純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

/大学の単位は、どこでも、文科省の2/3ルールが徹底されている。半期10回以上の出席が無い、自分で受講放棄した者は、「不合格」以前の「評点対象外」。後から泣きつこうと、成績の付けようがない。にもかかわらず、むちゃな単位要求をすると、その記録がすべて残り、本人はもちろん親まで破滅しかねない。これから学生になる諸君は、初回から試験まで、出席だけはきちんと整えておこう。/


 この業界にいると、例年、この時期、いろいろなウワサがあちこちの大学から聞こえてくる。そのひとつが、土下座卒業。教授に泣きついて無理やり単位をもらって卒業した、とかいう話。


 たいてい語学や教養の単位だ。ふつうは1、2年のうちに取っているべき話なのに、4年にもなってまだ取り残していて、そのくせ、自分ではかってに「卒業見込」と決め込んで就職活動。めでたく内定もいただき、とっととアパートも引き払って、新居への引っ越しを終え、海外へ友達(彼氏彼女?)と卒業旅行。ところが、帰国すると、大学から留年通知。それであわてて親まで出てきて、むちゃくちゃな強訴をやらかす。自分の側の既成事実を言い立てて、いまさら、その責任を取れるのか、とかいう、どこかの学校創設申請者と同じ論法。


 土下座でもなんでもするから、お許しを、などと、言われても、そもそも語学や教養なんて、いまどきたいてい選択だから、ほかの科目で単位を取れば足りるので、最初に登録しても途中で放り出す学生は珍しくもない。だから、受講放棄を謝られる筋合いではないし、謝ったからといって、事実として受講していない以上、では単位をあげよう、などとはならない。


 昔からどこの大学でも2/3ルールというのが学則で決められていて、これが2006年の文科省の通達で、あらてめて厳守徹底された。半期15回の講義のうち、10回以上の出席が無い者は、「不合格」以前の「評点対象外」。つまり、講義登録自体に「Z」が付いて、点数は空欄。ここに「Z」がついている以上、後から点数を水増するとかしないとかの話ではない。大学によっては、4年生の「不合格」には「再試験」の救済制度があるところもあるが、それは、あくまで点数不足の「不合格」だけが対象。出席不足の「評点対象外」は、本人の受講放棄であって、「不合格」ですらないので、再試験も対象外。


 しかし、学生は、就職活動をしていたのだから出席扱いに、とか言い出す。企業が出す書類は、せいぜい「事由証明」であって、それがむしろ講義の欠席を証明してしまっている以上、それで講義を出席扱いになどできるわけがない。カゼやケガの「診断書」を持って来ても、これも学校保健安全法に規定されている「学校感染症」(結核など)でないと無意味。その学校感染症であっても、病欠が出席になるわけではなく、総講義数の方を減らして2/3ルールを適用するので、かえって出席数の縛りが厳しくなる。出席なんて、物理的な事実問題であって、同じ教室にいた他の学生たちも知っている。その事実を教員が温情で恣意的に改竄したりすれば、封筒だ、マクラだ、などと、教員の方があらぬ疑いを掛けられるだけ。とりあうバカは、いない。


 それでも、親が大学に乗り込んできて強訴、なんていう話も聞く。遠路はるばる出てきたのだから、とか、わけのわからない理由で、どうか、よしなに、とか。これが通らないと、逆ギレ。大学を信頼してきたのに、とか、大学は学生の人生を破滅させるのか、とか。さらには、訴えてやる、マスコミに言いふらしてやる、そして、最後は、本人から家族まで、死ぬ、死ぬ、死んだら大学のせいだ、と暴れ騒ぐ。まるでヤクザ。


 ところが、大学によっては、専門課程の主任だの、学部長だの、もっと偉い人まで出てきて、まあ、そこはなんとか、ねぇ、きみ、とか言い出すのだとか。とくに体育会の学生は、ヤクザそのもののOBまで顔を出し、夜道には気をつけろよ、というような話になることも。こうなると、教員の方が精神的に追い詰められ、「私が間違えました、ごめんなさい」というような顛末書、さらには学生や親に対する詫び状まで書かされて、成績修正。もちろん、発覚したときには、教員一人が尻尾切りだろうが。


 とはいえ、昔とは時代が違う。組織では、書類はすべてコピーを取るし、メールなどの電子データも残こす。大学でも、教員でも、一般企業同様、いまどき録音録画もせずに、きわどい話に関わったりしない。密室でごちゃごちゃやっても、後でかならず表沙汰になる。出席をごまかし、単位をもらって、不正に「卒業」したことだけでなく、そのごまかしをするためにやらかした強引なことも、ぜんぶ出てくる。昇進だ、結婚だ、というときに、そんな話がどこかからぶりかえせば、文字通り、本人は、人生、おしまい。むちゃをした親も職を失う。兄弟姉妹まで経歴に疑いをかけられる。


 これから、学生になる諸君。愚かなユトリ先輩たちの轍を踏まぬよう、なにはどうあれ、講義の出席だけは、初回から試験まで、まじめにきちんと整えておこう。ムリをすれば、そのしっぺ返しの方が大きいことくらい、学生としてよく理解し、誠実正直が一番と心得ておこう。土下座卒業など、頭のぬるい学生たちの間だけの、ただの伝説。そんなものは無い。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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/産業革命は、実際に機械を作るために必要な規格品互換ネジが大量生産されてこそ始まった。それで、ネジは「産業の塩」と呼ばれるが、長年の惰性や、材質の勉強不足、製造や修理の途中の工程に対する理解不足で、いま、かえってトラブルの元凶となってしまっている。/


産業革命を実現したのは、水力でも、蒸気でもない。ネジだ。機械は、頭の中でなら、なんとでもできる。だが、実際にそれを作るには、部品と部品をつなぐネジが不可欠。1800年、ロンドンの機械職人モーズリーがネジ切り旋盤を開発。これによって、互換性のある規格品としてのボルトとナットが大量生産され、こうして、実際にさまざまな機械が組み立てられるようになって、現実の産業革命を引き起こすことができた。


 車一台二万本。トースターやパソコンから橋梁、原発まで、ネジだらけ。ネジがなければ、始まらない。それで、ネジは「産業の塩」と呼ばれる。しかし、あまりに当たり前になっていて、ムダ遣い、デタラメ遣いも多い。


 まず、ほんとうにそのネジは必要か? 1本を締めるのに、ネジを取って、ネジ穴か、ドライバーの先端につけ、これを適切なところまで、適切なトルク(強さ)で、締め上げなけばならない。手間は、コストだ。フレームの片側を引っかけにすれば、ネジは反対側だけで済む。これで、手間は減るし、強度も上がる。


 つぎに、ほんとうにそのネジは適切か? たとえば、2つハンドルの洗面蛇口。樹脂のハンドルは、スピンドルの溝にはまっている。そして、そのハンドルをスピンドルに取り付けしているネジ。ハンドルを上に引き抜く力がかかることは、まずありえない。にもかかわらず、このネジの長さが、ムダに24ミリもあるのだ。図面を書いたやつがバカで、現場のことをなにも考えていなかったとしか思えない。ムダに長ければ、締めるのも、緩めるのも、ムダに手間がかかる。おまけに、折れたり、固着したり、トラブルの元凶。


 そして、ほんとうにそのネジで大丈夫か? 最近、うちの木のイスのネジが折れた。折れた頭を抜くのに、ものすごい手間がかかった。材質は、なんとステンレス。これも、企画したやつがバカ。ステンレスは、たしかに直接には鉄より固いが、粘りがない、膨張する、ウケと材質が違うと、ステンレスでもネジは意外に半端に錆びて自滅的に折れる、等の問題もある。どうしてもぐらつきをくらわざるをえないイスなら、素朴な鉄ネジの方が始末がよかったはず。だから、強度と耐久性とのかねあいで、木工や住宅などでは、あえて表面が錆びる鉄釘を使うことも多い。


 2012年の笹子トンネル天井板落下事故も、1本だけのボルトを真上向きに接着剤で止めてあるだけ、などという杜撰な設計ミスが最大の原因。現場では、こんなんでいいのか、と思っても、図面通りにやるのが仕事。本社に余計なことを言ういとまも無い。だが、設計の方にしても、長年の惰性で、昔からの規格がなんとなく引き継がれていたり、材質の勉強不足のままにデタラメな図面を起こしたり、実際の製造や修理の途中の工程を考えずに、出来上がりだけが立派な絵図を引いたり。


 組織としても、設計と現場を繋ぐ「ネジ」が劣化している。製造や修理の現場からのフィードバックをきちんとすれば、根本から設計思想を改善できるものは、我々の身近にかなり多い。サービスやコミュニケーションでも同様。ネジを、書類や連絡、会議に置き換えてみれば、よくわかる。いまだに紙で会議書類をプリントアウトして綴じて配って回収したり、緊急の伝言メモを帰社して机につくまで読めなかったり、わけのわからない掛け声だけでデタラメの決算書類を大量に捏ち上げていたり。


 その書類、その連絡、その会議、ほんとうに必要? ほんとうに適切? ほんとうに大丈夫? 産業革命から二百年。ネジも、組織も、劣化してきている。とくに日本は、惰性がひどい。天井板が落ちてくる前に、ネジを見直し、締め直そう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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/アスペルガー症候群は、専門的には、もはや疾病学的妥当性が疑われている。にもかかわらず、ドシロウトがそんなもっともらしいレッテルを持ち出してきて、自分たちに同調しない連中を排除しようとする方が、精神的な問題を伺わせる。しかし、良い大学に行けば、「みにくいアヒルの子」の話と同じように、ほんとうの仲間に出会うことができる。/


 大学はいいぞ。良い大学にいけば、ようやくそこにほんとうの仲間がいる。バカな連中とバカな遊びにヘラヘラとつきあわなくてもよくなる。自分がおもしろいと思っていたことを、いっしょに語り合い、分かち合える友達がいる。童話の「みにくいアヒルの子」と同じ。だから、もうひとがんばり、絶対に自分に合った良い大学に進むべきだ。


 それを、昨今、嫉妬なんだか、羨望なんだか、頭が良くて、つきあいが悪い、というだけで、「アスペ」だなんだとうるさいやつらがいる。だが、ドシロウトのくせに、特定の人々に「アスペ」などというもっともらしい医学用語を濫用してレッテル貼りをし、「異常者」として排除したがる者の方が、むしろ自己形成不全の重大な人格障害の病的気質があるのではないか。


 「アスペルガー症候群」というのは、ウィーン大学病院の小児科医ハンス・アスペルガーが1938年以前から取り組んでいた4人の児童の症例研究に因むもので、彼が着目したのは、高度知性、共感欠如、友情不能、身振や言語の障害、特定関心の熱中、運動障害、自己中心性、感情的な不調・不安・無関心であり、彼自身はこれを「自閉的精神病質」と呼んでいる。とはいえ、当時、まだ「自閉症」の独自概念が確立されておらず、それは外的刺激に反応を欠く「統合失調」の結果と見なされていた。


 だが、最新のWHOのICD-10(疾病国際統計分類第10版)では、F84.5で、「アスペルガー症候群」は、そもそも、疾病学的妥当性が不確かな「病気」、つまり、それが病気なのかどうかもはや怪しい、とされている。これまで、自閉症を特徴付ける相互社会関係の質的異常で、関心と行動のレパートリーが制約的で固定的、反復的、だが、自閉症と違って言語や認識の発達に遅れが無い、とされてきたが、アスペが例外である以前に、自閉症は一般に知性が低い、という決めつけの方が、検査方法論として大きく疑われている。口がきけない者は、視力検査にうまく答えられないが、だからといって、目が見えていないとはかぎらないのと同じ。このため、同様に、米国精神医学会のDSM-5development(精神障害の診断と統計のマニュアル第5版改訂作業)においても、299.80の「アスペルガー障害」は、独立の病名ではなく、もはや自閉的障害の下位に位置づけることが提案されている。


 つまり、「アスペルガー症候群」なる病名は、昨今、やたら通俗的に濫用されているものの、専門的には先天器質性の自閉症の一種の様態としてかなり限定して考えるべきものだ、ということ。東大に来る連中のなかには、たしかに狭義の自閉症や多動症などもいないではないが、その大半はむしろ幼少から幸運な文化環境に恵まれ、そのおもしろさを知ってしまい、ひたすら努力で自分を磨いて上ってきた連中。「発達障害」どころか、むだに「発達」しすぎて、あっち側まで行ってしまった、という方が的を射ているだろう。(「発達障害」というのは、もとより、低年齢に症状が発現する、というだけのことで、発達過程に障害がある、という意味ではない。)


 たしかに頭が良い連中ほど、世間のつきあいが悪い。だが、それは、連中は、ふつうの人にはわからない複雑で高度な文化領域に楽しみを持っており、そっちの方がおもしろいのだから、世間の安っぽい話になど、はなから関心が無いからだ。つまり、つきあいが悪い、関心が無いのは、そういう安っぽい話しかしない世間に対してだからこそであって、相応の文化領域を共有できるそれなりの相手であれば、昵懇に語り合うこともあるもの。ただ、その文化領域に至るには、相応の精神的な努力が必要で、そういう努力もしない、する気も無い連中に、そのおもしろさを語っても仕方が無い。だから、ハブっているだけ。


 ようするに、「気違い」というのは、たんに「気」が違う、世界が違う。しかし、違う、というのは、お互いさま。どっちが正しいか、なんて、どっちにも決められまい。自分たちの方の気に合わせろ、おれたちの空気を読んで溶け込め、という「ピアプレッシャー(同調圧力)」が、自分たちとは異質の「気」を持つ者を「気違い」とし、それに応じない者を「狂人」として排除する。それでわざわざ排除されるのも面倒くさいから、少数派は自分から先に「風狂」として世捨て人になって俗世を離れて静かに暮らしているんで、大学はそういうところ。それをまた「アスペ」だなんだと引き戻されても、迷惑なだけ。


 きょうび、器質性の自閉症ですら、幅の大きな「スペクトラム」として理解され、たんなる社会適応の問題として、むりやり一般の人々と同じくらい「鈍感」にする「治療」よりも、過敏でも無理なく不安なく暮らして、そのままの自分を生かせる生活の環境と条件の整備の方に重点が置かれている。ごちゃごちゃがちゃがちゃした生活に向いていて、そういうのが好きで得意な人がいるのと同じように、そういうのがイヤ、大嫌い、という人だっている、というだけのこと。酒が苦手、というのと大差無い。下戸に無理強いして酒を飲ませようとするやつが、対人認識と関係構築に大きな病的欠陥のある加虐志向の社会的人格異常者であるように、なんでもかんでも自分と同じでないと気が済まない方が、精神的にどうかしている。


 その意味では、なにより現代のマスコミがいちばん自己中心的で「狂って」いる。人に安酒の一気飲みを強要するタチの悪い酔っ払いのようだ。ヒラリーを応援し、トランプをちゃかし、神ってる広島の勝敗に一喜一憂、ポケモンGoを初日にダウンロードして、『君の名は。』に涙しながら、パイナポー、う、あぁ、とマネしつつ、両手の指を立てて恋いダンスを踊っていないと、それは社会的協調性に欠けるアスペの「精神異常者」だと。日々垂れ流しのくっだらない話題をへらへらと追っていないと、もう「気違い」扱い。ちょっとつきあいを断っただけで、完全に「病気」。


それなら、まあ、「病欠」ということで、よしなに、なんて、言ってられるのが、大学。いいぞ、大学は。良い大学に入ってさえしまえば、あとは「変人」の「気違い」ということで、どうでもいい多くの世間のつきあいの面倒から免れ、信頼できるほんとうの友人たちにだけ心を開いて、親しく過ごすことができるようになる。さあ、もうひとがんばりだ。春には、ほんとうの友人たちが待っている大学に行こう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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/クリスマスは、イエスさまの誕生日。世界中の子どもたちも、きょう、みな祝福される。そして、天国に生まれ暮らす子どもたちも。/

 あなた、そろそろ予約、取りに行かないと。ああ、三時か。先払いしてあるんだっけ? ええ、先週。どうだった、店長? どうだったって? いや、元気かな、と思ってね、ほら、この時期になると、いろいろ思い出すだろ。あ、そうか、話してなかったかな、キヨコちゃん、店にいたわよ。え、どういうこと? さぁ。でも、とにかく店長、ニッコニコよ。へぇ、そうなの? おっきくなってたわよ。すっごくかわいくなってて。そりゃそうだろ、あれから十年だろ。そろそろ高校も卒業かな。ええ、そうね。



 こんにちわ。あ、いらしゃいませ。いらっしゃいませ。え、なに、ほんとだ、キヨコちゃん? おじさん、おばさん、お久しぶりです。わぁ、元気そうだね。ええ、お二人も。おかげさまで。それより、ねぇ、キヨコちゃん、これ、どういうことなの? いや、うちの娘、先月からこっちに帰ってきたんですよ。わたし、春から製菓学校に通うんです。お父さんの跡を継ぐの? はい。店長、よかったじゃない? いや、帰ってきただけでもびっくりなのに、はあ……。あらあら、お父さん、デレデレね。


 ずいぶん私たちも心配していたんだよ。あのとき、突然いなくなっちゃったからねぇ。……そうですよね、あんなにおじさん、おばさんには、よくしてもらっていたのに。あんな人のところに連れてかれるくらいだったら、おじさんとおばさんのところに行けばよかった……。そうだよ、うちに逃げて来ればよかったんだよ。


 だけど、キヨコちゃん、あっちはどうなの? だいじょうぶなの? あの人ですか? あいかわらずですよ。今日だって買い物。お正月はハワイですって。へぇ、いっしょに行かなくていいの? もう、イヤなんですよ。あんな風には、絶対なりたくないんです。……。あんなバブルな人生、幸せだと思います? ああ、とにかく資産家だそうだからねぇ。だけど、お金があったって、あっちの家、ほかになんにも無いんですよ。デパートで買ったとかいう高級料亭のお総菜、毎日、そんなのばっかり。お父さんが心を込めて作っているケーキのほうがずっとすてきです。おいおい、ほら、店長、もう真っ赤だよ。やめなさいよ、泣いちゃいそうでしょ。あー、奥へ隠れちゃった。


 だけど、あのときは、びっくりしたよ。クリスマスなのに店、閉めちゃって、店長、中でわんわん泣いてたんだよ。……お母さん、お店の方のおカネまで使い込んでたんでしょ。いや、そうじゃないよ、キヨコちゃんが連れて行かれた、って。……わたし、あの人に騙されたんです、お父さんが浮気した、って。子どもだって、よく考えればわかったのに。毎日、毎日、朝早くから仕込みして、ケーキを作って並べて自分で売って、余計なことなんかしているヒマ、あるわけないのに。ほんとは浮気したの、お母さんの方だったんでしょ? それでお店のおカネまで持ち出して、開き直って、逆にお父さんのこと、怒鳴り散らしたんでしょ。それくらい、もうわたしだってわかりますよ。


 ……とにかくよかった、キヨコちゃんが帰ってきて。ほんと、すみません、ずっと御連絡もできずに。高校は? もうすこしだから、こっちから通うことにしました。じゃ、これからずっとここにいられるんだ。ええ、お父さんの店でさっそく修業です。そうか、じゃ、おじさんたち、毎日、様子を見に来ちゃうよ。はい、お待ちしていまーす。


 キヨコちゃんも、よかったら、また前みたいにうちにも遊びに来てね、すぐ近くなんだから。ええ、ぜひ。昔、キヨコちゃんがうちで遊んでいたオモチャなんかも、ぜんぶ取ってあるのよ。えー、そうなんですか? なんだかいつもおじさんおばさんのところにおじゃましてばかりいましたもんね。お父さんは毎日、お店が忙しかったし、あの人はいつもどこか遊びに行って留守ばっかりだったから。いや、いいんだよ、ほら、うちはずっと夫婦二人っきりだから、キヨコちゃんがくるとにぎやかになって、ほんと楽しいんだ。ええ、そうなの、だから、キヨコちゃん、また来てね。いや、ほんと、キヨコちゃんが帰ってきてくれて、うれしいよ。なによ、あなた、真っ赤になって泣きそうじゃない? こ、こら、からかうなよ……。



 きよこ、これを。あ、はい。ご予約のケーキ、これですよね。そう、これ。えーと、ロウソクは? いや、きよこ、いいんだ。え? ええ、いらないのよ、キヨコちゃん。でも、小さいのだったら、サービスで何本でもおつけしますよ。ほら、ほかにも、この季節、こんなかわいいサンタのロウソクとか、ツリーのロウソクとかもあるんです。きよこ、早く手提げに入れて、山村さんちはロウソクはいらないんだ。 ? ……ええ、うちは、毎年、いらないのよ、クリスマスケーキじゃないから。 ??? きよこ、もうやめなさい! ……あのね、一歳にもならなかったからよ。えっ? あいつ、生まれる前に死んだんだ、死産だったんだよ。……ご、ごめんなさい、わたし、すみません……


 気にしないで、あの子、天国に行くのがちょっと早すぎただけだから。ああ、でも、なにも天国に直行しなくたってよかったのになぁ。ええ、それもなにもこんな日にね……。ちゃんとこっちの世界にも立ち寄ってくれていたら、キヨコちゃんと同級生だったはずなんだけどなぁ。……そうだったんですか。


 きよこ! 店長、いいじゃない、キヨコちゃん、知らなかったんだから。まあ、うちに遊びに来てくれていたころには、キヨコちゃんもまだ小さくて、話すのはどうかと思ったけれど、ほんと、あのころのキヨコちゃんは、じつの娘のようにかわいくて、かわいくてなぁ。あら、いまだって、キヨコちゃん、かわいいじゃない? ああ、じつの娘が帰ってきてくれたようにうれしいよ。あなた、泣いちゃダメよ。


 ……なんていう名前だったんですか? え、あの子か、……ほしこ、だ。……あのとき、そんな名前しか思いつかなかったんだよ。そう、ほしこ。きょうは、あの子が星になった誕生日。……じゃあ、たぶん、きっと天国の方で元気にやっていますよ。……ええ、そうね、きっと。ああ、そうだね。


 あの……、きょう、店が終わったら、ちょっと遅くなるかもしれないけれど、遊びに行ってもいいですか。うちに、キヨコちゃんが来てくれる? そりゃ、大歓迎だよ。だけど、ここ数日、疲れているだろうし、お父さんだって……。ね、お父さん、いっしょに行きましょ。え? あ、うん、でも、ほんとにいいんですか? そうそう、店長もいっしょにぜひ。そうだよ、前から誘おうと思っていたんだ。私たち夫婦だけじゃ、毎年、料理も余ってしまうし、なんだかしんみりしてしまうからねぇ。


 それと、あと、やっぱりケーキにロウソク、つけませんか? 18本、ほしこちゃんのために。……そうか、天国で18歳か。ええ、そういうことになるわね。……じゃあ、キヨコちゃん、代理で吹き消すのやってくれる? いいですよ、そのかわり、その前に、みんなでハッピーバースデーも歌ってくださいね。え? クリスマスにかい? あなた、いいじゃないの、クリスマスって、もともとイエスさまの誕生日なんでしょ。ああ、そうだったね。


去年のクリスマスのお話 「クリスマスの夜、サービスエリアで」

2014年のクリスマスのお話 「なぜサンタは太っているのか」

2013年のクリスマスのお話 「最後のクリスマスプレゼント」

2012年のクリスマスのお話 「サンタはきっとどこかにいると思うんだ」


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/人権は、『世界人権宣言』で決議された達成すべき努力目標。しかし、権利は国や他人の義務によってしか実現しない。おまけに、人権論の根底には、市民権論、実定法論、自然権論の違いがあり、くわえて、現代社会はもはや自由や平等の調整の余地を失ってしまっており、簡単な問題ではない。/


 人権週間だ。だが、人権って? 人それぞれ、なんて、もっともらしいことを言って茶を濁す? 答えは『世界人権宣言』として、1948年12月10日に国連で決議されている。それにちなみ、毎年12月10日が「世界人権デー」。そして、この宣言、全30条に書かれているものが「人権」。とはいえ、わりとぐちゃぐちゃな構成で、反差別と生命の安全に始まり、奴隷・残虐・無法・干渉の禁止、所有・信仰・表現・交流・結社・選職・移動移住・結婚家族の自由、保護・教育を求める権利など。休息する自由、なんていうのもある。さらには、参政権や著作権も含む。一言(二言?)でいうと、第一条に記されている「自由と平等」。フリーメイソンの三信条から「博愛」が落ちたもの。それが「人権」。


 てなことを言ったって、世界を見てのとおり、そんなのがうまく実現できているわけじゃない。あくまでも達成すべき努力目標。なんで簡単に実現できないのか、というと、これが人権、つまり権利だから。権利や義務というのは、モノではなく社会的な規範で、それも権利は、本人の側に本質が無い。国や他人が義務を果たすことによってのみ、権利は外側から実現する。つまり、もともと本人自身でどうこうできるものではない。しかし、国や他人は、わざわざ進んで義務を負って、他人の権利を実現してやろう、なんて、面倒くさいことをしたがらない。それどころか、したくない動機ばかりが大いにある。


 人権は、米国独立戦争においてすでにいわゆる「人権宣言」(1776)としてすでに表明されているが、その後のフランス革命とナポレオン戦争で、各国各地のメイソンリー諸団体同士がぐちゃぐちゃにあい争って、逆に王政復古。それが1830年代にようやく再結成してきて、人権が現代社会の理想目標として掲げられることになる。


 この人権、歴史的には、三つの理論で進展してきた。第一は、市民権。国や他人から人権を与えてもらいたいならば、まず自分が国や他人に兵役や納税などで参加協力しないといけない、というもの。つまり、双方向義務だ。親が義務を果たしていれば、子は最初から自動的に自由で平等な人権が与えられるが、それでも、古代ローマから現代合衆国まで、その義務はかなり重く、あえて離脱したい、という人もいる。この理論の特徴は、自分が義務を果たさないと、人権も失う、ということ。反逆者や犯罪者に人権なんか無い、死刑、それどころか、即時射殺も当然だ、という考えは、この発想。そうでなくても、市民権を持つ者と持たない移民、市民権を苦労して新規に得たにしても劣等市民扱い、と、この発想は、かえって差別の温床になってしまっている。


 第二は、実定法。『マグナカルタ』(1215)、『権利の章典』(1688)、さらには『ナポレオン法典』(1804)などの刑法や民法、訴訟法、徴税法の体系。これは、国や他人の好き勝手な自由を法律で制限することによって、実質的に人権の余地を開けるもの。言わば、外堀を固めて、中に自由と平等を確保する。たとえば、人を殺したり、傷つけたりしてはいけない、と法律が国や他人に義務づけることによって、実質的に生命の安全が守られている。しかし、これは、もとよりむしろ国や他人の自由を制限するもので、そのせいで、実定法化されていない、罰則の無いことなら、どんなズルいこと、どんなをヒドいことをやっても自由にいいんだ、などとと考える連中を多く生み出してしまう。


 第三は、自然法。引力万有のごとく、すべての人間は生まれながらに天賦の人権を持つ、という考え。最初のホッブズ(1651)は、万人が自分の人権を主張すると、万人の万人に対する闘争に陥ってしまう、とし、それゆえ、各自が自分の人権の一部を抑制割譲して、社会理性(均衡配慮)としての国を社会契約として作った、とする。この発想では、国は闘争の防止解決のみを消極的に委託されているにすぎなかった。ところが、その後、人権の実現拡大という積極的な役割まで国に期待する人々も出て来て、パレート最適化(再配分によって既得権者を不利益にせず、別の者の利益を捻出する)、さらには自然の不自由や不平等の解消さえも求めるようになり、どんどんと自由を制限する実定法を増やそうとする。このため、同じ自然法人権論の中でも、小さな政府による自由主義、と、大きな政府による平等主義、が争うことに。


