純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2010年09月

/自分がやってもいない善行の褒美であろうと、もらえるとなれば、人は平気で自分のものだと言い、周囲とも争う。しかし、それは、運命の罠。人を責めて、語るに落ちる。むしろ善行をしてこなかったことこそ悔い改めるべきだ。/



 いまから百数十年前の米国中西部。そこは、線路が終わる町。ここから先は、馬か徒歩だ。しかし、大勢の人々が、引きも切らずに東からやって来て、いまだに一攫千金を夢見て、西へ、西へと旅立っていく。そして、この町は、これより先に店などない、と言って、そういう人々から最後の1セント硬貨までむしり取っていた。

 そんな町に、ある日、奇妙な重いトランクが届けられた。町長や保安官、駅長、校長、郵便局長、銀行支店長、売春宿の主人まで、町の名だたる人々が教会に集まる。牧師がトランクの上に張られたメモ書きを読み上げる。私は、以前、自堕落な生活をしていて食い詰め、この町に流れ着いたが、ある方に、食べ物を恵んでもらって命を助けられ、ありがたい言葉をいただいて魂を救ってもらった。おかげで、その後、私はカリフォルニアで金鉱を掘り当て、いまではありあまる財に囲まれている。ぜひ、その方に御礼がしたい。来月末、教会で、このトランクを開けてほしい。中には、あの時のありがたい言葉を書いた紙が入っている。トランクを開ける前に、正しくその言葉を言いえた人が、その方だ。この中身すべてを差し上げる。

 この話は、なぜか全国の新聞にまで記事として掲載され、ハッドリーバークの幸運な善人として全米中で大騒ぎになった。だが、町の人々は、ひそひそと話し込んだ。こんな因業な町で、人になにかを恵むようなおめでたいやつは、あの酒びたりの酔っぱらい、グッドソンくらいだろう。だが、やつも、だいぶ前に死んだ。となると、いったいあのトランクの中身は誰のものになるのか。

 果たして当日、町の人々はもちろん、あちこちからその幸運な善人を見ようと野次馬たちが教会に集まってきた。牧師が問う、その言葉を知る者は? すると、町長や保安官、駅長、校長、その他、さらには牧師自身さえもが、封筒を高く掲げたのだ。これらを開けると、いずれにも、悔い改めよ、と書いてある。名士たちは、たがいに罵った。おまえらは私の封筒をのぞき見て、やってもいない善行の褒美を奪おうとしている、と。

 つかみあいのケンカが始まろうというとき、その様子を離れて見ていた売春宿の主人が、とにかくトランクの中を見てみようではないか、と言った。みな、すこし冷静に戻って、慎重に開ける。革袋の上に、紙切れがひとつ。そこには、たしかに、悔い改めよ、と書いてある。ふたたびケンカ。それを売春宿の主人が必死に止める。すると、彼のポケットからも封筒が落ちた。なんだ、おまえも同類か、と、さらに乱闘。

 しかし、彼の封筒を拾って別の者が読み上げた。死んだグッドソンから、あなたにこの言葉を伝えるように頼まれた、悔い改めよ。これで野次馬たちにも謎が解けた。ほかの名士たちも、じつはみな同じ手紙を匿名の誰かから受け取っていたのだ。野次馬たちは、ウソをつかなかった宿の主人こそ、褒美を受け取るにふさわしい、と言って、革袋の中身を彼の前にぶちまけた。ところが、それは砂ばかり。ただ一枚、カリフォルニア銀行の持参人払い、四万ドルの小切手が。宿の主人は、それを拾うと、笑ってすぐに破り捨てた。こんなものを持って行ったら、向こうでどんな目に遭うか、わかったものじゃないよ。

 これは、マーク・トウェインの作った寓話。ほんの心の隙にでも、この小切手を持って行ってみようかと思ったなら、あなたも同罪。やってもいない善行に、まともな褒美などあるわけがない。やってもいない仕事に、まともな報酬などあるわけがない。

