純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

2010年07月

        /仕事の報酬は多いにこしたことはない。だが、それよりも、自分を高く買ってくれている、ということにこそ、やりがいが生まれる。だから、感謝の一言を忘れてはならない。/


 仕事は楽ではない。しかし、仕事は自己表現でもある。報酬は多い方がいいに決まっているが、ときに人は、報酬を度外視して、仕事に真摯に取り組む。そこにやりがいがあるなら、無給のボランティアであろうと、まったくかまわない。トム・ソウヤーに出てくるペンキ塗りのエピソードのように、やりたい仕事であれば、カネを払ってでもやりたがるくらいだ。たとえば、自費出版などが、そうだろう。

 だが、半端に常識より安い報酬は、ダメだ。それは、金額が安いからではない。人間として屈辱的だからだ。仕事は、すくなくともその人自身にとって、かけがえのない人生の貴重な時間を削ってやるものだ。それを人が安く見積もるのなら、人間としての存在そのものを否定されるようなもの。やる気が出ないだけでなく、そんな風に自分を扱う相手が許せない。いつか辞めてやる、いつか仕返ししてやる、と恨まれ、結局、高くつく。

 また、こんな仕事には、これでは多すぎるくらいだ、感謝しろよ、などと、いらぬことを言うやつもいる。だが、こんなことを言ってしまっては、絶対に感謝されない。たとえほんとうに報酬が破格に多いとしても、仕事の内容そのものが評価されていないなら、人格に対する侮蔑であり、これも、かえって深く恨みに思うだけ。それにしても、高いカネを払った上に、恨みを買うなんて、まったくバカなことだ。

 これほどの仕事をしてくれているのだから、あんたにはもっと払うのが当然なんだが、なにぶん都合がつかなくてなぁ、ほんとうに悪いなぁ。報酬が相場より多くても、少なくても、働く側は、現金そのものより、この一言こそを待っている。いや、いいんですよ。でも、余裕ができたら、もっといっぱいお願いしますね。きっと、笑って、冗談交じりに、そう答えるだろう。使う側と働く側は、敵ではない。苦労をともにすること自体は、なんの苦労でもない。そして、自分のことを高く買ってくれている、ということこそ、仕事の最高の報酬だ。

 とはいえ、これは人あしらいのテクニックなどではない。口先でだけ調子のいいことを言いながら、心の中で、おれに感謝しやがれ、このやろう、と思っているようでは、すぐに態度に出る。だいたい、そんな風に傲慢な人が、人に愛されるわけがない。たとえどんなに高い報酬をばらまいていても、会社を辞めたとたん、年賀状はもちろん、電話の一本もかかってこなくなる。いや、その前に、だれかが足払いをくらわせるだろう。

 コピー一枚、メモ一つでも、仕事をともにしてくれているのなら、相手に感謝するのは当然のことだ。仕事はチームでやるものだ。一人ではなにもできない。同僚や取引先、顧客の理解と協力があればこそ、成り立っている。そのチームに入れてもらっていること自体には、先輩も、後輩もない。おれの方が先に入ったんだ、おまえらは、おれが雇ってやっているようなものだ、なんて、勘違いしているやつは、先に追い出されるだけ。
 
詠み人知らずに、実るほど頭を垂れる稲穂かな、という句がある。実際、政治家でも、経営者でも、偉い人ほど、多くの人に支えられていることを、よくわかっている。誰に対しても、心からの感謝を忘れない。そして、働く側も、あの人は、わかってくれている、応援しよう、いっしょにがんばろう、と思うものだ。だが、タチが悪いのは、そういう求心力のある人の虎の威を借りて威張る秘書。こういうやつにかぎって、おまえらの報酬は多すぎるくらいだ、社長に感謝しろよ、などと言って、ぜんぶを台無しにする。

        /まったく面倒くさいやつはどこにでもいる。だが、まともに怒ったら、まさに連中の思うツボ。かといって、無視するのも、自虐的にちゃかすのも止めた方がいい。正々堂々と、仕事の結果で立ち向かおう。/


 どこの国でも、子供は「悪い言葉」から覚える。ブス、ハゲ、デブ。だが、子供は、じつは、何がブスなのかなど、わかっていないのだ。ただの音の羅列。イヌ、ネコ、パン、ブス。人にイヌ!と言っても、何も起きない。だが、パン!と言うと、なぜかパンが食べられる。そして、ブス!と言うと、相手が怒る。これがいちばんおもしろい。だから、なんどでも言ってみる。

