純丘曜彰教授博士:生活の哲学 Prof.Dr. Sumioka's Philosophy

大阪芸術大学芸術学部哲学教授の純丘曜彰博士が日常の生活の中にある身近な哲学について平易に語ります。

/いっしょに写真でも撮られようものなら、どこで勝手に名前を使われるかわからない。ちょっと知っているというだけでも、小者は、年来の知己であるかのように、ないこと、ないこと、えらそうに人に知ったかぶりを言いふらす。こんな下賎な連中に関わって、いいことは、なにも無い。/

どこの馬の骨ともつかぬ「王子」が、やんごとなきお嬢さまと婚約するとかしないとかで騒ぎになったが、新生活の季節ともなると、こういう嘘松てんこ盛りのエセセレブたちがあちこちに湧いて来て、本物の回りに馴れ馴れしく近づいてくる。いっしょに写真でも撮られようものなら、どこで勝手に名前を使われるかわからない。ちょっと知っているというだけでも、小者は、年来の知己であるかのように、ないこと、ないこと、えらそうに人に知ったかぶりを言いふらす。こんな下賎な連中に関わって、いいことは、なにも無い。くれぐれも御用心を。

お坊ちゃま・お嬢ちゃま学校として知られるところほど、こういうのがカネの力で紛れ込んでくる。そう、エセレブは、妙にカネはあるのだ。むしろ本物の方が、昨今たいてい没落している。ただエセレブのカネは、そもそも自分のものでなかったり(会社など、ひとのカネの使い込み?)、裏にややこしい連中や条件がへばりついていたり。そうでなくても、しょせん今だけのニワカ成金。そんなカネがいつまで続くやら。

まあ、見ればわかる。カネの使い方がおかしい。豪邸を建てたり、車や時計、バッグに散財したり。やたら目立ちたがり、贅沢を自慢する。見るからに、コンプレックスの塊り。優越感と劣等感が同居していて、ほんとうに痛々しい。自分が無名だから、「ルイなんとか」とか「ミチコなんとか」とか、人の名前の書いてあるものを動く看板のように持ち歩く。子どものうちに、人の名前が書いてあるパンツをはいてはいけません、と教えられなかったのだろうか。

現金やカードも同じ。常連なら、無粋な小銭勘定の支払などせず、月末、年末に、まとめてでいい。ところが、自分のことを知らない海外の店で食事をしようとして断られ、それで世界で最初のカード、食事という名のダイナースができた。つまり、カードの名前は、自分の名前の信用の代わり。まして、現金というのは、払うやつがだれだかわからないし、今後、もう関わりたくないから、その場での清算として使われる。つまり、縁切り。たとえば、買春は、現金払い。やたらカードや現金を持ち歩くのは、自分に信用が無いことの表れ。

財布やバッグも、お嬢は、やたらでかいのは持ち歩かない。親が紹介した店なら、支払は後でお父様が、だし、荷物も、店が家まで届けてくれる。そもそも店になんか行かない。店の方が外商としてモノをもってやってきてくれる。女モノの財布なんか、ココ・シャネルみたいなのが、自立した働く女性向けに売り出したのだ。バッグも、バケツみたいに大きいのは、シャンパンボトル六本を担いで運ぶ下働きのためのもの。クラスのものじゃない。

服装。クラスは、悪目立ちを嫌う。そもそも本人がブランドなのだから、服装なんかで目立つ必要がない。派手でポップな柄物は論外。生地の質がよくわかる無地のトラッドをそつなく着こなす。アクセサリーなども、やたら新しいものを買うまでもなく、親の代から大切にいろいろ持っている。もちろん、近ごろは冗談でドレスダウンもするが、それはセレブだからできることであって、庶民が、ダメージドだの、アンクル丈だの、貧乏くさいかっこうをしたら、シャレにならない。

そして、話し方。庶民は、その他大勢だから、みんなタメ口。ところが、クラスは、その中に細かな上下関係がある。親兄弟でさえ、そう。だから、尊敬語、謙譲語、丁寧語を使い分けないといけない。複雑なのが、謙譲尊敬丁寧語。身内だからと謙譲語だけで済ますのではなく、お伺いなされます、というように、動作目的相手に謙譲するとともに、身内の目上の動作へ尊敬を払い、さらに話し相手に丁寧に語る。こういう言い方を使いこなせないと、クラスの中では生きていけない。

そもそも、生活、関心、教養が違う。クラシックな文化は、クラスに共有されているもの。子どものころから音楽会や展覧会、会食に引っ張り出され、かなり厳しくしつけられ、徹底的に教え込まれている。黙っている、静かに座っていられる、というのが基本。大人の話、人の話にクビを突っ込まない。知っていても、知らないフリ。大人になっても、こんにちは、さようなら、ありがとう、ごめんなさい、以外、やたらしゃべらない。どうせ自分たちの趣味嗜好は、クラス外に話してもわからない、と、開き直っているから。楽器や運動に親しみ、昔から読まれてきた本をきちんと読み、歴史を自分自身のものにして、その延長線上に静かに隠れ暮らしている。

だから、カネの力だけで、有名なお坊ちゃま・お嬢ちゃま私立に入って、出しゃばって自慢話をしても、相手にされない。じつは、東大や商社などでも、そうなのだ。学力だけの受験校上がりでは、話にならない。楽器や運動もできて当たり前。子どものころから読んできた本、見聞きしたもの、行ったことのある場所、そして、歴史の体感。これらが無いと、話には入れない。NOCD、Not our class, darling、世界が違うわね、なんて、隠語を小声でささやかれる。

鶏肋馬骨。出典は『魏志』と『戦国策』。鶏の肋骨、馬の髄骨など、肉が無い、喰えない典型。人間は、カネや学力、肩書だけでは、ミが無い。どんなにカネや学力、肩書があっても、それを使いこなせない。べつにむりにクラスに入ろうとする必要は無いが、エセレブとして、カネの力で刹那の物事を追い回し、それを自慢しても、かえってバカにされるだけ。豊かさは、赤の他人に見せびらかすものではなく、自分と家族、友人で享受し、人生と生活を楽しく優雅にしてくれるもの。それがわかっていないから、浮いている。

クラスは、一朝一夕、一代で入り込めるものではない。よく、三代前、が問われるが、本人の教育には親の教養、そして、それに意味があるとした祖父母がいないとムリ。カネの力だけではどうにもならない。しかし、さもしい他人にそのカネを騙し毟り取られ、かえってバカにされ、すべて失うくらいなら、自分はムリでも、せめて自分の子どもや孫に、ほんとうの「豊かさ」を残したらどうなのだろう。

そういう謙虚さのある家、人物なら、つきあいようもある。しかし、自分のコンプレックスで、すべてひっくり返して、自分たちの方に巻き込もうとするような連中は、関わっていいことは絶対に無い。言ってもムダ。それどころか、逆恨みされるだけ。せっかくの静かな豊かさを引っかき回されて、ひどい目にあう。中身に比して分不相応の生活で、やたら人に馴れ馴れしく寄ってくるエセレブには、くれぐれも御用心。


/世の中、揉めごとだらけ。なにか言っても、誤解されるだけ。テレビや新聞は、「上の人」たちの拡声売名、その痴話ケンカの宣伝洗脳。そんなのに、いちいちつきあう義理も無いんじゃないか。自分の人生を心配しよう。そして、お参りだ。欲を願っちゃいけない。私は無力だ。でも、きっとなんとかしてくれる。そう信じよう。/

 年の瀬なのに、あいかわらず世の中は騒がしい。あちこちの国と国が揉め、そのそれぞれの国の中でも、あれこれ、あっちだ、こっちだ、と揉めている。そこでなにか言っても、かってに誤解されるだけ。かってに誤解され、へたに担がれても、返す言葉も無い。

 無力感と罪悪感。なにか間違っていると思っても、権力者でもなく、有名人でもなく、我々は、なんの力も無い。怒る気力さえも無く、それが良くないことになるのがわかっていながら、ただ見過ごすしかない。そして、わかっていながら、なにもしなかった、という、罪の感覚だけが、いつまでも残る。

 その一方、世の中には、やたら万能感に満ちている人たちもいる。家柄、カネ、時流、名声、地位。あえてそれに逆らう理由も無いので、みんな、言うがまま、はいはい、と聞き入れる。とはいえ、じつはだれも、それに従う理由も無い。

 家柄、カネ、時流、名声、地位。そんなものは、どこかほかでもらってきただけ。いっちょかみして、いっしょに波に乗り、一旗上げよう、などという、ごうつくばりの野心家でもなければ、まったく知ったことじゃない。

 根本において、こういう余所から来た「上の人」には、肝心の人望が無い。それで、みんな面従腹背、結果が出ない、まとまらない、それどころか、人が離れ、瓦解していく。にもかかわらず、こんな崩壊を代わって引き受けようなどというバカもいないので、あいかわらず立場と責任だけは付いて回る。それでよけい、万能感と焦燥感が空回り。

 心中、業火に焼かれている「上の人」の当たり散らしを前に、庶民にはせいぜい、やり過ごすくらいのことしかできない。休まず、怠けず、働かず、ひたすら従順な無能で、目を付けられたりしないように、かといって、なにかの矢面に立たされたりしないように、低く低く頭を下げ、顔を背けるばかり。

 うちらからすれば、ゴジラも、ガメラも、仲裁を騙るウルトラマンも、結局、同じようなもの。あなたの味方です、応援します、とか言って、どこかからやってきて、我々の心を踏んづけて暴れ回る。小さい声なんか、まともに聞こうともしない。いずれも、自分の都合のいいように、下々は自分こそを支持しているのだ! と言い張って争う。だけど、それって、逆でしょ。ほんに疲れるわぁ。

 テレビや新聞は、こういう「上の人」たちの拡声売名、その痴話ケンカの宣伝洗脳の垂れ流し。でも、そんなのに、いちいちつきあう義理も無いんじゃないか。はやりの映画や音楽、本だって、同じようなもの。だって、つまらないし、関係ないし、へたに巻き込まれても、どうせ末端の末端の末端だから、なんの良いこともない。ニセの感動なんて、中毒になる覚醒剤と同じ。カネと時間を、ムダにむしり取られるだけ。イヤなので、消します、閉じます、知りません。メディア時代の、無関心、不視聴、非協力。

 止まない雨は無い。明けない夜は無い。いつかかならず風向きも変わる、年も改まる。調子をこいていたイチビリや、そのお友だちは、いずれみんなまとめて川に落とされる。ほっておけ。どのみち無力で無名な我々ごときには、なにもできない。それより、そんな「上」の連中に、心の中まで盗まれるな。

 自分の人生を心配しよう。心の安らぎこそが、いちばん。聖書でも、仏経でも、古典でも、史書でも、心静かに向き合って、自分の時間を大切にしよう。笑えない芸人のわめき散らしを消し、お気に入りの曲に耳を傾けよう。夫婦や友だちで語り合い、酒を味わうのもいいじゃないか。いや、一人、夜空を眺め、星を見て歩き、思い巡らすのも悪くない。

 そして、お参りだ。欲を願っちゃいけない。思い上がりを捨て、こうべを深く垂れ、ただ自分や家族、世の中の平穏無事だけを祈ろう。私は無力だ。でも、きっとなんとかしてくれる。そう信じよう。



