純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2010年08月

/とにかく頂上へ、という出世主義の人々は多い。だが、頂上とは、行き止まりのことだ。世の中に山はいくらでもある。登ったり、下ったり、その途中の出会いを楽しみながら、自分に合った山道を行くことこそが最上だ。/


 以前、センター入試は共通一次と呼ばれ、1000点満点だった。東大に入ってすぐ、同級生たちと冗談半分で何点だったかが話題になった。そのとき、その中の一人が、こう言った。いやぁ、自分もなかなか良くできたかなぁと思って、新聞を見たんですが、最高得点が987点って、自分の自己採点と同じなんですよ。やはり世の中にできる人は、ほかにいくらでもいるものですねぇ。慢心してはいけないなぁと思いましたよ。

 だれもが、しばらく固まった。あの試験で987点をとる人間が世の中に何人もいるものか。これは、婉曲的な自慢か嫌みなのか。みんな、黙って彼の顔をじっと見続ける。すこしも笑っていない。本気らしい。本気で自分のほかにも最高得点を叩き出したやつがいたと思っているらしい。新聞に出ているのが自分自身だとは気づいていないらしい。

 数分たってようやく、いや、そうだよね、まったくだ。慢心してはいけないよ、ということで、彼の点数がどうこうではなく、みんな、むしろ彼のマヌケぐあいを尊敬し、心から見習わなければ、と誓った。彼こそ、まさに、自分のほかにいくらでもいる、世の中の真にできる人として、我々の目の前にほんとうにそこにいたからだ。

 世界観の問題だ。了見の狭い人々は、麓から頂上を眺め、世の中が富士山のような形になっていると思っている。そして、南側から登っても、北側から登っても、頂上は一つだ、と思っている。だから、とにかく上へ、上へ、頂上へ、と言う。ところが、実際にある程度、自分で登ったことのある人は、みな知っている、長い山道の途中には上りも下りもあり、雲海の遙か向こうには、まったく別の山々がいくらでもある、ということを。

 ちょっと見栄えのよい一つ山の頂きを極め、そこに居座り、下から来る新参者たちに御託を述べていれば、それはそれで一生暮らしていけるだろう。しかし、その人も、そこからの眺めで、ほんとうはそこが大した山でもなく、それどころか、むしろ引き返しもできない行き止まりであるのを知っているのだから、本心はつねにうしろめたかろう。

 一方、ある人々は、ある程度、山の上の方まで登って眺めを楽しむと、べつに頂上を極めるでもなく、さっさと降りて来てしまう。聞けば、たしかにいい山だ、だが、あんな風雨のきついところは、後から来る人々を蹴落としてまで、無理にいつまでも居座るところではあるまい、それより自分はそこでもっと遠くにもっと別の目的地を見つけたのだ、では急ぐので、と早々に立ち去って、野に下って行ってしまう。世人は、おやまあ、ただの負け犬か、と思うのだが、しばらくして気づくと、また別の山に登っていたりする。

 自分で岩土を集め、山を築いたオーナー企業のトップは前者の典型だが、旅芸人はもちろん、経営者や官僚、医者や学者、宗教家や行商人など、昔から遍歴に生きる仕事も世に多い。もとよりどの山も、どれひとつ自分のものなどではなく、また、その道中で、自分などより山守にふさわしい人々にも、多く出会っている。

 競争に打ち勝ち、有名大学や大企業に入った、と、人に自慢する者がいるが、そこには優秀な同期がいくらでもいる。無理に留まれば、運不運でむしろ不遇をかこつこともある。頂点であろうと、中腹であろうと、そしてまた、湿原であろうと、自分が山を楽しみ、道を行くなら、多くの景色、多くの草花、多くの人々との出会いがある。このおもしろさは、実際に登って歩いてみぬ人には語って伝えられるものではあるまい。もとより勉強や仕事は、人に見せびらかすものではない。自分に合った山々の道こそ、最上だ。

/資本主義以前から、資本を必要としない軽企業というものがある。先進国では重企業や大企業が頭打ち。それゆえ、もはやネット上でかすみのように薄い需要をかき集めてきて濃縮する個性的な人材の軽企業しか生き残れない。/


 株式や金融によって外部から資金調達し、設備投資する資本主義は、この二百年、多くのビジネスの機会を創出してきた。巨大ダムや巨大溶鉱炉を持つ国家戦略的な重企業、全国市場で量産効果を狙う大企業、ニッチの専門性を生かす中企業、小設備の高回転で生き残る小企業など。ところが、それ以前から、たいした経営設備を必要としない軽企業というものがある。屋台商売や、個人タクシー、紙と鉛筆でできる小説家など。それも、パソコンとネットの出現によって、かつてのメガストアや映画スタジオほどの事業が、ポケットマネーで始められるようになってしまった。

