産)をストック(固定資産)に換え、それによって、その減価償却(ストックの経年劣化による価値減少)以上のフロー・アウトプットを得る。一方、投機は、市場の不安定さを利用し、少ないフロー・インプットで、より大きなフロー・アウトプットを得る。たとえば、いままで歩いてやっていた配達仕事で、バイクを買って使うことによってより大きな利益を生み出すのは、投資。一方、宝くじを買って当てるのは、投機。

 ややこしいのは、現代経済では、ストックも証券市場においてフロー化しており、投資も投機の対象となりうるから。株は、本来は投資の分割負担であり、配当のフローを得るものだが、市場で自由に売買されているので、これを安く買って高く売るチャンスがある。しかし、投資と投機のダブルスタンダードを自由に乗り換えられることによってこそ、ストックが固着することなく、最適な分野に移動する。ある人があるストックを投資として買ったとしても、そのストックを他によりよい投資に利用できる人が現れれば、前者は自分の投資を諦め、投機を採って、後者にそのストックを譲り渡す。ところが、逆に、自分自身では利用する当てもないのに、いずれ他にだれかそのストックをうまく投資に利用できる人が現れ、より高く買ってくれるだろうという転売目的のみで、それを買い求める人が多くなると、いわゆる投機バブルだ。

 昨今、就職難ということで、若いうちから、より高く売れそうな技能を身につけようと、だれもが必死だが、それは投機だ。たとえば英語。経営や金融、工学や接客のノウハウがあって、それを英語でもアウトプットできるというのならともかく、まともな仕事の能力も無しに、ただ英語の技能だけを単品で高く買ってくれる職など、じつはかなり少ない。パソコンの能力も同様だ。結局は、会社の中での下請仕事で、安く買い叩かれる。

 そもそも、最初から人への転売を目的に技能を身につけたことが敗因だろう。道具にすぎない技能を売りにすると、その人自体が、ただの道具にすぎないものとして扱われ、つねにフローの雑費用として外部化されて処理されてしまう。一方、自分自身にやりたい仕事があり、かつ、自分一人だけでもやれる能力がある者は、それにマッチする会社もまた、事業の基幹となるストックの正社員として採用し、本人を留学などに送り出すなど、さらに能力開発のための投資をしてくれる。

 まず自分自身がやりたい仕事の基幹能力への投資こそが、第一。しかし、そういう基幹能力は、学校や参考書が整っていることは少ない。まだ他の人が能力として確立していないからこそ、その習得が投資としての意味を持つのだ。先輩たちの横に付いて、また、先人たちの跡を追って、それに自分の独自の工夫を加え、新しい能力を創り出す。

 能力の習得のために時間とカネをかけるなら、世間で将来性があるなどと言われている技能への投機はやめた方がいい。それは、いま、みなが同時に習得している一種のバブルにすぎない。数年後には暴落する。それより、自分の信じる道こそを進もう。

このページのトップヘ