/もともと物は人間の生活の手段にすぎなかったのに、いつの間にか、物が自己目的化して、物を作るため、文明を発展させるため、人間の生活の方が犠牲にされるようになる。費用対効果を総合的に見積もることが大切だ。費用や手間の大小にかかわらず、最終的な成果が自分や世の中の幸せにつながらないのであれば、それは疎外だ。自分だけが幸せになって、他人を不幸にするのなら、それは搾取だ。/


 近代は、デカルト以来、個人の理性に絶対的な信頼を置いてきた。きちんと理性を働かせれば、だれでも真理を得ることができる、と。しかし、カントに至って、個人の理性には限界があることが示され、ナポレオン時代のヘーゲルにおいては、もはや個人の理性などというものは、時代精神に振り回されているだけの傀儡と喝破された。なにかよくわからない世界理性なるものがあって、それが知識を学習していく過程において、人間どもを使っていろいろ実験してみているだけ。個々人は自分で考えているつもりでも、じつは世界理性の時代精神に、心も体も乗っ取られてしまっている。

 ヘーゲルの弟子筋のフォイアーバッハは、この正体不明の世界理性を、単純に、実在の物と考えた。世界の物理的状態こそが条件となって我々を支配している。これが「唯物論(マテリアリズム)」。いわば蟻塚が蟻どもを使って成長していくように、物としての世界が自己発展していく。人間どもはそれぞれ自分で考えて働いているつもりになっているけれど、じつはその発展に寄与するように、使い潰されている。

 彼に言わせれば、神も文明も同じ。もともとは人々が人類の本質を外化して創り出したものだったのに、それがいつの間にか個々人の自由を奪い、思想も行動も強制支配するようになる。この自縄自縛を「疎外」と言う。

 さらにその弟子筋のマルクスは、この考え方を洗練して、「唯物史観」を唱えた。物は、人間に物を作る道具を作らせ、道具を作る機械を作らせ、やがて物や道具や機械は、みずからどんどん作られるようになっていく。もともと物は人間の生活の手段にすぎなかったのに、いつの間にか、物が自己目的化して、物を作るため、文明を発展させるため、人間の生活の方が犠牲にされるようになる。

 そこには、四つの疎外がある。一つは、成果からの疎外。自分の作った物を、他人に売り渡して、自分のものではなくしてしまう。二つめは、仕事からの疎外。物を作るという人間の本質的な能力から売り渡してしまい、他人の言うがままに働かされることになる。三つめは、人類の疎外。働くという人間の本質的な能力を他人に売り渡してしまった結果、もはや自分自身で考えることも行動することも許されず、人類の一人でありながら自分からは人類の歴史に関与できない。そして、社会の疎外。同じ人間でありながら、たがいに他人を物や道具としてのみ利用しようとし、他人がすべて敵となる孤独な個人の孤立へと追い込まれてしまう。

 マルクスによれば、物でも道具は、物として以上の価値がある。労働力も同じ。だから、道具や労働力を買って使うと、その価格以上の物ができる。これが「剰余価値」。資本家は、道具や労働力を買い、できた物を売って儲けているが、剰余価値はもともと道具や物を作った人から生まれている。つまり、労働者は人間として資本家に搾取されている。で、革命だ。資本家を潰せ、物を、自分を、人類を、社会を取り戻せ、ということになった。

 日本語の「共産主義」というのは、財産を共有する、ということなのだろうが、それは見た目であって、コミュニズムは、むしろ共同体第一のこと。彼らは、①組合の団結革命、②国家の国際連帯、③企業の共有経営、④製品の平等分配、をめざした。そして、実際、1917年、ロシアで共同体主義革命が成功し、その他の国々にも波及した。ところが、その結果は、①共産党の強圧的一党独裁、②連邦内周辺国の植民地化、③党幹部の貴族的利権搾取、④劣悪な製品と流通の停滞。で、1989年に自滅的に崩壊。いまだにやっている国もあるから、あまり悪くは言えないが、やはりこれらの異常が蔓延し、あまりうまくいっているようにも見えない。

 マルクスの疎外論あたりは、それほど的外れだったわけでもあるまい。現代においては、どこの国でも、かなり切実で切迫した問題になってきている。ただ、それは、共同体主義国でも、まったく同じ。つまり、後半、革命だ、共同体主義だ、というのが、疎外問題の解決策としては、まったく機能しなかった、ということ。資本家が共産党に置き換わっただけ。イスラムで似たようなことを主張している連中もいるが、ムダだよ。やめておいたほうがいい。もっとひどいことになる。

 いまさら革命だ、共同体主義だ、でもないが、生活を豊かにするためだったはずの文明の発展が自己目的化し、それ支えるため、自縄自縛で、だれも幸せになれない、それどころか、かえって不幸になる、というのも、あまりにバカげている。小さなところでも、たとえば、ムリして買ったマイホームのローンを支払うために共働きして、通勤地獄、心身疲労、夫婦不和、病気や不倫。子供までおかしくなって、なにもかもむちゃくちゃ。そして、あげくは家庭崩壊。結局、家という物ができただけ。家という物ができるために、その一家の人生が利用され、喰い潰されただけ。

 目先、やった方がいいこと、得なことはいろいろある。でも、費用対効果を総合的に見積もることが大切だ。費用や手間の大小にかかわらず、最終的な成果が自分や世の中の幸せにつながらない、そのリスクが大きいのであれば、それは疎外だ。自分だけが幸せになって、他人を不幸にするのなら、それは搾取だ。まして、資本家に代わる共同体の革命的支配なんていうことをやっても、それこそまったくムダな本末転倒。むしろ、一人一人の個人が自分で理性を働かせ、冷静に考えた方が、もうすこしどうにかできるんじゃないだろうか。


/カントは、哲学最大の大物。彼は、1 経験主義と合理主義を一本化し、2 批判哲学を立て、 3 実践哲学を開いた。/


カントと言えば、哲学最大の大物。でも、なにをした? 答えは3つ。
1 経験主義と合理主義を一本化した
2 批判哲学を立てた
3 実践哲学を開いた

 まず、経験主義と合理主義。ルネサンス以降の近代において、実例を多く集め、比較対照することでこそ確かな知を確立できる、という《経験主義》と、原理原則から論理的に敷衍して行った方がいい、という《合理主義》と、二つの戦略が対立。あれこれ言い争った。経験主義から言わせれば、論理そのものが過去の経験の蓄積の結果であって、そんなに絶対的なものではない、と言うし、合理主義の方も、実例なんて言ったって、最初から錯覚や誤差だらけで、そんなもの、最初から話にならない、と言う。

 これらに対し、カントは、認識や推論というのは、実例を論理に取り込むことだ、とし、その論理は、実例の蓄積の結果ではなく、どんな実例よりも先にあって、なんの実例もまだ含んでいない純粋な主観そのものの枠組だ、とした。

 たとえば、時空間。すべてのモノは、それぞれ、それの「いまここ」にあるだけ。それを、主観が、〈ここ・そこ・あそこ〉〈さっき・いま・あとで〉に位置づける。そもそも、すべての感覚は、主観の「いまここ」の話。網膜が刺激された、鼓膜が振動した、というだけ。しかし、主観は、それに原因を想定し、自分の外側の時空間に対象として位置づける。ぶぉーん、と聞こえたら、さっき、あそこを車が通った、というふうに。

 つまり、時空間は、世界の側に絶対的に存在するのではなく、主観が受けた刺激を外界の原因として書き戻すために主観が持っている、主観の中の主観的な座標軸。私にとっての〈ここ・そこ・あそこ〉と、あなたにとっての〈ここ・そこ・あそこ〉は、まったく別のもの。まして、〈さっき・いま・あとで〉も、私にとってと、百年前の人にとって、とは、まったく別の座標軸。おまけに、その単位も違う。子供の一日は、いろいろできるほど長いが、大人の一日は、あっという間。〈あとで〉というのも、ひとによって、今日中なのか、今週中なのか、そのうちなのか。

同様に、〈すべての〉とか、〈この〉とか、〈とある〉とか、〈である〉とか、〈でない〉とか、〈なのか〉とか、〈かもしれない〉とか、〈にちがいない〉とか、などなども、実は、対象の側の概念ではない。これがまさに〈すべて〉だ、などというものは実在しない。主観がかってに主観的に認識に対象を取り込むためだけの枠組。

 推論というのも、概念そのものを分析してわかるか、主観上で総合してわかるか、のどちらか。犬は動物だ、というのは、動物でなければ犬でないので、実際の犬を調べてみるまでもない。一方、さっき山田さんは会議室にいた、というのは、〈山田さん〉の認識と〈会議室〉の認識が、主観の時空間で重なっているからこそ。実物の山田さんと実物の会議室とが主観を介してこそ繋がる。

 ようするに、合理主義というのは、それそのものは主観的で空っぽ。主観的な経験がなされて、その経験の原因が主観の時空間に書き戻されてこそ、そこから合理的な推論が発動する。経験無しに合理主義だけではなにも推論できないし、逆に、主観の合理主義的な枠組無しには、なにも経験することができない。

 つぎにここから、カントは、批判哲学を立てる。「批判」というのは、ただ非難するというのではなく、どれだけで、どれ以上ではないのか、見極める、ということ。これまで、哲学は、自分とは、世界とは、神とは、とか、好き勝手に語ってきた。しかし、カントに言わせれば、〈自分〉とか〈世界〉とか〈神〉とは、時空間や〈すべて〉〈かもしれない〉などと同様の純粋概念であって、さまざまな経験を整理するための枠組としては使えても、それが時空間の中にあるモノであるかのように扱うのは、「理性の越権」。言わば、これらは地平線であって、それに近づけば、逃げ水のようにさらに、その向こうに行ってしまって、けっしてだれもその向こう側からそれをまとめて認識することはできない。つまり、自分や世界や神について、あれこれ語っても、ぜんぶ妄想の与太話で、時間のムダ。そんなものについて認識する能力を、人間は、はなから持ち合わせていない。

 この批判哲学は、哲学そのものの限界を明らかにした、というだけでなく、不可能であるということが論証される、ということでも画期的だった。これまで、人間は、なにかできないことがあると、どうにかしてできる方法を探そうとしてきた。しかし、ここにおいて、できる方法が絶対に存在しえない、ということがある、ということが、明らかになり、大きな発想の転換がもたらされた。たとえば、五次以上の方程式には、絶対に解の公式が存在しえない。これは、カントのすぐ後、方程式を解きうるための条件を綿密に考察していくことによって、アーベルやガロアによって証明された。

 しかし、第三に、カントは、実践哲学を開く。人間は、物事を認識するだけの主観的な存在ではなく、手足の付いた半身はモノそのものの世界に埋め込まれている。〈自分〉が何であるか、など、考えてわかることではない。だが、わかることではないからこそ、自分でなんとでもできる。同様に、〈世界〉が何であるか、など、考えてわかることではない。だが、だからこそ、なんとでもできるのだ。つまり、認識に限界があるからこそ、その向こうに自由が開けている。これまでどうだった、という事実は、これからどうなるか、を決定しない。なんとでもなりうるのだ。

 実際、カントの時代、国家というものは、王がいて貴族がいて諸民が、と言われていたが、フランス革命で、王のいない国ができた。まして新大陸のアパラチヤ山脈の西には、いまだ道も町もない「国」が地平線の向こうに広がっていた。それまで、農民の子は農民の子だったが、貴族にも官僚にも、銀行家にも工場主にもなりうる時代が開けていた。