 現代の人権問題の困難は、ひとつには、第一の双方向義務の市民権人権論と第三の一方的要求の自然法人権論が原理的に真逆で相容れないこと。たとえば、大量殺戮兵器を準備しようとするテロリストなどのように、他人の生命の権利まで侵害しようとしているやつは、第一の市民権人権論からすれば、保護の対象ではなく、むしろ「人権の敵」として国や市民を挙げて抹殺すべき対象、ということになる。が、自然法人権論からすれば、テロリストであろうと人間であり、確たる犯罪の実行、準備の証拠も無しに、また、しかるべき公判手続も無しに、容疑のみで殺すことは許されない。


 もうひとつには、不自由や不平等は人権侵害のせいとは限らない、ということ。身体の障害、病災害など、運の不平等。いくら実定法で国や他人による人権侵害を抑制しても、この問題は解決しない。しかし、市民権人権論に基づくせよ、自然法人権論に基づくせよ、国や他人は、自分たちのせいでもないのに、これを平均水準まで補填してやらないといけない義務を負うのか。しかし、たとえば、平均以下ながら自力で苦労して生活を成り立たせている人々からも税金を取り立て、無力な人々の生活を平均まで生活保護で引き上げてやるのは、公正か。国庫は無尽蔵の財布ではなく、だれかの生活向上は、ほとんどの場合、だれかの負担増によって賄われている。これは、むしろ国を介した人権侵害ではないのか。そんなことまで政府に委任した覚えは無い、と、今日、米国のティーパーティを初めとして、同じ自然法人権派から、人権を口実にむやみになんにでも介入してくる国にノーを言う動きが出て来ている。


 さらにまた、個人のレベルでも、近年、実定法人権論をはるかに越えて、自然法人権論が爆発的に肥大し、あちこちで摩擦を生じている。たとえば、まずい店の口コミは名誉毀損か。ブサキモに酌をしないのは人種差別か。まずいものはまずい、いやなやつはいや。そんな表現の自由、心情の自由にまで、人権を理由に人権侵害されないといけないのか。どちらの側もとりあえず、人権問題だ、と大声で喚き散らせば、相手がひるむ。それに付け込んで、他人の人権を踏みにじってでも自分の好き勝手を拡大するのは、まさに万人の万人に対する闘争。


 人権を大切にしよう。それはそうだ。しかし、そんなきれいごとを口先で唱えるだけで、やり過ごせるほど簡単な問題ではない。これだけ世界が狭くなり、あちこち人間が接しあって暮らしている以上、自由だ、平等だ、と言っても、調整できる余地は、ほとんど残されていない。だれがか動けば、だれかを傷つけてしまう。だが、自分だって傷つけられたままでいたくないから、アクションを起こし、それがまた別の人権問題を引き起こす。殺生して肉を食べているように、それどころか空気を吸うように、我々は、日頃、あらゆることでなんらかの人権侵害をやらかしてしまっていると思った方がいい。他人の自由と平等のための余地をより広く空けてあげられるように、せめてむだに他人の人権を侵害していたりすることがないように、この一週間、身の回り、毎日のことを見直してみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/すべては就職のため。企業に評価されそうな科目を取って、縁故ができそうな課外活動をして、四年間という時間、高額の学費と生活費を無駄にしないように。大学の自由は、むしろ、自己責任で、自分の将来の夢と生活に向けて最善の選択をしなければならない、という義務だ。/


 大学に何しに行くの? 学問を究めるため、なんていうのは変わり者。ふつうは、卒業後に就職して、喰いっぱぐれないように、でしょ。高い学費も、生活費の仕送りも、すべて、そのための先行投資でしょ。


 大学になると、自分で講義を選択する。で、なんで最初から楽勝科目ばっか狙ってるのよ。そりゃ、もちろん単位を落としてしまったんじゃ話にならない。でも、いくら単位を取っても、卒業しただけ、っていうんじゃ、どうしようもないんじゃない? 大学の成績表って、企業に行くんだぜ。それも、就活が3年の終わりからとなると、まだ3年の成績は出揃っていないから、むしろ1,2年の一般教養の成績こそが問われる。そこで、そんな妙な科目ばかり取っていて、それで企業が君を取ってくれるか? それじゃ、喰いっぱぐれるよ。


 なんかよくわからない新書みたいなカタカナ名前の講義ばっかり取って、それが、優、だったって、なんだかなぁ、と思われるだけ。たとえば、同じ一般教養でも、「リクレーション入門」と「国際経済学概論」だったら、どうよ? リクレーションなんて、わざわざ大学で高い学費払って習うことか? というのが、企業の反応。実際になにをやるかはともかく、どうせなら、昔からあるような、硬そうな講義、漢字ばかりが並んでるようなやつの方が、成績表も見栄えがいい。


 それから、社会活動家とか、政治家になるのならともかく、そうでないなら、正直なところ、ややこしそうなの、ばかりだと、ふつうの企業からは敬遠されると思う。たとえば、同じ漢字ばかりでも「人間権利論」や「組合闘争史」みたいなのだらけだと、うわぁ、すごいですね、ということになる。同様に、右でも、左でも、テレビで吠えているようなバリバリの攻撃的活動家教授に関わったりすると、別に本人はそんなつもりが無かったとしても、世間ではその一派と見なされ、就職で苦労する。


 部活やサークルも就職前提で考えるべきだ。趣味は趣味。自分がいくら熱心にまともな活動をしていたとしても、趣味のサークルなど、企業の印象は概して悪い。スポーツ愛好会なんてどこも、スーフリ同然のちゃらいヤリサーとしか思われていない。まして、パーティの箱屋稼業でカネ集めしている国際ボランティアサークルみたいなのになると、いよいよ、うさんくさい。かといって、オタクだ、コスプレだ、なんていうのも、本人たちが思っているほど、また、マスコミが持ち上げるほど、企業側も好印象などということは絶対にない。意識低い系の吹き溜まりで、同類が傷を舐めあっているだけ。


 わざわざ大学で課外活動する以上、歴史的な大学横断組織がしっかりしているところに所属し、幹事や渉外なども進んで引き受け、年配のOBやOGの社会人とも交流し、広く縁故を得る、というのが、就職の王道。野球とか、サッカーとか、ラグビーとか、一般的なチームプレイの体育会系は、たとえ弱小でも、テニスやゴルフなどより、はるかに好印象。マスコミ志望なら、最初から、放送研、広告研などに入るのが当然。工学系なら、ソーラーカーや人力飛行機、ロボコンみたいなのもいいだろう。


 アルバイトも、そうだ。報酬が目当てなら、夜の仕事の方が高いに決まっている。だが、それで学業に差し支え、留年したのでは、元も子も無い。むしろ、たとえ報酬が安くても、それどころか、ボランティアや持ち出しでも、将来の仕事につながるアルバイトをすべきだ。たとえば、ミニコミ誌でも手伝えば、出版の基礎がわかる。選挙の手伝いをして政治家を目ざすのもいい。絵本の読み聞かせのボランティアで、自治体の人とつながりを作る手もある。


 大学は、自由だ。しかし、それは同時に、自己責任、ということでもある。なんでそんな妙な科目ばかり取っちゃったの、どうしてそんな変なサークルに入っちゃったの、と、就職の面接で聞かれて、自分に恥じるところがないのなら、それもまたいい。だが、だからといって、企業もまた、自分と同じような好評価をしてくれる、などとは思わない方がいい。もちろん企業の中にも理解のある人はいる。が、仕事として面接する以上、自分の個人的な理解ではなく、社会一般の「常識」で判断する。そのとき、君がはじかれてしまうようなことを大学でやるのなら、それはそれで自己責任だ。


 大学の自由は、好き勝手に、おもしろおかしく過ごしてよい、ということではない。むしろ、自己責任で、自分の将来の夢と生活に向けて最善の選択をしなければならない、という義務だ。四年間という時間、その間の高額の学費や生活費を、けして無駄にしてはならない。なにをするにも、目先の損得、好き嫌いではなく、それで将来、大きく元が取れるか、取り返せるのか、よく考えて、慎重に一歩を踏み出そう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。

/正面二列目で待つ。姿勢よく、だれにでも笑顔で会釈。声はゆっくりしっかり、むしろ聴き役に。手帳とペンで、メモを取るふり。スマホより腕時計。ご近所でもあいさつ。そして、今日一日のことをよく書き留めておこう。いつか思い出すことが必要になる。/


 さあ始まりだ。試験のときは、あんなに気が張っていたのに、初日からもう気が重い? でも、入ったら終わり、じゃない。これからが始まりだ。もう夢じゃない。現実。だから、おそらく失望と幻滅だらけ。でも、それに文句をつけて拗ねる、なんて、幼稚なことはやってもムダ。だれも機嫌取りなんかしてくれない。もう大人なんだから、自分でどうにかしないと。


 最初でもっとも肝心なのは、朝、行って座って待つ場所。とりあえず、なんて、出入り口に近いところにいると、ずっと使いっ走りだぞ。むしろ、これからは毎日が抜き打ちの面接試験。まずは意欲を示すべく、正面二列目あたりへ。最前列だと挑戦的だと思われる。出る釘は打たれる、というのも、大人の常識。二番目あたりでちょうどいい。そこに座っていれば、ほっておいても、同じ程度に意欲をもって常識をわきまえた友人同僚ができる。恐ろしいことに、この友人や同僚こそが、これからの君の一生を決める。


 もちろん、第一印象が大切。ショーンKじゃないが、世の中、見た目が7割、声が3割。中身なんか、黙って立ってるだけなら、だれもわからないし、もともと人間、そんなに差があるものじゃない。運よく美男美女なら最高。そうでないとしても、姿勢が大切。猫背だったり、ポケットに片手を突っ込んでスマホ弄りだったり、かっこいいわけがない。まっすぐ立って、背筋を伸ばし、顔をあげ、いつでも声をかけてもらえるように、明るい笑顔で、とりあえずだれにでもニコッと会釈しておけ。どうせ右も左もわからない新人なんだから、ちょっとバカっぽいくらいでちょうどいい。


 次は、声だ。緊張して裏返ったり、早口になったりする必要はない。もう君は中に入ったのだ。余計な売り込みも不要。下手にウケを狙うと、場違いで確実に滑るぞ。それは、夜の歓迎会になってからでいい。どうせ形式だけの自己紹介なんだから、長話も迷惑。必要最小限のことを、ゆっくりしっかり語って、よろしくお願いします、と深く頭を下げるだけで十分。後は、暇を見て、向こうからいろいろ聞いてくる。そのときも、ペラペラ饒舌に話すことはない。新生活は、これからが長い。むしろ、笑顔でニコニコと、みんなの話を聴く側に回ろう。


 これまでスマホでなんでも済ましてきたかもしれないが、手帳とペンはあった方がいいぞ。会議でも打ち合わせでも、出るのに手ぶらというわけにはいくまい。よくわからなくても、ときどき話者とアイコンタクトを取って、話にうなずきながら、手帳になにか書いていれば、すごく積極的に参加しているように見える。どうせみんな、そんなものだ。腕時計も同じ。どうでもいい暇潰しでも、これまではスマホでニュースチェックだったかもしれないが、オリエントあたりのちょっと気の利いた機械式腕時計をじっと眺めている方が、どことなく忙しそうな、できるやつに見える。


 忘れていけないのが、あいさつ。どうせ誰が誰だかわからないんだから、だれにでもあいさつはしておけ。これから、いつ誰の世話になるか、わかったもんじゃない。そのとき、向こうは、けっこう君のことを覚えていたりするものだ。買い物でも、御近所でも、おはようございます、じゃ、おやすみなさい、と、一言、添えよう。なにかあったとき、ろくにあいさつもしない変な人です、となるか、とても感じのいい人ですよ、と言われるか、大きな違いだぞ。


 帰ったら、今日一日のことを、手帳かブログにでも、ちょっと長めに書いておこう。人生で一度きりの最初の日。この時の新鮮な気持を思い出す必要がある日が、いつかかならずやって来るから。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/どのみち男なんて、若いときはみんな、まだぱっとしないもの。でも、そこからが、がんばりどころ。共働きを含め、ともに支え合い、助け合って、どうにかやりくりしていってこそ。最初からなんの苦労もせずに暮らせる甘い嫁ぎ先なんて、この世の中にそうそうあるわけがない。/


 いまだに使い方がわからないくせに、SNSとやらに登録だけはしている。と、思わぬ人から連絡が来たりすることもある。ずいぶん前の教え子だ。前に仲人を頼まれた。が、断った。それから音沙汰が無かったので、ずっと心配していた。


 当時、彼には学生時代から付き合っていた彼女がいて、就職して何年目かというところで先方の親に挨拶に行ったそうだ。ところが、勤め先の将来性だのなんだの、いろいろ言われて、そもそも仲人も立てずにうんぬん、と文句たらたら。それで、後先になってしまいましたが、どうか先生、とのことだった。


 話を聞いただけでも、面倒くさそうな親だ。ちょうど、ちょっとした大手企業を管理職まで勤め上げて定年退職になったばかりらしい。一人娘がかわいいのはわかるが、就職の面接でもあるまいに、娘が決めた相手にごちゃごちゃ言うとは、なんとも大人げない。で、彼女は? 仲人なら、それこそ二人で頼みに来るものだろう、と聞くと、それが、電話も出てくれないんですよ、とのこと(ちょうど携帯が普及し始めたころだった)。


 ま、そういうことだよ、と言った。だけど、と彼は言う。いや、ちょうどいい機会じゃないか、断ったのは先方なんだから、後くされもあるまい。私なんかが、いまさら出て行って、どうにかなるとも思えないし、たとえいま、どうにかできたとしても、これから先、その父親はもちろん、彼女まで、事あるごとにその調子だぞ。止めとけ、止めとけ。


 昨今、ただでさえ仕事に就くのが難しいのに、入ってからずっと一つ所にまじめに勤め続け、彼女のこともきちんと考えて、自分から挨拶に行くだけ、なかなかのやつ。一方、親がなんぼのものだか知らないが、娘はただの娘。それを引き受け、娘もまたその男とやっていこうと言っているのだから、相手がよほどの犯罪者や博打打、女誑しでもなければ、ふつつかな娘ですが、末永くよろしく、と、後は二人に任せればよいものを、いやいや、オレ様がじかに検分してやろう、などというのは、勘違いも甚だしい。


 退職してしまった年金生活者など、世間では無も同然。むしろ、将来的にはいずれ病気だ介護だと、娘夫婦に世話になることばかり。せいぜい孫の面倒でもなんでも、できるうちになんでもやらしてもらえてこそ、老人の幸せ。最近は、婿や嫁に嫌われ、実家に寄り付かず、孫の顔を見ることもできないままの年寄も少なくない。


 よほどのボンボンでもなければ、どのみち男なんて、若いときはみんな、まだぱっとしないもの。でも、そこからが、がんばりどころ。共働きを含め、ともに支え合い、助け合って、どうにかやりくりしていってこそ。最初からなんの苦労もせずに暮らせる甘い嫁ぎ先なんて、この世の中にそうそうあるわけがない。たとえあったとしても、若い夫婦が自分たち自身で掴み取った幸せでなければ、たいていはその後に転落してしまうだけ。


 結局、あの後、彼の御両親が田舎から出てきて、先方にお詫びとお願いに伺ったが、家風が合わないとかなんとか、体よく言われて、やっぱり破談。しかし、その後、彼は会社の取引先の社長に気に入られ、事実上の入り婿。今では何人もの人を使う側。夫婦円満で、双方の家も仲が良く、子供たちもみな元気だそうだ。一方、彼女は、何度か見合いもしたらしいが、母親も亡くなり、以来、父親と二人暮らしで、地元の病院の送り迎えをしているのを見かけたとか。自分の思い上がりのせいで、娘が幸せになるせっかくの機会を潰したとあっては、死ぬまで悔いても悔いきれまい。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/古典名著や専門書は、無味乾燥で無意味に思えるかもしれない。だが、それらこそが宇宙と世間、自分に展望を開き、日常の物事、自分の人生に意味を与え、支える。その内なる「学」の基盤が無ければ、すべては無意味で虚しい。/


 ロバート・マッキー『ストーリー』(1997)の日本語版がようやく出版された。すでに19か国で翻訳されていながら、日本だけが取り残されていた。理由は単純。いくら名著でも、他の国はともかく、日本では部数的に出版社が儲かりそうもないから。今回の出版もAmazonを含めて書店では販売せず、その名もダイレクト出版という出版社が読者からの注文に直接に応じる。無駄な中間コストや返品コストを抑えるため。それでも、5400円+外税。この国では一夜の酔いの酒代に万札が当然だが、一生に役立つ本代にその半分さえ出そうする人は多くない。


 1867年、ドイツのレクラム社は、文化こそ国の礎、と、装丁を極端に簡素にした「文庫」というものを発明し、万人に知を解放した。米国のフォードは、製品の価格を下げても、量産効果でコストも下がり、利益が出る、という逆説的な経営方法を考案し、この「フォーディズム」のビジネスモデルは、二十世紀にあらゆる産業分野で用いられた。日本でも松下幸之助が、公園の水のようにじゃぶじゃぶと製品を作れば、だれもが豊かな文化生活を送れるようになる、という「水道哲学」こそを企業存立の使命とした。


 おかげで、いまではほとんどのものが百均で買える。知識や知恵も、文庫どころか、ネットでタダ。しかし、まさに公園の水のように、タダでも誰も飲もうとしない。小難しい古典名著や専門書など、だれも読もうともしない。一方で、なんの役に立つのかわからないようなブランド品があれこれ宣伝で売りつけられ、テレビや新聞、雑誌は、どうでもいい醜聞と雑学ばかり。収入も増えず、買い物も控えると、こんどは毎日が暇で仕方ない。


 神様や仏様が信じられた時代には、人間は死んで天国極楽へ往生できるよう、生きる間、節制精進に努めた。だが、神仏もどこやらという現代では、なにをやっても意味が無い。それで、突然に仕事を辞めて政治家に立候補したり、独立起業したり。さもなければ、アイドルになるだの、小説を書くだの。そんな才能は無いくらい自覚しているやつでも、必要も無い、役にも立たないのに、あれがはやっている、と言われれば、そこに行列し、これが売れている、と言われれば、我先に買い求める。だが、どこへ行っても、なにを買っても、君自身がなにか特別な存在になれるわけじゃない。しょせん多数のフォロワーの中の無意味無価値の一人。もっと安直なやつは、手軽にスマホでゲーム、出会いで不倫、ネットで薬物。それも酔いが醒めれば、現実があまりに空っぽで、さらに中毒の深みに落ちていく。


 昨今、世間の意味にしがみつき、自分の存在の意味を渇望するやつがいっぱい。だが、なにをやっても、どんなに功を遂げ名を成しても、人生は虚しい。それは、君に内なる「学」が無いからだ。自分自身が拠って立つ、意味を支える強固な地盤。「学」の無いやつは、まっすぐ歩くことはもちろん、まっすぐ立っていることすらもできない。まさに酔っ払い。あれこれ放言して好き勝手をやろうとするが、そのうちふらふらと自分からドブに落ち、傷だらけの前科者になる。


 この世は死の待合室。どうせ人生はムダだ。しかし、ニーチェは、神仏や他人から与えられる意味が無いこそ、自分自身で自分自身の人生の意味を打ち立てる余地があるのだ、と考えた。そして、自分自身の人生の意味を打ち立てることにこそ、自分自身の人生の意味があるのだ、と説いた。創価学会だって、もともとはまさに、価値そのものを創る、ことこそが幸福だ、という思想に基づく名称だ。


 すべての人は、自分自身の人生という物語の主人公になる義務がある。そしてまた、その物語の作者でもなければならない。君の物語は、どこかに出来合いで売り物になっていたりしない。だれかに頼めば作ってくれる、というものでもない。たとえ他人が作った物語の上を生きたとしても、それでは君が君の人生を生きたことにはならない。つまり、君は自分で自分の物語を作って、その主役を務めなければならない。


 昔から語り継がれてきた物語、小説や映画は、ただの暇潰しではない。庶民の知恵、哲学だ。自分の人生から距離を置いて鏡に映し、来し方、行く末を俯瞰する。言葉にならない思いが心を突き動かし、人生の軌道修正を迫る。専門書も同じ。自然科学でも、社会科学でも、人文科学でも、大きな展望の下に、宇宙や世間と自分を眺め直し、その意味を見極める。たしかに、「学」そのものは意味が無い。ある意味では、きわめて無味乾燥だ。しかし、その「学」こそが、日常の細々した物事の意味を支える。内なる「学」というのは、そういうことだ。


 目が見えなければ風景が見えず、耳が聞こえなければ音楽が聞こえない。同様に、「学」が無ければ人生は味わえない。酒に酔って気を紛らわしても、酔いはいつか醒める。たまには公園に行って、タダの水を飲み、ベンチに座って、季節の風を感じながら、ふだん読まないような、まともな名著古典、専門書をゆっくり読んでみないか。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/日本の「奨学金」は借金だ。無職無収入の貧困失業債務者の苦学生の分際で、人並みに青春を謳歌しよう、などというのは勘違いも甚だしい。君は君。人とは違う。生活を切り詰め、勉学に打ち込み、自分自身の大きな夢にこそ努力すべきだ。/


「奨学金」の返済に行き詰まる話をよく聞く。しかし、そりゃ行き詰まるだろう、と思う学生も少なくない。およそ借金をしている者の生活ではない。人並みのすてきな部屋で暮らし、人並みのこぎれいな格好をして、人並みにおもしろおかしく遊び歩き、人並みに大学をさぼりやがる。そんな分限知らずの生温いやつが、たとえ人並みに卒業して就職できたとしても、人並みの毎日を続けるかぎり、返済に回すカネなど、死ぬまでできるわけもあるまい。


近年、米国では「アフルエンザ」(金満病、金持の倫理麻痺)が話題だが、日本では「アヴェリエンザ」(人並病、凡人の倫理麻痺)とも言うべき病状が蔓延している。「アヴェレイジ」という語は、もともとはアラビア語のハルワリヤ、訳あり欠陥品、に由来する。大航海時代に、輸入品の欠陥相当分を投資家たち全員が均等に負担したことから、平均の意味に転じた。


かつて「人並み」は、底辺から脱出する向上心の動機づけになった。ところが、生まれながらの中産階級は、社会的なセフティネットや救済策の整備充実のせいか、どこか感覚的におかしい。手抜きをして自分自身が「欠陥品」になっても、その損失は社会全体で均等に負担してくれる。だったら、怠けないと損、がんばったら負け。人並みにいい加減でも、人並みにさぼって遊んでいても、みんなそうなのだから、ヘラヘラ笑って許されるはず、誰かがなんとかしてくれるはず。とくに、ほめて伸ばす、自己推薦のAO入試、なんていう生温い教育しか受けてこなかったユトリ学生たちは、お勉強をすれば御褒美をもらえて当然、と思っている。そんな連中にカネを渡せば、借金だろうとなんだろうと、後先考えず、あるだけ使ってしまう。そんな愚かしい風潮が、学生から学生へと感染。


日本の「奨学金」は借金だ。だが、問題はそこじゃない。ふつうの借し付け金なら、いや、たとえ違法なヤミ金でも、債権の保全回収が第一だから、できるだけ「相談」に応じ、でたらめむちゃくちゃな「追い貸し」を含め、現実に「返済」可能なプランを再調整してもくれる。ところが、お役人が考えた「奨学金」は、回収なんか気にしない。杓子定規の容赦無し。ちょっとでも返済が滞れば、いきなり一括請求。鬼より怖い。


そんなの、自己破産すればチャラ、手続も簡単、と弁護士は言う。しかし、それには会社に「退職金計算書」を作ってもらわなければならず、いくら個人情報保護といっても、いずれどこからともなく社内外のウワサにもなってしまうだろう。また、ブラックリストに載って住宅ローンはもちろん、クレジットカードも、ずっとダメ。なにより、契約時に温情をかけてくれた連帯保証人へ一括請求が回り、親戚まで地獄に引きずり込む。こうなったら、仕事も結婚も、なにもかも、将来まで道を絶たれる。


つまり、「奨学金」は、およそ人並みではない、自分自身の一生そのものの浮沈を懸けた一世一代のハイリスクな大博打。しかし、この賭けは、地道に努力さえすれば、かなりの程度まで勝率を上げることができる。大学では、一心不乱に勉学に励んで知識と技能を習得し、自分自身の資産価値構築を第一に考えないといけない。また、リスクヘッジのために、大学外でも自動車免許や簿記その他の資格を取って、早くから実体実形(ストック)化する。すてきな部屋だの、こぎれいな格好だの、若者らしい娯楽だの、完済までは自分のような苦学生には縁が無い、と割り切って、毎日の生活で節約し、残したカネを卒業時に繰り上げ返済。就職してからも、返済をすべてに優先。


借金は、借金だ。「奨学金」だろうとなんだろうと、借金をする以上、君はもはや「人並み」ではない。学生ながらに「貧乏人」の「債務者」だ。同世代でほかに幸せにおもしろおかしく暮らしているやつがいるとしても、それは、親が金持ちか、自分で稼いだか。一方、君は無職無収入、おまけに借金漬け。将来の就職も確約されているわけではない。この厳しい現実を、もっときちんと直視しろ。そんな貧困失業債務者の分際で、「人並み」の青春を謳歌したい、などというのは、思い上がり、勘違いも甚だしい。もちろん、悔しいのはわかる。だが、無いものは無い。できないことはできない。無理に人並みの見栄を張るより、とっとと貧乏金欠をカミングアウトして楽になってしまえ。


君は君。人とは違う。カネは無い。夢はある。君は、部屋や格好や娯楽などのような卑近な物事より、もっと大きく、もっと大切な、自分自身の将来にこそ、自分自身を賭けたのではなかったのか。人に貧乏を恥じる暇があったら、怠惰怠慢で自分自身を裏切っていることこそを恥じるべきだ。



(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/小さなドラマはどこにでもありうる。ほんの少しの気づかいと思いやりで、あなたがそれを始めることもできる。/


 サービスエリア、と言っても、端の隅。「悪いなぁ、こんな夜に」「シフト表どおりですよ。ちゃんとよく寝てきましたし。それより、店長、早く帰らないと。お子さんたち、待ってますよ」「でも、きみだって」「?」「ほら、こないだ、バイクの後に、彼女、乗せてたじゃないか?」「ああ、あいつね。小学校以来の幼なじみですよ」「じゃあ、きみと同じ年か」「ええ、まあ」「……正社員の話、今度また、社長にかけあってみるよ」「ありがとうございます。でも、前にも無理って言われたんでしょ。この業界、昨今、厳しいですよね」「いや、社長も、きみのこと、いろいろ考えてはくれているんだ。ただなかなか……」


 「店長にも、社長にも、感謝してますよ。バイトなんて、若くて安いやつがいくらでもいるのに、オレみたいなのを、ずっと長く使ってくれてるんですから」「もうしわけないな、力不足で……。きみの彼女にまで心配かけてしまってるんじゃないのか……」「なに言ってるんですか。へへっ、じつは、ちゃんと明日、デートなんですよ」「そうか。それはちょうどよかった」「? ……それより、店長、ほら、もう、早く帰ってあげないと、お子さんたちといっしょにケーキ食べられないですよ」「ああ、わかった。こんな寒い夜はお客さんも少ないと思うが、あと、頼むよ」「ええ、いくら少なくたって、うちが開けてないと、お客さん、困っちゃいますからね」