 本社や店舗、工場、倉庫も持つ必要がない。流通と物流の分離によって、ネット上で仕事を受け、製造はそのときどきに世界の手の空いている工場に依頼し、そこから製品を顧客に直送してもらえばいい。ちかごろぽこぽこできる出版社も、この典型。著者に書かせて、印刷所で刷って、取次に売ってもらう。むしろ相手先に出向いて調整する仕事なので、極端なことを言えば、連絡用の携帯電話一つがあれば、事務所さえも要らない。

 これでは、いくら金融緩和されても、従来の中小企業ほどにも、資本をかき集めよう、カネを借り集めようとはするまい。そんなもの、仕事に関係ないからだ。ただし、もともと資本が無いので、支払余力も無い。ちょっと行き詰まると、すぐ倒れる。しかし、特別な資金調達も、巨大な買い掛けもしていないから、取引先のギャラや実費用を踏み倒す程度。安定していないが、再開も容易で、つねに離合集散。

 むしろ、必要なのは、まるでかすみのように薄い需要を世界中から広くかき集めてきて濃縮し、暮らせる程度にはつねに確保できるノウハウ。そして、臨機応変の仕事ができる有能さ。軽企業の仕事の特徴は、大企業の製造販売のような反復性がないこと。個別の顧客の対応を含め、毎度、一回限りの仕事ばかり。たとえば、行列のできるファストフードの定番商品なら、自販機で充分。しかし、たとえば化粧品の受注となると、一人一人の話をよく聞いて、そのようすに合わせて商品をオファーしなければならない。

 先進国には、いまさら新規に重企業や大企業を興す余地など無い。一方、小企業は、機材の一時レンタルや近隣共有共用によって設備を減らし、腕一本で勝負する軽企業と化していくだろう。また、大企業などが抱え込んでいる多くの部門も、外部の軽企業へ排出される。たとえば、保険代理店など、とっくの昔からこの外注軽企業形態。受注や修理などの部門を、地方の別会社に分散委託してしまっている大企業も、すでに珍しくもない。

 人本主義、などという言葉は、すでに大企業の中でも、さんざんに使い古されてきている。しかし、軽企業では、まさにそれだけ、それしかないのだ。腕がよく、愛想もいい店主が屋台を切り盛りすれば、それだけで繁盛する。だが、そうでなければ、まったく成り立たない。大企業同士の話なら、間に銀行も入って、儲かるか、儲からないか、で決まるかもしれないが、ビジネスの規模が小さく、支払信用も無いとなると、メールのやりとりにさえ、双方の責任者の人柄の問題が表面に大きく出てくる。

 大量生産大量販売の大企業向けに規定マニュアルを正確にこなせる画一的な人間ばかり作ってきたこの国は、個性的な個人事業主やタレント事務所の離合集散体のような次の経済社会に向けての人材教育をほとんど手がけてこなかった。これに対応できるようになるには、まだ十年はかかるだろう。しかし、もはや時代が後戻りすることはないのだ。

/日本より米国の方が家族を仕事の表舞台にもよく登場させる。というのも、子供を見れば、その人の人事指導能力が浮き彫りになるからだ。/


 ビジネスライクと思われている米国の方が、大統領のファーストレディのように、仕事の表舞台に家族をよく登場させる。上司ともなれば、ホームパーティを開き、部下たちを家族ぐるみで招くのは、むしろ当然のことだ。しかし、それは米国のこと。タバコや酒を止められないとか、太っているとかというだけで、自己管理能力が欠ける、それゆえ、重責にも不向きだ、と、かんたんにクビになるような国だ。家族や家庭のようす次第では、人事評価を大きく下げてしまう。そしてまた、逆に、家族次第で出世もする。

 しかし、実際、この方法は、存外、外れてはいないように思える。以前、あるところに、いかにも仕事ができそうな管理職の人がいて、上層でのウケも良く、重役候補と見なされていた。ところが、ウワサによれば、その子供は、引きこもりで家庭内暴力を繰り返し、夜中にものを投げつけたり、母親の悲鳴が聞こえたり、ガラスが割れたりで、近所でも評判。にもかかわらず、その人は、父親として、仕事を口実にほったらかし。とはいえ、その仕事というのも、部下たちの手柄を奪ったものばかり。そのうえ、部下たちの悪口をあちこちに言いふらし、自分がいかにがんばっているか、自慢して歩くだけ。口上手なので、上もすっかり騙されて、さらに出世したが、ついには、実の息子に金属バットで顔面を殴打され、流血騒ぎになって、とうとう入院してしまった。やっぱりね、ということで、部下のだれひとり、見舞いにも行かない。