 でも、どうやって? 自分が努力すれば、世界が実現するのか。カントは、自分の努力が世界の実現をもたらすのを保証するかどうか知ることは、人間の認識の能力を超える、と言う。しかし、カントは、だからこそ、信じるのだ、神の存在と慈悲を要請するのだ、と言う。自分がどうするか、世界をどうしたいか、は、考えて理屈でわかることではない。認識を越える地平線のはるかかなたに、目標を思い定め、それへ向かって、自分を信じ、世界を信じ、神を信じる。認識に限界があるからこそ、そこに信じて自分を賭ける余地がある。

 かくして、哲学は、カント以降、自分とは、世界とは、神とは、などという、むだな妄想のおしゃべりと言い争いを止め、実践哲学として、何をすべきか、を問うようになる。もちろん、それに正解など無い。だが、正解が無いからこそ、自由がある。つまり、そこでは、ただ自分だけが理由になる。そして、自分で結果の責任を引き受ける。

 このように、カントは、近代の経験主義と合理主義の対立を止揚しただけでなく、哲学数千年の無駄話を批判哲学で打ち止めにして、なにをすべきか、を問うという、新たな実践哲学の新大陸を切り開いた。これらのことを知れば、なぜカントが哲学で最大の大物とされるかも、よくわかるだろう。

/朱子学的リーダーは、オレの背中を見てついてこい、という模範提示型。陽明学的リーダーは、個々の部下たちの私利私欲を適材適所で活用する組織構築型。どちらが良い悪いではなく、部下を見極め、二つのタイプをうまく使い分けることが大切だ。/


 朱子学/陽明学については、いろいろな本が出ている。が、まず一般の人には、読んでもわからないのではないか。だいいち、人名などからして漢字が読めまい。歴史もなにもふっとばしてかんたんに言うと、リーダーのあり方には朱子学型と陽明学型があって、どちらがいいか、数百年にわたって言い争っている。

 朱子学的リーダーというのは、オレの背中を見てついてこい、というやつ。とにかくみずから率先して行動し、部下たちに模範を示す。でも、それだけ。それ以上のことはしない。ごちゃごちゃ、あれしろ、これしろ、など、部下たちに指示したり、命令したりしない。ある意味、部下たちを全面的に信頼している。とはいえ、またある意味では、自分と同じスタイルしか認めない。部下たち全員が、自分とまったく同じようになってくれることを期待している。

 他方、陽明学的リーダーというのは、部下たちの私利私欲を容認してしまう。有象無象の連中ごときが自分と同じように組織のことを考えるようになるなど、けっして期待しない。そうではなく、連中のそれぞれがなにをどうしたがっているのかを細かく観察理解し、これらの私利私欲が全体として課題解決に向かうように、工夫してうまく組み上げてやる。だから、それぞれの部下が好き勝手にやっているだけにもかかわらず、適材適所の配置、臨機応変の指示で、気がつけばきちんと成果があがっている。

 どちらが統率力があるか、魅力的か、など、なんとも言えない。朱子学的リーダーは、一見、とても冷たいように見える。しかし、内心は熱く、部下たちを全面的に信頼している。逆に、陽明学的リーダーは、見た目はとても温厚だ。しかし、その本心では私利私欲にはしゃぐだけの部下たちを心底から見下している。

 しかし、この二つのリーダーシップのタイプは、組織の成長拡大において、大きな問題となる。というのも、朱子学的リーダーの下で自発的に育ってきた部下たちは、だれしもが均一にリーダーの気風を受け継いでおり、分社や継承がしやすい。ただし、そのリーダーの気風によっては、激しい内部対立を起こし、血で血を洗うような抗争になる。他方、陽明学的なリーダーの下でずっと守られてきた部下たちは、そのリーダー無しには生きていけない。全体をうまくまとめてきたリーダーが死んだら、組織全体が瓦解。それどころか、その瓦解した組織からこぼれ落ちても、連中は、もはや好き勝手なやり方に慣れきってしまっていて、どこに行っても、なにもできない。

 したがって、現実問題としては、リーダーシップは朱子学型と陽明学型を二重化する必要がある。すなわち、幹部候補の経営陣に関しては、いつ自分になにかあっても組織が継承されるように、また、必要に応じていつ分社しても、そのそれぞれがきちんと独立して機能するように、朱子学的に育てていかなければならない。その一方、それ以下の被雇用者については、はなからできもしない人材育成でむだに手間をかけたりせず、いかに徹底的にその好き勝手な私利私欲を組織として活用するか、陽明学的な工夫をしないといけない。

 会社に来ている連中みんなに、会社へ忠誠を尽させようなどとするな。カネ目当て、一時の腰掛け、肩書きほしさ、ただなんとなく来ているだけ、などなど。上はバリバリ働くのが当然だと自分は思っていても、下にはむしろそう思っていない連中の方が多い。だからといって、上としては、そんな下の連中を遊ばせておくわけにはいかない。それぞれの好き勝手な私利私欲を見極め、その私利私欲のゆえにみずからがんばるようなところでうまく活用する。その一方、いつでも自分の代わりになって、いざというときに信頼して仕事を任せられるような人材を早めに選び出し、自分の背中で引っ張って育てておかないといけない。

 とはいえ、こんなことは、じつはどこの会社、どこの組織でも、ふつうにやっていることだろう。ただ、この二つのタイプのリーダーシップを、それぞれの部下ごとに自覚的に明確に使い分けることが大切だ。そうでないと、好き勝手な部下たちを前に自分一人がすべてを背負い込んで自滅してしまったり、逆に部下たちに期待しすぎても、過労だ、自殺だ、上司のせいだ、と逆恨みされたりする。

/新製品だ、新開店だ、と、いまだにバブリーな話題を自慢げに振りまいている東京の連中を見ると、頭がおかしいとしか思えない。そんな底の浅いものを追っかけ廻し続けて、その先に幸せがあるとでも思っているわけ?/


 ルネッサンス以降の近代というのは、人間がやたらなにかしたがる時代だった。なにが起こるか、後先を考えず、やらかす。そして、その後始末で大騒ぎして、またやらかす。その繰り返しの悪循環。いまでも、なんでも活性化。ジジイやババアまで、活動、活動。ガキのように落ち着きもなく、世界を飛び回り、スポーツに明け暮れ、政治に首をつっこみ、年甲斐も無く、あほな痴話揉め事で周囲まで引っかき回し続ける。

 会社の仕事もそうだ。どう考えても売れそうもないものを、むりやり売ろうと大声を張り上げ、大量の営業でごり押しをする。客の方も、騙されて買ってはみたものの、結局、使わず、ゴミの山。それどころか、その支払いのために、奴隷のように働き続けて、人生を費やす。そんなの、仕事か? それはただのムダ遣いとその後始末じゃないか。

 幸福というのは、元来、きわめて保守的なものだ。覚醒剤でラリっているような刹那の熱狂とは、むしろ対極にある。旅行だの、外食だの、娯楽だの、恋愛だの、贅沢だの、こんなのは、すべて現実逃避の麻薬。本来の生活に本当の幸せが無い連中が、永遠に逃げ続けているところ。きちんとした生活、家があって、家族がいて、そこに家庭の団欒があれば、テレビさえつけるまでもあるまい。

 本当の仕事も、似たようなもの。商売は、常連の顧客を大切にして、定番商品を品切れさせない、値段を上げ下げしない、ということこそが第一。農業や漁業でも、同じ。天候や気象の変動があっても、工夫して難を避け、量と品質を安定的に確保する。まして、警察や消防、病院や福祉、電気水道ガス通信、汚水やゴミの処理、そして、警備や設備、みな、何事も無い保守こそ、重要な仕事。警察や消防の新開発新商売なんて、だれも望んでいない。いまのままの平穏をきちんと守ってこそ、それが崇高な仕事。

 主婦も、家をいつも同じ状態に維持する大切な存在。あたりまえの食事、あたりまえの洗濯物、あたりまえの笑顔。なにも変わらないが、なにも変わらないことのありがたさにこそ、ほんとうはもっとも感謝すべき仕事。なのに、それが失われでもしないかぎり、人はその存在の大きさに気付かない。私も、学生のうちから母が入退院を繰り返し、亡くなった。脳天気に遊び歩く友人たちを横目に眺めながら、自分で家事をやってようやく、その大変さを理解した。

 こういう生活や仕事の基本も無しに手を広げたがるのは、近代人の精神的な病。おまけに、それを礼賛する狂人たちが世の中に溢れかえっている。それでよけいに元来の大切な生活や仕事を自己破壊し、気がつけば、負のスパイラルで四苦八苦。四半世紀もたって、いまだに、新製品だ、新開店だ、と、バブリーな話題を自慢げに振りまいている東京の連中を見ると、頭がおかしいとしか思えない。そんな底の浅いものを追っかけ廻し続けて、その先に幸せがあるとでも思っているわけ?

 人間の歴史は一億年。その最後の数百年だけが、このありさま。逆に言うと、九千九百九十九万年以上の長きにわたって、人は静かで穏やかな生活の方こそを大切にしてきた。ただでさえ、誤解や不和、戦争や災害が人間に襲いかかる。そういうトラブルを避けることにこそ、人は知恵を駆使して、どうにかやってきた。しかし、近代は、知恵を濫用し、必要も無く、やたら人と交流したがり、よけいなものと作りたがり、人間が絶対に越えられない壁を越えようとして、かえって自分たちでトラブルを起こして八方塞がりになる。

 幸せな生活を守る、というのは、それはそれで大仕事。無意味に活動的になって、よけいなことに手を出せば、かならずしっぺ返しがある。それよりも、よけいなことはしない。よけいなことには関わらない、関わらせない。そもそも、よけいなことなど、するまでもない。小さくても、落ち着いた生活を大切丁寧に守っていれば、それが幸せ。自業自得で幸せを失ってしまった愚かな躁の亡霊たちの大音量のささやきに騙され、よけいな邪念野心を抱いたりすれば、手もとにもともとあったはずの大切なものさえも失ってしまう。

/近代は権威が失われた時代。引きこもりのデカルトは、自分の見聞や論理など当てにならない、と疑い、その疑いにおいて自分を取り戻した。現代もまた、ナショナリズムの権威が崩れた後、引きこもりが出て来た。しかし、それは集団カルト。個人の引きこもりより、はるかにタチが悪い。/


 大きな流れで言うと、近代というのは、ルネサンスより後、ナショナリズムより前。日本では、おおよそ戦国時代から明治維新までに当たる。中世までの宗教や政治の統一的で支配的な権威が崩壊し、個人の個性が解放され、多種多様な思想や芸術が花開いた。

 それまで、つまり、中世は、秩序に従い、ヒトと同じであることが求められた。この秩序に逆らえば権威から破門され、社会全体から放逐された。しかし、近代になると、秩序の根拠が疑われ、たとえ逸脱しても、これを討伐する総意が成り立たなくなった。つまり、やりたい放題。

 思想、とくに哲学において、これは大きな問題となった。以前であれば、聖書に書いてある、法王が言った、昔からそういうことになっている、で済んだ。ところが、コロンブスのようなのが、これまでの常識を覆し、西回りでも東のインド(ほんとうは新大陸だが)に行ける、地球が丸い、ということを実証してしまう。メディチ家のような商人が、法王の奇跡よりよく効くイスラムの薬を売り出してしまう。ルターに至っては、教会の言っていることがそもそも聖書とは違う、だいいち聖書に法王などという文言は無い、ということを暴き出してしまう。