 クリスマスの夜。高速道路のガソリンスタンド。雪は無いが、広い谷筋を冷たい風が吹き込む。店長も帰って一人。客も、だれも来はしない。向こうの売店の方にはトラックや自動車が出入りしているが、ここの前は素通り。ラジオだけが賑やかしく、クリスマスソングを流し続けている。事務所の中を掃除。ガラスに自分の顔が映る。いくら車が好きだからといっても、いつまでも学生気分でバイトのままというわけにもいかないな。それはわかっているんだ。でも、街中は苦手だ。せせこましくて、息ができない。ここには、山もある、川もある。空も、湖も。ただ仕事が無い。イスに座り込んで、ほおづえをつく。ちょっと疲れた。最近は夜勤がきつくなってきた。


 「オイ、店長サン!」「え? は、はい、いらっしゃいませ。あの、店長はもう……」「ソコノ、アナタよ。給油シテネ」「はい、いますぐ」 外国人か。ひげもじゃだ。それも白い。けっこうな年だろう。ボア付きの作業ジャンパー。大型トラック。雪汚れがついている。かなりの長距離らしい。「すみません、それ、軽油なんで、こっちに移動してもらえますか」「アア、ワカッタ」 ぶるるぅん。しゅるしゅるしゅる。「はーい、ストップ! オッケーです!」「ジャ、ヨロシク」「あの……急ぎますか?」「モチロン急イデル。朝マデニ届ケナイト」「でも、いま、ちょっとエンジンの音が……」「エ? コノ車、オカシイ?」「いえ、念のため。安全第一ですよ。ちょっと見させてもらっていいですか?」「オネガイスルよ!」「じゃ、寒いですから、中でお待ちください」


 「ドウダッタ?」「ちょっとファンベルトが緩んでいました。もう大丈夫です」「アリガトウ。ホントウニ、タスカッタ。音ダケデワカル、アナタ、スゴイネ。アナタ、ワタシノ国ニ来マセンカ?」「ははは」「ワタシハ本気ダよ。ホラ、コレガ連絡先」「はぁ、ありがとうございます」「ドウシタ? 若イ人ハ、ナニゴトモちゃれんじダよ」「……それが、もう若くもないんですよ」「?」「……まだちゃんと聞いたわけじゃないんですけど、オレの子ができたのかもしれない」「オォ! ソレハ、オメデトウ!」「おめでたいのかなぁ……。とにかく彼女や子どもをしあわせにしないと」「イヤ、ソレガしあわせナンダよ。ナンナラ、家族ミンナデ来レバイイ。電話、待ッテルよ。ヨイくりすますヲ!」


 また、誰もいなくなった。星も見えない。足下から底冷えする。事務所に戻る。「あれ?」 レジ裏に立方体の箱が二つ。きれいに包まれ、リボンまでかかっている。「あ、店長、忘れてったんだ。たいへんだ!」 電話をかける。「どうした? 何かあったのか?」「すみません、こんな時間に。でも、店長、お子さんたちにあげるサッカーボール、二つとも忘れてったでしょ」「ボール?」「レジの下の箱ですよ」「ああ、あれ、ボールじゃないよ。朝、仕事が終わった頃に電話しようと思っていたんだけど、あれはきみにと思って」「オレに?」「ちょっと気になったことがあってね。朝になったら開けてよ」「はぁ……」「じゃ、もうあと数時間、がんばってな」


 「何だろう……」 二つの箱のテーブルの上に置いて眺める。それきり、だれも客は来なかった。外は白い霜が降りている。あたりが青くなってきて、やがて鳥の声が聞こえ始める。ラジオが朝の番組に変わる。もういいかな。リボンをほどく。フルフェイスのヘルメットじゃないか。中にカードが入っている。「安全第一」だって。交通安全の御守も。もう一つも、お揃いのヘルメット。「彼女用」だと。おまけに、なんだ、こっちは安産祈願? まだそうと決まったわけでもないのに、ちょっと気が早すぎるだろ。それに、クリスマスに神社の御守だなんて。いや、あの店長らしいか。


 向かい側の山を朝日が照らす。あたりが黄金に輝き出す。さて、今日のデートは、どこに行こう? 自分たちでも、きちんと神社にお参りするか。それに、週明けには同窓会。東京に行った連中も、みんな帰ってくる。オレたちのこと、なんて言われるやら。そうそう、それより、あとでまた店に戻って、彼女といっしょに店長に御礼を言わないと。いろいろ大変だ。でも、オレももうすこし、この町で、がんばってみようかな。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/自分なんて地平線と同じ。いくら探したって、見つかるわけがない。これまでの二十年間がまっすぐ、これからの五十年間に延長していると考える方がおかしい。むしろ、これから仕事、貯金、結婚、出産、転勤、教育、病気、介護など、経験したことも無い出来事が襲いかかる。そこで、どんな自分になりたいのか、そんな自分に、その会社に入ってなれるのか。分析というより、決断だ。/

 就活のエントリーシートなどに、そもそも志望企業探しのために、「自己分析」をしろ、と言われる。おまけに、それを面接でもアピールできるように、具体的で印象的な過去のエピソードを見付けろ、と。で、自己分析ってなんだ? 自分がどんな人間であるか、見つめ直し、理解して、特性を活かせ、ということ?


 哲学なんで、就職で役に立たない、関係が無い、と思うかもしれないが、じつは、この話、哲学の大物、カントがさんざんに論じている。カントに言わせれば、自分なんて、どう分析したって見つかるわけがない。それは、これが地平線だ、という線と同じ。いくらあちこち歩き回って探してみたって、そんな永遠の向こう側に、だれも絶対に手が届くわけがない。つまり、自分探しなど、理論的に、根本から時間のムダ。


 いろいろな過去のエピソードを寄せ集めて、そこから共通する「本質」を探り出す、というのは、帰納法。そして、一般の物事であれば、こうして見つけたその本質を延長して外挿する演繹法で、未来も正確に予測することができる。


 ところが、人間は、カント以降の実践哲学、実存哲学で注目されるように、過去がどうであれ、未来は、自分がどうするか、に懸かっている。君の自由意志しだい。つまり、こと人間に関しては、過去の事実から帰納法で導かれた結論は、そのまま未来へまっすぐ延長しているとは限らない。もとより学生の自己分析など、たかだかサンプルが二十年そこそこの話。これからにこそ、いろいろな経験を積んでいくのに、そんなガキのころの話が四十歳、六十歳になっても、まったくぶれない、変わらない、という方がおかしい。


 かといって、自己分析なんてムダ、なんて言っているやつも、どうかと思う。バカの自覚を持ったやつだけが、しっかり学ぼうと思うもの。ブスの自覚をもったやつだけが、きれいになりたいと願うもの。つねに自分に足らぬ物事の勉学に努力している人が、賢明、どんなときにも自分の至らなさを気に掛けて愛想を心がけている人が、かわいい、というもの。


 人間は、過去をすべて捨て去って、いきなりまったく別人になることなどできない。あくまで、いまここ、が出発点だ。しかし、かといって、出発点に留まり続けているやつは、その延長線上にある未来さえ手に入れることができない。自分がどんな人間であるか、ではなく、問題は、自分がどんな人間になりたいか、だ。未来は、たしかに過去の延長だ。だが、延長線など、どんな風にも曲げて引くことができる。そして、その延長線が辿り着くべき、果てしないかなたにある地平線は、実在ではなく、君が歩いていくべき永遠の目標。


 自分がどんな人間であったのか。それは無視はできない。だが、より重要なのは、最終的に、どんな人間になりたいのか。五十年後、七十歳のとき、どんな人々に囲まれ、どんな生活をしていたいのか。そこから逆算して、これからの五十年の間に、どんな会社、どんな仕事、どんな経験を積んで行くべきなのか。たった五十年。五十回の春、五十回の夏、五十回の秋、五十回の冬。いいことばかりとはいくまい。面倒や事故、不幸や災害もあるに決まっている。だから、それらへ備えもして当然。こんなギリギリの状況で、とりあえずみんなと同じ人気企業へ、などと寄り道をしている時間の余裕は無い。


 自己分析、というが、ほんとうは、厳密な意味での帰納法的な「分析」ではない。むしろ決断だ。仕事、貯金、結婚、出産、転勤、教育、病気、介護、などなど、これまでの二十年間には経験したことも無いさまざまな出来事が山のように襲いかかる。会社選びは、これらすべての問題とのバランスによってのみ決まる。一口で飲み終わる缶コーヒーを自販機で選んでいるのとはわけが違う。むしろ自分選びだ。何かを得るために、別の自分を捨てることだ。どんな自分になりたいのか、そんな自分に、その会社に入ってなれるのか。選ぶのは会社ではない。君が人生を選ぶ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/いくら正論を言ったって、通らないときは通らない。世の中がデタラメな以上、デタラメなのが正解。そういうもんだ、と、認めてしまって、いろいろ適当にやってみて、どれかうまくいけば、それでいい。/

 最近は子供の学習教材もパソコンだ。ところが、うちのやつが英語の問題にごちゃごちゃ言っていて、ずっと先へ進まないまま。仕方ないから見てやった。「次の言葉の終わりと同じ発音の言葉を選びなさい。問題1.door 選択肢 a)fox、b)desk、c)table」まあ、言いたいことはわからないでもない。どう見ても、問題がおかしい。「ねえ、やっぱり変だよね、こんなの、どうしたらいいのさ?」


 だが、私は東大卒だ。だてに熾烈な受験勉強をくぐり抜けてきたわけではない。問題が変でも、どうしたらいいのかは、わかる。で、a)を押す、ダメ。b)を押す、ピンポ-ン! 以上、終わり。さあ、次、やれよ。「え? door と desk じゃ、言葉の終わりの発音が同じじゃないよ」そうかもしれない。だが、そんなことは知ったこっちゃない。とにかく正解は正解だ。


 「それ、ズルじゃん」まったくこうるさいガキだ。問題が変なんだから、ズルもへったくれもあるものか。問題がまちがっているのだから、まちがっているのが正解で、どこがおかしい?「でも、選択肢の三つとも、どれも押して、うまくいかなかったら?」そんときは、そんときだ。その問題は無かったことにして、とっとと次の問題に行く。「だけど、問題を飛ばしたら、100点は取れないよ」それがどうした。なんで100点を取らないといけない? そんな変な問題で100点を取ろうとすることがまちがっている。


 いくら正論を言ったって、通らないときは通らない。むしろ、適当におべんちゃらを言って、キミのプロジェクト、よくわからんが、予算はつけてやったよ、まあ、がんばりたまえ、ということになれば、それでいい。そんなのハイカロリーなものを喰ってたらダイエットの意味が無いだろうに、と思っても、デートで彼女をスィーツの店に連れて行って、それで上機嫌なら、それでいい。なんでこんなガラクタみたいなの買うのかなぁ、と思っても、顧客が見栄をはって、バカスカと、むだな買い物してくれるなら、ありがとうございました、と、頭を深く下げて、それでいい。


 世の中がデタラメなのだ。矛盾している、とか、首尾一貫してない、とか、文句をつけても、世の中が矛盾していて、首尾一貫していない以上、答えもまた、矛盾していて、首尾一貫していなくて、それでちょうどいい。丸い地球に、きっちりした三角定規を当てても、なにも計れない。地球が丸いのだから、むしろ曲がった巻尺を使う方が正しい。


 なんで女はそうなのか、なんで男はそうなのか、なんで子供は、なんで年寄は、なんで人生は、なんでこの国は、などなど、いろいろ不満を言い募ってみたところで、なにも変わらない。なんでオマエはネコなんだ!と文句をつけても、ネコはニャーと鳴くだけで、イヌになるわけではない。女は、男は、子供は、年寄は、人生は、この国は、そういうもんだ、というところから始めないと、どうしようもない。


 いくら考えたところで、正解なんかわかるわけがない。もともと他人が勝手に作った、まちがった問題だ。わからないこと、どうでもいいことに頭を悩ませるな。そういうもんだ、と、認めてしまって、いろいろ適当にやってみて、どれかうまくいけば、それでいい。100点なんか、取ろうと思うな。この世の人生は、まちがった問題だらけで、最初からぜったいに100点なんか取れっこない。まあ、これがダメでも次がある。むだに考え込んで立ち止ったりせず、手探りに、とりあえずなにかやってみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/気晴らしやガス抜きはやめておけ。明日の朝、君をまた不満の現実に引き戻すだけ。それを繰り返していても、ただ年だけとって、いよいよ泥沼にはまり込むだけ。本気なら、その毎日の不満を、ただ未来の脱出口の一点だけに集中しろ。/

 ユトリ世代が社会に出て、いまや新しいサービス業のいいカモ。もともと自己管理のできない自堕落な連中だから、ほっこり、のんびり、ゆったり、「癒やし」だの、「気晴らし」だの、「自分への御褒美」だの、適当な美名をつけ、チヤホヤと甘やかしてやれば、入っただけのカネを、すべて吐き出す。そして、明日も、ちょっとしたことで仕事や人間関係で不満を募らせ、また気晴らしに来てくれる。


 ようするに、ストレス耐性が無い。我慢して節約して貯金する、なんていうことができない。そのくせ、半端に自己慢心のプライドと見せかけの向上心だけはあるから、努力しなくてもいい、しかし実際にはまったく役に立たない低テンションの語学教材や健康食品、トレーニング機器に飛びつく。それで、ちょっとがんばったと言っては、低アルコール低カロリーの缶をプシュっと開け、緩いSNSに緩い写真を載せ、自分を褒めてあげる。


 昔から上司は酒の席で酔った部下に好き勝手に語らせ、わかった、今日、オレはオマエの話をしっかり聞いた、後は任せろ、などと言ってガス抜き。結局、何もしない。会社や政治も同じ。いくら文句を言ったって、上司も会社も政治も変わらない。変える気も無いし、そもそも変える能力が無い。よし、じゃあ議論しよう、とか、おたがい話せばわかる、とか、もっともらしく言うが、それは単なる時間稼ぎのやり過ごし。どうせ君が自分自身では何もできない、逃げ出すこともできないのを見透かされているから。


 それがいまや個人レベルでも。ごちゃごちゃガタガタ、やたら口先で大言壮語を語るばかりで、決定的なことは何もしない。いや、これまでなにも具体的なことはやってきていないのだから、今日もまたやはり何もできないのは当然。それでまたすぐに不満が溜まり、それでまたすぐに自分で気晴らしのガス抜き。文句を垂れては、気張らしのガス抜き。夜になるたび、気晴らしのガス抜き。毎日、その繰り返し。そのうち、ただ年月が過ぎ、年だけとって、不満そのものにも勢いが無くなっていく。結局、何にもならない。


 先日、うちの子に水鉄砲を買ってやった。とはいえ、昔のピシャァというだけの力無いやつじゃない。ポンプ式でプシュプシュやると、エアが水タンクに貯まり、10メートル近くも飛ぶ。人間も、不満こそが向上心の源泉。こんなところに居たくない、こんな自分で居たくない。もっと別の自分になって、もっと別の世界に飛び出していきたい。


 しかし、ほんとうに生活を変える、自分を変えるとなると、その敷居は驚くほど高い。資格を取る、語学を身につける、転職する、国外脱出する、小説家・漫画家・デザイナーになる。自分で自分に自信が持てるだけの実績を積む。どれも一朝一夕でできることじゃない。まるで刑務所から脱獄するようなものだ。周到な計画と準備、周囲への完全な隠蔽、そしてなにより、たった一点に穴を掘り続ける、けっして諦めない本人の執念。


 本気なら、気晴らし、ガス抜きはやめておけ。仕事や職場で腹が立ったら、家族や友人、彼氏彼女に納得できないことがあったら、資格の教科書、語学のテキストを開いて、すべてを忘れ、その勉強に打ち込め。スポーツジムで、ロードランニングで、体を鍛えろ。自堕落仲間からケチくさい、付き合いが悪いと言われようと、カネも、時間も、労力も、いっさいの無駄遣いをせず、いずかならず必要になることのためだけに貯めておけ。すべての不満を脱出口の一点に向けて集中しろ。


 少なくとも気晴らしやガス抜きはやめておけ。明日の朝、君をまた不満の現実に引き戻すだけ。それを繰り返していても、ただ年だけとって、いよいよ泥沼にはまり込むだけ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/カネを出す以上、口も出す。それが出資の絶対条件。いくら思想と良心、信教の自由があるとはいえ、それはせいぜい、国立大学や公立美術館に徴用されない権利でしかない。こうなるのがわかっていたから、先見の明のある人物たちは、苦労を重ねて私学を興し、私財を投じて民間美術館を作ってきた。独立自尊の気概気骨と財政基盤を抜きに、学問の自由、芸術の自由は成り立たない。/

 建築家や工務店が勝手な家を作っていたら、依頼者たる施主が文句を言うのは当然。国立大学の文系潰しや国歌国旗強要、巨大建造物の計画中止、公立美術館からの作品撤去など、みな同じ問題。戦後ずっと、学問の自由、芸術の自由、という美名の下、国民の税金を好き勝手に使って、ワガママ放題にやってこれた方が不思議。


 学問や芸術の振興は、天上の神仏への喜捨ではない。あくまで現世の事業だ。カネを出す以上、口も出す。それが出資の絶対条件。カネは出せ、口は出すな、学問と芸術の自由だ、などという、無茶がまかり通ったのは、戦前のあまりの悪行に対する世間の反動で政府が萎縮させられていたから。しかし、政府にはさらに税金を払うスポンサーの国民がいる。いくら学者だ、芸術家だ、と言われても、国民が反発すれば、政府の方も、いつまでもその好き勝手を容認しているわけにはいかない。


 ふつう、大人の社会常識として、朝礼などで、あえて社歌に口をつぐみ、社旗をないがしろにする社員は放逐される。もちろんちょっとやそっと勤務態度が悪いくらいで会社側が簡単に解雇にできるわけではないが、会社の業務や信用にまで著しい影響を及ぼすのであれば、社内不倫などと同様、私的な自由では済まない。ただし、歌や旗の拒否は、たしかに解雇禁止事項(労働基準法第3条)の「信条を理由とする」に抵触する虞があり、それを直接の解雇理由にしたら裁判はかなり面倒。しかし、だからと言って、それで図に乗っていると、会社は別の致命的なアラを探して合法的にやる、というのが大人の世界。


 もちろん、学者や芸術家も、憲法によって個人として尊重され、思想と良心、信教の自由を認められるべき国民。だが、その他の国民一般と同様、国立や公立の組織の方針や運営まで勝手に決めたり変えたりできるほどの高次権限は与えられていない。せいぜい、就職を強要されない自由(むりやり公務員として強制労働させられない自由、国立大学の教員にならない自由、公立美術館で展覧会を開かない自由)。あえてみずから進んで自由意志として国立大学や公立美術館の職務契約のパッケージ(これをこれまで信義則に頼って労使双方とも曖昧な口約束で済ましてきたのが、大きな問題の元凶)を受けておきながら、後になってその職務の一部を一方的に拒否改変するのは、どうみても契約違反だろう。それどころか逆に、思想を根拠に、御同類の特異な反体制的連中ばかりを優先採用、優遇抜擢してオルグしている気配がある、となると、政府も放置というわけにはいくまい。


 国と国民の象徴たる天皇がいっさい口を出さないのをいいことに、国と国民に仕えるはずの政府や与党ですら憲法を曲解するのだから、同様に憲法を利用して個人のワガママをゴリ押しする学者や芸術家が出てくるのも時代の流れか。端から見ていれば、どっちもどっち。この国にして、これらの小人あり、という印象。学者たちや芸術家たちが国民の代表であるかのように振る舞うのも、ずいぶんな思い上がりだと思うが、それを管理支配しようとする、たかだか一時の政権が、本来の主権者たる国民一般の声を正しく反映しているとも思えない。コソ泥たちと押込強盗のケンカのようなもの。


 いつかこうなるのがわかっていたから、先見の明のある人物たちは、湯水のように国民の税金を無限投入して暴れ回る国立大学、公立美術館の民業圧迫の下で、苦労を重ねて私学を興し、私財を投じて民間美術館を作ってきた。カネの問題を自分たちで解決しないかぎり、学問や芸術であろうと、金主の意向の従僕、政府の方針の奴隷。モーツァルトは、それが嫌で、パトロンの下から逐電し、郊外の免税館劇場で庶民に直接にチケットを売って『魔笛』を成功させた。学問の自由、芸術の自由は、独立自尊の気概気骨と財政基盤を抜きには成り立たない。税金にぶら下がる限り、政治の介入は防げない。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大学の意義は、講義で教わる内容ではない。不思議なことに、まじめに講義に出ているだけで、ほんとうに人は四年間で大きく変わる。人の話を聴いている間に、人はいろいろ考える。長い人生に備え、心の覚悟を整えるために、どうにか行かれるなら、多少の無理を融通してでも、若いうちに行っておけ。/


 大学には行っておけ。どうにか行かれるなら、多少の無理を融通しても、若いうちに行っておけ。もちろん、いまどき大学の講義で教わる程度の内容など、いくらでも本が出ているし、知らなくても、その場ですぐにネットで調べられる。だが、大学の意味というのは、そんなところには無い。なぜ古代から人間は学校というものを重視してきたのか。人間を変えられるのは、人間だけだからだ。


 私の担当は一般教養の「哲学」だから、いつも大教室だ。目は良い方ではないが、学生の席から教壇の教員が見えるのと同様、教壇から最前列はもちろん、最後列の教室の隅の学生までよく見える。年30回。同じ学生は、たいてい同じ場所に座っている。メールで毎度、講義後に小レポートを送らせているので、どの学生が何を考えているのか(なにも考えていないのか)も、よくわかる。まあ、学生の側からすれば、週の間にも多様な教員の講義や演習があり、それぞれのコマは、その中の一つにすぎないのかもしれないが、教員の側からすれば、むしろ一つのコマを通じて、それぞれの学生を通年で見続けることになる。


 これが、変わるのだ。本当に変わる。驚くほどに。さぼりまくって学期末、年度末になって久しぶりに出て来た学生とは、まったく違う。後者は、最初と同じ、ガキのまま。顔が緩みまくって、ヘラヘラとにやけている。いや、前者だって、最初はガキだった。教室に来たって、友人たちと落ち着かず、ごそごそもそもそやっていた。それが半年、一年を経ると、男も、女も、りりしく、ひきしまった顔、落ち着いて遠くを見据えた目つきに変わる。大学というものが、昔から人間が少年少女から青年に変われる時期に設置されているのも、なるほどと思わせる。


 一年の講義が終わっても、意外に教員は、以前の学生たちの顔を覚えている。いつも最前列にいた学生、文句ばかり言いながら三年も取り直してきた学生。ろくにノートも取らず、後ろの方でずっと腕を組んで聞いていた学生。学内で会えば、声を掛ける。よう、元気? 専門科目の方はどう? 向こうが私を知らないことはない。だが、なんで自分のことを覚えているんだ、というような怪訝な顔。それでも、ええ、大変ですよ、と話始めてくれる。賞を取ったんです、留学することにしました、と、うれしそうに自慢を語ってくれることもある。これが一番、私もうれしい。


 街中で、何年もたって声を掛けられることもある。すっかり社会人になって、しっかりとした大人の雰囲気に変わっている。それでも、覚えている。ああ、君か、いま何してるの? ええ、いろいろあって。ほんの立ち話だが、あまりの変わりようにびっくりする。十年もすれば、子供を連れていたり、自分で会社を経営していたり。一方、受講を途中で放りだした学生はダメだ。顔を背けて、コソコソといなくなる。どうせ自由選択科目の一つにすぎないのだし、その単位を取れなかったくらい、大したことではなかろうが、おそらくその後もすべてにおいて、その調子なのだろう。あいかわらずガキ。


 なぜ大学で講義を聴くと人間が成長できるのか、私にもよくわからない。正直なところ、それほど御立派な話をしているわけじゃない。それどころか、大学の教員も多様だから、どうしようもなくひどい講義もないわけではあるまい。だが、自分の経験からしても、黙って座って人の話を聞くことにおいて、人はいろいろ考える。そのとおり、と思うことも、違わないか、と思うことも。その分野のおもしろさを真剣に語ってくれる熱血先生、いくら偉くてもこんな人間にだけはなりたくないなと思わせる反面教師。言ってみれば、それはいろいろな人間像を見る動物園のようなもの。週25コマ、30週、4年間。自分のこれからの人生について考えるところ。


 役に立つとか立たないとか、専門がどうこう、就職がどうこうとか、そんな話は、じつは大したことじゃない。若いうちに4年間、人の話を聞いて、友人たちと付き合い、遊びや恋愛、バイトや旅行など、子供でもなく、大人でもない、まさにモラトリアム(執行猶予)を満喫しつつ、長い人生に備え、心の覚悟を整える。たしかに学費は安くはない。だが、行かれるなら、多少の無理を融通してでも、大学には行っておけ。きちんと勉強すれば、一度限りの人生において、それだけの意義と価値はまちがいなくある。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/努力すれば努力するだけ、いいように人に搾取される。いくらがんばったって、その道は出口には繋がっていない。とりあえず生き残っていくには、臥薪嘗胆、のらりくらりと我慢が肝心。/

 あれを買うべきだ、ここへ行くべきだ、行政のムダを削減すべきだ、世界の平和に貢献すべきだ、ポジティヴに生きるべきだ、等々、なんとなくもっともらしい。しかし、古代ローマ時代にも、我田引水、党利党略の宣伝と演説が蔓延。


 そんな中で安心哲学が出てくる。最初が懐疑主義。人の言っていることなんか信用しない。そもそも人のことなんか信用しない。得だ損だ、善だ悪だ、と喧し いが、そんなに得、そんなに善なら、まずはあんたが黙って一人でやってりゃよかろうに。健康にいい、と言われ、その後に発売禁止になったものがどれだけあ ろうか。短期的に得でも、いつかとんでもない損になるものなんか、おっかなくて手を出せるものか。よくわからない時代に身を守るには、よくわからない話に は乗らないのが一番。


 ついで出てきたのが快楽主義。あえて積極的に快楽を求める、というのではない。むしろ、自分の得になること以外は、まったくやらない。世界のために、と か、社会のために、とか、体のいい話は、たいていうさんくさい。とくに昨今、少子化で、どこもかしこも、タダで便利に使えるバカな子分や人手が欲しくて仕 方がない。自分でやらないヤツらに限って、口先ばかりできれいごとを言う。おまけに、ヤツらは人の肩車を踏み台にして、もっと高いところを目指し、さっさ と逃げ出す。利用するだけ利用したら、人を紙くずのように捨てる。だったら、こっちも最初から、よほど確実に自分が得になるのでもなければ、そんなヤツら には関わらない方がいい。


 そして禁欲主義。これも、べつにムリに我慢するのでもない。現状で満足。それだけきちんと守って、それ以上のことは望まない。そんなのは向上心が無い、 なんて言われたって、いまの時代、ジタバタしたところで上など望みようもない。人口が半減するというのに、経済がこれ以上に発展するわけもないし、いまの 領土だって守りきれるわけがない。絶対にできっこないことでムダに悪あがきする方が、むしろ危険。せいぜいクビにならぬよう、変な濡れ衣を着せられぬよ う、最低限のやることだけやって、できるかぎり手を引き、ひっそりと市井に埋もれ、隠れて生きる。