 /これは、さる東大教授の迷言。劣等感が尊敬を渇望させ、他の尊敬されている者をこき下ろさせる。しかし、こんなことをする者が人に尊敬されるわけがない。自分など尊敬に値しないと心底から思う謙虚さのみが尊敬を集める。/



 私の拙い長編小説でも利用させてもらったセリフだ。昔、東大で学科主任に昇格した教授が私たち学生を集めて最初に言ったのが、これ。あー、きみたち、まずはじめに、きみたちは私のことをよく尊敬しなさい。この先生、研究者としての経歴はずばぬけていたのだが、勉学を五十年以上もやってきて、こんなことを人前で言うようでは、人間としては救いがたいな、と、一同、あきれかえり、いまだに語り継がれている。

 世の中には、人から尊敬されたくて仕方のない人がいる。育ちが悪い、学歴が無い、容貌が醜い、など、自己評価が低く、強烈な劣等感があるのだろう。まあ、女子高生のニキビのようなもので、そんなことは、他人はさして気にもしてないのだが。こういう人物は、地位や名誉、財産や権力など、それに代わるものをどれほど手に入れても、けして劣等感の埋め合わせにはならない。たしかに、社会的に偉くなっても、美男美女になるわけではない。このために、優越感と劣等感がくっついて、ひどく不安定な屈折した性格となる。人がその人を実際に高く評価していても、本音ではおれのことをバカにしているのだろう、という疑念を払拭することができず、人に対してだれかれかまわず攻撃的になる。

 そうでなくとも、人からの尊敬を渇望している者は、おうおうに、人に尊敬されている他の人の欠点をあげつらい、貶めようと必死だ。この世から尊敬というものをすべて消し去ってのみ、自分が人から尊敬されるかのようだ。あんなものは、くだらない。そんなことなら、私もとうにやった。この二つの切り返しを振り回し、他人の頭を踏んづけて、それよりも上に自分を持ち上げようとする。だが、周囲からすれば、ああ、あいつ、またか、ほんとうに最低のやつだな、となり、どんどん悪循環に陥る。

 ナチスの宣伝相ゲッペルスは、幼少より片足が不自由で、現実の軍人としては不適格。ハイデルベルク大学で博士号を取りながらも、どこの銀行や新聞社にも職を得られず、これらを経営するユダヤ人たちに対する憎しみを強め、政治活動に飛び込んだ。戦争のさなかにおいて、彼は兵士たちに叫ぶ。諸君の勇姿奮戦は、後生に人々に尊敬され、映画のスターたちによって演じられることになるだろう。そして、彼自身、自分の人生の役処を演じ切るかのように、自分に陶酔して、ドイツという国を道連れに死んでいく。

 結論を言えば、人に尊敬されたいなどと願っている者が、人から尊敬されることはない。人に尊敬されたいと願うこと自体が、軽蔑に値することだからだ。だいいち、まともな人間であれば、自分が人に尊敬されうる、などとさえ思わないだろう。人が気づいているかどうかはともかく、自分で自分を見れば、マヌケなところばかり。根は小心者で、たいした勇気もない。多少、なにかやり遂げたことがあるとはいえ、それは周囲のおかげでかろうじてなんとかできたにすぎない。こんな自分が人に尊敬されたりするわけがない。

 しかし、奇妙にも、そんなふつうの人のことこそ、周囲は、立派な人物だ、と尊敬するもの。あんな風に、手柄も誇らず、みんなに感謝し、地道に暮らしている。なかなかできることではないよ、と。謙虚は美徳だ。ところが、謙虚を謙虚と思うほど尊大なことはない。ここが難しい。心の底から、本心で自分のほどを思い知ってこそ、謙虚ともなる。