 こんな時代に、デカルト(1596~1650)が出てくる。ウラなりで引きこもりの嚆矢のようなやつ。親が金持ちで、学校ではよい子。貴族の倣いとして、軍隊に入ったものの、それは名ばかり。ドイツだの、イタリアだの、フランスだの、旅行して、結局、オランダに戻り、41歳まで引きこもり。

 とはいえ、彼なりにいろいろ悩んでいたらしい。いちばんの問題は、書物を閉じ、世界を見てこようとしたのに、どこへ行っても、結局、自分がついてきてしまったこと。自分自身から逃れられない。それも、その自分が世界の見方、書物の読み方にまで大きな陰を落としてしまっている。ひょっとして自分はおかしいんじゃないか、いつも悪霊に騙されているじゃないか、と神経衰弱。

 かといって、いまさら、聖書に書いてある、法王が言った、だから、まちがいない、などということは信じられない。そこで、彼は、自分の見識の中で、とりあえず怪しいものは、いったんぜんぶ排除してみよう、という「方法的懐疑」を試みる。自分で見た、聞いた、確かめた、なんていうのは、彼からすれば、もっとも当てにならない。それこそ、錯覚や誤解の宝庫。じゃあ、1+1=2みたいな、感覚に依存しない論理ならどうか。これも、たとえば、まちがって覚えている九九のように、論理そのものが歪んでいるかもしれない。しかし、このように自分が疑っている、ということそのものは、事実であり、真実だ。むしろ、疑う、ということで、そこに対象の世界とは別に、自分というものが立ち現れてくる。

 こんな話を書いた『方法序説』は、当時の大ベストセラーに。40も過ぎて、世界を疑え、もないものだが、同じ時代の人々も、同じようなことで悩んでいた。以来、なんでもかんでも、とにかくこれまでの常識を混ぜっ返したような奇妙奇天烈な世界観が大量に湧き出してきて、自称「哲学者」たちが、益も無い議論に数百年も明け暮れる。派を成し、国をまたいで、たがいに攻撃しあう。自分たちで、論理が当てにならない、と言っているのだから、理屈で言い争ったって、どのみち決着などあるはずも無いのに。

 さて、現代。第二次世界大戦でナショナリズムが潰えた後、思想的、社会的に、むしろ近代と似たような状況になった。戦前の権威が滅びて、なんでもあり。もちろんデカルトのような、引きこもりのオレ様も大量発生。それだけでなく、デカルト以降のようなオレ様集団、つまり、カルトが湧いて出て、政治的な、というより暴力的な闘争を繰り広げるようになってしまった。

 3%の塩水100ccに3%の塩水100ccを足し、さらに3%の塩水100ccを加える。さて、この300ccの塩水の濃度は? 計算するまでもない。3%のまま。つまり、バカが集まって評定したところで、脳ミソは濃くはならない。にもかかわらず、なにかというと、○○に賛成の連中だけが集まって「勉強会」だと。その一方で、○○に反対の連中だけが集まって「研究会」。賛成でも反対でも、バカはやることが同じ。

 個人の引きこもりは、見ればわかる。ところが、社会的に活動しているかのようなカルト連中も、じつは集団的な引きこもり。オタクが何万人集まろうと、オタクはオタク。世界から遊離した寄生虫。親のカネをむしり取ってきて、グルグル仲間内で廻して、紙クズの同人誌を作っているだけ。政党なんていうのも、同じような仲間が集まって、同じようなことを言って、仲間内しか読まないゴミチラシを助成金で刷って、異議無し、って、それは当然。しかし、そんなことをしていたって、世間一般の社会的な支持者が増えるわけがない。まして、地方や会社、国単位で、オレ様になって、自分たちの「理屈」だけで暴走していれば、いつかかならずツジツマが合わなくなり、悲劇的な破滅へ至る。

 引きこもりは、世間や現実と間尺と合わないのを、うすうす自覚していればこそ、部屋の中に引きこもっている。ところが、カルト連中は、自分の認識がほんとうに正しいかどうか、確かめようともせず、そうなはずだ、そうだよね、そうだよ、と、仲間内で言い合っているうちに、どんどんバカを悪化させる。相互依存の自己洗脳。おまけに、思想の自由、とか言って、天下御免の意見無用。そればかりか、自分たちの枠の限界にすら自覚が無いから、外にはみ出して、大声を張り上げ、まともな人々まで、罵倒し、攻撃し、吊し上げる。

 いくら大声で力説したって、事実でないものは事実ではない。現実でないものは現実ではない。常識でないものは常識ではない。だから、デモだの、テロだの、ミサイルだの、力づくで、常識を変え、現実を換え、事実を捏ち上げようとし、挙げ句は自分たちと違う考えの者を文字通り抹殺しようとする。しかし、そういう無茶をやるから、よけい嫌われ、集団まるごと、だれにも相手にされなくなる。

 党派の中の者ほど、その党派を疑うべきだ。自己溶解したまま、仲間内で会議を開き、集会を催し、連絡を取り合ったって、現実の道は開けない。現実は、妄想の向こう側にある。自分の妄想を自分で打ち破るのでなければ、いずれ外からまとめて叩き潰される。まあ、そんなわけで、連休にデカルトでも読んで、すこしはこれまでのありようを疑ってみてはどうか。

/教科書では、株式会社は、物的な営利の社団法人、と教えられる。しかし、その実際は、むしろ意思無能力な財団であって、その後見人としての支配権と正当性が、歴史的、社会的に揺らぎ続けている。/


はじめに:法人問題の背景

 現代の我々の社会において、法人企業、すなわち、「会社」は、あまりにありふれた存在となっている。そして、経営学においては、「会社」の存在を前提として、その財務や組織や戦略を問う。しかし、「会社」は、ほんとうに存在しているのか。存在しているとすれば、それは、いったいどのようにして存在しているのか。

 この問題は、別に新しい問題ではない。それどころか、むしろあまりに古く、それゆえ、その後、あまり問われなくなってしまった問題である。すなわち、この問題は、法哲学の分野において、十九世紀に、ドイツを中心としてさんざんに議論された。個人主義的なローマ法に依拠するサヴィニイらは、〈法人〉は、権利義務の帰属点として法律関係を処理するための法的技術であるにすぎない、として、《法人擬制説》を主張した。さらに、同じくローマ法を研究するイェーリンクなどに至っては、〈法人〉は、自然人の法律関係に完全に還元されうる、という《法人否認説》が主張される。

 これに対して、共同体主義的なゲルマン法の再生をもくろむギールケらは、有機性をもって集団と団体とを区別し、この有機的団体を実体として、《法人実在説》を提唱した。日本の現行法体系もまた、形式的には、《法人擬制説》に基づきつつも、内容的には、〈組合〉と〈社団〉とを区別し、〈社団〉を〈法人〉の基本構造とするという意味1で、この社団主義的な《法人実在説》に近い立場を採っていると理解することができる。

 この理論、たしかに整合的ではあるが、しかし、株主が社団を構成している、などというのは、株式が国際的な自由市場で活発に取引される今日において、あまりに実体と実感からかけ離れているのではないか。このような意味で考えるならば、この法人問題は、けっして古いものではない。というのも、この問題が法体系として整備された当時とは、あまりに社会状況が変わってしまっているからであり、それゆえ、今日の法人企業が、たしかに現行法体系に準則するとしても、むしろそのような過去の〈法人〉の形式に擬制しているだけであって、その本質と実体は、すでにまったく違うものに変貌している可能性があるからである。

 本章の目的は、議論の歴史的経緯を解明したり、日本の現行法体系を考察したりすることではない。我々の目的は、カント的な意味で、事実問題ではなく権利問題、歴史的経緯ではなく正当性根拠を問うことである。いかなる目的で、いかなる法律に準じてその法人が設立されたか、いかなる理由で、いかなる影響を受けてその法案が創設されたか、は、その法源に対する準則性において権利問題であるかのように考えられがちであるが、それは、あくまで準則に関する事実問題である。我々が問題にしたいのは、そうではなく、現代において、〈法人〉が存立しているとき、そこにいかなる理由があるのか、そもそも準則によって設立が認められる法律そのものの社会文化的正当性の根拠は何か、である。

 このような意味において、本章においては、あえて日本の制度と文化を問うた。というのも、アメリカなどでは、いまだパートナーシップによる企業経営の伝統が色濃く残っており、経済主体としての〈法人〉の自立性は、「法人資本主義」などと言われるように、おそらく日本の方がはるかに進んでいると考えられるからである。そして、本章の主張は、端的に言えば、次のようになる。すなわち、たしかに、現在の企業法人が、現行法体系に準則しているとしても、それは、現行法体系を援用するための手段として擬制にすぎないのではないか、ということである。もっと直接的に言えば、現在の企業法人は、法律上は〈社団法人〉であるが、実質上は〈財団法人〉なのではないか、ということである。

 もちろん、「株式会社」の《財団説》の主張そのものは、法学的にはかならずしも特別に新しいものではない。それゆえ、我々は、この点に関し、いまさらたんに、「株式会社」は財団であるべきである、などということを主張するのではない。そうではなく、なぜ実質的に〈財団法人〉である現代の「株式会社」が、これを〈社団法人〉とする日本の現行法体系内で法律的に存立しえてしまっているのか、という、この擬制を許容する社会文化の概念(具体的には、意思無能力者と表見代表者から類推の仕組)と法体系の形式の関係こそを問題にするのである。


1 現行法体系の構造

 株式会社としての企業の法哲学的、経営哲学的な構造を問うにあたって、専門の者には常識ではあろうが、本章の主張との対比を明確にするために、まず、現在の日本の法体系における企業の形式的な位置づけを、『民法』および『商法』に即して整理しておこう。この際、私的ながら斯界の標準と目される内閣法制局法令用語研究会による『法律用語辞典』(以下『辞典』)2を援用することによって、問題を明確にしていこう。ここにおいて、術語は引用符(「 」)で、概念はギュメ(〈 〉)で表記する。また、本文や説明など、判断留保を伴う引用も、引用符を用いる3。

 最初に我々が正しく把握しておかなければならないのが、「企業」の概念である。それは、『辞典』によれば、「一定の計画に従い継続的意図をもって経済活動を行う統一ある独立の経済単位」である。それゆえ、広義には、「企業」は、公益に関するものも含むと考えられる。また、「企業」は、後述する「社団」や「会社」である必要もなく、公益企業も含めて(『商法』2)、『商法』の全体が対象とする広義の「商人」としての行為主体の概念であると言うことができる。しかし、行為主体であっても、かならずしも権利主体とはかぎらないことに、あらかじめ注意しておかなければならない。たとえば、奴隷は、実質的な行為主体となりうるが、法律的な権利主体とはなりえない4。

 次に、「会社」について整理していこう。まず、「法人」は、『民法』33によって、法律に基づく(《規約主義》)とされ、「公益法人」については主務官庁による特許主義(『民法』34)、「営利法人」については『商法』による準則主義(『民法』35、『商法』52②5)が採られる。公益でも営利でもない親睦団体その他の「中間法人」は、特別法による準則主義を採っており、逆に言えば、特別法がないかぎり、法人格、権利主体としての資格を認められていない。現段階では、協同組合(『中小企業協同組合法』、『農業協同組合法』、『消費生活協同組合法』)、労働組合(『労働組合法』)や保険相互会社(『保険業法』)などが、それぞれの特別法によって『商法』54①(「会社ハ之ヲ法人トス」)の規定の準用などにより、法人と認められる。