 古代ローマも政争だらけ。かってに皇帝や将軍を僭称する連中が続出し、それらが互いに争って謀略と暗殺が横行。そんな連中に関わり合っても、いいことな んかない。昨今の日本の会社も、似たようなもの。傾き始めると、むちゃくちゃな帳尻合わせで、去るも地獄、残るも地獄。なんとかやりすごして、なるように なるのを待つだけ。


 残念ながら、努力すればどうにかなる、などというのは、もはやよほど恵まれた、ごく一部の人々のみ。大半は、努力すれば努力するだけ、いいように人に搾 取される。「ワーキングプア」というやつだ。いくらがんばったって、その道は出口には繋がっていない。それどころか、時間ばかりがいたずらに費やされ、道 はどんどん細くなる。選択肢が無くなったところで、最後は自分自身のクビを絞める縄をなうはめに陥る。V字回復戦略企画室長、別名、リストラ本部長なん て、その典型。


 ろくな仕事も無い、貯金も無い、結婚もできない、家族も持てない、という若いやつらの中には、いっそ箱根だか富士山だかが吹っ飛んで東京が壊滅し、すべ てがひっくり返ったら、なんて不謹慎なことを心の底で望んでいるやつもいるのではないか。まあ、そうでないまでも、世の中は、いつかはかならず適当にひっ くり返る。


 そうなるまで、おもしろくもないだろうが、とりあえず生き残っていくには、臥薪嘗胆、のらりくらりと我慢が肝心。ヤケを起こし、調子のいいヤツの話に乗 せられても、捨て駒にされるだけ。自爆テロと同じ。時代の巨大な潮流は、きみが一石を投じたくらいでは絶対に変えられない。ポジティヴにがんばるべきだ、 なんて人に言っているヤツらには絶対に騙されるな。


 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京 藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステ リ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/「世界」が君の夢にすぎないだけではない。君こそが世界の夢にすぎないのだ。/

 年来、『七つの習慣』のコヴィーだの、個人心理学のアドラーだのがはやりだが、どうしていまさらこんなのが、と思う人も少なくあるまい。仏教をか じったことがあれば、それは理解していて当然の話だから。哲学でも、ショウペンハウアーの『意志と表象としての世界』に出てくる。戦前は学生歌の「デカン ショ節」として、デカルト・カントと並び称せられるほど、ショウペンハウアーは人気だったのだが。


 ようするに、君が言う「世界」は、君が見ている夢にすぎない。現実の世界とは別物。テレビだかインターネットだかで君は情報を集め、君のねじ曲がったコ ンプレックスに基づいてそれらの情報を理解し、自分勝手に継ぎ接ぎにつなぎ合わせて、「世界」を捏ち上げている。君は自分の目や耳で、ほんとうの世界をじ かに取材しようともしない。にもかかわらず、自分自身で作り上げてしまった、映画の『マトリックス』のような仮想現実の中に君自身も登場人物として入り込 んでしまい、むだにもがき苦しんでいる。『ボヘミアン・ラプソディ』の悪夢。


 たとえば、星空を考えてみよう。星座は、それらの星の点をどうつなぐかで、できあがっている。だれかに習って、それが当たり前になると、星空を見ただけ で、それらを星座に切り分け、星をつなぐ。だが、その切り分け方は、君が勝手にやっていることだ。別様に切り分けることもできるし、別様につなぐこともで きる。そうすれば、まったく違った星座の形に見える。


 事実でも同じこと。物理的な事実がある、としても、その事実を過失と見るのか、故意と見るのか、は、君がやっていること。事実そのものとは関係が無い。 いや、故意だという証拠の事実がある、と言っても、これまた、君が、あることを別のことの証拠として関連づけているだけで、妄想の陰謀説と大差ない。で も、君は、自分の発見とやらを疑いもせず、人にまで言い散らし、同じ妄想仲間を増やすことに躍起になる。しかし、増やさないと増えない、増やせば増える、 というところが、まさにおかしい。本当に真実である物事が、そんなに恣意的でありうるだろうか。


 仏教は、アドラーなんかより、はるかに奥が深い。世界が君の夢であるだけでなく、君という存在そのものが世界の夢にすぎない、と言う。君は、妄想にせ よ、自分が「世界」を見ている、と思っている。だが、それは、世界が、君がそう思っている、という夢を見ているから。つまり、君は、世界が見ている夢の中 の登場人物。世界がまどろみから醒めれば、君という存在そのものが消えてしまう。


 君は、「世界」の出来事に、喜び、悲しみ、笑って泣く。だが、その喜びも悲しみも、笑みも涙も、世界の一時の夢。水素と酸素、炭素、窒素にミネラル少々 が、しばらくの間、人間の形となり、「仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明」として、互いにふれあい、周囲を照らし、瞬いて消えていくだけ。いず れ寿命が来て消えていく古い場末の酒場の看板のネオン灯もまた、きっとその場にあって、自分なりに「世界」を見て、喜び、悲しみ、笑って泣いているのだろ う。だが、そんなことは、誰も気にしない。それ以上でも、それ以下でもない。


 人もまた同じ。大きな世界、宇宙の時間からすれば、そんな小さな発光現象が、どんな「世界」を夢見ていたか、何を喜び、何を悲しんでいたのか、など、知るよしも無い。結局のところ、ちょっと風が吹いただけ。まあ、なにごとも、あまり気にするな。大したことじゃない。


  (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大学は知のテーマパーク、文化のサーカス。そんなところに遊びに行くのに、役に立つとか、立たないとか、貧乏くさいことを言っていたら、すこしも楽しめないよ。/

 大学は役に立つべきだ、なんて言っている人、まず教養が無い。もっとはっきり言ってしまうと、育ちが悪い。すべて金儲けの損得勘定で世界を計れ る、という発想が、人間の品性品格として貧しすぎる。そんな考え方しかできないんじゃ、どんなにカネを儲けても、けっして人として幸せにはなれないよ。 ちょっとはちゃんと大学で勉強してみてはどうだろう?


 たとえば、海外旅行が役に立つか? ヨーロッパ10日間名所巡りに行っただけで、英仏独語ができるようになって、向こうで友達ができて、大きな商談がまとまり、参加費用以上の収益が出たりす るか? ディズニーランドやUSJが役に立つか? あれこれ見て、あれこれ乗って、それで教養が身についたり、体力が身についたりするか?  落語を聞いたり、小説を読んだりして、言葉や漢字が覚えられるか。そもそもそんなことを求めて、落語や小説に親しむやつがいるか?


 大学も似たようなもの。知のテーマパーク、文化のサーカス。見たことも聞いたこともなかったような世界の不思議な話が集まっている。それがときには役に 立つこともあるかもしれないが、おうおうにまったく役に立たないというところが、すごくおもしろかったりする。たとえば、ガロア理論なんて、この世に生き ていて必要になるなんていうことは絶対に無いし、そんなの学んでも、まったく役に立たない。でも、これが、ものすごくおもしろい。いったい、だれがこんな すごいことを考えたのか、と考えるだけでも、わくわくする。


 大学が役に立つべきだ、なんていう決めつけが、日本人だけの極端なガラパゴス的発想。明治維新以来、和魂洋才、欧米に追いつけ追い越せ、で、「大学」と いう名のなにかが情報輸入と産業開発の拠点とされてきてしまった。でも、それ、世界標準の、本来の大学じゃない。そっちの方が変。もともと大学なんて教会 や寺院の付属機関で、神仏の作りたもうたこの世界の驚嘆を学び知るための場所。学び知ったところで、それは神仏だからこそできたことで、人間が学び知った ことを役に立てようなんて思ってもみなかった。せいぜい神仏の御意思を理解し、みずからもまた非力を尽くそうとするくらい。


 大学は役に立つべきだ、なんて馬鹿なことを言っている人、ちゃんと大学で勉強してごらん。この世に人間というものが登場して以来、人間は役に立たないこ とばかりやってきた、ということがよくわかる。極言すれば、人間なんていうものがこの世界に存在していること自体、なんの役にも立っていない。まず、大 学って何か、役に立つってどういうことか、落ち着いて考えてみたら、どうだろう? 昨今、中途半端な日本の「大学」=官僚制のドロップアウターたちが旧全学連のポルポト派よろしく大学解体論で庶民を煽るが、大学は何だかわからん、自分た ちにわかるものにしろ、って、それ、勉強じゃないよ。よくわかんないから、勉強してみようか、っていう話なのに。


 海外旅行と同じ。行きたくないなら、行かなければいいだけ。役に立たないことなんか勉強したくない、というのなら、しなくたって、べつに何の問題も無い。他に専門学校とかが無いわけじゃないんだから、「実学」とやらをやりたいならば、そっちに行けばいい。な のに、なんで全部の大学を捻り潰してまで、大学で勉強したいという人たちの邪魔する? なんでも欲得で計算するやつらの言うことには、なんか裏に別の欲得 の計算があるようで、よけいうさんくさい。大学が「実学」だらけになったら、キッザニアじゃあるまいに、知のテーマパーク、文化のサーカスとして、安っぽ く、俗っぽくなるだけ。世界から取り残され、日本人が精神としてより貧しくなるだけ。オリンピック同様、偉大なるムダも大切なことだと思うけどなぁ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/○○しさえすれば、と言うやつらは、しょせん商売。それに乗せられて変えてみたところで、もっと大変になるだけ。やっかいで、うまくいかない、気に入らない物事でも、それは君の世界の一部。それらを理解し、感謝し、協力し合わなければ、君の世界を良くはできない。/

 市を潰し、都にしさえすれば、って、乗っかって騒いでいる連中を見ると、哀れだ。勝っても、負けても、その発想、その生き方が、永遠の負け組。政 治家、アイドル、スポーツ選手。やつらは、自分たちの人気取りのために、みんなに嫌われている敵を定めて攻撃し、それに勝つための応援をよろしく! と、連呼する。それがやつらの商売だから。でも、シロウトの君がいくらやつらを応援しても、君は利用するだけ利用され、最後には捨てられる。


 阿Qって、知っているか? 魯迅の短編小説の主人公。こいつがクズの中のクズで、「精神的勝利法」とか言って、ダメダメな状況でも、屁理屈で自分自身をごまかし、人を小馬鹿にして、 それでよけい村人たちから呆れられている。それが、辛亥革命だ、って言うんで、ようやく自分の時代が来た、って、勝手に「革命家」を名乗り、村で好き勝手 をやらかしまくるが、銃殺。


 王様を処刑さえすれば、と始まったフランス革命は、大混乱の恐怖政治で、だれもかれも断頭台送りにした後、結局、ナポレオンを皇帝に戴き、その皇帝も島 流しにして、また王政に復古。本人がどこまで本気だったのか、ユダヤ人を絶滅さえすれば、と熱弁を振るったヒトラーも、瞬く間に失業者のクズ連中が大量に 周辺に集まってきて、本当に実行せざるをえなくなり、世界中を敵に回して、国民の多くを戦死させ、都市のほとんどすべてを壊滅させ、第一次大戦後の復興を すべてワヤにした。


 ダメな連中は、自分がうまくいかないと、すぐ、制度が悪い、と言う。東大を無くしさえすれば、政権を取りさえすれば、憲法を変えさえすれば、天皇制を廃 止さえすれば。個人でも、そう。転職さえすれば、離婚さえすれば、カネを借りられさえすれば。でも、君にそう吹き込む改革政治家も、左翼新聞社も、転職支 援企業も、離婚弁護士も、悪徳サラ金も、しょせんそれはやつらの商売。頭の弱い連中が騙されて乗ってくれないと、仕事にならない。でも、現実は、改革し たって、廃止したって、転職したって、離婚したって、カネを借りたって、それはそれでまた、もっと大変になるだけ。


 もちろん、今の状況がダメなのは事実だろう。それで、連中は、抜本的改革、を売りものにする。けれども、連中に乗せられ、変えた状況も、どうせなにかが 致命的にダメ。今の状況なら、どこがダメかわかっているだけ、対策も立てようがある。が、変えた状況では、何がダメなのか、まったく予想もつかず、信じら れないほど恐ろしく手痛い思いをする。それで、後になって、前の状況に戻りたがるが、もう手遅れ。


 物事がうまくいかないのは、もちろんやっかいな制度やモノ、相手のせいもあるだろうが、それ以上に、そういうやっかいな制度やモノ、相手を使いこなせな い自分のせい。ギターも、買っただけで弾けるわけじゃない。自転車も、手に入れただけで乗りこなせるわけじゃない。ブログだって、ユーチューブだって、始 めただけで人気者になれるわけじゃない。有名企業に就職したって、司法試験に合格したって、選挙で首長に当選したって、すぐになんでも好き勝手にできるよ うになるわけじゃない。


 まともな人間は、うまくいかないと、うまくいかないところを見極め、鍛錬を重ね、次こそは、と再チャレンジする。そうやって少しずつ失敗を減らし、やっ かいな物事でも、やがて自分の手足のように、うまく使いこなせるようになっていく。一方、ダメな連中は、ちょっとうまくいかないと、すぐ制度のせい、モノ のせい、相手のせいにする。自分を省みること無く、暴言を吐きまくって放り出す。そうやって次から次へとなんでもケチをつけて、乗り換え続ける。結局、ど れもうまくはいかない。人として大成しない。絶対に幸せにはなれない。阿Qのように自分自身に呪われた永遠の敗北者。


 なにかを変えさえすれば、と言うやつらがいたら、それがやつらの商売で、君を乗せて自分たちの権益利得を増やそうとしているだけ、ということくらい気づ けよ。他人の応援なんかするヒマがあったら、自分自身ががんばれよ。自分の手元にあるもののありがたさは、失ってみないとわからない。失ってしまってから では、取り戻そうとしても、それは二度と君の手には入らない。問題は、制度やモノや相手じゃない。もともと世界は君一人でできているわけじゃない。やっか いな制度、うまくいかないモノ、気に入らない相手まで含めて、それが君の世界。君自身が変わって、心を入れ替え、君の手元にある物事のありがたさを理解し 感謝し協力し合わなければ、君の世界を良くはできない。

 

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/昨今の恋愛はオークション。選ばれるのは一人だけ。入札に応募できるのは、ピラミッドの上の方だけ。それ以下に勝ち目は無い。でも、どのみち世界 が違うなら、もともと関係も無いし、存在もしない。君にふさわしい相手は、君の世界のすぐ隣にいる。あとは、君が直接に会って話しかけてみようとするかだ け。/

 デパートやショッピングモールのレストラン街、すごいねぇ。有名店は、ずらーっと人が並んでいる。前の方はイスもあるが、そこから隣の店を越えて トイレの方まで立っている。一時間待ちです、なんて言われても、まだまだ後に並んでいく。あれ、ほんとうにそんなにおいしい店なのか? そりゃ、一度、並んで入ってみないとわかるまいし、いくら人がいいと言っても、自分の口に合うかどうか。一日中ひまな人はいいけれど、君のように仕事の合 間なのにそんなところに並んでいたら、昼休みが終わってしまって、何も口にしないまま夜まで仕事だよ。


 情報化社会なのはけっこうだが、拡大しきった国境無き市場のおかげで、ピラミッドの上の方には、下の方からケタ違いの数のお客が駆け上ろうとするように なってしまった。それで、新発売だの、人気商品だのは、すぐに売り切れ、入荷待ち。なのに行列。レストラン、飲料や玩具なら、待っていさえすれば、いずれ はきっと順番に買える。でも、限定品のオークションとなると、後から来たやつが高い入札で君を追い越していく。売り切れたら、そこでおしまい。待ってい たって、絶対に君は手に入れられない。


 驚いたことに、恋愛でも、同じ現象が起こっている。まさにオークション。それどころか、締め切り無しに、ただみんなのビットだけをかっさらい続けて釣り 上げるプロのアイドルまがいの連中もいる。それさぁ、いくら君ががんばって入札しても無理じゃない? いくら並んでいても、いくらカネと愛情を注ぎ込んでも、君が落札できる見込み、ゼロでしょ。だいいち向こうからすれば、君なんか絶対多数のワンオブゼム で、顔も名前も知らないよ。無償の愛。永遠に生きられるなら、それもいいけれど、四十になって一人っきりの部屋って、そのときになってから後悔しても遅い と思うけどなぁ。


 めかし込んで、着飾って、美男美女がいそうなおしゃれな場所に出入りするのもいいけれど、ごめんね、はっきり言うけれど、君に勝ち目は無いんだよ。客観 的に見てごらん。世の中には君よりも魅力的な人がいくらでもいる。君は高学歴、高収入、高身長か? 中高のころから、ミスなんとか、ミスターなんとか、って、近所で評判だった? そうでないなら、時間と努力のムダ。落札できるのは、一人に、たった一人だけ。競争になるのは、ピラミッドの上の方だけ。それ以下は、壁の花、どころか、 外に並んで待っているだけで四十越えのタイムアップ。きびしい言い方だけど、ただのストーカーで一生を終える。


 無理な場に無理に行っても、どうせ無理。そういう場に慣れているやつらにかなうわけがない。どうせすぐに馬脚が出るし、そんなお高い相手と君が長続きす るわけがない。君とは最初から住んでいる世界が違うんだ。でも、だからといって、家にいて、ネカマだか、ネナベだかわからない相手とゲームをしているだけ では、なにも始まらない。まあ、オフで会ってみたらどうだろう。ネットもしない、ゲームもやらない、知り合いなんかだれもいないなら、とりあえず、スー パーでも、図書館でも、公園でも、公共のスポーツ施設でも、どこでもいい。ちょっと外に出てみよう。ランニングやトレッキング、ちょっとしたハイキングも 悪くない。一人じゃ気恥ずかしいというのなら、子犬でも飼って、その散歩ということにすればいい。いっそネコに首輪をつけて散歩でもしていれば、だれか きっと声をかけてくれる。それが、おばあちゃんでも、なかなかの孫娘や孫息子がいるかも。


 君は自分に騙されている。直接に会って話したことも無い相手なんて、君の世界には最初から存在なんかしていなかったんだ。君は、人気レストランで素敵で 豪華なメニューを見せられているけれど、実際には、どれを注文しても、ぜんぶ売り切れ。結局、最初から最後まで、なにも口にはできない。本当に存在するの は、もともと君の世界のすぐ隣の世界にいる人。もともと君の世界のすぐ近くだから、会って話しかけさえすれば、話もはずむし、心も打ち解ける。あとは、君 が自分の狭い世界から、そのすぐ隣の世界にまで足を運んで、直接に会って話しかけてみようとするかどうかだけ。


 一人ではあまり収入が多くなくても、二人で協力すれば、部屋でもなんでも折半で、生活もすこしは楽になる。一人でテレビやマンガを見ているより、二人で 商店街でも歩ければ、いままで気づかなかったいろいろな楽しみが見つかる。スマホなんかペコペコやらなくたって、目の前に相手がいれば、いつでもその場で 話ができて、その場で生きた言葉が帰ってくる。なにより余計なムダ使いも減るし、幸せは増える。さあ、いろいろ始めるにはいい季節だ。せっかくの人生、 チャンスを逃すな。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/わかった、わかっている、と思う君自身こそが、君の思考力、想像力、共感力のリミッターになってしまっている。すべての現実を芸術作品のように、わけのわからないものとして見直すならば、そこには新鮮な発見がある。/

  これ、なぁんだ? 見りゃわかるだろ、って、そりゃそのとおり。ウサギだろ。えっ、アヒルじゃないの? ウサギはアヒルじゃない、だからアヒルなんて言っているやつは、頭がおかしい。いや、そもそもアヒルだって。アヒルだったらウサギのわけがないじゃない か。政治でも、経営でも、しょっちゅう、この手の言い争い。でも、これはほんとうはウサギアヒルかも。


 ウサギはアヒルじゃない、というのは、観察に基づく事実問題ではない。君が君の頭の中でかってに言ったこと。君は、君の頭の中でそう思ったとたん、事実 を観察するのを止めてしまう。ひとつのことがわかったら、それですべてだ、と君が決めつけ、それを絶対の基点にしてしまって、後はすべて頭の中だけで済ま そうとする。


 1から100までの数字をすべて足せ。これなんか、もっとひどい。こんな問題を与えられても、どうせ君は読むだけで、なにもやりもしない。面倒くさい。 でも、面倒くさいというのも、事実問題じゃない。君が頭の中でかってに言ったこと。逆に、あぁ、これ、ガウスの足し算じゃないか、と、すぐにわかって、 101x50=5050と即答する人もいるかもしれない。しかし、こういう人も、わかってない人と似たようなものだ。100+(1+99)+ (2+98)+……(49+51)+50=100x50+50という、ひとつずらした解法だって他にある。


 ようするに、人間、なにかわかると、わかった、解けた、って、そこで観察したり、考察したりするのを止めてしまう。面倒だ、とか、ムダだ、とか、できっ こない、とか、わかるのも同じ。そうわかると、そこで止めてしまう。でも、わかる、なんて、そもそも事実問題じゃない。君の頭の中のできごとにすぎない。 君がわかっても、わからなくても、事実の方はなにも変わってはいない。目の前に問題としてあり続けている。


 マニュアルや図解、警告音なら、読んですぐ、見てすぐ、聞いてすぐにわからないといけない。その先にやるべきことがあるから。一方、芸術は、いくら考え ても、結局、むしろよくわからないものが多い。もっともらしく、わかったかのような解説をしている評論家連中がいるが、そういう連中は、そもそも芸術とい うものそのものがよくわかっていないのだろう。むしろ、芸術は、ありのままのわけのわからないものに向き合うことで、自分の小賢さを思い知り、自分がかっ てに作ってしまっている思考と感情の壁から自分を解き放ってくれる。


 面倒だ、ムダだ、できっこない、いや、もうわかっている。でも、それこそが、君をムダに苦労させている元凶だ。君がいつまでも同じことを毎日繰り返し、 すこしも前に進めないのは、君自身が君自身の頭と心のリミッターになってしまっているから。君がそこに自分自身で思考と感情に壁を建ててしまっているか ら。たとえ、面倒だ、と思ったとしても、次には、さて、いったいどこがどう面倒なのか、じっと観察し考察を続けてみたらいい。こうして面倒の場と形がわ かったら、それに触れない道を探求してみたらいい。ガウスのような面倒ではない道が他にあるかもしれない。


 すぐにわかってしまう君の小賢しさ、君の怠惰が、せっかくの君の無限の才能、君の思考力、想像力、共感力を妨げている。どんな現実からも目を逸らさず、 むしろそれを芸術作品のように、むしろまさにわけのわからない問題として見直すならば、そこにはいままで気づかなかった新鮮な発見がある。いつも見慣れた 通勤途中の車窓からの風景、うんざりするほど毎日、顔をつきあわせている上司や部下、取引先。君の目を曇らせてしまっているのは、君自身だ。わかったふり を止め、でも、あれは、どうしてなのかな、何なのかな、と、すこしもわかっていなかったことに気づけば、そこに新たな発見がある。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/今年、萩本欽一さんが大学に入ったとか。人生や社会の当たり前を疑って、よくわかっていないということがわかると、そこから新しいパラダイムが見えてくる。賢ぶって無理な見栄を張り続けているのを止め、大学でちょっとバカに学んでみることも、ときには大切。/

 プラトンはこう言った、カントはこう考えた、って、いまさらそんな現実離れした昔の人の変な話ばっか並べられても、なんの役にも立たないよ、現代 科学だけやっていれば十分、そもそも大学なんかよりネットの情報の方がずっと詳しい、大学の先生は世間知らずのバカばっかだ、って言うけど、そりゃそうだ よ。大学って、バカばっかだよ。バカのためにこそ大学はあるのだから。

 古代ギリシアの昔から、オレはなんでも知ってる、なんでも聞いてく れ、君に人生を教えてやろう、これで勝てる、これで成功できるという、とっておきの秘訣を伝えてあげよう、という自己啓発のグルみたいなのがいっぱいい た。彼らは「ソフィスト(知恵者)」と呼ばれ、街々で法外に高額の講演会をやって、人々から大金を巻き上げていた。でも、それ、ホントか、よくわかんない ぞ、と言って出て来たのが、ソクラテスみたいな「フィロソフィスト(知恵渇望者)」。つまり、もともと知恵が無いから、バカだから、哲学者。

  「パラダイム」なんていう言葉を聞いたことがあるだろう。野球とかサッカーとかいうのは、みなパラダイム。同じトランプで、七並べもできれば、ポーカーも できる。人生や社会も同じこと。体力が有り余って、なんでも冒険してみたい若者と、家族を守り、仕事をやり遂げたい大人、残り少ない余生を最後まで深く味 わいたい老人とでは、同じ人生でもゲームがまったく違う。生まれながらの身分世襲社会と、どんな方法を使ってでもカネを儲けたヤツが勝ちの資本主義社会、 組織の中で他人を蹴落として昇進すれば身分もカネも手に入る立身出世社会もまた、それぞれ別のゲーム、別のパラダイム。

 あるパラダイムが 主流になり、そこでさまざまな工夫が試されると、やがておおよその必勝法ができあがってくる。こうなると、その必勝法を徹底的に磨き抜いた連中の最先端の 戦いになるが、ゲームの競争からこぼれた連中の方の不満が高まり、こんなの、つまんねぇよ、なあ、みんな、別のゲームやろうぜ、って、パラダイムの大転換 が起こる。

 問題なのは、あるパラダイムにどっぷり染まると、そのパラダイムでの必勝法は当然絶対のもので、それ以外の可能性はありえな い、考えられない、となってしまうこと。しかし、そこには、そのパラダイムの中であれば、という大前提があって、じつはそのパラダイムの方はすこしも当然 絶対ではない。

 地球から夜空を見ていた時代、その動きを再現するために精緻複雑な天球儀が探求された。しかし、ガリレオが出て来て、地動 説という新パラダイムになると、地球の方が太陽のまわりで自転、公転している、という話になった。ニュートンが、天界も地上も運動法則で理解できる、と、 二つの研究ゲームを統一。そしてアインシュタインは、時間も空間も互換性がある、と、さらに統一。じゃ、最新最先端の現代科学だけ勉強すればいいじゃん、 と思うかもしれないが、世界がのっぺりとエネルギーで満ちた空間なのか、それとも、粒々と真空の隙間でできているのか、いまだに両方の研究ゲームが連携し ながら並立していたりする。人生だって、世襲ゲーム、資本ゲーム、昇進ゲームのように複数のものが絡み合って同時進行している。

 それぞれ のゲームの中で、どうすれば最適最善か、なにが必勝法か、みたいな話は、企業が命運を賭けてやればいいし、巷に溢れる有名なソフィストの「先生」に習えば いい。一方、大学でやっているのは、理系でも、文系でも、根本はみな一種の哲学。いま○○ということになっているけれど、根本的な見方を変えたらXXなん じゃないだろうか、って、バカみたいなこと考える。生物と物質、情報と道徳、歴史と現在、個人と社会、等々、ぜんぜん別のパラダイムと思われているけれ ど、一つのゲームに統一できるんじゃないだろうか、とか。