 神仏を前につねに自分を省みて、不出来を畏れ恥じる。ひたすら自分の非力を思い、人々の良きところに学び、そのおかげをありがたく銘じて、日々を送る。人を尊敬しこそすれ、自分に向けば、とんでもない誤解、と謝辞する。それだけのことなのだが、難しい。

 /上は現場をわかっていない、と言う。だが、本当か。合理的な判断が食い違うとき、上が重大な問題を隠している可能性の方が高い。現場で生き残るには、それを逆に察知して備えておくことが不可欠だ。/



 不景気で会社が傾き、現場も思うようにならなくなってくると、同僚たちが集まって出てくる話は、毎度、会社の上層部に対する愚痴ばかり。あんな方針、まったくムチャだよ。せっかくの起死回生策なのに、認めないなんて、会社の自殺行為だ、云々。あなたたちが充分に賢明であるとして、上層部が同じ結論に達しない場合、もっとも素朴な推測はたしかに、上層部はアホだ、というものだ。しかし、それが唯一の推論ではない。逆に、自分たちの方がアホで、上層部の方が賢明だ、ということも、大いにありうる。

 そもそも、結論が異なるからといって、どちらかがアホでなければならないわけではない。双方ともに賢明ながら、異なる結論に至ることはありうる。第一は、情報の不完全性。上層部は、現場ほど現場の状況を直接に知っているわけではない。このため、判断のための考慮要素や危機感が欠けていることがありうる。しかし、これもまた、上層部の方が、その現場に関し、現場も知らないような別のことを知り、危機感を持っていることもありうる。たとえば、近隣にライヴァルチェーンが大型店舗の出店を模索している、など。

 それ以上にありうるのは、合理性の判断水準の違い。現場は、短期(一年未満)、それどころか今期の局所局地的な話に終始している。しかし、上層部は、全社の長期(十年以上)に準拠する。特定の部所の一時の得失よりも、全社での、それも百年戦略を考えている。いわゆる深慮遠謀。ここでは、損して得取れ、というようなことも、当然にしばしば起こりうる。また、この問題は、とくに経営資源配分とも関わる。やった方がよいことは多くとも、費用対効果において、優先順位が決まってくる。場合によっては、効果の薄い部所から予算や人材を引きはがし、効果のある部所に再投入することもありうる。それも、ここでの効果というのは、上述のように、全社戦略の観点から測られるものであり、個別現場からは計り知れない。

 単純に好みの違いということもないではない。一般に現場は、威勢のよく、ハイリスク・ハイリターンで一発逆転を狙いたがる。万が一、失敗しても、最後には会社がなんとかしてくれるだろう、という甘えがあるからだ。だが、経営不振で、上層部にそれだけの余裕がない場合、現状維持が最大目標となり、どの現場に対してもロウリスク・ロウリターンの手を打つことを求めるようになるだろう。

 なんにしても、現場の下っ端は上の言うことに黙って従ってればいいのだ、などという話ではない。現場から見ての合理性と、上層部の判断が食い違うとき、上がアホだ、と簡単に決めつけて済ますのではなく、他の部所からも情報を集め、違う判断に至った合理的な原因を逆にあぶり出すことが大切だ。たとえば、当然のはずのプロジェクトに予算がつかない理由としては、会社に不正粉飾決算やデリヴァティヴ負債などの隠れた危機的問題があり、上層部はその始末に追われている。もしくは、社運を賭けた別の巨大プロジェクトが秘かに進められており、既存のものと重複している。さらには、全社的リストラクチャリングで、当該プロジェクトの母体部所そのものの廃止が予定されている。

 社内にも、建前と本音がある。全社的で重大な物事ほど、上層部は、外部にはもちろん、内部にも明かすことはない。しかし、それは、いずれ現場にも津波のような影響を与える。むしろ上層部も合理的であるとの前提で、上層部が隠しているものを逆に察知し、それに早く備えて動いておくことこそ、身を守るためには不可欠だ。