 さて、このような「法人」は、また「財団法人」と「社団法人」とに区別することができる。「財団法人」は「財産を基礎とする法人」(『辞典』)、「社団法人」は「人の集団を本体とする法人」(『辞典』)である。「財団法人」は、定款相当事項を定めた「寄附行為」よって設立され、営利を目的とする「財団法人」について現行法体系に規定がないことから、準則主義の反対解釈によって、これは禁止されている、つまり、「財団法人」は『民法』上の公益を目的とするものに限定される、と理解することができる。一方、「社団法人」については、『民法』上の「公益法人」、『商法』上の「営利法人」、特別法上の「中間法人」など、多様なものが存在する。しかし、「社団法人」において、その本体である「人の集団」は、「組合」などと違って、「構成員の単純な集合」であってはならず、「構成員とは別個の存在として活動する」のであり、構成員に変更があっても社団は存続する(『辞典』)。というのも、「社団法人」は、設立の目的その他に関する「定款」を持ち、定款によって定まっている範囲内においてのみ、法人としての権利主体、行為主体たりうるからである(『民法』43)。

 そしてまた、「営利社団法人」は、『民法』35によって、「商事会社」として、『商法』52へ引き渡される。その種類は、『商法』上は、53により、「合名会社」「合資会社」「株式会社」の三種である。これらに加えて、別の『有限会社法』による「有限会社」や、『保険業法』による「相互会社」などにも、『商法』の規定が準用されることになる。ただし、『商法』における真正の「会社」は、基本的に「商行為ヲ為スヲ業トスル目的ヲ以テ設立シタル社団」(52①)とされる。6

 また、「会社」は、経営学的に、〈人的会社〉と〈物的会社〉とに概念的に分類される7。〈人的会社〉は、「会社の人的要素としての社員と会社との関係が密接で個人的結合が強い種類の会社」(『辞典』)であり、「社員は、会社の業務執行に参加し、一方、会社に対する債権者に対して直接無限の責任を負う」(同)とされる。これは、「合名会社」などが典型である。これに対し、〈物的会社〉は、「物的要素である会社財産に重点があって、社員の個性が重んぜられず、社員はただ金銭的関係においてのみ、会社と関係を持つ資本的結合の性格を有する種類の会社」(『辞典』)であるとされる。これは、「株式会社」などが典型である8。しかし、この区別をもっと端的に言うならば、「人的担保ににおいて社団の議決権を有するもの」が〈人的会社〉であり、「物的担保において社団の議決権を有するもの」が〈物的会社〉であろう。したがって、私財や職務を無限責任として一人一票で議決する社団は、一般に〈人的会社〉であり、出資財産を有限責任として出資比率で議決する社団は、一般に〈物的会社〉である、と考えることができる。


2 法人の文化論的根拠

 我々の現代社会は、〈個人〉と〈法人〉から成り立っている。すなわち、「基本的人権」関して、すべての個人(自然人)は、身分や能力を問わず、権利主体と認められる。これに加え、〈法人〉もまた、許可または準則によって登記されているかぎりにおいて、相続などの自然人に固有の問題を制限した上で、社会の成員として、基本的な権利を認められている。

 しかし、このような〈個人〉に一部の〈法人〉を加えるという《社会成員原理》は、かならずしも自明のものではない。社会は、何から構成されるか、社会の成員、社会主体は何か、という問題を、《社会成員原理》と言うが、〈個人〉をそれぞれの家族の従属的立場に位置づけ、社会を複数の〈家族〉から成り立つものとする《家族主義》のような《社会成員原理》も、多くの社会で見られる。さらには、〈個人〉や〈家族〉の社会主体性を認めない《村落主義》や《国家主義》や《宗教主義》のような《社会成員原理》も、世界歴史的にはありうる。

 また、逆に、《個人(自然人)主義》を越え、自然環境問題における人間の乱開発と対抗するために、「山のタヌキ」「野のウサギ」などという一般動物にまで、社会成員としての資格を発展拡大すべきである、というような《動物主義》を主張する者も実際に存在する。言うまでもなく、彼らは社会参加能力を持たない、などということは、その社会成員としての資格を否定する理由たりえない。というのも、自然人については、文字の書けない人間、それどころか、永続的に昏睡状態の人間、いわゆる「植物人間」9についても、社会の成員としての資格が認められ、完全な権利能力が与えられ、むしろ「後見人」によって法律的に保護が図られているからである。

 この《社会成員原理》の問題は、歴史的には、〈個人〉、すなわち、領民や奴隷、そして、女性や子供に社会の構成員としての資格があるのか、という図式で提起され、宗教や国家や村落や家族などの〈法人〉の代表者(祭司、国王、領主、家長)に対して、その他の一般個人が、代表権を制限し、参与権を請求する、という形式で、議論が発展拡大してきた。このため、その議論は、基本的に、その〈法人〉の存在を前提して、その代表権や参与権について争われたのであり、〈法人〉の存在そのものについては、ギールケを待つまでもなく、プラトーン・ホッブズ以来の《社団説》、すなわち、成員より上位の有機的結合団体、という以上の理論モデルを我々は持ち合わせていなかった。それゆえ、その後、これらの〈共同体(ゲマインシャフト)〉とは別に、企業のような〈機能体(ゲゼルシャフト)〉としての〈法人〉が創設されるにおいても、むしろこの唯一の理論モデルである《社団説》に依拠し擬制した、と理解することができる。つまり、企業法人は、本質的に〈社団〉であるのではなく、その創設に際して形式的に〈社団〉という理論モデルを利用した、ということである。

 なぜこのような奇妙な議論を提起するか、と言うと、政治学や法学というような場面を離れるならば、我々は、社会文化論的に、〈法人〉に関して、もっと別の理論モデルを持ちうるからである。すなわち、我々は、人間を含む〈共同体〉や〈機能体〉に限らず、社会文化論的に主体を措定する一般的な図式を普遍的に持っている。たとえば、雷という結果があれば、その原因として、遡及的に、雷を落とした主体として雷神を措定し、不幸という結果があれば、その原因として、遡及的に呪いをかけた主体として悪霊を措定する。これと同様に、我々は、所有者未詳の財産がある場合もまた、その権利の帰属点として、遡及的に、その財産を所有する権利主体を措定する。「山の主」「森の主」「川の主」「池の主」「地の主」などと呼ばれるものがそれである。もちろん、それらは、直接的な意味で実在するわけではないので、これらの主体に関して、論争が戦争になることもあるが、これらの論争や戦争の結果、それらは、その後、統一的な神話へと文化的に整理され、文化的な共通了解となる。

 国家などの〈共同体〉に関する《社団説》も、もとよりむしろ「王権主義の正当性の神話」「民主主義の正当性の神話」であり、「神話」にすぎないからこそ、容易にホッブズとロックで主旨を逆転することも可能なのである10。すなわち、国家もまた、すでに存在してしまっている国土や国民という所有者未詳の財産を所有する権利主体として、遡及的に措定されたものであると考えることができる11。

 さて、話を元に戻そう。財産がすでに実在するとき、我々は、その所有者を、登記という法的に統一された「神話体系」に整理している。それゆえ、たとえば、土地があれば、登記簿を調べ、その所有者を知る。これこそ、我々が実際にやっていることである。そして、ここにおいて、この所有者は、しょせん紙の上の記録であり、自然人であるか、法人であるか、を、問わない。自然人であっても、生没未詳かもしれない。しかし、いずれにせよ、すでに解散しているが清算未了の「事実上の法人」などのように、現実に財産がある以上、その所有者は、まさにそのように財産があることにおいて、文化的にはもちろん、法律的にも存立してしまう。


3 経済行為能力

 法律において「行為能力」は、法律行為を行う法律上の資格を意味するが、我々は、これを離れて、実質上の〈行為能力〉を問題としよう。たとえば、無免許ながら自分の庭園で自動車の運転をしている者は、運転に関して法律上の「行為能力」はないが、実質上の〈行為能力〉はある、ということになる。この区別は、法律一般の原理としても基本となる。というのも、実質上の〈行為能力〉がない物事については、法律上は、その禁止も義務もできないからである。逆に言えば、実質上の〈行為能力〉がある場合にのみ、法律上の「行為能力」を否定することもできる。

 次に、我々は、〈行動行為〉と〈表示行為〉と〈意思行為〉を区別しなければならない。たとえば、走る、食事する、などは、〈行動行為〉であるが、買う、約束する、などは、〈表示行為〉、疑う、希望する、などは、〈意思行為〉である。である。すなわち、〈行動行為〉は、身体的な行動を必要とするが、〈表示行為〉は、いかなる方法であれ意思表示さえされればよく、〈意思行為〉は、意思のみあれば、その表示さえも必要としない。そして、イエスの厳格律法でもないかぎり、法律は、基本的に〈行動行為〉と〈表示行為〉のみを問う12。

 さて、ここにおいて、所有する、とは、いかなる行為であろうか。しかし、これは、上述のいずれの行為カテゴリーにも当てはまらない。すなわち、所有することに、通常は、握持や監視などの行動はもちろん、占有の表示も意思も直接的には必要ではない(『辞典』)。ただ財産が所有者に帰属するのであり、その所有者が何か行為するのではなく、その所有者以外が、所有者が所有するとされている財産に関わる行為をする際に特別な配慮や手続を必要とする、つまり、その所有者ではなく、その所有者以外がその財産に関して特別な配慮や手続の義務を負う、ということである。むしろ、所有者は、その所有する財産に関して、消費も破棄も放置も、とくに他者の権利を侵害しないかぎり、基本的には自由である。この意味で、所有は、じつは、実質的な行為概念ではなく、本質的には、社会的な権利概念である、と言うことができる。

 もちろん一般には、財産は、行動行為や意思行為によって獲得され、消費・破棄・遺失するまで所有していることになるが、静的な《所有推移律》(AがBを所有し、BがCを所有するとき、AはCを所有する)と、動的な《結果所有律》(AがBを結果するとき、AはBを所有する)によって、《結果所有推移律》(AがBを所有し、BがCを結果して所有するとき、AはCを所有する)が得られる以上、まったく行為なしに財産を獲得することもありうる。たとえば、山の主は、何もせずして、山の木を獲得し所有する。

 また、我々は、売る、買う、貸す、借りる、などの経済行為が、基本的に〈行動行為〉ではなく、〈表示行為〉であることにも着目しなければならない。すなわち、なんらかの方法で意思表示することができ、かつ、財産や対価の引き渡しという経済的義務を果たすならば、それ以上の身体的な行動は必要ではない。また、契約する、雇用する、などの経済周辺行為についても、同様である。そして、財産を所有する場合、これを担保に貨幣を借り、対価に当てることができる。それゆえ、いかなる経緯で獲得したのであれ、財産を所有する者は、それだけで形式的に経済行為の〈行為能力〉を持つ、ということになる。この〈行為能力〉について、〈意思能力〉は問題ではない。というのも、〈意思能力〉がない場合、この〈行為能力〉が発動しないだけだからである。