 まあ、男の子、女の子、本人の性格もいろいろだろうが、おもちゃを足で踏みつけたり、床に投げつけたりしている子供の親にロクなものはいまい。まして、それが人の家となると、いよいよどうかと思う。公共図書館の絵本に、チョコレートのシミがついていたりすると、文字通り、親の顔が見てみたいもの。もちろん、なんにしても、しょせん子供のやることだから、他人がその子をしかってどうなるものでもあるまい。だが、だからといって、それで親まで責任がなくなるわけではない。

 一方、こんにちは、さようなら、ありがとう、ごめんなさい、いただきます、ごちそうさま、と、言える子。靴やスリッパをそろえられる子。本やおもちゃをきちんと整理して片付けられる子。こういうことは、一朝一夕に、言うだけで聞くようになることでもあるまい。日々、根気よく、機会ごとに子供の目線にまで降りて諭して、それを何遍も繰り返していてこそ、ようやく身につく生活習慣だ。

 人間は外面の体裁を取り繕う。まして上司に対してはそうだ。管理者としてどうか、ということで、部下の部下に聞いても、直属上司に遠慮し、やはり体裁の良い世辞しか言わないだろう。しかし、その人物が管理者として職場で部下たちにどんな指導をしているかは、その人物の子供たちを見れば、これほど透けて見えることはあるまい。小学校ではないのだから、家庭訪問というわけにもいくまいが、良いウワサ、悪いウワサは、そこはかとなく伝わってくる。

 なによりかわいそうなのは、外面ばかりの親の子供だ。小さいうちにまともな生活習慣を教えてもらえなかった子は、勉強でも、仕事でも、なにをやってもうまくはいかない。だが、なぜうまくいかないのか、自分ではわからない。昨今、そういう若者たちをよく見かける。かといって、いまさらヤクザの親分にしつけてもらうといわけにもいくまい。親がダメなら、自分で気づき、今からでも自分で自分をしつけられるとよいのだが。

/話の中身がなんであれ、あんたとだけは仕事をしたくない、ということがある。相性が合わない、話しぶりが嫌いだ、とにかく雰囲気が気に入らない、等々。しかし、我々は、これらで話の信用度を測っている。/


 ビジネスなんだから、相性だの、好き嫌いだのではなく、話の中身で決めてくれ、と思うかもしれない。だが、どうにも生理的に嫌なものは嫌、話の中身がどうあれ、あんたとだけはいっしょに仕事をしたくない、ということは、世に多くある。

 相性ということで言えば、価値観が合わない、というのが、すれ違いの大きな理由だろう。たとえば、こっちは性能を気にしているのに、延々と、価格的にお得だ、とセールスをする人。また、有名人のMMさんも使っている、が、ウリの殺し文句だと思っている人。こちらが、その有名人とやらを知らないなどとは、想像だにしないのだろう。しかし、これらは、相性よりも、聞き手のシグナルを読む能力に欠けていることの方が問題だ。

 価値観以前に、話しぶりが嫌だ、ということもある。とにかく早口だとか、表現が大げさだとか、逆に、無口に無表情で会話にならないとか。俗語が多い、なれなれしいのが嫌い、ということもあるし、丁寧語がかえって慇懃無礼、冷たくバカにしている、と、とられることもある。相手の方に、それぞれ勝手に期待している話しぶりがあり、それに合わないと嫌われる。だが、この期待というのがあまりに人によって千差万別なので、容易には合わせ難い。とはいえ、ツバを飛ばす、息がくさい、発酵タバコだの、ニラレバギョウザだののにおいが服に染みついている、片口だけ曲げて冷笑する。ときどき、チッとか、舌打ちをする。やたら鼻息が荒い。奇妙な大声で唐突に笑う。こういう話しぶりを歓迎する人は、まず世の中にいない。

 さらには、話しぶりよりなりより、すでに雰囲気が嫌いだ、ということもある。いるだけで、なんだか暑苦しいとか、どよんと陰気になるとか。片方の小指の爪を異様に長く伸ばしていて、ときどき耳をほじっていたりすると、だれも、もう絶対に握手なんかしたくもあるまいし、名刺さえも受け取りたくないだろう。どう見ても場違いなほど、おしゃれなのもどうか、と思う。かといって、ジャージにサンダル履きのように、そのかっこうで来たのか、というほど普段着っぽいのも、なめられている気がする。

 よく言われるのは、相手の服装や口調に合わせろ、ということ。公務員に会うなら、公務員っぽいかっこうで、公務員っぽい話しぶりで。農家の人のところに行くなら、いつでもいっしょに農作業をする覚悟で。地方の政治家など、そのために、車の中にワイシャツを何枚も持ち、長靴さえも積んでいる。業界人を相手にしながら、業界人らしいノリで応対できないと、こいつ、よそもんだな、この業界では役に立たないな、と、安く踏まれてしまう。だからといって、ムリに業界ノリをすれば、それこそ馬脚が出てしまう。