/昨日まで腐敗そのものだった上司たちが、新しいトップとともに、部下たちに意識改革しろなどと言っても、だれも本気にはしない。古いシステムで昇格した管理職こそが病巣。社風を変えるなら、連中を社外に放逐処分するのが先だ。/



 なぜ人は右手で握手するのか。心臓が左にあるから? たぶんウソだ。たとえば、車など、左側通行の国もあれば、右側通行の国もある。重要なのは、その地域、その時代の大勢に逆らうことはできない、ということ。私はもともとは左利きだが、はさみや電話機、カメラに始まって、駅の自動改札からなにから、やたら突っかかる。それで、おのずから両手利きになった。相手がみな右手で握手を求めてくれば、左利きであろうと、右手を差し出す。そればかりか、やがて自分もまた、人に右手で握手を求めるようになる。

 国民国家、株式会社の隆盛から百年。日本の戦後で五十年。その淀みのために、どれほど多くの俊英官公庁、民間名門企業が内外で自滅破綻することか。しかし、その記者会見の様子などを見るに、こんな連中が上層にいたのでは、かくなることもやむをえまいと納得させられる。上司は、自分より仕事ができるというだけですら、その部下を嫌う。まして、自分よりクリーンな部下を推挙したりしない。むしろ自分の不正の隠蔽の手助けをするような走狗ばかりを身辺に侍らし、共犯同罪で縛り付けて、派閥の結束を為す。おれになにかあったときは、おまえらもクビになるぞ。誠心誠意、おれについてこい、と。だから、彼らと握手したことのある者は、すでにみな手に汚れが染みついている。

 組織の沈没が不可避という状況に及んではじめて、外からトップを連れてきてなんとか、という話になるが、しかし、そんなダテめがねのようなものを鼻に乗せても、どうにもならない。その横に居並ぶ部長たち、前に出て盛大な拍手を送っている課長たちこそ病巣なのだから。意識改革を、などと叫んでも、派閥力学と不正隠蔽こそ、自分たちの存立基盤。たとえ組織が沈没しようと、なにもしない。むしろ組織をうまく沈没させて、自分たちのこれまでの悪行三昧をきれいに闇に葬ろうとさえする。旧東独の末期など、まさにこれ。インチキ企業の最期も、証拠隠滅に追われ、深夜や早朝、課長たちが膨大なシュレッダーのゴミの山を自分の車でひそかに運び出し、街々で捨て、野山で焼くことになる。

 社風などというものは、企業のどこかを漂っているのではない。管理職者として実体化しているのだ。『論語』に、直材を歪材の上に載せれば、その重さで下のゆがみもなおるが、その逆では直材さえ曲がる、と言う。すでに傾いた企業に、朱に染まってしまった連中を漂白している余裕はない。従業員の四割、これまでの腐敗システムによって昇格してきた中間管理職まで放逐し、二割を真水の新人で補填しなおすくらいでないと、社風は変らない。要は、改革側が絶対的な大勢になるのでなければならない。

 良くも悪くも歴史上の大変革が成功してきたのは、旧体制の人々を皆殺しにしたから。内部に残せば、かならず秘かに反動復古を画策する。しかし、中で争っていれば、外から食いものにされる。組織のために尽くしてきたのに、それではあまりに酷だ、と言う人もいる。だが、彼らが言う「組織」は、じつのところ、自分の親分閥、組織内勢力のことであって、そういう私兵軍団によって、むしろ組織を食い散らかしてきたからこそ、このザマに至った。

 池を澄まそうと思うなら、まず、水面に浮いているゴミを拾い集めて捨てる。ついで、沈んでいる廃棄物を掘り出し、溜まっている汚泥を掻き出す。冷酷、独裁と言われようと、事の成否は、韓非子の言う「信賞必罰」、旧体制関係者の絶対処分にかかっている。現状維持がもはや不可能であれば、外部勢力もいまは復古側には荷担しない。