4 意思無能力者と後見制度

 いわゆる「植物人間」、法律的に言うと、心神喪失の常況にある「意思無能力者」は、「禁治産者」(『民法』7)として、直接には「行為無能力者」(『民法』9)とされるとともに、「後見人」(『民法』8)を選任して、療養看護(『民法』858①)、財産管理(『民法』859①)の事務に当たらせる。この際、「後見人」は、その財産に関する法律行為について被後見人を「代表」する。「代表」は、「代理」「使者」とは区別される。「使者」は、本人の意思を第三者に伝達するにすぎないのに対し、「代理」は、自分の権限内において、自分の意思によって、その法律効果が本人に帰属する意思表示を第三者に行ったり、第三者から受けたりすること(『民法』99)であるが、「代表」は、その行為がそのまま本人の行為とされること(『辞典』)を意味する。

 くわえて、「後見人」の事務は、「後見監督人」によって監督される。「監督」は、一般には、被監督者の行為の合法性や合目的性を監視し調査するだけの「監査」より強く、大臣による機関の監督、主務官庁の公益法人の監督など、必要に応じて被監督者に対し直接に指示や命令をすることを含む(『辞典』)。ただし、「後見監督人」の場合、「監査」は行う(『民法』863)が、急迫の事情がある場合以外(『民法』851)は、家庭裁判所に後見人に対する命令を請求する(『民法』863②)のであり、それゆえ、その職務は、事実上、むしろ「監査」に近い。そして、この点に関し、後見人に対する命令権において、むしろ家庭裁判所が、司法機関でありながら、後見人を監督する事実上の上位の行政機関となっている。

 「植物人間」は、直接には「行為無能力者」であっても、このような「後見人」の代表によって、事実上の法律的な「行為能力」を回復する。むしろ問題なのは、この「植物人間」が〈行為能力〉、とくに、経済行為に関する〈行為能力〉を持つかどうか、である。というのも、「後見人」の事務は、療養看護も含め、実際は財産管理を中心とするものであり、管理すべき財産がないならば、財産を管理する事務もないからである。

 逆に、いかなる経緯であれ、すでに財産が存在し、その直接の所有者に意思能力がない場合、我々は、社会的にその所有者に「後見人」を必要とする。というのも、先述のように、所有は、所有者本人よりも、その所有者以外が、所有者が所有するとされている財産に関わる行為をする際に特別な配慮や手続を必要とする、つまり、その所有者以外がその財産に関して特別な配慮や手続の義務を負うからであり、これらの配慮や手続において、その所有者の承認などの表示行為が必要とされるからである。たとえば、山の木の伐採に関し、これを所有する山の主が実際の意思能力を持たない以上、山の主を代表する後見人の祭司の承認を必要とする。そして、これは、山の主が祭司に憑依してのことであるから、祭司の承認ではなく、山の主そのものの承認とみなすことができる。


5 意思無能力者としての株式会社

 さて、「財団法人」を鑑みるに、それはまさに、このような財産を所有する「意思無能力者」に対する後見制度と平行する13。そして、この平行関係は、なぜかむしろ「社団法人」の「株式会社」においてさらに著しいのである。

 「株式会社」は、たしかに、その設立において「発起人」を必要とする(『商法』165)。この「発起人」は、同一の定款に賛同し署名することにおいて合同行為をなす集団と認めることができる。ここにおいて重要なのは、「発起人」が結社し、合議によって定款を作成するのではない、ということである。すなわち、その定款に賛同しない者は、そもそも「発起人」とはならない。それゆえ、この「発起人」の集団は、合同行為をなすことにおいて、単なる集合ではないが、個々の成員と別の意思を持つ社団でもない。むしろまさに合同行為そのものであって、この行為から遡及的にこの行為そのものの主体として、いわば〈プロト株式会社〉が措定される。そして、個々の「発起人」は、定款に関して、まさにこの〈プロト株式会社〉と同一の意思を持つという意味で、合同行為の範囲内において〈プロト株式会社〉を代表する。そして、彼らは、〈プロト株式会社〉を代表して、合同行為として株式を発行する。

 しかし、この次の段階において、「発起人」はまた、それぞれに株式を引き受ける。この株式引受は、株式発行と違い、もはや共同の合同行為ではなく個別の契約行為であり、それゆえ、これは、「発起人」としてではなく、すでに「株主」として行われる。つまり、合同行為である〈プロト株式会社〉から、それぞれが「株主」として株式を買い取るのである。ここにおいて、〈プロト株式会社〉は、配当契約などに関して利害の相反性を持つ「株主」とはすでに独立の存在であり、また、以後の「発起人」の集団は、事実上の「株主総会」となる。

 株式引受による出資は、株式、すなわち、「株主」としての権利(自益権(配当受益権など)や共益権(総会議決権など))と対価の売買であるが、これによって、出資された財産は、その後、「株式会社」自身のものとなる。というより、個々の「株主」から出資された財産を一体に結合したものとして、〈財団〉として「株式会社」が措定される。この〈財団〉としての「株式会社」は、その所有する財産を一括担保(『工場抵当法』11等参照)とすることによって、実質的な〈経済行為能力〉を持つ14。それゆえ、これを法人として、その法律的な「経済行為能力」(権利能力)を付与することが適当である。

 ところが、「株式会社」そのものは、単なる〈財団〉であり、直接的には意思能力を持たない。それゆえ、「株式会社」の親にも相当する「株主総会」は、みずからこれを代表することもできるが、経営の高度の専門性に鑑み、バーリ&ミーンズが言う「所有と経営の分離」として、いわば親権を辞し、代わって「株式会社」を後見させしめるために、「取締役」を選出する。すなわち、「株主総会」は、事実上の親権者として、「株式会社」を代表して、「取締役」を委任する。したがって、ここにおいて、「取締役」は、代表者である「株主総会」ではなく、本人である「株式会社」そのものから委任される、ということになる。

 「取締役」は、三人以上であることが規定されており(『商法』255)、彼らは、「取締役会」を結社する。そして、この「取締役会」が、「株式会社」の業務執行を決する(『商法』260)。すなわち、「株式会社」の〈意思行為〉を代表するのは、個々の「取締役」ではなく、あくまで「取締役会」である。その議決は、一人一議決権の原則を持つ(『商法』260ノ2)ことから、これは〈人的会社〉とみなすことができる。そして、実際の経済行為などにおいては、その〈表示行為〉が必要となる。それゆえ、「取締役会」において、「取締役」の中から互選で「代表取締役」が選出される。この「代表取締役」は、あくまで「株式会社」の〈表示行為〉を代表するのみであって、その〈表示行為〉は、「取締役会」が代表する「株式会社」の〈意思行為〉に準拠する。この意味において、「代表取締役」は、事実上、「取締役会」の監督に服さなければならない15。

 「株式会社」には、「監査役」も存在するが、これは、「株式会社」の後見人である「取締役会」のまさに「監査」のみを行い、「株主総会」に報告するだけで、「取締役会」に対する直接の「監督」権限、すなわち直接に指示や命令をする権限を持たない16。そして、むしろこの意味で、「取締役会」の経営は、その後、「株主総会」のチェックを受ける。ここにおいて、「株主総会」は、立法機関というより、家庭裁判所に相当する機能、すなわち法律や定款や決議に基づく司法機関であるだけでなく、後見を〈監督〉する上位行政機関としての役割をも果たしていることになる17。すなわち、「株主総会」は、個々の「取締役」の「総会決議遵守義務」(『商法』254ノ3)によって、その〈人的会社〉である「取締役会」を間接的に〈監督〉するとともに、個々の「株主」もまた、「代表訴訟権」(『商法』267)や「差止請求権」(『商法』272)によって、個々の「取締役」を〈監督〉する18。


6 株式会社の財団性

 通常は「代表」という制度によって非常に見えにくくなっているが、平行する「意思無能力者」に関する後見制度を参考に、このように「株式会社」の本来の、つまり、「代表」によって権利主体や行為能力が補完される以前の構図を分析してみると、後見監督人たる「株主総会」は〈物的会社〉として、後見人たる「取締役会」は〈人的会社〉として、たしかに〈社団〉であるが、「株式会社」そのものは、成員(社員)を持たず、〈社団〉ではない、ということがあきらかになる。むしろ、「株式会社」の設立からして、資本の規定があり、また、株式総数を定款に記載する「資本確定の原則」、これを任意に変更しない「資本不変の原則」、そして、相応の財産(資産)を保持する「資本維持の原則」が認められることから、「株式会社」の本質は、個々の財産を一括する〈財団〉であり、それゆえ、「株式会社」は、現行法体系において「社団法人」に擬制しているとはいえ、法哲学的には〈財団法人〉である、と言えるのではないか。

 このことは、以下のような法制にによっても補強される。すなわち、第一に、『商法』94の規定にもかかわらず、法人格の濫用でないかぎり、特定の事業について有限責任の利益を享受する場合など、株主を一人しか持たない「一人会社」のような、「株主総会」としても〈社団〉とは呼べないようなものもまた、通説上、認められる。というのも、「株式会社」において、「株主総会」と「取締役会」とで、「所有と経営の分離」が行われており、上述のように、機能的には、「株主総会」は、「株式会社」の後見監督人であり、一般の「意思無能力者」の場合の「後見監督人」同様、「取締役会」に対して監督という事務を行いうるのであれば、複数の成員から構成される〈社団〉であることに必然的な理由を持たないからである。そして、実際、「株主」は、「株主総会」によることなく、直接に「代表訴訟権」や「差止請求権」などの監督権を持っている。この意味において、「株式会社」の「株主総会」の〈社団〉としての性格も、けっして本質的ではないことがわかる。そしてまた、ここにおいて、問題となっているのは、「株主総会」や「取締役会」としての合議による組織運営ではなく、あくまで「株式会社」そのものの資産運営でしかない。つまり、「株式会社」において、「一人会社」のようなものが認容されうるのも、「取締役会」の介在によって、「一人株主」が組織の政治的な共益権の独占ではなく、事業の経済的な自益権の安全のみを目的としうるからである。

 第二に、そもそも「法人」一般において、債務完済の〈行為能力〉がない場合、裁判所から「破産」が命じられ(『民法』70①)、「破産」は、ただちに「解散」の事由となる(『民法』68)。これは、「財団法人」の場合は当然であろうが、「社団法人」の場合には奇妙と言わざるをえない。なぜなら、「社団法人」は、たとえ経済行為の〈行為能力〉がないとしても、〈社団〉として実体を持ち、経済行為能力以外の方法によって、「社団法人」としての目的の活動を遂行することが可能であるからである19。そして、債務完済の〈行為能力〉がないとして「破産」に至ったとしても、自然人であれば、その後の経済行為の「行為能力」に関して制限されるのみで、存在そのものまで否定される、すなわち、死刑になるわけではない。にもかかわらず、〈法人〉が一般に「解散」させられるのは、〈財団〉か〈社団〉かを問わず、もとよりその法人格が、事実上、経済行為を行うための便宜に限定され、経済行為を行わない、もしくは、支払不能や債務超過などにより経済行為の〈行為能力〉を持たない場合、その法人格そのものは、その目的たる活動の有無の如何にかかわらず、その取得も保持も、法律的な意味を持たない、したがって、〈法人〉そのものが存在しない、とみなされるからではないのだろうか。