 いい年をして、差別やイジメをするようなやつは、ガキだ。そいつが悪いに決まっている。だが、悪ガキに止めろと言って止めるわけがない。大人になって、そんなことを言うやつは、侮蔑しようとして言っているのだから、たしかにあなたが人として怒るのは当然だ。だが、あなたを怒らすこそ相手の目的なのだから、なにもそんな嫌なやつに、親切に期待に応えてやる必要はあるまい。しかし、黙って無視するのも得策ではない。黙らすために濫用されるようになる。まして、ほっとけ!などと漫才風に笑いをとったら最後。それこそ、おもしろがって、永遠に繰り返される。

 1960年代、小さいときから大人気だったマイケル・ジャクソンでも、黒人ゆえに、食事は店の裏の路地で立って喰え、と、虐げられていたとか。だが、公民権運動の高まりとともに、大きな変化が訪れる。やーい、黒人!とはやす白人連中に対して、そうだよ、黒いだろ、うらやましいか、スタイルもいいんだ。走っても、歌っても、おれたちのマネできないだろうな、と応えた。ブラック・イズ・ビューティフル。黒人!と言ったら、毎度、延々とこの自慢話を聞かされるから、はやす方が嫌になって止めた。

 差別やイジメは、自己嫌悪の外化として生じる。つまり、そういうことをするやつらは、もともと自己評価が低いのだ。そのあまりの低さに耐えきれず、それを攻撃的に外部に転嫁して排出しようとする。その前で自慢話をされたのでは、たまらないだろう。そんなおもしろくないことはない。だから、やめる。

 面倒なのは、理解があるかのようなフリをしている連中だ。黒人で盲目のあるミュージシャンは、こんなインタヴューを受けた。黒人で盲目という二重苦を背負いながら、ここまで成功するのは大変だったでしょう? ミュージシャンは応えた。おれは黒いのかい。盲目だから、知らなかったよ。で、あんたは、何色だ? ミュージシャンとして音楽をやるのに、白も、黒も、目が見えないのも、足の中指が親指より長いのも、へそが曲がっているのも、関係ないに決まっている。

 男だ、女だ、若すぎる、もう年だ、経験がない、時代遅れだ、生意気だ、積極性に欠ける、等々。人は人のジャマをするためなら、何千何万もの「客観的な理由」を考え出す。そして、それを本人のいないところで言い散らす。これも、あきらかに差別・イジメだ。本人に向かって言うより、巧妙で陰湿なやり方。しかし、こういうことをするやつも、典型的に自己評価が低い。他人を貶めていないと、自分には長所がなにも残らない。だから、それをやらずにはいられない。精神的に病んでいるのだ。

 どんな物事も、長所と短所は表裏一体。アラを探せば、悪く言えるのは、当たり前だ。だが、仕事は長所でやるもの。社内で人物批判ばかりしていて、なんの長所のない人間は、仕事には使えない。本人もそれがわかっているから、いくら発言は強気でも、心も内臓もボロボロ。こっちが仕事で結果を出して見せつければ、そいつは内側から潰れる。

        /人間には自分で善悪を知る本能がある。なにかまずくなりそうなことをしそうになると、心の奥底から、やめておけ、と、なにものかの声が聞こえてくるのだ。/


 たとえば、子供のころの夏休み、アイスクリームは一日ひとつだけ。そして、昼食の後に、もう今日の分は食べてしまった。午後、遊びに出て、汗びっしょりで帰ってくると、家には誰にもいない。買物かなぁ。そう思いながら、なんとなく冷蔵庫を開けてみる。明日の分のアイスが入っている。あ、おいしそう。食べちゃおうかな。すると、どこかから声が聞こえてくる。食べちゃダメ、それは明日の。おなかをこわすよ、と。

 見渡しても、やはりだれもいない。そう、その声は、自分自身の心の奥底から聞こえてくるものだ。ソークラテースは、これを「ダイモニオンの声」と呼んだ。古典ギリシア語で、神霊的なもの、という意味だ。キリスト教では、なぜか突然、私利私欲が消え、善いことをしたくなる瞬間を、「聖霊が降りてきた」と言う。また、中国の陽明学では、それは「良知」と呼ばれる。現代では、欲望に対抗するものとしての「理性」や「良心」と言った方がわかりやすいかもしれない。

 動物はともかく、人間には、すべて生まれながらに、こういう不思議な機能が備わっている。善悪など、人に言われるまでもなく、じつは自分でよくわかっているのだ。それをあれこれの理屈をつけてごまかす。つまり、理屈の方こそが、すべて自分自身をだますためのウソ。だから、ちょっとでも気を抜くと、ダイモニオンが顔を出す。たとえば、トイレに座ったとき、フロでため息をついたとき、布団に入って電気を消したとき。やっぱり、こんなやりかたじゃ、いけないよなぁ、なんとかしなきゃ、というように。