 オレは頭がいい、大学の先生なんかより、歴史のことなら、映画のことなら、ずっ といっぱい知ってるぞ、ぜったい勝てるぞ、というような秀才は、せいぜい世間で評論家でもやっていればいい。それは、わかっている、のではなく、わかって いると思っているだけ。あくまでも、現行パラダイムの中でのソフィスト。一方、うーん、やっぱりよくわかんないんだよなぁ、と、わかっていないことをよく わかっていて、ぼやいている天才肌の「バカ」な人だけが、現行のパラダイムの隙間やアラに、まったく別の新しいパラダイムに抜ける突破口を開く。

  だから、大学の先生方に「バカ」はむしろ褒め言葉。数学バカ、化学バカ、歴史バカ、文学バカ、大学は「研究バカ上等」の業界。べつに世間がなんと言おう と、同時代同分野の凡百の研究者がどう評価しようと、業績の意義は、業績の結果、そこから見え、そこから切り拓かれてくる新しい時代、新しいパラダイムに よってのみ決まる。もちろん最近は、大学の中でも企業化してしまって、パラダイム内での研究開発競争に明け暮れている分野も少なくないが、たとえどんなに 隅っこに押しやられていても、本筋はあくまで研究バカ。みんな、それぞれに研究を楽しんでいる。

 時代に決められ、人に与えられたゲームの 中で、あれこれのソフィストのビジネス書で、その必勝法を極めるのもいいけれど、べつにそれだけが唯一絶対のゲームじゃない。人間、年齢や健康とともに ゲームを乗り換えていかなければならないし、世の中も、同じゲームがいつまでも続くわけじゃない。旅をして他の国の他の生き方、暮らし方を知るように、大 学でバカな研究を知るのも、人生を豊かにする方法のひとつ。

 若いくせに、すでに狭いパラダイムの中に頭も心も凝り固まり、なんの伸びしろ も無いなんて、あまりに情けない。いったん大学の先生のバカさ加減に本気でつきあってみれば、こんなバカなことをやって生きてる変なやつらもいるんだ、と 驚くだろう。フルタイムの学生に戻るほど、カネや時間や体力の余裕は無いという人でも、昨今、どこの大学でも聴講生という手がある。オレはもう功遂げ、名 を成したなんていう、どこかの終わったパラダイムでのつまらないプライドなんか放り出して、若い連中に混じって、近所の大学にでも、毎週、遊びがてら勉強 に行ってみてはどうだろう。年寄り同士が集まって昔の自慢合戦ばかりしているより、よほど新鮮で刺激的だ。

 人生、いつでもまだ、なにも終わってはいないし、なにも始まってもいない。ちょっと大学にでも行って、いったんバカになって、世界の常識の方を疑ってみれば、いくらでもまた他の生き方、考え方、仕事の仕方の可能性はある。


(大 阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン  洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/新人は自分たちの変な常識を職場に持ち込もうとする。それも、ユトリ世代は、少子化社会にあって、ゴリ押しでうまく世渡りしてきた。しかし、使えないやつは、勝手に不満を募らせ、どうせ自分から辞めて行く。それより、自分が新人に足を引っ張られないようにすることが大切。/

 信じられないことばかりかもしれない。おまえ、社会人にもなって、なんで遅刻してくるわけ? なんて、ぶち切れてみたどころで、二十分くらい、いいじゃないっすか、てなところ。いや、おまえ新人だろ、オレより先に来るのが当然だろ、と言い返して も、当然ってなんすか、先輩の方が先に来てるんだから、先輩が先に仕事を始めているのが当然なんじゃないんすか? と、やり返されるだけ。

  べつに新人が君をなめているわけじゃない。単純な文化摩擦。連中は、連中のこれまでの生活習慣を職場にそのまま持ってきただけ。君は新人の方が職場の習慣 に合わせるべきだと思っているが、やつらは君の方が自分たちの常識に合わせるべきだと思っている。現実問題として、君には権限がなさすぎる。君が怒ったと ころで、新人をクビにできるわけじゃない。叱ったところで、連中はむしろ君の方が間違っていると確信している。本気になって、手なんか上げたら君がクビ。 大声でどなっただけでも、パワハラだ。かといって、このままだと、新人の指導係として君の評価に係わる。君はもう八方ふさがり。

  だが、これは、いつの時代にも繰り返されている新人の世間知らずとはわけが違う。ユトリ世代の連中は、子供のときから、そうやって無理のゴリ押しで生きて きた。自分ことだけで手いっぱいの親は、子供のことなんかほったらかし。問題だらけで手に負えない学校も、見て見ぬふりで先送り。屁理屈で強硬にゴネてい れば、相手の方が折れ、問題そのものまで揉み消してくれるのを、彼らはよく知っている。学生時代のバイトも、すっぽかそうと、デタラメしようと、慢性的な 人手不足で、店長の方が御機嫌取り。少子化社会というのは、こういうこと。一人っ子政策の中国の「小皇帝」「小皇后」と同じことが、日本でも社会的に自然 発生した。

 戦後復興期の生産拡大にも、団塊世代の中卒単純労働力が「金の卵」としてチヤホヤされ、ちょっとでも気に入らないこ とがあると、すぐに集団就職の職場から失踪。都会には他に働くところがいくらでもあったからだ。当時の離職率は20%を越え、彼らは単純によりよい待遇を 求めて仕事を渡り歩き、熟練技術を習得することもないまま、73年のオイルショック不況の自働生産の合理化で放り出され、使い捨てになった。

  おそらく、今後の日本経済でも同じことが起こる。生産性の低い、それどころかムダに人事管理コストの高い現在の若年層の単純労働力は、遠からず技術革新に よって置き換えられる。連中が使えなければ使えないほど、接客や販売、サービスにおけるコストダウン・イノヴェイションの開発と投資が割に合うものとな り、利益率を飛躍的に向上させるものとなるからだ。

 それまでの我慢、我慢。怒ったら負け。新人の指導係なんて、いましばらくだけのこと。 半年もすれば、どこか別の職場に転属になる。もっとも、運が悪いと、もっとすごいのが君の職場に送り込まれてくるかもしれない。でも、大丈夫。新人研修 は、遠心分離機みたいなもの。あちこちをグルグル回しているうちに、ダメな砂やゴミを外に弾き飛ばす。とくにユトリは頭の中がお花畑だから、三年以内に、こんな地味な職場にいられるか、とか意味不明にブチ切れ、独立するとか転職するとか大言壮語して、自分の方からどこかにいなくなる。そして、これまた自然淘汰で、同じ新人でも、腹の据わっているやつ、世間の厳しさがわかっているまともなやつは、きちんと中に残る。

  真の先輩後輩になるのは、それからのこと。それより、その前に君が切られないことこそ、一大事。バカな新人に足を引っ張られることくらい、折り込み済みに しておかないと。とりあえずは、そうだね、わかるよ、うん、そうそう、と、微笑んで、ものわかりのいい先輩を演じ続けよう。時 間などは、最初から、三十分くらいサバを読んで、彼らに伝えておこう。そして、後から行って、ごめん、ごめん、遅くなっちゃったかな、などと、笑ってガキ の常識に迎合。怒らないのも、仕事のうち。こういうのが、老練な「大人」の余裕というもの。君に任せた以上、上司たちは口を挟んだりはしないが、君が新人 相手に苦労してがんばっていることは、みんなよくわかっている。新人連中のタメ口に引きずられ、本気になったら負けだよ。


(大阪芸術大学芸 術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大量のラーメンで「栄養」を摂っているつもりも、そんなの、体に悪いだけ。どうでもいい情報ばかり集めていても、バカは拗れるばかり。知って気づいたことを身につける、自分を変えていく勉強でしか、自分自身の問題は乗り越えられない。/

 ラーメンをすすり、焼き肉にがっつき、ジャンクフードをばりばりやってたら、人は強くなるだろうか。体力をつけるのに、たしかに栄養は必要だが、 むだに余分な「栄養」ばかり摂っていても、かえって体に悪いだけ。そんなことは、だれでもわかっている。ところが、勉強となると、大量の情報さえ吸収して いればいい、と勘違いしているやつが少なくない。いくら雑学、雑知識が溢れていても、バカはやっぱりバカのままだよ。それどころか、よけい拗れて、救えな くなる。

 勉強のキモは、自分自身の心を磨くこと。むしろどうでもいい迷妄を振り捨て、精神を筋肉質にシェイプアップすること。ボディビル と同様のマインドビル。心にしっかりとした背骨があれば、ムダな情報、余計な変化に振り回されて右往左往したりしなくて済むようになる。とにかくただ量的 に知識を増やそうとする諸科学に対して、哲学の方が根本だ、とされるのも、こういう理由。

 知識は、自分を作る勉強のための気づきのきっか けにすぎない。知って気づいたことが身にならなければ、学んだことにはならない。修練とか、修業とかいうと、かつての戦争や宗教のせいなのか、昨今の日本 では、なにか高圧的、妄信的な印象だが、どんな知も、学んで修めないと、智にはならない。やたらムダに大飯喰いをしただけでは体力にならないのと同じこ と。

 とはいえ、現代は、自己肯定感が強い。いや、むしろ逆に、自己肯定感が危機的なのかもしれない。おまえ、そのままじゃダメだよ、なん て、口に出して人に言われてしまうと、激昂して逆切れする。それって、大量のラーメンを食べて、大量の栄養を取っているから大丈夫なんだ、オレはまちがい なく健康だ、と、言い張るようなもの。底辺連中の妙ちくりんなプリクラ写真のように、若いくせに早くも、こんな自分が大好き、とってもかわいい、ずっとこ のままでいい、と自分に酔ってしまっているやつには、もう伸びシロが無い。あとは、そうして酔っ払ったまま、気持ちよく、今よりさらに下へ下へ、ただ墜ち ていくだけ。

  心の「体型」は、顔に出る。目に出る。健全な心の人は、目が輝いている。顔つきが引き締まり、胸を張り、あごを上げて、しっかりと前を見据えている。一 方、心が死んでしまっている人は、死んだ魚の目をしている。猫背で、落ち着きが無く、やたら饒舌なわりに、口角が下がり、不平と不満、ウソと自慢しか出て こない。ほら、君も鏡を見てごらん。いくら髪の毛を染めたって、カラコンを使ったって、目つき、目の動きはごまかしようもない。

 ベートー ヴェンは、絶大な評価と人気を得て、交響曲をいくつも書き、その九つ目の第四楽章に至ってなお、自分の書くべきはこんな音じゃない、と自分を全否定し、そ の向こう側へと乗り越えて行った。ただ、こんな未熟な自分は、まだ自分じゃない、もっとりっぱな、もっとしっかりした自分になれるはずだ、と、いまの自分 を否定できるやつだけが、前に進み、上に登れる。

 でも、前に進み、上に登って何がある? 今を楽しまなくて、何が楽しい? そうそう。たしかに、それはそうかも知らんねぇ。だけど、いまの自分に納得できずにリストカットを繰り返し、ダメ仲間同士で傷をなめ合い、他人のフリのコ スプレに明け暮れてムダに時を過ごし、人が唯一注目してくれていた若ささえも失って、ただ老いさらばえていくくらいなら、苦しい思いをしながらも、一歩、 一歩、山を登っている方が、生きていることも実感でき、世間の展望も開けて、自分が進むべき方向も見えてくるものだよ。

 他人や世間のあれ これを知って、うらやんでも、けなしても、自分の腹の足しになるわけじゃない。不平不満ばかり言っていても、それで世の中が君の機嫌を取ってくれるわけ じゃない。今が嫌でも、昔に戻れるわけじゃない。この自分は、これからどうしたらいいのか。生きて、この世で何ができるのか。就職も、結婚も、仕事も、子 育ても、そして、老いるのも、病むのも、すべてが勉強。うまくいかない自分の方を否定して、問題に気づき、新しい自分自身を作り上げていくことでしか、そ れを乗り越えて行く道は無い。


 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ 朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を 流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報 告書』などがある。)

/自分が選んだ時点で、物事は終わりではない。自分が選ばなかった方、それもハズレの方の情報ひとつによっても、全体としての選択肢の優劣は大きく変わってくる。/

 三十路のよっちゃん、人生一発逆転の玉の輿を狙って、きょうも婚活に余念がない。そこへ旧友のみっちゃんから電話。いっしょにランチに出かけた。 「ねぇ、この中の、どの人を紹介してほしい?」と、三枚の写真。「旦那の独身の友人たちよ。でも、びびっと来た人、ひとりだけね」「え、ひとりだけ?」 「だれでもいいというのも節操が無いでしょ」「そうよね……」

 「あ、そうだ。この中の一人はね、IT実業家で年収数億円なんですって」 「えーっ!」 俄然、色めき立つよっちゃん。この中に、長年、夢見てきた私の王子様が! とはいえ、とりあえず、「で、で、でもね、人間は、おカネじゃないわよ」 などと、口では言ってはみる。が、手は震え、目は血走る。さんざん悩んだ末に、 ようやく決めた。「じゃあ、この人!」「あ、Aさん? BさんやCさんは、いい?」「え? まあ……」「そう。ちなみにBさんはね、小学校の先生だって」「じゃあ、Cさんは?」「うふふ。Cさんに変える? それとも、Aさんのまま?」さて、あなたならどうする? 初志貫徹でAさんを選ぶ? 優柔不断にCさんに変える?

 初志貫徹と言 えば聞こえがいいが、最初の直感を信じて、Aさんを選ぶ、そんなかたくななあなたは、いつも運を逃すだろう。この場合、Aさんが王子様である確率は、あい かわらず1/3。ところが、Cさんが王子様である確率は、なんと2/3! いまや、Aさんよりも、Cさんの方が、当たりの確率が倍も高いのだ。つまり、C さんに乗り換えた方が、運を掴める、ということ。

 わからない人のために説明しよう。最初の選択で、Aさんが王子様である確率は 1/3。BさんかCさんのどちらかが王子様である確率は2/3。さて、後者のように、BさんかCさんのどちらかが王子様であるとすれば、Bさんの方が王子 様である確率は、その50%。同様に、この場合に、Cさんの方が王子様である確率も、やはりその50%。ところが、Bさんが目当ての王子様ではない、とい うことがはっきりした時点で、BさんかCさんのどちらかが王子様である場合に、Bさんの方が王子様である確率は0%、Cさんが王子様である確率は 100%。つまり、2/3の場合において、100%確実にCさんこそが王子様なのだ。したがって、Aさんが王子様である確率は、最初から1/3のまま、少 しも変わっていないが、Cさんが王子様である確率の方がまるまる2/3に跳ね上がっている。だから、Aさんを選択したまま、ぼーっとしているのは、自分で せっかくの運をドブに捨てていることになる。

 この話の教訓:自分が選んだ時点で、物事は終わりではない。自分が選ばなかった 方、それもハズレの方の情報ひとつによっても、全体としての選択肢の優劣は大きく変わってくる。とりあえず自分がひとつを選んだとしても、それ以外のも の、たとえ失敗したもののことでも、いろいろと関心を保ち続け、全体の状況が変わった、自分が選んだものよりも有利な可能性が開けたならば、かつて選んだ ものに固執せず、新しい可能性に賭けてみることこそが、運を掴む合理的選択、ということになる。

 仕事や事業などでも同じ。たと え自分が選んだ道そのものの可能性が変わらなくても、他のものの可能性が大きく変われば、相対的に、自分が選んだものの方がいつの間にか不利になってし まっていることがある。もちろん、最初から最後まで、自分が選んだものが最善であれば、それはそれで幸せだが、すでに最善でもなくなってしまっているもの に固執し続けていれば、得られたはずの、もっとより善い可能性を、みすみす逃して、捨てていることになってしまう。状況が変われば、話も変わる。つねに周 囲にアンテナを張り、つねにその中での最善を掴もう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京 藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専 門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイ ソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/サンタの白い袋に入っているプレゼントは、おもちゃなんかじゃない。ほんとうにたいせつな、子供の幸せを祈る気持ちだ。/

「おい、そこのあんた。あんた、サンタか?」「うわっ!」「驚くこたぁ、ないだろ。老人はみんな早起きなんだ。朝の散歩だよ」「まだ真っ暗な四時で すよ。寒いでしょ」「そりゃ、おたがいさまだ」「でも、なんで、わたしがサンタだって思うんですか?」「そりゃ、クリスマスの晩に、太った年寄りが赤い服 を着て、白い袋を持って、トナカイのソリに乗ってうろうろしてたら、サンタにきまってる」「そうですか……」

「だけど、あんた、の んびりしている場合じゃないだろ。もうすぐ夜が明けるぞ」「それが、ちかごろ、この国は子供が減って、いつもより早く終わってしまって、一息ついていたと ころでして」「そうだな、この辺はもう年寄りばっかりだ。子供なんかいやしない。おまけに、ちかごろの子供ときたら、ろくなもんじゃない。ゲームがほし い、メダルがほしい、と、うるさい、うるさい。ここ数日、病院や薬局の待合いでも、何万円のなんとかを買ってやったら、すごく喜んだ、とか、抱きつかれ た、とか、そんな孫自慢ばっかりだ」「あなたも?」「いや、私は年金暮らしで、そんな余裕は無いよ。プレゼントも無しに、孫に会いに行ったって、うっとう しがられるだけだろ。そうでなくても、もうここ何年も、息子のところにも、娘のところにも行っておらん」「そうですか……」

「しか し、あんたも大変だな」「?」「いったい、あんた、どんだけカネを持ってるんだね? 世界中の子供たちにプレゼントを配って歩くなんて、そりゃまあ、長年、すいぶん酔狂な善行だとは思うが、私から言わせりゃ、あんたのやってるのは、ただの 金持の嫌みな道楽だな」「え? なにか勘違いしてませんか?」「その白い袋、子供たちへのプレゼントが入ってるんだろ?」「まさか」「じゃ、何が入ってるんだ?」「見ますか?」

「な んだ、これ? やたらと甘い匂いがするな」「クッキーですよ。子供が自分たちで焼いたジンジャーブレッドもありますよ」「子供たちへのプレゼントは?」「私が行く前から 置いてありますよ。大きいの、小さいの、いろいろですが、親御さんたちがやりくりしてなんとかするんでしょうね」「じゃ、あんたは?」「子供たちが準備し てくれたクッキーを食べてくるだけです。でも、年来、ちょっと太りすぎで、お医者さんに節制を勧められてましてね、この袋に入れて持って帰って、一年かけ てゆっくりいただくんです」「それだけ?」「眠っている子供たちの寝顔を見て、この子が幸せになれますように、と、祝福を伝えるんですよ。本業はあくまで 司教ですからね」

「いいな、あんたは特殊技能があって」「おや、あなただって、お孫さんたちの幸せを祈ることはできるでしょ」「そ りゃ、祈ってるよ、毎日、祈ってる。朝も、晩も、いつも祈ってるんだ」「だったら、行って、そう伝えてあげたらどうですか? お孫さんは、どこか遠いところに住んでいるんですか?」「いや、電車で数駅」「じゃあ、いっしょに行きませんか?」「あんたも疲れてるだろ。自分で行かれ るよ。いまから歩いて行けば、ちょうど駅で始発だ。その前に、コンビニでクッキーでも買っていってやろう。それくらいの小銭なら私にもあるさ」「いい案で すね」

「でも、こんな朝早く行って、ボケたなんて思われないかな」「クリスマスの晩は、こんな太った年寄りが、赤い服を着て、白い袋を持っ て、トナカイのソリに乗ってうろうろしているんですよ。実のおじいちゃんが朝早く孫の家の訪ねるくらい、何ですか。とはいえ、長居は無用です。ただ、大好 きだ、とだけ、伝えればいいんです。それがクリスマスですよ」


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/外に敵を求めてケチをつけているだけでは何にもならない。本当の問題は、今のダメな君自身。それを救えるのは、十年後の結果を知っている君だけ。/


 あいつがあんなことやったって、絶対にうまくいかない。いや、うまくいかないのは、おまえがジャマをするせいだろ、って、それ、どっちもヤツ当たりじゃ ない? 政治家って、なんでどこも人の党の批判ばっかりやっているんだろう。そして、君も、似たようなヤツ当たりばかりやっているんじゃないの?

 外に目標を見定め、それを乗り越えていくことで自分を高める。これは、フィヒテやヘーゲルが考えた外的弁証法。マルクスなんか、さらに派手に、資本家を 倒せば労働者の世の中が来る、って、ぶち上げた。個人でも、ライバルや試験、賞など、自分の目標を高く掲げ、それを引き寄せることで自分を引き上げようと する人は少なくない。高い山にロープを架けて、それを引っ張れば、自分が登れるはず、というわけだ。とはいえ、実際は、自分より上にある物、上にいる人に なんでもロープを引っかけ、それだけで、それより上になった気になっているだけのやつばかり。でも、それじゃ、すこしも登っていないし、ロープがすべっ て、君の頭の上に落ちてきただけ。

 ヘーゲルやマルクスが全盛の十九世紀半ば、外的弁証法とは反対のことを言い出した哲学者がいた。キルケゴール。ガチのクリスチャンで、人間は自力救済は できない、神が肉として生まれ、肉として死んだことにすがってこそ、人間も救われる、というキリスト教の原点を重んじた。これが、その後の実存主義では、 宗教色抜きになっていく。内的弁証法、と呼ばれるものだ。

 ようするに、ダメな君が、他人を批判してみたところで、その批判自体がダメ。ダメな君が、目標を決意してみたところで、その決意自体がダメ。いくらやっ ても、ぜんぶ空回りする。あんなやつより、おれの方が、とか、よし、酒は止めよう、とか言ったところで、具体的には何にもならない。だから、また明日も まったく同じように、他人の批判だの、目標の決意だのを振り回しているだけ。そして、明後日もそうだ。

 ほら、十年前を振り返ってみてごらん。君は、やっぱり、今と同じ、そんなことばかりやっていたじゃないか。この十年の結果を踏まえてみれば、十年前が失 敗だったのは一目瞭然。でも、いまの君なら、もっと具体的に、ああしておけばよかった、こうしておけばよかった、と思うことも、いろいろあるんじゃない か。

 それは今も同じこと。今のダメな君には、今のダメな君を救う力など無い。だったら、十年後の君に救ってもらえ。今のダメな君を、十年後の君に丸のまま貸 してやれ。ごちゃごちゃ反論したり、質問したりせず、十年後の君が今のダメな君に、こうしておけばいい、ああしておけばいいと助言してくれることを、その まま素直に実行しておけ。実際、この手、かのスティーヴン・キングがやっている。あまり恵まれた少年時代、青年時代ではなかったが、貧困と虚弱、アル中を 克服し、いまの成功を掴んだ。

 人生は、大きな物語だ。作家であれば、大団円の結末から逆算して、それより前の章に伏線を張っていく。囲碁でも、料理でも、できあがりから逆算して布石 や下味を準備するものだ。今のダメな君のように、行き当たりばったりで右往左往しているヒマがあったら、十年後から逆算して、今、すべきことをすべきだ。 今のダメな君には、いくら考えてみても、それが将来、何の役に立つのか、などということはわかるまい。だが、十年後の君なら、なんでも知っている。その十 年後の君の言い分に耳を傾けてみてはどうだ?


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/それを探すには、それがあることを信じないと始まらない。そして、ほんとうに信じるなら、たとえそれが今日、見つからなかったとしても、その信念はまったくゆるがない。自分を信じられるやつだけが、自分を探し、自分を見つけることができる。/

 えーっ、あんな広いところで、百円玉を探せったって、そうそう簡単に見つかるわけがない、と言う人。そう、きみには見つけられないよ。だって、きみは真剣に探す気が無い。ある、と信じないきみは、真剣に探しもしないから、けっして見つけられもしない。

 だけど、いくらがんばって探したからと言って、それで、百円玉が見つかるとはかぎらないじゃないか。いや、むしろ、現実には百円玉なんて見つからないだ ろ。そうきみが言うなら、まあ、あの代々木公園を、まるまる一日、歩き回って、百円玉が見つけられなかった、としよう。で、それだから、どうした? 今 日、見つけられなかったからといって、それで、百円玉は代々木公園には落ちていない、と、言えるのか。あんなに広い公園の中の、ほんの小さな百円玉だぞ。 たかだか一日歩き回ったくらいで、それで見つからなかったとしても、百円玉が一つも落ちていないことの証拠にも何にもなりはしない。今日、歩き回ったとこ ろでは、たまたま見つけられなかっただけだ。百円玉の一個くらい、絶対、どこかに落ちている。明日は、また別のところを歩き回って探せばいい。今日のとこ ろで見つからなかったのだから、むしろ明日のところで見つかるにちがいない。

 なぜ東大卒がタフなのか。いったん自力で難関を通ってきた自信があるから。だから、自分自身を信じることができる。そして、なにがあっても自分自身を信 じ続け、いつかほんとうの自分自身を見出して、どんなことでも、ほんとうにやり遂げてしまう。一方、推薦だの、なんだの、いったん「裏口」から入ることが できてしまったやつは、いつもまた「裏口」を探そうとする。それが、いつもどこかにあると信じて、まともな努力もせず、そればかりを探し続ける。それがせ いぜい自分にできる最善だと信じている。まして、一度、挫折してしまったやつ。どうせダメだ、と思って、本気でがんばらない。だから、うまくいかない。そ れで、ほらやっぱり、と、いよいよ失望を深める。そして、そのせいで、なにもせず、なんにもならない。

 良くも悪くも、若いときの最初の経験が世界観のすべてを作る。その最初の世界観に基づいて、人は人生の可能性を信じる。その可能性へめがけて、行動を起 こす。ところが、不思議なことに、その結果は、たとえ期待通りでなくても、その人の信念、哲学には、なんの影響もしないのだ。敗北は敗北ではない。失敗は 失敗ではない。そんなものは、数限りなくある道のたった一つが行き止まりだったというだけにすぎない。むしろ、それ以外のどれか他の道で行けば行ける、と いう、新しい、より現実的な可能性が見えてきた、喜ばしい成果だ。道はけっして一つだけじゃない。きみをけなす人、ジャマする人がいても、そいつが全世界 を代表しているわけでもない。広い世界の中には、かならずきみを歓迎してくれる人たちがいて、そこでは、きみの成功が、いまかいまかときみの到来を待って いてくれている。あとは、きみがそこにたどり着く正しい道を見つけることだけだ。

 信念がくじけ、立ち止まったとき、人は、道を見失う。道半ばで挫折した連中が船幽霊のように、きみの信念を打ち砕き、同じ亡霊の世界に引きずり込もうと する。だが、それは、まさに連中が見せる悪しき幻影だ。騙されるな。自分を信じられるやつだけが、自分を探し、自分を見つけることができる。いまからでも 遅くはない。あの広い代々木公園だ。百円玉の一枚くらい、絶対に落ちている。同様に、この広い世の中には、きみのチャンスもかならずどこかにある。後は、 きみがその存在を真剣に信じ、真剣に探すかどうかだ。探しさえすれば、きみは絶対に見つけられる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/バイトは自分の人生という貴重な資産を切売りしているだけ。気づくころには、本体価値が残っていない。きみが1時間で作り出すものは、きみの時給よりはるかに価値がある。若いうちに自分自身に付加価値を付ければ、人に搾取されることなく、その剰余をその後の数十年にわたって自分で享受することができる。/

 バイト、って、時間切売りの奴隷でしょ。売春と同じじゃん。「アルバイト」は、もともとはドイツ語で、そこそこの学生にしか理解できない言葉だった。そ れを理解できる学生、自分で勉学費や生活費を工面している苦学生を支援しよう、という善意で、バイトは生まれた。ところが、腐れファストフードあたりか ら、正社員採用を前提としない、つまり後腐れの無い、その場限りの単純労働力として、学生を搾取するようになった。つまり、恋愛や結婚の前提抜きの売春の 同類。