/代理は本人と同じ扱いを受ける。それどころか、正規の権限も、さまざまについてくる。しかし、しょせんは本人に選ばれただけの私的な存在だ。勘違いをしない自制心がなければならない。/



 銀行の窓口でちょっとした相談事をして名刺をいただくと、いつもみんな「支店長代理」。だが、銀行関係に勤める友人に聞いたら、それは、行内のキャリアパスからすれば、じつは課長よりも下。それも、課長なら部下がいるが、支店長代理は部下もいない。支店長のスタッフで、職務分掌の上下のラインからはみ出ている。彼に言わせれば、「代理」と書いて「カバン持ち」と読むそうだ。

 一般の大学教授はともかく、名門大学の医学部では、いまでも教授とその手下、その弟子一門にまで及ぶ夫人会がある。『白い巨塔』に「くれない会」として出てくるあれだ。小説と実際は多少異なっていて、勤務医の間はむしろ旦那が直接に教授と繋がっているのでそれほどでもないが、独立して開業医となると、妻が出席するのは当然。これをおろそかにすると、病院への補助医師の派遣や、患者の紹介状にまで嫌がらせを受けかねない。

 また、最近はなりを潜めているようだが、戦後の自民党政権時代には大蔵省出身政財界人の夫人たちによる「高輪会」というものがあり、大臣官房室課長を実質的な幹事として、定期的に有望な若手官僚と令嬢たちを見合いさせ、独自の閨閥を積極的に築き上げてきた。同様に、海外において、夫が邦人大手企業に勤めている妻たちも、在外公館の大使夫人を頂点とする親睦会に出席しなければならない。田舎の県連代表国会議員の妻は、さまざまな地元婦人会の会長となり、県議、市議、町議の妻たちを束ねる。小は、団地や社宅などでも、夫が同じ会社、同じ部所に勤めているとなれば、その奥様方の妙な結束と上下関係が生まれる。

 結婚式の席次などでも、代理は、本人と同じ扱いを受ける。そのせいか、しだいに勘違いしてくる。政治家の秘書が、周囲にいばり散らす。人気タレントのマネージャーが、テレビ局の下っ端をこづき回す。夫人たちが、旦那の地位肩書によって、表裏一体の支配組織を作り、若手いじめをやる。概して、この裏の関係の方が、陰湿だ。

 代理の長ともなれば、虎の威を借りるというより、正規の権限も着いてくる。古くは、平安時代、娘が天皇に嫁ぐと、なぜかその夫は早世し、幼くして位についた孫の「摂政」として娘の父が実権を握った。鎌倉時代に至っては、直接に源家将軍のクビを手にかけ、源家の家政にすぎない北条家が「執権」として政権を世襲する。一党支配の旧ソ連でも、国家の首相より、組織的な人事権を持つ共産党の「書記長」の方が実力者だった。現代の株式会社においても、本来の所有者は株主総会であり、「社長」など、その代理管理組織である取締役会の長にすぎないはずなのだが、株主総会の議長を務め、そこで取締役たちの人事案を独占的に提起することにおいて、企業の支配権を奪ってしまっている。

 しかし、どんなに実権を握ろうと、代理人は、自分で努力して広く世間に認められ、地位を得たのではない。しょせんは、その夫や上司、組織の私的な存在。つねにどこか劣等感と恐れにさいなまれ続ける。医師の妻など、離婚されれてしまえば、タダの人。だから、夫が浮気しても、怒ることすらできない。徳川将軍ですら、天皇に政権を返せと言われれば、返す言葉もない。日本中をひれ伏せさせても、京都にだけは足を向けて寝られない。かといって、相手をしのげば、自分の代理としての地位が根底から崩れてしまう。

 偉い人の代理として結婚式の高い席に座って豪華な食事をしても、けしてうまくはあるまい。身のほどを弁え、早々に退席するくらいの良識と自制心がほしいものだ。

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