 しかし、ハイデッガーに言わせれば、人は、ダイモニオンが恐くて逃げる。なにも決断しない曖昧。まだ決めてません、いま考えています、もうわかりません。これなら、なんの責任もとらなくていい。そして、自分と関係のないことへの好奇。いらないものを集めてみたり、どうでもいいことに詳しくなったり。だが、絶対に自分自身には関心を持たない。だから、身だしなみはだらしなくなる。そして、ひとりではいられず、似たような仲間を見つけ、ゴルフだの、アニメだの、芸能人だの、延々と中身のない空談にふける。そして、ダイモニオンから逃れる、もっとてっとり早い古典的な方法は、パスカルの言うように、賭事に熱中し、酒を飲んで酔いつぶれて寝てしまうことだろう。

 とはいえ、ダイモニオンから逃げたところで、ダイモニオンを呼び起こした問題そのものが消え去るわけではない。それどころか、痛みを抑えただけの虫歯のように、問題から目を背け、ダイモニオンの声を無視している間に、事態はさらにのっぴきならないところへ突き進んでいく。そのうえ、どうにも助からないところまで深みにはまってしまっている上司や同僚が、まるで船幽霊ように、あなたの足をつかんで離さず、むしろ海の底までいっしょに引きずり込もうとする。

  返せそうもない借金、ヤクザとの接点、データの改竄、確認なしの見切発売、伝染病の疑い。ほんとうはだれも、そのとき、これはいつかきっとまずいことになる、と、心の中でダイモニオンの声が聞こえたはずだ。なぜ、そのとき、その声に従わなかったのか。気づいたときに引き返せば、ただの失敗で済む。だが、その一線を越えれば、確信犯となり、隠蔽の罪までまとわりつく。

 ダイモニオンは、あなたの敵ではない。むしろ、あなたを守るものだ。それは、あなたの安全装置だ。それを自分で解除してしまったりすることがあってはならない。

        /知恵は沈黙にこそ宿る。ちょっと思いついたくらいで、すぐにぺらぺらと人しゃべりたがる程度のやつに、軍師論客など務まるわけがない。/


 自分もかつてテレビ番組でそういう連中を世に売り出してきた側だから、あまり大きな声で言えた義理ではないのだが、『三国志』や『風林火山』の影響なのか、近ごろ、勘違いしているやつが多すぎる。ちょっと思いついたくらいで、すぐ人にしゃべりたがるようなやつは、みな下っ端だ。

 だいいち、そこらの民間会社をドロップアウトした人物が、熾烈な内部対立をくぐり抜け、官僚機構や大企業グループのトップまで登り詰めた連中に助言できる、などとと思うこと自体、世間知らずにも程がある。自分が知恵を授けてやる、と言えば、彼らは、ほうほう、なるほど、と、聞いてくれるかもしれない。だが、そんなことは、たいてい連中は百も承知なのだ。目配りしている領域が桁違いに広い。内部の極秘情報もある。より大きな事情を鑑みて、知っていても、やらない、言わないだけだ。

 しかし、現にコンサルタントという仕事もあるではないか、というかもしれない。これも、その本分は、知恵を出すより、手足を動かす、汚れ役、嫌われ役のエイジェント。トップが本音で思っていることを察し、代わって大げさにアドバルーンを上げてやる。たとえば、リストラ。外部のプロのコンサルタントの客観的な判断となれば、過激な内容であっても、それもやむをえないのか、という沈んだ雰囲気になる。そこへトップ本人が出てきて、より穏和な現実策に修正してやる。さすが我が御大将、絶対にその線で踏みとどまらねば、と、求心力が生まれる。もっとも、最初からすべて出来試合なのだが。

 弁護士もそうだ。ペラペラと自慢げに知識を振りかざすのは、メッキ輝くイソ弁だけ。しかし、法律については、大企業ならたいていのことは法務部でもわかっている。純金の企業弁護士や銀ムケの老獪弁護士ともなれば、いきなり相手先に乗り込んで、ただの御挨拶といって、世間話をしてくる。肝心なことは、なにも言わない。これからせめぎ合うのに、手の内を見せるなど、論外だからだ。理屈で争うようでは、まだ若い。刃を抜くことなく、相手を抑え込んでこそ、法律の専門家というものだ。

 なんにしても、口が軽いやつは、人間として使いものにならない。どこぞの不慣れな政権政党の大臣たちのように、重職にありながら、組織として固まってもいないことを、人に聞かれてへらへらしゃべれば、その後、組織としての信用がどうなるかくらい、常識でわかりそうなものだろう。まして、タヌキとキツネが真剣勝負の睨み合いをやっているところで、連中が黙っているから、動こうとしないからといって、わかってないなどと思う程度の浅知恵なやつは、軍師論客以前に、箸にも棒にもひっかかっていない。