 若いうちは、自分の未来の時間が無限にあるように感じる。だから、ほんの数時間くらい、人の奴隷になっても、カネになるなら、なんて考える。それどころ か、あの有名の店の裏側を見せてもらえて、おカネまでくれるなんて、などと思う。しかし、そんないい仕事なら、社員たちがみんな自分たちでやってるよ。自 分たちでやらないのは、絶対に割に合わないから。

 就職活動で、自慢げにバイト歴を話すバカがいる。だが、バイト歴なんか、学生時代の活動として評価する会社は、絶対に、どこにも存在しない。バイトな ど、学生時代にまともな学校の勉強をしてこなかった、社会の活動もしてこなかった、という、最悪の経歴の空白でしかない。そんな風にかんたんに人に騙され るようなやつは、企業ではバイトとして以外は使いものにはならない。

 剰余価値説を持ち出すまでもなく、きみが1時間で作り出すものは、きみの時給より価値がある。だから、きみを雇って働かせる。いや、だけど自分でハン バーガーを作ったって、1つも売れないよ、と言うだろう。そんな考え方だから、きみは、自分を奴隷として安売りして、いいように「搾取」される。それな ら、ハンバーガーチェーンを作ったやつの最初のハンバーガーがすぐに売れたとでも思うのか。何千個も売れないハンバーガーを作ってきて、そうやって、売れ るハンバーガーの作り方を作った。そして、その作り方どおりに、言われるがままの、世間知らずのバカなアルバイトどもを働かせれば、売れるハンバーガー が、寝てても、どんどんできあがる。

 人に搾取されるのもイヤだけど、人を搾取するのもイヤだ、なんて、御立派なことを言うのなら、こんな手もある。たとえば、1時間かけて短編のマンガか小 説でも描いたらいい。それを電子出版する。もちろんすぐには売れないかもしれない。でも、続けていくうちに、すこしずつファンが付いて、君が寝ていても、 きみの作品がかってにカネを稼ぎ出すようになる。いわゆる印税生活だ。きみが1時間で作り出すものは、きみの時給より価値がある。きみの創った作品は、バ ルタン星人みたいに、きみの分身となって働いてくれる。言うまでもなく、分身は多ければ多いほどいい。

 そりゃ理屈ではそうだろうけれど、そんな才能も無いし、なんて、きみはまだ寝ぼけたことを言うかもしれない。だった、なおさらだ。才能が無いなら、新た に能力を付けることにこそ、自分の時間を使うべきだ。自分は自分の作品だ。1時間、きみが厨房やレジにいたって、きみの付加価値は変わらない。それどころ か、ムダに年だけとって、いくら時給をもらっても、じつは人生という本体資産を減価償却してしまっているだけ。英語でも、スペイン語でもいい。簿記でも、 エクセルでもいい。なにか能力を身につけて、将来、月給が1万円でも高い職につければ、学生時代のアルバイトの遺失利益なんかかんたんに取り返せる。逆 に、バイトにほうけて学校もいいかげんになり、就職もできなければ、いくらかつてバイトの時給が高かかったとしても、生涯賃金としては丸損じゃないか。

 バイトは売春と同じだ。目先の高い報酬は、将来の幸せを先取りして切売り安売りした結果にすぎない。バイトだの売春だのに明け暮れていれば、気づいたと きには、自分の未来が、まるまる無くなってしまっている。20歳の1時間は、50歳の30時間に相当する。その1時間に、きみが自分自身に付加価値をつけ れば、その後の30年間以上に渡って、それが生み出す剰余を自分で享受できる。きみが1時間で作り出すものは、きみの時給よりはるかに価値がある。そんな 貴重な1時間を、きみを騙して搾取する悪い連中に安売りしたりせず、将来の自分自身のために、自分自身の付加価値を上げることのためにこそ注ぎ込むべき だ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/昔と違って、市場が流動化している。そのために、およそ製作費の50%は、営業にかけないといけない。しかし、一人で150%ものことはできない。だからと言って、本業を人まかせにしたら、いったい何が本業なのか。/

 ジョニー・ディップ、最近の映画、やたらメイクが濃いでしょ。いや、ヒュー・ジャックマンやロバート・ダウニーJrでも同じ。後姿だけでもわかるような 派手なコスチュームばかり。でも、あれ、じつは本人じゃないから。よほど顔がアップのシーンでもないかぎり、ボディダブルと呼ばれる代役を使っている。も ともとは位置や照明の調整、アクションシーンのスタントなどのために、映画でボディダブルが使われるようになった。ところが、今日、ボディダブルをフル活 用しないと、スケジュールが間に合わない。

 スケジュールと言っても撮影ではない。営業だ。昔は、映画会社は映画さえ作っていればよかった。あとは各国の配給会社がよろしく営業をやってくれた。と ころが、いまは製作費の50%、つまり製作費が1億ドル、100億円なら5000万ドル、50億円を広告宣伝にかけないと映画が当たらない。極東の国のど うでもいい各局のワイドショーの、どうでもいいアナウンサーたちに、どうでもいい独占インタヴューを撮らせないといけない。そういう密着仕事の方こそ、本 人でないとまずい。そのせいで、映画本体の方はボディダブルまかせ。

 小説家や漫画家でも同じ。昔は好き勝手に書いて納品すれば、そのまま先生様の玉稿で通った。しかし、昨今、書く前から編集部と細かな打ち合わせをしない といけない。そのうえ、書いた後にもかなりの量の直しが求められる。同じ週単位、月単位だと、仕事が回らない。それで、完全に担当編集者の言いなりになる か、さもなければ、著作者は編集部との調整交渉に50%の能力を割いて、著作の50%の方をアシスタントにやらせるかしか方法がなくなった。

 あなたが街のケーキ屋で、とても良い商品を作っているのに売れないなら、売る努力が足らない。製作にかける努力の、さらに50%増しで売る努力をしない といけない。昔なら、商店街で、そこに店を出していれば顧客はそれを選んでくれた。ところが、市場が大きくなり、顧客は車であちこちへ出かけ、さらには通 販で遠くのものまで視野に入れるようになった。その中で生き残るには、あなたもまた、遠くの顧客まで視野にいれて、営業活動をしないといけない。

 しかし、そんな余力はない、そんなことをしたら、商品の製造が追いつかない、と、あなたは言う。でも、話は、映画や小説、漫画と同じ。営業の方は、あな たでないとできない。だから、いまの時代、製造の50%は、アルバイトに任せればいい。なんなら、2店舗にして、それぞれ100%をアルバイトにやらせ て、あなたは2店舗の営業に専念してもいい。さらに支店をどんどん増やして、これらの支店の管理も別のだれかにやらせ、あなた自身はチェーン店の広告塔と してタレントになればいい。レストランでも、美容外科でも、みんなどこでもやっている手法じゃないか。いや、小説家や漫画家でも、そうやってプロダクショ ンを大きくしてきたところは少なくないじゃないか。

 働いたら負け、というのは、本当だ。自分でやっていたら、どんなに努力して良いものを作っても、いまの時代は売れない。売ってナンボの商売としては、働 くのはアルバイトや従業員、外注のゴーストライターにやらせ、自分はへらへらへろへろを愛想を振りまき、ひたすら外回りに専念した方がいい。それに、もち ろん、作るのはアルバイトや従業員、ゴーストなんだから、簡単にできるように手順を変えないといけない。遠くの顧客まで宅配するとなれば、見栄えを保つた め、怪しげな添加物なんかもやむをえないだろう。

 だがね、バカなアナウンサーのバカなインタヴューを受けて愛想笑いをする演技のために俳優になったのか。エセ文化人タレントになって有名芸能人たちとク イズ番組で同席するために小説や漫画を書いてきたのか。駅前の壁看板やテレビCM、安物の大量生産レトルト食品のパッケージに、でかい顔写真を出すために 料理を学んできたのか。そんなことにうつつを抜かしていて、人まかせの肝心の商品の出来が落ちていって、それで、この競争の厳しい時代に、いつまでも仕事 が続くと思うのか。

 人生は短い。余計なことに時間を費していたら、本業にかけられる生活は残らない。いや、そんなことを言ったって、いまの時代、こうしないと大きな仕事は できないんだ、と、言うかもしれない。でも、どんなに大きな仕事でも、自分の名前が載っているだけで、自分でやらないのだったら、それは自分の仕事じゃな いんじゃないか。まして、本業を人まかせにして、そのせいで自分の評判まで落としたら、元も子もないんじゃないか。私なら、たとえいつまでも小さな商売に 終始するとしても、広告に釣られて増えただけの一時の浮動客より、長年の地元の顧客の方を信じて、いま以上にさらに大切にしようと考えるけどね。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/本物は、自分になろうとしたりしない。自分ではないなにかになろうとすることそのものが、かえってそれではないことを露呈し、キャンプにして、乗り越えられない壁を立ててしまう。自分の「野生」を受け入れ、そのままに磨いてこそ、自分を取り戻せるのではないのか。/

 近ごろは手術で戸籍まで変えられるそうだ。『マイフェアレディ』やその原作の『ピグマリオン』、さらに古くはヘーゲルでも言われていたように、たしか に、その人が誰であるかは、周囲がその人を誰であるとするか、にかかっている面も大きい。とはいえ、周囲が誰であるとするか、は、本人がどうであるか、に 基づくのも事実だ。医者が認めればいい、というのであれば、近ごろのやたら元気なお年寄りも、医者が身体年齢を測定して戸籍の年齢を正し、年金を打ち切っ た方がいいんじゃないか。

 しかし、戸籍がどうあれ、世間がどうあれ、本人がダブルスタンダードであるかぎり、アングリーな1インチが残って突っかかってしまう。『ヘドウィック』 は、今年2004年、ようやくトニー賞を得た。1998年にオフブロードウェイで始まって、2001年には映画も作ったが、当時は「おかま」の話として、 かならずしも世間の目は暖かくはなかった。登場人物が少ない小型の作品なうえに、主人公がドラァグ(トランスジェンダーのゲイ)では、業界としては商売に ならない、という問題もあった。しかし、テーマや楽曲がしっかりしており、映画を媒介に広く知られるところとなり、いまやカルト的な人気作として各国で繰 り返し上演されている。とはいえ、もともとプラトンの男女(おめ)神話という、哲学のハイブロウなトピックが核にあり、また、追う者と追われる者を主演俳 優が一人二役で演じる形式が映画版などで失われたために、かえって難解になった。

 ボーヴォワールは、1949年、『第二の性』において、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言い、「女」が男社会に捏造された欺瞞であるこ とを暴き、戦後のフェミニズムの道を切り拓いた。しかし、「女性が輝く」なんとかなどと言って、「野生」の女性を去勢し社畜化し、昨今の人手不足を補おう などという姑息な政治がいまだに表通りをまかり通る。だが、大阪のおばちゃんじゃないが、「野生」の女は、べつにいまさら男社会に捏造された欺瞞としての 「女」になったりしないし、しようとも思うまい。家の一仕事でもうまくやり終えたなら、化粧もせず、こたつに寝転がってテレビを見てていたとしても、女は 女だ。それで十分に輝ける。総理大臣など、知ったこっちゃあるまい。

 一方、「おかま」が新たな男女の壁なのは、それがダブルスタンダードで、わざわざ「女」になろうとするところにある。自分で壁を立てて、それでその壁を 乗り越えられなくなる。ソンタグの言う「キャンプ」だ。女ではないからこそ、表象としての「女」の記号をてんこ盛りにして、わけのわからない満艦飾のド ラァグになってしまう。やればやるほど、「野生」の女とは似ても似つかない、まさに男以外のなにものでもない「おかま」になっていってしまう。追えば追う ほど、追われる対象が、砂漠のオアシスの蜃気楼のように逃げていく。芝居の主人公ヘドウィックは、その典型だ。

 これは「おかま」だけの問題ではない。老人が、年甲斐もなく、むやみに山に登りたがったり、仕事で現役にこだわったり、若い女や男に手を出したがったり するのは、救いがたい老いの証拠。やればやるほど、見苦しい「キャンプ」になる。ヤクザ者や成り上がり社長がゴテゴテの贅沢品で身の回りを飾り立てるのも 「キャンプ」。仕事の出来ないヤツが、最新の電子機器を発売初日に並んで買って、四六時中いじってばかりいるのも「キャンプ」。自分に自信のない男がぐ ちゃぐちゃの改造車を自慢するのも「キャンプ」。ぱっとしない女がものすごい厚化粧だの整形だのをするのも「キャンプ」。もともと本物なら、それになろう とする必要がない。ところが、わざわざそれにになろうとすることで、自分がそれでないことをかえって露呈し、絶対に乗り越えられない壁を前に呆然とする。

 ボーヴォワールの相方、サルトルは、『実存主義は人間主義である』などで「人間は自由(libre)であることを呪われている」と述べている。英語のリ バティに「自由」の訳を当てたのは、福沢諭吉だとも言われているが、ラテン語の「liber」がギリシア語の「ἐλεύθερος」、すなわち、生まれに 属する、を引き継いだ語であることからすれば、それはけだし適訳ということになる。つまり、自由とは、自分が理由になる、ならなければならない、というこ と。生まれながらの「野生」の自分が決める、ということ。自由である以上、自分が何であるか、は、人のせいにはできない。他人のスタンダード(基準)で は、絶対に自分にはなれない。

 自分が、自分でないなにかを追い求めているかぎり、それは自分ではない、追い求めているものの方が自分のレゾンデートル(存在理由)になってしまう。し かし、追い求めるかぎり、それではない現実の自分というアングリーな1インチがじゃまをして、あと一歩のところで、絶対的に手が届かない。結局のところ、 自分は自分にしかなれない。たとえそれを世間が「おかま」とけなそうと、「女」らしくないとたたこうと、「じじ」くさいとけむたがろうと、だからといっ て、それに迎合してなにかしたところで、せいぜい「キャンプ」になるだけで、永遠に自分が自分ではないなにかになれるわけではない。

 自分に自信を持とう。背筋を伸ばそう。ありのままの「野生」の自分と和解しよう。あれこれ言うやつには、好きに言わせておけ。人目に媚びて、世間をごま かし、自分をごまかしたところで、そのごまかしていることの方が、きみを追い詰めることになる。いくらごまかしたところで、世間はせいぜいきみに気づかず 陰口を言わなくなるくらいで、どうせなにかしてくれるわけじゃない。それに、そんなことをしていたら、きみは、ついには、ただの透明人間になって、自分の 存在そのものを消し殺してしまう。

 世間がきみのような存在を好まないとしても、きみにも、きみのような存在を好まない世間を好まない自由はある。目をふせたりず、むしろ世間のまなざしに きみのまなざしを向けよう。裁く者こそが、その裁きゆえに裁かれるべきだ。きみは、人の決めたなにかになる必要などない。どんな自分であれ、自分ではない なにかになろうとしたりせず、そんな自分であることをそのままに磨こう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/本当の幸福は目には見えない。見えるものは、幸福の結果にすぎない。幸福でもないうちから、地位や財産、人脈など、幸福の結果だけを追い求めれば、自分の人生を安売りして、かえって不幸が増すばかり。/

 本人が幸せだと思っているなら、それが幸せなのだ、などと言う人がいる。いわゆるシロウト哲学者の通俗的な幸福主観説。だが、これはまちがっている。そして、こんなまちがった考え方こそが、あなたをむしろ不幸へと導いてしまう。

 たとえば、麻薬。本人は多幸感に包まれている。しかし、麻薬に溺れている人間、溺れる状況が幸福か。そのうえ、こういうまちがった幸福、つまり不幸に 陥ってしまっている人間は、自分でそこから脱出することもできない。詐欺や悪徳宗教に騙されている人も同じ。本人が幸せであると思っているほど、不幸なこ とはない。アリストテレスの定義によれば、幸福とは、恵まれた人生のこと。それは、事実の問題で、感覚の問題ではない。麻薬や詐欺に取り囲まれてしまって いる生活が、恵まれた状況であるわけがない。

 逆に、本当に幸福であると、幸福であるとはわからない。それは、背の高い人が、背が高いと実感できないのと同じ。人間は、差分しか認識できない。不幸か ら幸福になれば、もしくは、幸福から不幸になれば、それはすぐにわかる。だが、いつも幸福であれば、それがいつも当たり前で、空気同様、とくになにも感じ ない。それどころか、恵まれすぎて、どうでもいいようなことを大きく考え、やたら不幸がっている人もいる。それは、そんなことで不幸がっていられるくらい 恵まれていればこそ。

 地位や財産、人脈など、人は、幸福そうに見える人をうらやみ、自分もそうありたいと願う。ところが、奇妙なことに、これらを追い求めると、逆に幸福を失 うことも多い。これらは、あくまで幸福の結果であって、幸福でもないうちから、幸福の結果を先に得てしまおうとするのは、無理な前借と同じ。いずれそのツ ケが戻って、クビを締めることになる。たとえば、円満な夫婦に赤ちゃんが授かるのであって、赤ちゃんを授ってさえしまえば、円満な夫婦になれるなどと考え るのは、大きなまちがいだ。

 逆に言えば、見せかけとして結果しない幸福もいくらでもある。たとえ赤ちゃんが授からなくても円満な夫婦がいくらでもいるようなもの。生活能力があっ て、やりくりがうまく、良い家族や友人がいるのであれば、それが恵まれているということ。地位を昇り、財産を成し、一派を築く、などというのは、むしろ言 わば、幸いに恵まれた人の、世間のためのおまけのボランティアのようなもの。

 いまだふだんの生活が整ってもいないうちから、地位や財産、人脈を追い求めるのは、自分の人生を世間の見栄のために安売り、切り売りしているのと同じ。 見せびらかしの偽の幸福の代償として、体を壊し、家族を裂き、友人たちを裏切っては、本当の幸福を味わうはずの自分も失ってしまう。そのうえ、たとえそこ までして地位や財産、人脈を得ても、能力が値しない、親族知人が争う、見えかけばかりが立派で、本人が劣等感に打ちひしがれる、等々、かえって不幸が増す ばかり。

 目に見える偽の幸福を他人に見せびらかしている人は、人に騙されているか、人を騙そうとしているか。だが、ほんとうにたいせつなものは、けっして目には 見えない。日常のことは、およそ実感できない。しかし、目に見えない、実感できない、としても、だからといって、それは、無いということを意味しない。本 当の幸福ということ、恵まれた人生というものは、まさに目にも見えず、実感もできない。幸福を特別に意識せずにいられるような生活を整えられるように 日々、無事に努力していられてこそ、それが幸福。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。)

/リンゴを求めて山をさまよっても、時間のムダ。確実に手に入れたければ、自分の足下に種を撒いて育てるしかない。種は実とは似ていないし、苗を育てるのも容易ではないが、諦めずに世話をし続けてこそ、いつか花が咲き、実がなる年もやってくる。/

 人がおいしそうなリンゴを持っている。自分だって、と思う。だからといって、人のものに手を伸ばしても、あなたはけっして他人のリンゴには手が届かな い。それで嫉妬して、なんとかつつき落とし、盗み拾おうなどとしても、そのリンゴは、地に落ちたとたんに、ドロドロと腐って溶けてしまう。やはり自分で探 そうと、あなたは山に分け入る。こんなに広いのだから、まだだれのものでもない野生のリンゴだって、どこかにあるにきまっている、と、あなたは、希望に満 ちて、深い森をさまよい続ける。だが、いつまでも、一つも見つからない。あきらめて家に帰るころには、すっかり白髪の老人になっている。

 野生のリンゴ、野良リンゴなど、いまどきあるわけがない。 幸せも、同じこと。探したって、道に落ちているわけがない。いい仕事、いい結婚相手、そんな ものが、そこらに転がっているわけがない。なのに、あなたは、そんな、だれのものでもない幸せに巡り会える奇跡を勝手に妄想して、今日も街を歩き回ってい る。しかし、それは時間のムダ。

 確実に自分のリンゴを手に入れたければ、時間はかかるが、自分で自分の足下にリンゴの種を撒くことだ。どこにも探しに行く必要などない。それどころか、 どこにも行かず、だれにも踏まれないように、そこに留まり続けて、苗を守ってやらなければいけない。水をかかさず、肥料を与え、陽に当てて、五年も待て ば、きっと実がなる。

 ただ、難しいのは、リンゴの種は、リンゴの形などしていない、ということ。姫リンゴのような小さなリンゴが、そのまま大きなリンゴに育つわけではない。 種は、その実とはまったく違う形をしている。だから、種を見ても、なんの実の種だかわからないことも多い。それで、みんな、種には目もくれず、実ばかりを 追いかけている。けれども、種だけなら、意外にそこらに落ちているものだ。とはいえ、もちろん、なんでも拾って撒けばいいというものでもない。間違った種 を撒けば、まちがった実がなってしまう。ほんとうにこの種でいいのか、撒く前に、よくよく慎重に見極めないといけない。

 また、種は一朝一夕に実を付けるわけではない。芽が出るまでだけでも、数週間。まして、その後も、茎や葉が伸びるだけで、花も咲かない。それでも、毎 日、毎日、ていねいに世話をし続けないといけない。たった一日でも欠かせば、葉はしおれ、虫がつき、これまでの手間も、すべてムダになってしまう。根気強 く、諦めずに、育てて続けていてこそ、いつかは花が咲き、実のなる年もやってくる。

 こんな努力、あまり人に言いふらすものでもない。種を植えただけでは、芽が出て伸びるかどうかもわからない。苗でも枯れることもある。たとえ花が咲いて も、実にならないかもしれない。どうせ人に言ったところで、他人は、種や苗を見ても、それが何の実になるのかわかってもらえるわけがない。わかってもらえ たところで、なにか手伝ってもらえるわけでもない。逆に、花が咲き、実がなると、それだけでも目立つのだから、その実を盗んでやろうとか、落としてやろう とかいう面倒な嫉妬深い連中も寄ってきてしまう。むしろ静かに黙って、自分と家族、親しい友人たちだけで、おいしく味わい、また、来年を楽しみに、世話を 続ければいい。

 いま幸せな人を見て、指をくわえて見ていても、他人の幸せは、けっしてあなたのものにはならない。幸せは、いくら探しても、道には落ちてはいない。自分で種から育てるのでなければ、自分の幸せは手に入らない。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/中学生でもあるまいに、合意だ、権利だ、協力だ、などというきれいごとを家庭内で並べ立てても、無理。いっそ、結婚で妥協・義務・我慢は当然、としてこそ、すばらしいパートナーと幸せに暮らせる可能性も現実に開けるのではないのか。/

 日本国憲法第24条「婚姻は、両性の妥協のみに基づいて成立し、夫婦が同等の義務を有することを基本として、相互の我慢により、維持されなければならない。」と、まあ、改憲論が喧しい昨今、少子化が悩ましい現代、ついでにかように改憲すべきだと思う。

 現行憲法のように、「両性の合意のみに基づいて成立している」婚姻だからダメなのではないか。本人たちの合意しか基づいていないせいで、どちらか一方 が、やーめた、と言っただけで、かんたんに合意が崩れ、すぐに離婚。しかし、婚姻となれば、子供もいるし、親兄弟、親戚や友人、知人、町内、自治体まで巻 き込んだ話ではないか。本人たちだけで、文字通り好き勝手にくっついたり離れたりされたのでは、周囲が迷惑。むしろ、いろいろあるにしても、周囲から見 て、そんなものじゃないのか、という程度の相手と、そんなものかな、という妥協でくっつくなら、もっと多くくっつけるものではないのか。

 まして、「夫婦が同等の権利を有する」って、なんだ? 家の中で権利だ、権利だ、などと言ったところで、家を差配しているのが自分たちなのだから、いっ たい誰に対して権利を要求する気なのか。家の中に入り込む権利があるとすれば、せいぜい子供の側、自治体の側だけ。飯喰わせろ、おもちゃ買え、税金払え、 ゴミは分別して出せ、等々。当人たちにおいて、自分たちの家を自分たちで守りたければ、家の中にあるのは義務だけだ。なんとかして収入を得る義務、とにも かくにも掃除や洗濯で家の中を片付ける義務、なにより子供たちを喰わせ学ばせ育てる義務。家庭生活は、毎日が義務だらけ。

 そして、我慢。夫婦の原理原則だの世間一般だのを持ち出して、旦那なんだから、主婦なんだから、と、相手をあげつらえば、キリが無い。まったく、あい つ、協力する気が無いんだから、なんて、ネチネチと言ってみたところで、そんなことを言ってやってくれるくらいなら、とっくにやってくれている。しょせん は、おたがい、割れ鍋に綴じ蓋。自分も自分なのだし、まあ、そんな人なんだ、と割り切ってこそ、そんな人だけど、でも、と、相手の良いところも見えてくる (かもしれない)。

 戦後、旧来の高圧支配的な「家」の制度を否定したまではよかったが、それに代わるものが、現行憲法のような熱烈恋愛絶対主義の幻想では、日本の家庭はも たなかった。日本人は、フランス人のような、熱烈恋愛を生涯に維持し続けられるような生活心情を持ち合わせていないし、フランス人ですら、そんなことは現 実にはうまくいっていない。おぼこい中学生の夢の妄想でもあるまいに、「合意」だの「権利」だの「協力」だの、結婚にそんなきれいごとばかり並べ立てて も、そんなものが現実にあるわけがない。だから、結婚しない、できない、それで、結婚の理想妄想だけがさらに膨らむ、という悪循環。

 「妥協」「義務」「我慢」こそ、結婚の本質。それは、さまざまな言及を見ても、古代からまったく変わらない。だが、それでも人間は古代から結婚してき た。一回限りの人生、長い一生において、たった一人で孤独を堪え忍びながら歯を食いしばり、苦難に立ち向かうのは、あまりに辛い。そこに信頼できるつれあ いがいれば、どれだけ心強いことか。

 もちろん結婚で不幸になることもある。だが、ひとりで一生を終えるより、はるかに幸せになれる可能性もある。とりあえず、中学生並みの熱烈恋愛の結婚妄 想は捨て、おおいに「妥協」してみてはどうか。絵に描いたような権利や協力はともかく、すばらしいパートナーに出会い、その人と一度限りの貴重な人生を いっしょに楽しく暮らしていける幸運は、ほんとうに現実にあるものなのだから。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/一秒一秒という砂金を大切に拾い集めて、そこから実りを引き出すか、それとも、こんなちっぽけなもの、と、指で弾き飛ばしてしまうか。しかし、自分の幸せを自分で捨ててしまう人は、ぜったいに幸せにはなれない。/

 男がいつものように玄関を開けて出ると、そこになにか金色に光る小さなものが落ちていた。拾ってみる。麦粒ほどのなにか。金色のメッキかペンキが剥げて 丸まったものか。へっ、なんだ、くだらない、つまんねぇ、と、男は、それを指で弾き飛ばした。そして、翌朝、起きて出る。おや、まただ。拾ってはみたもの のの、こんなもの、と、ぽい。ところが、その翌朝も。もう拾いもしない。靴で蹴散らした。どこが来るのか知らないが、とにかく毎日、毎日。こんなちっぽけ なもの、たとえ本物の金であっても、なんの役にも立たない、と、やがて気にもしなくなった。

 今日もまた、息もできないほど満員の電車で通勤。窓からぼーっと外の景色を眺める。都会の街中ながら、小さな畑が見えた。黄金の麦畑。自分と歳も大差な いやつが、タオルで汗をぬぐいながら耕している。幸せそうだ。自分とは何が違ったのだろう。そんなことを思い悩んでいるうちに、ほんとうに気分が悪くなっ てきた。立っていられない。次に止まった駅で降り、会社に遅刻の連絡して、とにかく駅の外の空気を吸うことにした。