 さらに、第三に、「破産」において、その所有財産は、一般に、本人とは別の「破産財団」とみなされる。「法人」の「破産」の場合、元来の「法人」が「事実上の法人」となり(『破産法』4)、以前と同様に後者の「破産財団」を所有するが、この「事実上の法人」は、すでに経済行為に関する法律的な「行為能力」を持たないために、「破産管財人」が後見して代表するということになる。このように破産者の財産を〈財団〉とするのは、もとより債務超過の虞がある状況で、財産が個別に処分されて一部の債権者のみに不利益が集中することを予防し、現有財産を公正に「配当」するためであるが、「破産」の以前においても、「法人」、とくに「株式会社」は、この「破産財団」と同等の〈公正配当機能〉を持つものではないのだろうか。すなわち、ある企業において、多様な協力者が、それぞれの協力を事由として、営業の結果である利益に対し随時に自益権を主張し行使するとき、その配分の公正は期待しがたい。それゆえ、企業は、これらに随時個別に利益を還元するのではなく、「株式会社」という「資産財団」としていったんプーリング[pooling]を行い、その上で、労働賃金や借入金利や株主配当としての制度に基づき、公正な「配当」を行うのではないか。


7 雇用と従業員

 法学と違い、経営学や社会常識では、もとより「株主」を、金融機関などと同様の企業の外部の利害関係者とみなし、むしろ、〈企業法人〉を、「従業員」を社員とする〈社団〉、有機的な〈組織〉と見る傾向がある。しかし、このような理解は、あきらかに現行法体系の形式と相反する。だが、「商法の進歩的傾向」という意味からすれば、これは、だからといって、経営学や社会常識が間違っている、として片づけるべき問題ではなく、むしろ、追って法体系の整備が求められるべき問題であろう。しかし、そのためにも、経営学や社会常識における〈企業法人〉の法哲学構造をあらかじめ解明する必要がある。

 まず最初に、「従業員」が「株式会社」に「雇用」される、という点については、法学も経営学や社会常識も相違はない。問題は、この「雇用」という概念によって、「従業員」は、「株式会社」の成員、いわゆる「社員」になった、というように、法学の理論に反して、経営学や社会常識で考えられることである。とすると、我々は、この「雇用」という概念の持つ法哲学的意味を再考する必要がある。

 「雇用(雇傭)」は、『民法』623の規定によれば、単純な労務契約にすぎない。すなわち、一方が労務に服することを約束し、他方が報酬を与えることを約束する一般的な諾成有償双務契約の一種にすぎない。これは、同じ諾成有償双務契約であっても、事務処理に関する「委任」や、仕事完成に関する「請負」と違い、被雇用者は、使用者の指揮に従い、裁量の余地が限られる、とされる(『辞典』)。そして、以下詳細は、「労働」として労働関連の法律によって規定されることになる。つまり、『民法』の基本原理は、使用者と被雇用者(労働者)とを対等の立場とみなすことにあり、労働関連の法律は、その不平等の現実に対して、『民法』の基本原理が成り立つように、これを対等のものに是正しようとする側面を強く持つが、いずれにせよ、ここに〈社団〉と成員という図式に当てはめうるものはない。

 このような「雇用」に関する法哲学的構造は、いかに現行法体系とはいえ、現代の我々の社会常識からあまりに懸け離れている。(20) 現在、諸般の問題は、これらの概念に擬制して処理されているが、このように現実からずれた法体系を放置することは、会社にとっても、被雇用者にとっても、法的権利義務関係が不明確となり、むしろ問題や紛争の元凶となりかねない。

 現代において、社会通念上、企業法人内の「従業員」に関し、「正社員」「パート・アルバイト」と「外部サーヴィス業者」の三つを区別することは、むしろ常識である。そして、「雇用」は、「正社員」と「アルバイト」の二つに限られ、「外部業者」については、恒常的に使用するにしても「雇用」ではなく、「委託」と呼ばれる。「外部サーヴィス業者」については、清掃などの特定業務をまとめて〈請負〉し、その業者の〈監督〉下において、その業者の従業員が実際の労務に当たる場合と、その業者の従業員のみを会社に派遣し、会社の〈監督〉下において、データ処理などの実際の業務に当たる場合とがあり、後者は一般に「派遣社員」と呼ばれる。

 「正社員」の法哲学的概念は、立法ではなく司法において、「解雇権濫用法理」によって確立された、と言うことができる。すなわち、『民法』627①の規定では、とくに期間を定めていなかった場合、使用者も被雇用者もいつでも自由に「雇用」を解約することができることになっている。『労働基準法』20においても、使用者は、三十日前に予告をすれば、いつでも自由に被雇用者を解雇することができることになっている。そして、このような「雇用」の恣意性に対し、戦後の労使紛争、および、第一次石油ショック不況の結果、判例において、使用者の解雇権を制約する基準が成立してきた。すなわち、解雇にあたって、使用者は、①解雇実施に至らざるを得ない高度の必要性、②残業規制、新規採用や中途採用の停止、配転、出向、一時帰休、希望退職者の募集等の解雇回避努力義務、③労働組合や労働者に対する説明・協議義務、④解雇基準・人選の客観性、という四点について、充分な正当性を必要とする、とされた。そして、このような使用者の解雇回避最大努力義務によって、今日の「正社員」の恒常永続的な「雇用」の慣行が確立されたのである。

 しかしながら、最初から使用者と被雇用者の合意で時間や場所を限定する「パート・アルバイト」は、解雇回避のための配転や出向ができないことを理由に、この基準の恩恵から外され、「正社員」に関して硬直してしまった人事に対し、いわば準社員、劣等社員として、低賃金の補助職に甘んじさせしめられただけでなく、もっぱら景気による雇用調整の対象とされることになった。これは、日本産業社会にある、景気対策のための企業間の[本社>下請]の二重構造の賃金待遇格差が、企業内に持ち込まれたものと理解することもできる。しかし、93年、『短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律』、通称、「パート労働法」が、罰則規定がないとはいえ、成立し、また、バブル後の極度の不景気による「リストラ」が進んだため、このような企業内の身分制は、明確に外化され、このことが、先述の「外部サーヴィス業者」を増大させる要因ともなっている。


8 従業員組織に関する法人性問題

 恒常永続的な「正社員」という概念が、経営的に企業法人の中核概念になっていった理由は、つまり、「従業員」を「正社員」として恒常永続的に「雇用」しなければならなくなった理由は、歴史的な経営構造そのものの変化にもある。

 すなわち、産業革命後の資本主義の初期においては、企業には、個人の〈経営者〉と複数の〈労働者〉がいるだけであったが、その後、およそ十九世紀半ば以降、企業の規模が拡大し、〈労働者〉が増大するにつれ、〈経営者〉は、自分で〈労働者〉を監督管理しきれなくなり、自分を代理して労働者を監督管理する者を必要とするようになって、ここに、〈中間管理職〉、いわゆる、「ミドルクラス(中産階級)」の「ホワイトカラー」が出現した21。なお、「監督」は、先述のように、監査し命令すること、「管理」は、その性質を変更しない範囲で利用することを意味する(『辞典』)。そして、十九世紀末から二十世紀半ばまでにかけて、この「ホワィトカラー」の〈中間管理職〉と「ブルーカラー」の〈労働者〉の間で、激しい労使対立が繰り広げられることになった22。

 しかしながら、二十世紀後半に至ると、機械による自動生産や事業のサーヴィス化が著しく進展し、〈労働者〉も、〈中間管理職〉と同様の「正社員」として身分が安定する一方、劣等の「パート・アルバイト」も出現し、これらの結果、〈労働者〉の仕事は、機械やパート・アルバイトや顧客の管理へとシフトし、実際上も「正社員」としての恒常永続的な勤務が要請されるようになっていった。一方、機械化されない残余の断片化可能な機械的反復作業は、「マニュアル」化し、〈労働者〉である「正社員」の管理の下、低賃金調整可能な「パート・アルバイト」によって行われることになった。

 このような歴史的経緯からわかるように、「従業員」が「正社員」として企業法人に実体化していく理由は、「取締役会」以下の連鎖カスケード的な監督権・管理権の代理委譲と、現場の仕事の管理化であろう。それゆえ、組織の末端であっても、パート・アルバイトや顧客と接するにあたって、すくなくとも「正社員」であることにおいて、「株式会社」の「代理」の「代理」の「代理」となっている。このために、善意の第三者たるパート・アルバイトや顧客が、「正社員」と契約や売買などの法律行為を行う場合、たとえそれが組織の末端の「平社員」であれ、「正社員」である以上、彼らは、その「正社員」個人と交渉しているのではなく、代理とはいえ、実質的には、その「正社員」が所属する「株式会社」そのものと交渉しているのであり、この結果、その「正社員」は、まさに「正社員」であることにおいて、「代表取締役」と同様の「表見代表」(『商法』262参照)、すなわち、事実上の「代表」としての責任を持ってしまう。そして、「株式会社」もまた、このような個人を「正社員」として雇用したことにおいて、その「正社員」の「表見代表」としての行為に対し、責任を持たなければならない。これは、使用者の被雇用者の言動に対する「監督義務」などのような、間接的な道義上の責任などではなく、直接的な法律上の責任である。

 このように、社会通念上、そして、法律上も、「表見代表」の責任が及ぶことにおいて、「正社員」は、まさに「代表」として、雇用される「株式会社」と一体性を持つ。それゆえ、これは、集団が独立の人格として成員から区別される〈社団〉ではない。つまり、もう一度、全体を整理するならば、通常、経営学などで言われているように、企業法人は、有機的な〈組織〉であるから、という理由によって直接に、従業員を含む統一人格性が認められるのではなく、ただ、有機的な〈組織〉であることによって、すなわち、「取締役会」以下の連鎖カスケード的な監督権・管理権の委譲によって、その末端に至るまで代理権が行き渡っていると、善意の第三者に推定させてしまうことによって、ここに、「表見代表」が成立し、このために、一般的に、「正社員」の一体性が、社会通念上、成り立っている、ということになってしまうのである。

 しかしながら、この一体性は、法律的責任として発生するのであって、法律行為以前にある一体感とは区別されなければならない。すなわち、「正社員」であることが「表見代表」の権利と責任を派生してしまうことから、「正社員」が、事前に、自分が雇用される「株式会社」に対して一体感を持つとしても、この一体感に実体性はない。というのも、そもそも「取締役会」の決議としての意思を別として、「株式会社」は、もとより意思能力を欠いており、ましてや、「従業員」においては、たとえ「正社員」であろうと、「従業員」全体として意思の統一が図られる制度が、「組合」よりもなお欠けているからである。「従業員」は、まさに「組織」であり、連鎖的に構成されているものであって、「取締役会」とさえも、一般の「従業員」は直接に意思疎通しているわけではない。それゆえ、個々の「正社員」は、一方的な「取締役会」の発表や上司からの命令や伝聞によって、「取締役会」の意思、したがって、それに代表される「株式会社」の意思を、個別に推量することはできるが、これは一般の他者の意思を推量することに等しい。ここから、「株式会社」は、やはり「従業員」の「組織」とも独立の人格であり、また、「従業員」は、監督権・管理権の代理委譲によって連鎖する組織を構成するとはいえ、やはり個別に「株式会社」の意思を推量するにすぎず、ここに〈社団〉としての法人格を認めるべき「従業員」の総体としての意思能力も行為能力も存在しない23。


おわりに

 現代において、すべての自然人に基本的人権が認められるほどに、社会の成員としての資格が拡大した結果、先進諸国では、中間的な〈村落〉や〈家族〉などの社会主体は極端に〈意義〉を縮小し、〈個人〉が《社会成員原理》となるに至った。その一方、上述の議論のように、経済活動の〈意義〉が増大し、経済行為能力のみを事由として、〈企業〉の存在が巨大化した。ここで詳述はできないが、〈国家〉もまた、すでに実在してしまっている権利能力や行為能力から逆に遡及的に措定される広義の〈財団法人〉であって、国民の〈社団〉としての政府など、「民主主義の神話」にすぎないのであろう。