 経営で大切なのは、評論ではなく行動だ。結果だ。先に口に出せば、責任が生じ、敵にも手を知られてしまう。逆に、それについて最初からまったくなにも言及しなければ、それについての説明責任さえも生まれない。

 知恵は、沈黙にこそ宿る。黙って盤面全体を眺め、今後の展開を見通す。そこに主観的な思惑や目論見が紛れ込めば、それは自分勝手な希望的観測となって歪み、読みを誤る。まず黙るのだ。そして、相手に、状況に、語らせる。語らせれば語らせるほど、その正体が現われる。良いことも、悪いことも、あえてそのまま放置し、機が熟するのを待ち、いまここという瞬間を捉えて、一気に全軍を動かし、制圧する。この乾坤一擲(けんこんいってき)の妙を知りうる者のみが、真の軍師論客として、将への進言を許される。

        /人を老害、老害と言っているやつも、じつはすでに老害の側。その自覚すら持てないほど老いぼれては、まさに老害として疎まれるだけ。/


 マッカーサーだか、松下幸之助だかのまねをして、サミュエル・ウルマンの『青春』などという詩を掲げ、仕事に張り切る老人ほど、周囲に迷惑なものはない。そんなものを好む時点で、すでに老いぼれているのだ。

 能の創始者として有名な世阿弥は『花伝書』に言う、老人を演じるなら、若作りをせよ、と。というのも、若者はけっして若者ぶったりしない。若者ぶるのが老人の特徴だからだ。武士道を説く『葉隠』もまた、こう書いている。酔ったことがわからぬほど酔った酔っぱらいより、老いたことがわからぬほど老いた老いぼれは、ほんとうに始末に悪い、と。また、フランスの思想家パスカルも、老いてまだ新しいことを学ぶなどと言っている者は、まず自分がすでに片足を墓場につっこんでいることから学ぶがよい、と言う。

 だいいち、一分一秒でも早く目的地に着こうと、いつもどこでも大騒ぎしていたのは、いったい、どこのだれだったのか。なぜ人生もゴール目前になって、振り出しの方に戻りたがるのか。世界の歴史を顧みても、新しいことは、新しい世代が始めるものだ。老人がなにか新しいことを始めて、うまくいったためしなど無い。いくら気持が若くても、気力が続かぬ。それで、自分では手足を動かさず、ウソ八百で子分を集め、口先だけで人を動かそうとする。だが、生きて自分で先のことに責任を取るのではない人物になど、周囲はおつきあいでしか従いはしない。長年この世にあって、そんな人生の限界、人間の機微もわからぬようでは、よほど役立たずの老いぼれだ。

 幕末の志士を気取るヒマがあったら、次の時代の幕開けのために、まず自分が、勝海舟や小栗上野介のように、後腐れのない幕引きを努めるくらいの知恵はないものだろうか。とはいえ、新しいことに手を出すより、みごとに殿軍(しんがり)を務めることの方が、はるかに難しいのだ。新しいことは、始める気になれば、なんでも始められる。うまくいくか、どうかは、また別のことだ。にもかかわらず、世間は、とりあえず新たな挑戦として誉めそやしてくれる。なるほど、それなら簡単で、気分もよかろう。一方、後始末は、掃除のようなものだ。やって当然。だが、だれもやりたがりはしない。それどころか、片付けの邪魔をするやからだらけ。そのうえ、古老たちから、腰抜けの裏切り者よ、と逆恨みされる。こんな割に合わぬ仕事を、若い次の世代に押しつけるのは忍びない、とは、思わないのだろうか。まあ、思わないから、まさに老害なのだが。

 人の中には生まれてすぐ死ぬ者もある。いや、生まれずして死ぬ者さえある。それを思えば、人生も半ばまで無事に生きれば、それだけで運が良かったと喜び、あとは余禄と割り切って、いままでの恩返しに努めるのが、人の道というものだ。自分がいなければ世界が滅びるかのように思うのは、大きな間違い。遅かれ、早かれ、誰もがこの世の舞台から退場する。ここでは、いかに長く留まっていたか、ではなく、いかにみごとにその役を務め切ったか、こそが問われる。

 などと言っても、老害は、老害の自覚が無いのだから、自分のこととは思うまい。かといって、人が諭せば、逆鱗に触れ、返り討ちにあう。そうそう、と、そこでうなずいているあなた。四十も越えたら、みんなもう折り返しの墓場側だぞ。新しいことは、もう無理だ。せめて老害と疎まれないよう、より若い者たちのために、彼らに道を開く、幕引き、露払いとしての自分の務めを果たそう。

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