 さっきの畑のところに出た。きれいに手入れしていますね。ええ、おかげさまで。これ、麦ですか? ええ、麦です。どうしてまた麦を? いや、家の前に一 粒、落ちてましてね、それも毎日ですよ。拾い集めて、テーブルの上の植木鉢に植えたら、穂が出まして、その実りをベランダのプランターに植え、また植え、 また植えしていたら、とうとうこんな家庭菜園です。手入れがたいへんですが、それがまた楽しみでしてね。

 あなたは、いつも空を見あげ、どーんと大きな純金の塊でも降ってこないか、と期待している。しかし、砂金は、まめに川底の泥を浚っていてこそ見つかるもの。それを丹念に拾い集めて、革袋いっぱいにするもの。

 毎日二四時間、その一秒一秒、あなたには天から砂金が降り注いでいる。それを集めて、撒いて育てて畑にするか、それとも、毎度、鼻クソといっしょに丸め、指でどこかに弾き飛ばしてしまうか。

 そして、こんな寓話が、まさに黄金の麦種。たまたまあなたはこのページを開いた。へっ、なんだ、くだらない、つまんねぇ、と、指で弾き飛ばして忘れてし まうのも、とりあえず拾って自分自身の庭に撒いてみるのも、あなた次第。しかし、幸せを自分で捨ててしまう人は、ぜったいに幸せにはなれない。だが、どん な小さな幸せでも、それを拾い集めて、大切に育てていけば、そこから芽が出て、穂を着け、大きな実りにもなる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/他人のつらさはわからない。専門の医者ですらわからないことだらけなのだから、シロウトが他人を詐病だなどとあげつらうのは、変じゃないか。わからない以上は、思いやりを持って接し、それで騙されたとしても、本当に苦しむ人を心まで傷つけるよりはまし。/

 体の強いやつを友達にするな、と、吉田兼好も『徒然草』で書いている。病気や障害のつらさというのは、本人でなければわからない。ところが、ムダに屈強 な体力バカは、他人のつらさはわからない、ということがわからない。色盲の人の目の前で手を振って、なんだおまえ、目が見えてるじゃないか、この嘘つき!  などとやって、勝ち誇ったように悦に入ったりする。

 感音性難聴などという障害も、この色盲と似たようなものらしい。音が聞こえない、というのではなく、音の存在そのものは聞こえても、周波数的に音像が崩 れていてうまく聞き取れない、という、内耳神経系の障害。物理的な音波振動に関する外耳や中耳の伝音性難聴と違って、ただ音を拡大するだけの補聴器を使っ たところでどうなるものでもあるまい。色盲にメガネが役に立たないのと同じ。原因もわからないし、治療法もない、そもそも本人がうまく人に説明できないと いうことで、ほんの数十年前まで、うやむやだったとか。ところが、近年、脳波検査(ABR)の発達で的確な判断ができるようになり、電子技術で感音性用補 聴器や人工内耳なんていうのが急激に普及しつつあるそうだ。

 ちょっと前までは、鬱病ですら、世間では、根性無しの怠け者の詐病、とされていた。痛風や糖尿病なんかも、贅沢病とされ、もっとちゃんと働きゃ治る、な どと言うバカがいっぱいだった。女性だけでなく、男性にも更年期障害がある、と、言われるようになったのも、つい最近。しかし、メリノール病だの、脳脊髄 液減少症だの、パニック障害だの、慢性疲労症候群だのとなると、いまだに知らない人の方が多いかも。ぐだぐだ言ってないで、酔い止めでも飲んで、這ってで も職場に出てこい、みたいな鬼上司がいたりする。

 妊婦や老人、子供に関してもそうだ。いや、まだ外見でわかるだけまし。わしは年寄りじゃ、大切にせんか、と、電車の中で老人が若者に無理やり席を譲らせ たら、その若者が目の前で起立性貧血かなにかですぐにぶっ倒れた、なんていうことも。その老人だって、見た目には元気そうでも、つねにニトロを持ち歩いて いる、降圧剤だの、ブドウ糖だの、お守りにしているのかもしれない。

 その分野の専門の医者でもないくせに、ほら見てみろ、あいつは病気じゃない、詐病だ、なんて、シロウトが言うもんじゃあるまい。専門の医者ですら、外か ら見ただけで病気とわかる病気ばかりではないのだから。逆にまた、ほんとうに障害があるなら、できっこないはずだ、なんて、決めつけるものでもあるまい。 足だけで上手に料理や家事、子育てまでやってのける人もいる。脳溢血からのリハビリで、運動能力でも、言語能力でも、驚くほど回復する人もいる。

 もちろん、詐病のやつらは、医者でもよくわからない、という隙間を悪用しようとするのだろうが、医者でもよくわからないことをシロウトごときが簡単に判 断できるわけがあるまい。推定無罪じゃないが、本人が不調を訴えているなら、とりあえずその相手のことを心配してやる、というのが、まともな人間じゃない だろうか。いや、たとえ不調を訴えていなくても、無理に我慢しているだけかも、と思って、無理に無理をさせない思いやりがあってもいいんじゃないだろう か。まあ、なんにしても、他人の病気や障害のことをシロウトが口先であげつらうのは、品性が疑われる。本当に病気や障害で苦しむ人を心まで傷けるくらいな ら、私は詐病の悪人に騙される脳天気な善人でありたい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/同じカネと時間を使っても、生きるのがうまい人は、それを費やさず、資産に換え、自分を豊かにし、その資産とともに生きる。人生の中で経歴資産を積み上げ、そこに次々とレヴァレッジをかけていってこそ、人間は自分自身を作ることができる。/

 誰でも簿記は最初に習っておくべきだ。重要なのは、フローとストックの概念。同じ使ったカネでも、費用支出と資産購入では、意味がまったく異なる。たと えば投資物件の購入は、カネを使ったとはいえ、相応の資産として保持され、必要に応じてふたたび換金でき、それも元の額より多くなる。一方、見栄を張った だけの過剰な広告宣伝のようなものは、まったくの消費支出で、後にはなにも残らない。

 同じことが個人についても言える。生きるのがうまい人とダメな人の違いは、カネの使い方、時間の使い方にある。生きるのがうまい人は、カネと時間を生か す。つまり、資産に換え、自分を豊かにし、その資産とともに生きる。たとえば車の免許。自動車学校は費用のように見えるが、きちんと免許を取得すれば、そ れは一生使える。学歴や語学なども同じ。逆に、ダメな人は、カネや時間をドブに捨てる。ゲームだの、ブランド品だの、そのときは楽しいのだろうが、しょせ ん遊びで、結局、なにも残らない。もっとダメな人は、まさに小人閑居して不善を為すの言葉どおり、せっかくのカネや時間を、酒や悪事に費やす。飲んだくれ て体を壊し、やるべきではないことをやって、自分の人生を棒に振る。

 カネや時間は無限にあるわけではない。とくに時間は生ものだ。後に取っておけるわけではない。その場で使わないわけにはいかない。だからこそ、それぞれ の年齢、年代に、それぞれの年齢、年代に応じた最善の資産化によって、ずっと生かすことが求められる。まだまだ先が長い、若いうちは、どうせろくにカネも 無いだろうから、その長い先にずっと役立つな基礎的な勉強に時間を使うのがいいだろう。それによって仕事とカネを得、あわてず、あせらず、良い伴侶を見つ け、心安らげる家庭を持つことが、生活の安定をもたらす。そしてさらに、家庭を足場に、ある程度の経験と自信がついたところで、自分にしかできない仕事に 取り組み、自分自身を仕上げることが求められる。

 ありきたりな話だが、これがありきたりなのは、このやり方が人間の道理にかなっているからだ。最初から一発狙いで無理をすれば、若いうちに心得ておくべ き常識が抜け落ち、ずっとツケとなって、その後の長い人生に足を引っ張り続ける。また、いい年をして色に狂えば、地位も肩書も失い、家族からも見放された 不幸な晩年を送る。これらは、自分の資産を壊すために、それどころか自分自身を殺すためにカネと時間を使ったようなもの。

 だが、簿記で難しいのは、資産評価がかならずしも会計規則通りにはならないということ。投資のつもりで買い、帳簿上は購入価格で記載されていても、毀損 してしまったり、時代が変ったりで、現実にはそれだけの価値が無かったりする。時代に踊らされて、手間ばかりかかる難しい資格を取ったところで、また、巨 大化して自重で潰れるような会社の中で権謀術数を駆使して出世したところで、これらには資産価値は無い。転職市場でも、まったく評価されない。逆に、一見 ムダに見えるような芸事や趣味でも、一事専心で打ち込み、その道で知られるようになれば、人脈も広がり、身を助けることもある。

 目先の価値、目先の損得に目を奪われると、資産評価を間違える。カネと時間を使って自分がやった物事は、その後、それをやった自分として、自分とともに ずっと生きていくべき物事だ。先々になりたい自分を考えて、それに向けて、どのように人生の資産を積み上げていくか、どのような順で経歴レヴァレッジを効 かせて、より大きな人生の資産形成に手が届くようにするか。人間は、自分自身を自分自身で作っていくものだ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/使い捨てはムダと言うが、鉄骨とコンクリで固めて、時代の変化に対応できなくなり、撤去廃棄している方がよほどムダ。再生産可能な資源を前提にした日本の使い捨て文化の美徳を見直そう。/

 使い捨てはもったいない、などと言うが、インフルエンザでも、ノロウィルスでも、使い捨てこそ、予防と対策のかなめ。政治でも、建設でも、寒冷で断絶的 な欧米の内陸都市の猿マネをしても、結局、日本の風土には合わない、それどころか、そういう風土に合わない欧米かぶれこそが、この国に多くの問題を引き起 こし、大きな危険をもたらしているのではないだろうか。

 昨年は伊勢も出雲も式年だったが、神道の根本はミゾキとハライ。建物でもなんでも、使い捨てて一新する。いや、宗教だけでない。障子でも、畳でも、年ご と、事ごとに、ぜんぶ捨て去って、取り換える。首都でも、政権でも、使い捨てが肝心。そうでないと、ケガレにやられてしまう。高温多湿で、紫外線も強く、 害虫や雑菌も発生しやすい。人間関係も義理人情もやたら濃厚で、ほっておくと縁故情実ですぐに腐敗する。だから、使い捨て、定期的な遷都改幕は、この国を 清浄に保つための、古来からの日本の知恵だった。

 ところが、明治になって欧米の猿マネをして、制度も、国土も、がんじがらめに固めまくった。しかし、四方を海に囲まれ、世界の影響を受けやすい国で、未 来永遠完全固定の制度など維持できるわけがない。潮風を受ける海沿いに多くの都市があり、端から端まで火山と地震だらけの国で、鉄骨やコンクリがもつわけ がない。

 たしかに内陸都市のローマでは、二千年も前のコンクリ建造物が健在だ。我が国も、明治以降、とくに戦後の高度成長期、あちこちに鉄骨とコンクリで橋やト ンネル、ビルや地下街を作った。当時、鉄骨やコンクリは、百年、いや数百年は持つ、と言われた。しかし、旧都庁舎や丸ビルは、時代が変わって使いものにな らず、建て直しを余儀なくされた。戦後のシンボルだった東京タワーですら、時代に合わなくなり、別のスカイツリーを作るハメに陥った。それ以外のほとんど すべての建造物にしても、2020年のオリンピックを前に、どれもこれも老朽化、規格ズレが著しい。関東で大地震が無くても、このままではそこら中で崩落 や事故が起こり、東京は自滅する。

 その一方、古くさく、ぼろっちい奈良だの、馬籠だのの街は、しぶとく生き残っている。木造建物や砂利道なんて、ぶっ壊れるのが前提だから、定期的に手入 れして、その都度に時代に合わせて適当に形を変え、なんとなくやり過ごしている。気がついてみれば、周回遅れで、時代の先端なのかもしれない。

 どんな人間にも寿命があるように、都市や建物にも、制度や政権にも、寿命がある。むしろ欧米の石の街、石の制度の方が、世界の中では異常な鬼子だ。実 際、あれだけ街を立派に作ったギリシアはローマは、時代の変化に身動きが取れず、結局、その自重で滅び去ったではないか。永遠に繁栄する世界支配の帝国都 市を造ろう、などというのは、人間と自然と歴史の摂理に逆らう愚昧で無謀な野望ではないのか。

 使い捨て=ムダ、というのは、根拠の無い盲信だ。とくになんでもすぐに腐る日本では、固定固着は危険な上に、むしろ、結局、大きなムダになる。物事の寿 命と安全のための使い捨てを前提にし、再生産できる分だけを消費して暮らす、鎖国江戸時代のような持続可能な閉鎖循環型社会の方が、ムダが無く、その部分 部分の絶えざる更新のために人間もその中にそれぞれの仕事を得て、みんなが幸せになれるのではないか。もう一度、使い捨ての正しさを見直し、日本的な使い 捨て文化の美しさの方を世界に広めてはどうか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/人間の五感は、いまここの近接した物事しか感じられない。世界や未来は論理と想像を駆使して考えることでしか捉えられない。おもしろおかしいいまここの娯楽に溺れていれば、あなたは世界や未来を失う。/

 いまどき哲学なんて、はやらない。売れないし、儲からない。市場原理からすれば、いらない、ということになる。なぜはやらないか、と言えば、楽しくない から。売れるのは、グルメにスポーツ、映画やマンガ、そして風俗と賭事。こういうのは、カネさえ払えば、すぐに楽しめる。努力なんかいらない。ようする に、五感を直接に刺激してくる。

 しかし、人間の五感には致命的な欠陥がある。そのどれもが近接感覚だということ。つまり、目の前の物事しか「感じる」ことができない。一方、鷹は数キロ 先のものでも見える。犬は数キロ先の匂いも嗅ぎ付ける。象もまた数キロ先の音に反応する。これらに比すれば、人間は、動物の中でも極端に近視眼的なのだ。 これを補っているのが、論理と想像を駆使して「考える」ことのできる大きな脳。目の前の物事から考えて、遠くのこと、過去や未来のことを知る能力を得た。 それが、我々の今日の文明の繁栄をもたらした。みんなで自分に近接するところの情報を持ち寄り、それらを元に、他の動物では考えられないほど壮大なことを 考え出し、成し遂げる能力を得た。

 だが、文明が巨大化しすぎると、情報は過剰になる。話も考えも、たがいに相克拮抗してしまい、なにも決められなくなる。それで、間断無き情報の洪水に浸 らせて、大半のセンサを停止させる方法を考え出した。ローマ時代、考えても考えが役に立たない愚民たちは、パンとサーカスに漬け込んで、四六時中、その五 感を飽和させ、余計なことを考えられないようにした。これがローマの平和。みんな、おもしろおかしく、幸せに暮らした。

 とはいえ、ローマの平和なんて、長くは続かなかった。中枢は権力闘争に明け暮れ、権謀術数が渦巻き、帝国維持に内部消耗して自滅。こういう自滅的な権力 闘争や権謀術数をなんらかの方法で止めることなど、娯楽ですでに脳が溶けきってしまっていた帝国民たちは考えもしなかった。ただ目先の情報に振り回され、 文字通り帝国内を右往左往と逃げ回るだけ。

 現代も似たような状況だ。どこの国も、パンとサーカスで五感を麻痺させ、愛国心の美名の元に一方的な大本営情報を洪水のごとく垂れ流し、自国民をバカに 染め上げている。そして、このバカたちを使って、自分自身の目や耳で見聞きし、そこから自分で考えようとする者を叩き潰す。だから、よけい、だれも、遠く のこと、過去や未来のことを考えない。その一方で、中枢の権力は歯止め無く不安定になっていき、だれも望んでいないような破滅的な道を突き進む。

 まあ、他の国のことはいい。だが、日本は、ローマ帝国同様、かつてそれを大々的にやって、取り返しがつかないほどの大失敗をし、世界中に迷惑をかけ、い まだにそのせいで袋だたきに遭っている。うっとおしいと言えば、うっとおしいが、我々の過去の愚を繰り返して自滅へ向かいながら、身を挺して、我々に我々 の過去の愚を思い起こさせてくれていると思えば、まことにありがたくもある。

 五感では、いまここのことしかわからない。そして、いまここに甘んじていれば、世界も未来も失ってしまう。いまここではないものごとなど、五感には無い のだから、当然、おもしろくも、おかしくもないだろう。それどころか、悲観的なことさえ次々と思い浮かぶ。だが、正しく問題を捉える者だけが、その問題を 解くことができる。たとえおもしろくも、おかしくもなかろうと、世界と未来を考える者だけが生き残ることができる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/子供を卒業するジャンニは、最後のクリスマスプレゼントの願いを探しに旅に出た。だが、どこにも理想の国などなかった。/

 ジャンニは手紙をもらった。サンタクロースからだ。きみももう大きくなった。次が最後のプレゼントだ。何を願うか、よく考えて返事をくれ。ジャンニは迷った。それで、何を願うべきか考えるために、遠く旅に出た。

 春、ジャンニは東の国に着いた。若者の都会。ジャンニは学校に行き、多くを学んだ。人より多く学ぶこと。そのためにジャンニは人一倍、努力した。だが、 人もまたみな、だれもが努力していた。毎日、脱落の恐れに苛まれた。だから、ジャンニは、サンタクロースに、だれにも負けず努力ができるように願おうと 思った。しかし、ついには無理が祟り、体を壊し、ジャンニは、そこから追い出された。

 夏、ジャンニは南の国に流れ着いた。大人の楽園。青い海と白い浜。東の国の青白い連中が次々と休暇にやってくるので、適当に歌って踊って遊んでいれば、 仕事に困ることもない。ステーキとアイスクリームに明け暮れる毎日。ジャンニは、サンタクロースに、こんな毎日が永遠に続くように願おうと思った。だが、 ある日、嵐が来た。娯楽も食物も流されて無くなった。代わりに武器を渡された。敵が来る、戦って楽園を守れ、と言われた。恐ろしくなって、ジャンニは、そ こから逃げ出した。

 秋、西の国、老人の町。ここでは働く必要も無かった。東の国や南の国から、日々、膨大なカネが送られてくるからだ。だから、みな毎日、ただカネを使う。 買物と旅行、買物と旅行。しかし、ただ一つ、ルールがあった。町並も、生活も、なにひとつ変えてはいけない。買っては捨てる、買っては捨てる。テレビも映 画館も、同じ作品を流し続ける。歌も、本も、同じ歌、同じ本しか無い。人が死んでもいけない。だから、死人が目を閉じる前に、相続人たちがベッドの横に群 がり、棺桶の中のカネを奪い合って、二世だ、三代目だ、と、襲名を争う。ジャンニも、サンタクロースに、なにかいい相続が転がり込んでくるように願おうと 思った。ところが、この町では、ジャンニの方が、まだ生きているうちから棺桶に放り込まれた。

 まだ働ける。ジャンニは思った。しかし、彼が迷い込み、たどり着いたのは、北の国、絶望の荒野、虚無の強制収容所。作業療法、社会復帰の名の下に、全員 が働かされる。だが、すべてがムダ。表土は凍てつき、雑草さえ枯れる。耕しても、明日には跡も残らない。他の人々と同じように、ジャンニもサンタクロース に願うことにした、もう早く死なしてください、と。やがて心は混濁し、なにも考えることはできなくなっていった。

 ジャンニは目を覚ました。懐かしい自分の部屋だ。だが、なにかが違う。暗い中、鏡を見る。顔一面の白い髭。伸びたままの白い髪。彼は、もう老いていた。 旅が長すぎたのか。窓の外を見る。もらったばかりのプレゼントを持った子供たちが走り回っている。クリスマスの朝のようだ。結局、なにをサンタクロースに 願うのか決められないまま、自分は最後のクリスマスを終えてしまった、とジャンニは後悔した。

 しかし、机の上にはプレゼントの箱があった。リボンにカードが挟まっている。きみの返事が無かったので、私がきみに贈りたいと願っていたものを受け取っ てくれ、と書かれていた。中を開ける。赤いサンタクロースの服。キャンドルとマッチ。ジャンニは、思った。来年からは、自分が子供たちのサンタクロースに なろう、ここに、もっと素敵なクリスマスの国を作ろう、と。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/即応・強烈・確実な快楽は、そこに神経連関を形成する。しかし、承認欲求の快楽を応用した、褒めて伸ばす動物的な調教法は、短期的には絶大な効果があるものの、麻薬同様の褒美中毒を引き起こし、かえって人間としての真の自立教育を妨げる。/

 動物園や水族館でサルやイルカの芸当を見たことがあるだろう。知能の高さを展示するためのものだ、などというのは、動物愛護の連中に対する言い逃れ。芸 当をやるたびに陰でこそこそエサをやっているじゃないか。しょせん畜生の浅ましさ。実際、知能なんか関係無い。ニワトリだろうと、同じやり方で踊らせられ る。さまざまな偶然の行動の中で、特定のタイプの行動をとったときに根気強く褒美を与えると、なぜ褒美がもらえるかなんて頭ではわからなくても、体が覚え る。そういう神経連関が形成されるから。

通称「トリプルP」、プレジャー・ペイン・プリンシプル(快苦原理)。人間もしょせん畜生と同じで、ヘドニック・カリキュラス(安楽計算)で動いている、 と、功利主義者のベンサムは考えた。そして、いわゆるアメとムチの外的制度を付加してやることで、人間の動機付けを誘導し、内的な習慣を形成させようとし た。その後のハーズバーグなどの研究により、苦が残っていても快さえあれば動機付けになることがわかり、かくして、承認欲求のみを主軸とする、現在の甘 い、褒めて伸ばす教育法となった。

 ベンサムが考えたヘドニック・カリキュラスは、IDCNFPEの7つの変数から成り立っていた。すなわち、強度、持続、確率、近接、派生、純粋、社会。 しかしながら、動物的な神経連関の形成にとって決定的であるのは、近接、強度、確率だけ。つまり、快楽が即応・強烈・確実なものは、そこに快楽の習慣回路 ができてしまう。たとえば、酒やタバコ、パチンコ。それをやれば、すぐに酩酊や鎮静、興奮という快楽が強烈確実に生じる。それで、そこに神経連関が形成さ れ、快楽を求めて止められなくなる。ネット中毒も同じ。承認欲求を満たすリアクションが即応で集まる。そもそもシステムを作る方が、ゲーミフィケイション の理論に基づき、即応、競争、称賛の中毒回路を組み込んでいる。

 勉強や仕事をがんばるようにさせるには、同様に、即応・強烈・確実な褒美を出してやればよい。オレオレ詐欺のような犯罪行為にハマるのも、ブラック会社 で本当に死ぬまで働いてしまうのも、いかがわしいカルト教団にハマって人生を棒に振るのも、そこにこの三要素がうまく組み込まれているから。自分で苦労し て学費を工面していない学生が、学校なんかサボってカネをくれるアルバイトをした方がマシ、と考えるのも、直感としては当然。その結果として生じる苦につ いては、快に紛れて、気にならない。それどころか、その苦から目を背けるために、さらに強い快の刺激への動機付けが生じる。

褒めて伸ばす教育法は、短期的には絶大な効果を発揮する。だが、長期的にはまずい。第一に、褒美が感覚的にインフレになり、要求は果てしなくエスカレー ト。麻薬中毒患者と同じ。ちょっとの褒美では納得できない、やる気が起きない。第二に、即応・強烈・確実な褒美というシステム自体が、全体で中毒症状を起 こさせ、外的動機付けシステムの無いところでは、自分自身による内的動機付けを作れない体質にしてしまう。それゆえ、第三に、他人が調教した奴隷的な芸当 や労働に明け暮れて、およそ結果の確実ではない、遠い未来の社会的な意義をみずから打ち建てて追い求める真の勉強や仕事ができなくなる。

 人間は、モヤシのように、ただ伸びればいい、というものではあるまい。就職活動で褒めてもらえなかっただけで、心が折れ、すぐに死を選ぶような若者を 作って、なにが教育か。動物的な惰性を振り切り、世間を敵に回しても、高邁な理想を追い求める強靱な精神力こそ、目先のエサに釣られてばかりいる畜生とは 異なる人間の人間性じゃないのか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/過去が理由なら、それはリアクション。永遠に過去から逃れられず、仕方ない一生から脱しえない。だが、きみは未来を理由にすることもできる。自分の未来を取り戻したければ、きみはけっして過去を理由にしてはならない。/

 けさ起きたら雪が降っていて、電車が遅れました。ああ、それじゃ仕方ないね。ええ、そうなんです。だって、こうなんだから仕方ない。それで、ああした ら、こうなっちゃったんだから、仕方ない。そして、仕方ない、仕方ない、で、そういうやつは、その後もずっと仕方ない一生を送る。人生のすべてが、過去の 状況に対するリアクション。なにか聞かれても、すべてが言いわけ。

 なぜそうするのか、と聞かれて、理由が過去なら、それはきみが選んでいる行動ではない。仕方なく状況にそうさせられているだけ。過去を理由にしているか ぎり、きみは永遠に未来にはたどり着けない。過去が次から次に追いかけてきて、けっして過去から逃れることはできない。家が貧しかったから、才能が無かっ たから、ひどい上司だったから。

 だが、世の中には、もっと別の生き方もしている人もいる。雪が降るそうなので、遅刻しないように、今夜は早く寝て、明朝は早く起きます。つまり、理由 は、過去ではなく、未来に求めることもできるのだ。留学したいので、英会話の学校に通っています。家を買いたいので、節約して貯金をしています。その理由 は、きみが自分で立てたもの。理由を立てることそのものが、未来の状況に対する、きみの側のアクションだ。

 嫌な過去から逃れたいのなら、きみはもう二度と過去を理由にしてはならない。過去など、現実にはもう、どこにも実在しない。あるとすれば、せいぜいきみ の嫌な思い出の中だけだ。だから、きみがそれを今の理由としたりしなければ、その瞬間に、きれいに消える。つまり、きみの方こそが、嫌な過去にへばり付い て、その嫌な過去を何度も何度もこの世に引っ張り出し直している元凶。その悪癖をきみが止めれば、過去は消える。ほんとうにいまあるのは、さまざまな未来 の可能性に満ちた、まさにいまここだけだ。

 昨日までのことは、いまこの状況として、もはやすべて精算済み。いまこの状況そのもの以外には、なんの負債も、なんの負い目も、きみには無い。いままで にきみが故もなく支払わされてきたつらい痛みも、悲しい思いも、なにももう、いまこの状況には無い。積もりに積もった積年の恨み辛みも、犬のようなやつら への憎しみとともに、まとめて捨ててしまえ。そんな連中を、きみの大切な未来にまで、きみがいっしょに連れて行ってやる必要などあるまい。重要なのは、き みに、いまこの状況が十分に与えられているということ。そして、いまこの状況から、どんな未来の理由でも、きみは自由に立てることができるということ。

 過去といまを理由で繫ぐのではなく、いまと未来を理由で繫ごう。過去に生きるのではなく、未来に生きよう。他人の昨日を断ち切り、自分の未来を取り戻そ う。風邪気味だから、寝不足だから、まだ寒いから、もうすこし寝ている、そして寝坊したから、ドタバタとあわてて出て行く、というのではなく、風邪を早く 治すようにうがいをし、明日のために夜は早く寝て、寒くないようにガウンでもなんでもはおれば、きみはもっと余裕をもって起きられる。あわてて出て行くこ ともない。状況そのものが、きみのものになる。