 結局のところ、我々は、雰囲気や服装、口調で、相手がどの程度のものか、まさに値踏みをしているのだ。たとえまったく同じ話であっても、それを持ってきた相手次第で、その話の信用度合いが変ってくる。だから、雰囲気や服装、口調が嫌い、となったら、信用度合いがゼロなのだから、話の中身がなんであれ、それはゼロでしかない。

 むろん、人は見かけではない。そして、仕事は話の中身ですることだ。しかし、経験則として、見かけさえも人に合わせる気もないような相手では、どんな話であれ、うまくは運ばない、こっちの負担ばかりが大きくなって、結局、難破する。まして、交渉ごとで、最初から主導権争いをしかけてくるような相手は、長期的な提携はまず無理。人間の直観的な感性の方が、理屈よりはるかに合理的で正確だったりするものだ。

/棚卸や決算において帳簿と実際を突き合わせると、なぜか合わない。従業員や製品でさえズレがある。ところが、人間は、情報よりも現実の方がまちがっていると疑う。とくに能力に関し、ズレを正しく認識しないと、大ケガをする。/


 夏のバーゲンも終われば、棚卸の季節だ。実際の商品すべて帳簿の突き合わせをする。これがけっこうな重労働。しかし最近はみなPOS(販売時点管理)だろう、と思うかもしれない。たしかに計算上は、仕入数から販売数を引いただけの在庫数があるはずだ。ところが、実際に棚卸してみると、なぜか商品が無かったり、まれに多かったり。

 その原因でもっとも多いのが、万引。あれだけ監視カメラだの、巡回警備員だのがいても、数%にもなることさえある。従業員が直接にバックヤードから持ち出し、闇に売り捌いていることもある。陳列時に発見された欠陥品や、顧客からクレームがついて戻された欠陥品も多い。また、店頭でのさまざまな事故による汚損や破損もある。いずれにしても、これらはインヴェントリー(棚卸資産、現物)としては、数に入らない。

 だが、商品は、まだ目で見て確認できるだけ簡単だ。決算期の帳簿の突き合わせになると、あるはずのカネがなかったり、ないはずのカネがあったり。経理が一元管理しているはずなのだが、流通(売買)と物流(商品引き渡し)のズレで、現場で売掛や買掛に化けており、それも小切手や手形になっていない口約束のようなものでは、帳簿上ではまったく認識されていないことも多い。それどころか、このズレを利用し、現場の方が余った予算を取引先にプールしていたり、逆に足りないのを融通して割り引いて使っていたり。

 昨今は、従業員も、つじつまが合わないことが多い。いない従業員に毎月きちんと給与を支払うなど、政治家でもよくやっていることだとか。逆に、実際に現場に来て働いているのに、だれがどういう条件で雇用しているのかがはっきりせず、なにかの事故の際に大騒ぎになることも。一方、正規雇用の六本木分室社長秘書など、超高級高層マンションの一室で、その子供たちまでいっしょにそこに居たりする。

 製品もそうだ。起こるはずのない故障が起こる。というより、故障が起こるはずだったら、ふつうは、最初から売りものにはしていない。だから、すべての故障は、起こりうるはずがないものであるにきまっている。

 ところが、情報と現実のズレが生じたとき、人間は、奇妙にも、現実の方がまちがっているのではないか、と疑う。数が合わないと、数えまちがいだろ、もう一度、よく探してみろ、と言う。以前、ある銀行で名前の漢字を間違えられ、訂正を求めたのだが、どんな書類を持っていっても、それでは名前の漢字が違うので、本人とは確認ができない、と言われて往生した。パソコンが故障して電話をかけたときも、変な技術者が出てきて、そんなはずはない、こちらでも同じ機種で同じことをやってみたが、ちゃんと動いた、と突っぱねる。いや、だから、こっちのマシンは壊れているようなんだが、と言っても、それはおかしい、ちゃんと動くはずだ、の一点張り。だから、さっきから、おかしいって言っているでしょ、と言っても、おかしいというのがおかしい、とか言われて、話にならない。

 最悪なのが、能力のインヴェトリーだ。子供の運動会で転ぶ親が続出する。本人は以前のように走れるつもりなのだが、すでに体力が衰え、足が追いつかない。私だって昔は、というのは、まさに昔のことで、今のことではない。企業でもそうだ。以前は業界でリーダーシップを執っていたとしても、そんなことは今の取引先にとっては鼻で笑うような昔話でしかなかったりする。今、なにができ、なにができないのか、つねに客観的な能力の棚卸をしておかないと、そのうち、身の程知らずのムチャをやって、大ケガをする。

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