 すべてはきみの決断だ。決断とは、過去の理由を切り捨て、未来の理由を切り拓くこと。状況にきみがつつき回されるリアクションから、きみが状況の方を駆 り立てるアクションへ。後向きから前向きへ、守勢から攻勢へ、180度の転換。そして、未来の理由に向けて、きみは橋をかける。その橋を渡っていけば、き みは、きみの未来へ近づく。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/予言は、予言を信じるがゆえに予言を実現させてしまう。ただし、信じることは、策を弄したりせず、真剣に向き合うこと。あなたは、自分をC組と決めつけ、そのC組のダメな人生を自分で実現させてしまってはいないか?/

 新しい校長が来た。かなりのやり手だそうだ。受験対策のために、今年から学力別のクラス編成にするらしい。そんな話を学年担当教員たちは聞いた。A組は 精鋭。たしかにA組は教えやすい。一方、ダメを集めたC組は、なんだかいつも騒がしい。A組の学生たちは、みんな目が輝いている。彼らの期待を裏切るまい と、どの教員も張り切って授業の準備をする。だが、C組は、どのみち授業などろくに聞いてもいないのだし、連中はとにかく卒業さえできればいいだろうか ら、と、教員たちも当たりさわり無くやり過ごす。

 もちろんA組にも、間違えたり、戸惑ったりする学生はいる。しかし、彼らは、ていねいに教えてさえやれば、きちんとすぐにわかる。それに比べてC組の学 生ときたら、まったくどうしようもない。たまにうまく出来ても、しょせんはマグレ。次はやはりダメ。こまかな間違いを指摘してやっても、連中の機嫌を損ね るだけで、どうせムダ。

 じつは、新任校長は、学生たちを、名前のアルファベット順で、A、B、C、A、B、Cと、3つのクラスに割り振っただけだった。学力別編成など、どこか のだれかがかってに言い出したウソのウワサにすぎなかった。にもかかわらず、A組の学生たちは、次々と難関大学に合格。C組の学生たちは、卒業どころか中 退が続出。予言は実現する。いや、予言こそが、予言を信じることこそが、予言を実現させてしまうのだ。

 褒めて延ばす、なんて言う生ぬるい連中がいるが、教員や上司が無理やりネタを探して学生や部下を褒めているのなら、それはただのおべんちゃら。どこの世 界に、学生や部下に媚び諂うバカな教員や上司から真剣に学ぼうとする学生や部下がいる? そもそもそれは、むしろバカな教員や上司が、学生や部下をなめて バカにすることだ。あいつら、しょせんバカなガキだから、おだてれば木でも登るぜ、というのが本心。だから、褒めても、予言は実現しない。いや、そのバカ な教員や上司の本心どおり、ほんとうにみごとなバカになる。学生たち、部下たちは、まともな基準を見失い、図に乗ってうぬぼれ、それで、どうにも始末に悪 いモンスター・ユトリのガキたちが、いまの時代に大量に溢れ出した。

 信じる、ということに、褒めるもけなすも無い。かならず伸びると絶対的に信じているからこそ、ダメをダメと言い、ヨシをヨシと言って、導く。正面から向 き合い、かならず着いてくる、と信じて、待つ。それ以上でも、それ以下でもあるまい。何の策も弄しないことこそが、信じる、ということ。信じているから、 老獪な教育技術だの指導方法だの、はなから必要ではない。そして、策を弄していないことがわかっているからこそ、学生や部下は、自分を信じてくれている真 剣な教員や上司を信じて、真剣にその期待に応えようとし、ほんとうに予言を実現してしまう。

 だが、この話、ほんとうの焦点は、きみ自身だ。きみは、自分自身をC組だと思っていないか。どうせオレなんかダメ。がんばってもムダ。だから、がんばら ない。それで、ほんとうにダメになっていく。どんどんダメになっていく。こうして、きみは、自分の予言どおり、みごとにダメな自分を自分で実現させてしま う。

 自分自身ですら、自分のことを信じていないやつが、他の人から信じられたりするものか。むしろ、他人にはわからないだろうが、自分自身の隠れた力は、す くなくとも自分自身はよく知っている、と自分自身を信じ、その信じるところを、ほんのわずかの疑念も邪念もなく、ただひたすらに突き進んでいってこそ、予 言はほんとうに実現する。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

/予定は、今から先に順に入れていくものではなく、先から今に逆算で入ってくるもの。締め切りこそがライフライン。実感できるもっとも遠いところに自分の灯台を立て、その明かりを頼りに、花道を切り開こう。/

 あなたの予定表、年末で終わり? その先は? 滝になって奈落の底? ようするに何も考えてないんでしょ? 一方、東京。オリンピックが決まったとたん、2020年まで予定がどんどん埋まっていく。それまでに建設だ、おもてなしだ、そうだ語学だ、と。


 予定というのは、今日から見て、順に先に入れていくものじゃない。むしろ反対。未来にある大切なことが決まって、そこから逆算で、予定がつぎつぎと入っ てくる。地図やカーナビでも同じ。いくら眺めていたって、ただ平面が果てしなく広がっているだけ。ところが、目的地を決めたとたんに、ルートが決まり、そ の途中のあれこれが輝き出す。


 人間の時空間というのは、意外に狭い。五感で直接に感じられるより先は、理屈ではわかっていても、実感としては存在していない。たとえば、電車の中。自 分の世界なんて、自分と自分の手元くらいのもの。隣の隣の人が何をしているのか、本を読んでいるのか、外を眺めているのか、すら、わからない。それどころ か、隣の人ですら、まったく関心が無い。部屋に居れば、コタツとミカン、スマホにテレビがすべて。窓の外の空の色すら知らない。


 おれは将来、マンガ家になりたい、独立したい、留学したい。言うのはけっこう。だが、そんな夢は、実感がない。言わば、お題目かお念仏か。呪文のように 無意味な音声が踊るだけ。五感で感じられないから、きみの時空間の中には、永遠に入ってこない。蜃気楼のように、近づいても、どんどん遠ざかる。いつまで も夢のまた夢のまま。しかし、締め切りをデッドラインと言うが、むしろ、それこそライフライン。おれは、来年の四月には留学する、と決めてしまってこそ、 そこにきみの人生の花道が開ける。


 妊婦は幸せだ。妊娠した、十ヶ月後には赤ちゃんが生まれる、となれば、その十ヶ月後のクライマックスに向けて、一気に人生の花道が照らし出される。この 世に新しい命、なにも持っていない新しい人間が一人増えるのだから、それはもうたいへん。産院の予約に始まり、産着におむつ、ベビーベッドにベビーカー。 動けるうちに部屋を片付けないと。お金の算段はどうする。そもそも出産ってどうなんだろう。やらなければいけないこと、調べなければいけないことが、山の ように押しかけてくる。そのうえ、おなかが大きくなる、中で動く。まさに子供といっしょの新しい時空間が実感として感じられる。


 今週の予定もろくに無い、それどころか、予定表も持っていない人。テレビの画面で今やっている番組を選んでいるだけの人。スマホで他人の人生、他人の言 葉を眺めているだけの人。そういう人は、言ってみれば、真っ暗ら闇の森の中で、テレビやスマホの薄暗い明かりだけを頼りに、かろうじて、いる、というだ け。どこに行く当ても無く、これからなにが起こるのかもわからない。行き当たりばったりでも、なるようになるさ、と言えば聞こえがいいが、実際は、まった く無意味な時間が過ぎ、ただ老いていくだけの毎日。


 直接にきみが実感できるぎりぎり遠いところ、かろうじて明かりが見えるところ。一年後でも、半年後でもいい。そこに自分の灯台を立てよう。それが、この 荒波を乗り越えて生きていくための、きみのライフライン。その灯台にたどり着くには、なにをしなければいけないのか。そのためにはなにをすべきなのか。逆 算して、いつまでになにを、と探っていけば、今ここから、その灯台まで、きみの花道が開ける。フットライトが、まっすぐにその道を照らし出す。そんなとこ ろでずっとぼーっとしている暇は無いはずだ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/私のせいじゃない、などと言えば、実権を失う。成功はもちろん、失敗さえも、自分こそが鍵だ、という人物であってこそ、そこに求心力が生まれる。目先の損得を捨てて、人生に勝ち、運命に勝つ度量があってこそ、トップに登る資格がある。/


 私のせいじゃない、現場が悪い、想定外だった。だが、責任が無い、ということは、能力が無い、必要が無い、存在意義が無い、いてもいなくても同じ、とい うことだ。こんなやつが、自分の責任で善後策を、などと言っても、もはやどこにも求心力は無い。逆に、私の責任だ、私があそこで間違った、と言い切る人物 は、すべての鍵だ。失敗は成功の元、と言うが、失敗があってこそ、失敗の原因が明るみになる。そして、その原因を正せば、次にはきっと成功する。だから、 もう一度、彼に任せてみよう、ということになる。こんなことは、世界共通のリーダーシップの要諦だ。日本も、フランスも無い。

 たとえば、徳川家康。『家康しかみ像』と呼ばれる絵がある。一五八三年、武田信玄の浜松通過に、家康(二九歳)は、重臣たちが勧める籠城策を振り切って 三方ヶ原に撃って出て、待ち伏せに遭い、完膚無きまでの大敗。諫めてくれた多くの重臣たちをも失い、命からがら浜松城に逃げ帰った。今日の最悪の自分の責 任を忘れまい、と、苦虫をかみつぶす自分の最低の惨めな姿をその場で絵に描かせ、生涯、これを座右に掲げ続け、軽挙妄動を慎み、賢臣識者に諮り、将兵友軍 を重んじた。だからこそ、彼は、関ヶ原に勝った。

 小賢しい弁護士の助言など、当てにならない。連中は、目先の訴訟の勝敗程度のことしか考えていない。だから、しょせんやつらは永遠に、ちまい訴訟に明け 暮れる弁護士止まりの人生なのだ。ほんものの経営者、指導者であるなら、いま一回の勝ち負けなどというようなちっぽけなことにこだわるようでは話にならな い。心の底から頭を下げ切ってこそ、人生に勝つ、運命に勝つ、真剣勝負の時というものがある。いや、自分が滅びても、自分の首を差し出しても、城を残し、 国を残さなければならない戦いというものもある。そういう決戦の時に、おのれ自身のプライドにも打ち勝つ図抜けた度量があってこそ、あの人に任せてみよ う、あの人に着いていこう、と、部下も、世間も、多くが付き従う。

 とはいえ、私のせいじゃない、なんて言うような、どうしようもないやつが上に乗るような組織だから、現場でトラブルが続発する。そのうえ、こういう腰砕 けのトップは、もとより求心力がないから、なにをどうやってもトラブルの後始末などできない。そして、どうせ世間の厳しい目に耐えきれず、しばらく間を置 いて、責任を取る、などと言い出し、法外な正規の退職金だけを持ち逃げしようとする。後始末など、ババ抜きのようなもので、運の悪いやつが次に祭り上げら れるだけ。どうせ、これまた求心力があるわけではないから、時間稼ぎの先送り。いよいよダメになって、人の救済を頼ることになるが、結局、バカを見る、ツ ケを払うのは、最後まで上に付き従った下の者たち。

 なにがどこであろうと、すべてはトップの責任に決まっている。すべての最終責任者だから、トップ、と言うのだ。そして、トラブルのときこそ、トップの出 番だ。こんな最高の腕の見せ場で、腰が引けて舞台を仕切れないなら、最初から壇に登るな。そんなやつは、人の上に立つ器ではない。平時のための中間管理職 は、年功序列のハシゴでもいい。だが、トップは違う。順送りで下から挙げても、前にのめって落ちるだけ。

 企業文化、組織風土は、トップの人柄による。トップが、私のせいじゃない、とやれば、末端まで、私のせいじゃない、と、真似をする。そんな腐ったところ からは、まともな人材は次々と逃げ出していく。だから、いよいよダメになる。外から、率先垂範のできる人物を呼んできて、企業文化、組織風土から改革をし ないと、再建は難しい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/環境は人を洗脳する。奴隷根性に染まると、その外の世界があることもわからなくなる。だが、常識に根拠などない。自分の心の枠組を変えれば、世界は変えられる。ただし、それは、足を引っ張り合う奴隷だらけのここではない。だから、黙って壁に穴を掘れ。/

 天空が 回っているのではなく、地球が回っている、コペルニクスは、それに気づいた。デカルトやパスカルを経て、カントは、それを哲学に応用した。世界が回ってい るのではなく、自分が回っている。それなら、自分が変われば、世界は変えられる。ここから多様な実存主義、さらには近年のNLPも生まれてくる。


 人は、生まれたときから、他人が捏ち上げた環境に投げ込まれる。親も、家族も、しょせんは他人。そして、他人の作った村、他人の作った国、他人の作った 学校、他人の作った会社。環境は人を洗脳する。ああすべきだ、こうすべきだ、あれが当然、これはダメ。ここでは、これこそが「常識」だ、と洗脳される。そ うやって、環境は、人の心を殺し、奴隷根性を植え着ける。心底までそれに染めて、奴隷として何も考えられなくする。ああ、ぼくはダメなんだ、何をやっても ムダだ、だからこれでいいんだ、と。


 それだけではない。きみもまた、奴隷を増やす仕事を手伝わさせられる。きみは、周囲にも自分と同じ奴隷根性を強いる。自分が苦労してこうしているのに、 同じようにしようとしないなんて生意気だ、潰してやれ、と。だから、その環境にいる連中は、足の引っ張り合いで、だれひとり、そこから脱出できない。い や、洗脳が徹底すると、そもそも脱出しようなどとも思わなくなる。その外の世界があるなどと想像さえしない。人生はミジメなものだ、それで納得して、ミジ メな一生を送る。

 それは、インチキ宗教に騙されているのと同じ。「常識」なとどいうことに、じつはなんの根拠もない。それは、その環境が、その中の古い連中が勝手に決め ていることにすぎない。白人が絶対だ、黒人は奴隷だ、と言われ、その中でいくら従順に努力しても、黒人はけっして白人にはなれない。重要な第一歩は、与え られた環境そのものを撥ね除けること、自分自身の意識の枠組を変えること。ブラック・イズ・ビューティフル、黒人の方が美しい、と言って、奴隷の心情から 飛び出した人々こそが、世界の差別を変えた。


 しかし、実現まで余計なことはなにも言うな。心の底まで奴隷根性で硬直してしまった連中は、話しても聞くわけがない。連中は、すでに人生の大半が蝕ま れ、もはや変われないのだ。新しい世界には対応できない。彼らにとって、いまさら世界が変わるなどということは、大地が崩れ去るほどの恐怖でしかない。軍 国主義や社会主義の安逸な生活に慣れきった旧体制の特権連中が、最後の最後までその崩壊に抵抗したのは、知ってのとおり。余計なことを言えば、きみは危険 分子として徹底的に叩き潰される。


 脱獄は、黙ってやるものだ。スプーン一本しかなくとも、コンクリの壁であろうと、努力を続けていれば、いつか穴が開く。だが、時間がかかる。先に気づか れれば、かならずジャマされる。だから、いつもにこやかに笑っていろ。そして、夜中に密かに穴を掘れ。きみの世界は、ここじゃない。外にある。外の世界が きみを待っている。


 騙されるな。きみが変われば、世界は変えられる。きみは自分の世界を手に入れることができる。しかし、それはここではない。きみはここから出て行かなけ ればならない。グチを言っても、だれもなにもしてくれない。それどころか、危険分子として監視を強化し、ジャマをしよう、揚げ足を取ろうと狙うだけ。そう でなくても、さまざまなシガラミが、きみの決意をくじけさせようとするだろう。だが、諦めたら、そこで終わりだ。だから、黙って密かに穴を掘れ。振り返る な。壁の向こうにきみの世界が待っている。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/他人の思いつきの用事のせいで、永遠に自分の仕事にたどり着かない。同様に、簡単な仕事から先にしていると、難しい仕事には取りかかれない。予定は、自分の人生の難しい課題に取り組むためにこそ立てるもの。他人に媚び、安直に甘んじるのを止めることから始めよう。/

 予定表に to doを書き込む。だが、それが一日にいくつもあるとき、あなたはそれを[今すぐ/後で]に分け、とりあえず[今すぐ]を片付けてしまおうとする。だが、こ れはまずい。それが片付いたころには、次の[今すぐ]がまた大量に入ってきて、[後で]は、もっと先送りになる。それで、いまだに[後で]は[後で]のま ま。


 他人の仕事/自分の仕事と言い換えてみると、本質がよくわかる。なぜ[今すぐ]なのか? 自分自身の予定であれば、自分自身で前もって心の準備をしてい る。ところが、他人は、自分の思いつきで、突然に言い出し、周囲を振り回す。それで、あなたが他人の[今すぐ]をなんとかしなければならないハメに陥る。 たとえば、電話。出ないわけにもいくまい。それで、あれどうなってた? と聞かれれば、折り返しかけ直します、と言って、すぐに調べることになる。だが、 よく考えてみよう。それを優先すれば、本来の仕事が遅れる。すぐに返事をしないと、相手はむくれるかもしれないが、本来の仕事を遅れさせて、むくれる連中 だっている。どっちが大切なのか。どっちが自分の本来の責任なのか。両方にいい顔をすることはできない。

 また、人は、とりあえず簡単な仕事から片付けようとする。楽勝だから、その先の予定も立てやすい、などと言う。しかし、これまた同じ。簡単な仕事が片付 いたころには、次の簡単な仕事が山ほど入り込んでいる。それで、難しい仕事は永遠に先送り。とはいえ、楽勝なら、そんなのは、もうあなたの仕事ではない。 後輩かなにかにやらせて、自分は自分しかできないもうひとつ上のレベルの難しい仕事にチャレンジすることこそ、自分の責任じゃないのか。もちろん、チャレ ンジは失敗するかもしれない。だから、やっぱり簡単な仕事のルーティンワークの方がいい、って、それではハムスターが回し車を漕いでようなもの。そこでど んなに努力しても、どんなに早く回しても、永遠にそれは前には進まない。前に行くには、[後で]の自分の難しい仕事に自分が乗り出してこそ。[後で]のこ とに手を掛けてこそ、自分自身が前に、外に進み出る。

 人生は、だれでも1日24時間、1年365日、せいぜい80年しか無い。どうでもいい他人の思いつきの暇潰しに、自分の人生を食い潰されてたくないな ら、義理ごとは、まさに義理程度の最低限に絞り込んで、自分の人生の次の難しい課題に取り組んでいかないといけない。義理ごとに必要以上の最善を尽くして 相手を喜ばそうとしたところで、相手は当然としか思わない。それどころか、あなたは、よほど暇で、いつでも安く便利に使えるやつ、として、さらに搾取され るだけ。いくら簡単な仕事を要領よくこなせるようになっても、それは、人間として夢を失い、ただ堕落していっているだけ。

 忙しいのは誰が悪いのか。他人に媚びへつらい、安直な毎日に甘んじて、一度限りの自分の人生を大切にしていないあなた自身だ。自分の予定は、自分の人生 に沿って立てるもの。自分の人生を生きること、これこそ、すべてに最優先されるべきto do。そして、自分が立てた予定であれば、段取もわかっているだろうから、べつに慌て急ぐこともなく、一歩一歩、着実にこなしていけばいい。24時間、 365日、80年。この限りある時間の中で、自分自身の本来の仕事をやり遂げるためには、他人の用事、楽勝な雑事は、大胆に切り捨て、余裕を捻出しないと いけない。電話に出ない決断、テレビやネットを切る覚悟。用事を断る勇気、他人に媚びない信念。まず自分の時間を大切にすることから始めよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/人の情報は、自分の経験ではない。ところが、毎日を忙しく情報に追われていると、自分自身ではなにも経験を積んでいないこともわからなくなる。だが、人の情報だけでは、あなたは永遠の空っぽ。自分の幸せのためには、自分自身の経験が必要だ。/

 古い映画 のあらすじのうろ覚えをネットで調べたりすることがある。ところが、逆に、あれ、こんな話だっけ、と、かえって疑問が膨らんでしまうことも。それで、実際 の映画を自分自身で見直してみると、書いてあることと、ぜんぜん違っていたりする。これは、ビデオが普及する以前、作品を実際に見られる機会が極端に限ら れており、そのころの人が映画館やテレビで見て、もしくは、人から伝え聞いて、うろ覚えで書いた文章がそのまま本になり、それが何度も伝聞孫引されて、い までも新しい著者によって新しい本に載り、そのうえ、さらにその話がネットに再録されていたりするから。

 情報社会。居ながらにしてちょっと調べれば、世界中のことがわかる。だが、それはあなたの経験ではない。にも関わらず、人は、他人の経験でも自分の経験 のように共感できてしまう。この共感がうまく働くこともあるが、間違いも多い。たとえば、京都が大雨で壊滅的であるとレポーターが言っているのをテレビが 伝えているのを私が聞いた、としても、京都は大雨で壊滅的である、に勝手に縮約してしまう。とくにテレビはそう。テレビで見たら、私は実際に見た、に、す り替わる。しかし、テレビなんて、もっともひどいところを苦労して探してきて、大げさに伝えてナンボの商売。実際に行ってみたら、とっくに復旧していたり する。壊滅的だなんて、レポーターが勝手に騒いでいただけ。

 部屋にずっと引き籠もっているヒッキーは、だれが見てもわかる。問題は、学校や会社に通い、友人や同僚、顧客と話をし、テレビやネット、読書、さらには 講演会だの勉強会だのにも積極的に参加しているのに、恋愛や商売の出会いが無い、チャンスが無い、なんて言っているやつ。これは、いろいろ動き回っている のだが、ほんとうはカタツムリのように自分の狭い部屋を持って歩いているだけの隠れヒッキー。その人の毎日は、膨大な情報があるばかりで、どこにも自分自 身の生の経験が無い。だから、こういうやつの話は、他人の受け売りばかりでつまらない。それで、よけい、新しい人も寄っては来ない。

 そもそも、ほんとうの自分の経験は、ほんとうは他人とは絶対に共有できない。たとえば、このリンゴは甘い、という話には、じつはすでにそこに私が入り込 んでいる。私が食べたからこそ、リンゴが甘かった、のであって、誰も食べていないリンゴは甘くも酸っぱくもない。そして、この自分が味わっている甘さが、 同じリンゴを他人が味わっている甘さと同じかどうかなんて確かめようもない。パリはよかった、とか、あの小説はおもしろかった、とかも同じ。その人にとっ てよかった、おもしろかった、のであって、別の人がまったく同じように追体験できるわけではない。

 ガイドブックを何百冊読んでも、それは、あなたの旅行ではない。何千の恋愛小説を楽しんでも、それは、あなたの恋愛ではない。他人の幸せな経験談をいく らかき集めても、あなた自身は絶対に幸せにはなれない。旅行でも、恋愛でも、自分自身が経験するのでなければ、けっしてわからないし、まったく意味も無 い。もちろん実際の経験は、ガイドブックや恋愛小説のようにうまくいく場合ばかりではない。しかし、失敗も含めて、それこそがあなたの本当の生の経験。そ れこそが、あなたの人生、あなたの存在意義。

 テレビを消し、ネットを閉じて、後を振り返ったとき、そこにあるものが、それがあなたの本当の生活。いくら情報を集めても、あなた自身は永遠に空っぽのまま。それがイヤなら、自分の狭い世界から自分自身で一歩を踏み出し、自分自身の生の経験を積んでみよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。


/いまどき作家でプロになっても、まず喰えない。いっそ日曜の趣味と割り切れば、自分の頭ひとつでどこでもできる贅沢な楽しみ。尽きることのない想像の中で、身近な風景が虹色に輝き出す。/

 小説を書 く、というと、すぐ、どうやったら賞を取れるか、とか、自費出版でも本を出したい、とか。だが、趣味の油彩や楽器で、絵を売りたい、CDを出したい、なん てやつがいるか? 絵を描くこと、演奏することそのものが楽しいから自分で好きでやっているんで、べつにそれを人に見せびらかしたりする必要などないし、 まして、それで一発当てようなんていうやつは、まずいない。なのに、いつから小説だけ、こんなに山っ気が強くなってしまったのだろう?

 たしかに、かなり昔、ちょっと小説を書いただけで大もうけが出来た時代もあったのかもしれない。テレビさえも無いころは雑誌というものが絶大な全国的影 響力を持っており、それに載るだけで、一躍、文化人の仲間入りができた。しかし、それははるか昔。いまどき雑誌なんかに出たところで、そんなのを読んでい る人は限られている。読んだ人でさえ、翌週には何も覚えてはいない。もちろん人気作家で作品も映画化されているような人もいるが、それは、ほんの数えるほ どの特異な例外。それだって、次々と新しいのが出てくるから、昔と違って売れ行きは何年ももたない。大半の作家は、喰い詰めている。本を出したところで数 千部。百万円にもなれば、かなり運がいい方。

 いまどき作家なんて、喰える商売ではない、日曜の趣味だ、と割り切った方が話が早い。喰えないならやらない、というような人は、そもそも向いていない。 だいいち、作家になりたいというだけで、どうしても書きたいことがあるわけでもないような空っぽのやつが無理やりページを字で埋めたところで、読ませる中 身があるとはとうてい思えない。

 むしろ逆だ。ぜひ読んでみたいことがずっと頭から離れず、ところが、それを書いてある本がどこにも無くて、それでついには自分で書いてしまう、というの が、小説を書く動機なんじゃないだろうか。たとえば、近所に古い道標がある。かつてこのあたりは宿場町だったらしい。どんな人がいて、どんなことがあった のか、いろいろ調べてはみたがよくわからない。そんなことを考えているうちに、なにか人目を避けて道を急ぐ旅人、それを呼び止めた宿屋の女将、おりしもこ の宿場では古顔の親分が亡くなってチンピラたちが云々と、登場人物たちが次々と現れ、それぞれが自分の人生を語り、それがこの時、この場で絡み合い、意外 な展開になって、それを追いかけている自分の方が驚かされる。

 小説を書くのに、何もいらない。絵具も楽器も必要ない。ぎゅうぎゅうの満員電車の中でも、つまらない会議中でも、自分の頭ひとつでできる。窓の外を眺 め、そう、あれはちょうどこんな空模様の日だった、というところから、物語は始まる。どうせ人に読ませるわけでもないのだから、べつに書かなくたってい い。ただ細部に目をこらしていくだけで、そこにヒントが現れ、それがきっかけで、話は先へと転がっていく。

 とはいえ、実際に書いてみると、これまたおもしろい。というのも、おうおうに話のつじつまが合わないからだ。だれかがウソをついている、何かを隠してい るのかもしれない。いや、自分の知らない間に、それがそうなった重大な出来事があったのかもしれない。さて、それはいったい何だったのか、と探っていく と、いろいろまた裏がわかってきて、興味は尽きない。そうでなくても、場面を書き出してみると、そこに出て来ていない人物たちはどこで何をしていたのか、 とても気になるではないか。

 小説作りは、一生に一度限りの人生を何倍にも増やす方法。しょせん妄想じゃないか、と言われても、そうだよ、それで悪いか、どうせ趣味の遊びだからさ、 というところ。他人の作った売りものの物語を読むのもいいが、そんなものをわざわざ買わなくたって、きみにだって、自分で作れる。そうすれば、もっと身近 な風景が虹色に輝き出す。ほら、こんな時間なのに、だれかが玄関のチャイムをならした。さて、いったい誰だろう?


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。


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