 〈法人〉が〈社団〉から発生する、という《契約説》は、本論で検討したように、たしかに、「株式会社」の発生の事実問題のメカニズムとしては、「発起人」の合同行為という意味で、それほど外れていない。というより、この法律構造そのものが、《契約説》の影響下で確立された、と、理解する方が正しいのであろう。しかしながら、このようにして設立された「株式会社」そのものは、それが独立の法人となりうるという権利問題から言えば、これもまた本論で考察したように、その設立の過程における「発起人」の合同行為とも、株式売買としてそれと最初の契約を行う株主たちからなる「株主総会」とも独立の存在であり、その設立から解散まで、および、その機能において、本質的に〈財団法人〉である、と思われる。そして、この「株式会社」という〈財団法人〉は、その財産の一括所有によって、実質的な経済行為能力を持ちながら、意思能力を欠くために、一般の意思無能力者と同様に、後見人として意思を代表する「取締役会」、意思の表示を代表する「代表取締役」を設定され、後見監督人として「株主総会」が機能する。

 「株式会社」は、その最初の「コンメンダ」からして、〈財団〉、ファンド(投資信託)であるにもかかわらず、これを「合名会社」のような私的な人的会社の延長として法体系を確立してしまったことは、今日のように、「社団法人」に擬制する「財団法人」というような、社会通念からも逸脱する、わかりにくい制度を生み、「株式会社」の社員である「資本家」と、「株式会社」から疎外された「労働者」の対立というような、社会そのものを分断する無用の混乱も引き起こしてしまった。

 「株式会社」の典型とされる十九世紀アメリカの鉄道会社にしても、公共的大事業のための巨大資本の必要性から広く財産の寄附を募ったのが原型であり、純粋に営利だけを目的とするのであれば、株式そのものによる利益を目的とするのでもないかぎり、税制上の理由などから「株式会社」に擬制するだけの日本のオーナー企業のように、一般市場で株式を公開することは、もとよりばかげている。そもそも、今日、事業に公共性がないならば、大企業を維持するほどの収益性もない。そして、実際、金融保険や交通機関、流通製造、すべての分野において大企業の安定営業の公共責任が求められる。

 一方、行政の補完として位置づけられていたはずの公益法人の私的な経営姿勢が問われる。「社団法人」の定款は、憲法を、「財団法人」の寄附行為における定款相当事項は、遺言をモデルとしたものであろうが、しかし、いかに公益法人であれ、政府や官庁も含め、いったん法人として創設されてしまった以上、その定款または寄附行為による目的を追求するために、その経営者(理事、取締役)や従業員とともに、まさしく独立の人格として、みずからの私的な幸福、すなわち、権力の拡大、財産の増大、地位の向上などをめざすのは、むしろ自明であり、公共の福祉に反しない限り、法人もまた国民として、このことはある意味で『憲法』13の「幸福追求権」で保障されざるをえない。

 しかし、私企業にしろ公企業にしろ、その財団としての強大な経済行為能力は、けっして自己目的であってよいものではあるまい。擬制的にせよ、その存在を社会が容認し、法人としての主体性を期待する以上、その存在意義として、そこに社会的な秩序の再構築という〈正義〉のサーヴィスが求められるのではないか。そもそも、なんらかの〈正義〉としての経営理念がなければ、「会社」は、「会社」として存立しえないのではないか。




1 財団法人などの細々した議論は、本論に譲る。
2 内閣法制局法令用語研究会編:『法律用語辞典』、有斐閣、1993
3 術語と概念の区別は、本章では充分に注意を払われなければならない。というのも、本章の主張は、「株式会社」は、法律上は「社団法人」であるが、実質上は〈財団法人〉である、というものだからである。
4 [実質的/法律的]という対立概念は、擬制の問題を扱うために、本章の基本図式となる。この区別は、行為、能力、主体、などにも用いられる。
5 個々の会社の存立に関しては、通説上、準則主義として57条が挙げられるが、「営利法人」という概念そのものの法体系内における存立根拠としては、52条②が妥当であろう。
6 「商行為」は、『商法』において、「絶対的商行為」(501)、「営業的商行為」(502)、「附属的商行為」(503)の三つに分類されている。「絶対的商行為」は、単独の行為に対して形式的に規定されうるものであり、差益という目的、転売という立場、取引所という場所、商業証券という対象、のいずれかに関わるものがこれに相当する。これに対して、「営業的商行為」は、単独の行為としてではなく、賃貸、製造、運搬など、継続反復的な「営業」としてこれをなすときにのみ、「商行為」とみなされるものである。最後の「附属的商行為」は、「営業ノ為ニスル行為」(503①)であり、「商人」の行為は、すべてこの「営業ノ為ニスル行為」であると推定される(503②)。
7 先述のように、「会社」は、法律上の定義、〈会社〉は理論上の概念を意味する。
8 これらにおいて、「社員」というのは、言うまでもなく、雇用された従業員などではなく、「社団法人」を構成する成員、たとえば、「株式会社」であれば、株主のことである。
9 特定の個人を「植物人間」と表現することには、おおいに問題があると認識されなければならないが、ここではあくまで理論考察上の術語として、この言葉を一般概念として利用することにする。
10 ホッブズにせよ、ロックにせよ、契約論は、より正確に言えば、事実問題に関する虚構の神話なのではなく、権利問題を問うための、あくまでデカルト的な方法論的思考実験である。この方法は、近年、ロウルズが再興し、おおい注目を集めている。ただし、ホッブズやロックの古い契約論が、法人設立のための単純な同時的な「合同行為」であるのに対し、ロウルズの契約論は、補填を予約する保険として時間的な「相互行為」となっていることに注意する必要がある。本章においても、後述するように、「株式会社」に関して、現行法体系が要件とする「合同行為」としての設立よりも、利益の公正な分配のための時間的プーリング機能を重視する。
11 この言及において、我々は、すでに《国家法人説》をも射程に捉えている。本章で詳述することはできないが、政府も官庁も、もとより広義の〈財団法人〉であり、将来的には、市場維持機能を除いて、一般の民間企業のサーヴィスの公共性とシームレスなものになっていくのではないだろうか。
12 イエスの厳格律法など、宗教は、しばしば意思行為を問題にする。たとえば、十戒に「殺すなかれ」とあるのに対して、イエスは、「殺そうと思うなかれ」、さらには、「敵を愛せ」という意思を問う。そして、このように、意思行為への規範介入の有無が、宗教と法律とを区別するものとなる、としばしば言われる。
13 もちろん、「後見人」が一人に限定される(『民法』843)のに対して、「理事」は一人に限定されない(『民法』52)などの相違はある。しかし、我々が問題としているのは、表層的な形式ではなく、ここにある法哲学的な理論構造の同一性である。
14 「株式会社」の〈経済行為能力〉は、この一括担保化により、個々の「株主」が出資する財産を担保とする〈経済行為能力〉の総和よりも大きい。これは、工場において、個々の機械の担保価値より、一体の工場としての担保価値の方が実質的に大きいことから、『工場抵当法』11において、法律的にもこれを「工場財団」として認めていることと、法哲学的精神として平行する。そして、この点にも、「株式会社」の〈存在意義〉があると言えるだろう。
15 もちろん、日本の「株式会社」の実際からすれば、「代表取締役」の一人である「社長」が「株主総会」の議事進行を決定する議長を務める慣行において、「社長」によって議案として「株主総会」に提起されないかぎり、「取締役」として「株主総会」に選出されることもない。また、逆に、本人の意向とかかわりなく「取締役」辞任の議案が提起されてしまった場合、「株主総会」によって承認されてしまう危険性が高い。このために、「取締役はもちろん、「監査役」も、「社長」、または、「社長」に圧力をかけうる他の「代表取締役」(会長、副社長、専務など)のイエスマンとなり、これらの「代表取締役」は、以下、カスケード状の人事権の連鎖によって、従業員の末端まで、それぞれの派閥を形成する。それゆえ、日本の「株式会社」では、実際の重要事項は、公式の「取締役会」ではなく、それぞれの派閥の長である一部の「代表取締役」たちによる非公式の「最高幹部会」において、事前に調整され決定されるのが一般的である。
16 このような〈監督〉権限の欠如から、「監査役」は、複数存在するとしても、合議的な〈社団〉を構成しえない。
17 そもそも、一般に、商人はその商行為に関して裁判所の命令を遵守する義務を負う意味において、裁判所は、単なる司法機関としてではなく、事実上、社会的に、商人一般の上位行政監督機関としても機能しているということができる。したがって、我々は、ここに、[家庭裁判所>後見監督人>後見人>意思無能力者]という行政図式と平行して、[裁判所>株主総会>取締役会>株式会社]という行政図式を認めることができる。そして、これは、[主務官庁>(社員総会(「社団」のみ)>)理事会>公益法人]という行政図式に対応する。
18 たしかに、「株主総会」は、本人である「株式会社」と配当契約に関して利害の相反性があるが、このことは、「後見人」と違って(参考『民法』860)、一般の「後見監督人」と同様に、その欠格事由とならない。また、「取締役」についても、これが株主である場合、「株式会社」の後見人たるには、同様の利害の相反性があるが、一般の「後見人」の場合と同様に、「株主総会」という後見監督人があることによって、欠格事由とならない(参考『民法』860)。
19 たとえば、托鉢修道会のようなものは、その社団としての目的とする活動を営むために、もとより「資産」(目的とする活動に必要な財産)を必要としていない。
20 もとより『民法』が、この「雇用」に関し、当時の個人商店などの実状からみても異様な、個人と個人の外注契約をモデルとしている上に、労働関係の法律が、使用者と労働者を対立図式で考えるマルクス主義の影響下で構築されたために、このような事態に至ったのであろう。
21 社会学的に正確に言えば、巨大資本を持つロスチャイルド家なども、経営に関して、すくなくとも男は自分で働かなければならない、という意味で、せいぜい「アッパーミドルクラス」である。「アッパークラス」は、貢納や年金によって男女ともに消費のみで生活する王侯貴族に限定される。このような意味でも、「資本家」対「労働者」という図式は、歴史的な事実性を欠いている。
22 このように、「中間管理職」、すなわち、「雇われ経営者」と「労働者」とが、同じ労働者にもかかわらず、それぞれ「資本側」「労働側」として対立したのであり、「資本家」と「労働者」の直接対立ではない。しかし、このことは、ロックフェラーをはじめとする当時の巨大資本家の行動が、一般市民と利害対立しなかった、などということを主張しているのではない。ただ、このような問題は、思弁的な図式によってではなく、歴史的な事実において論じられるべきであろう。
23 もちろん、「正社員」が「社内労働組合」を結成する場合は、この限りではない。しかし、この〈社団法人〉としての「社内労働組合」もまた、「株主総会」や「取締役会」同様、けっして「株式会社」そのものではありえない。

/若者市場縮小で腐食企業が、年齢に縛られる必要なんてない、なんて言うが、あるライフ・ステージをムリに延ばすと、次のステージのハードルに確実に引っかかってしまう。そもそも延ばしたって、若い連中を相手に、もう勝ち目は無い。現実を直視し、年齢相応のリカバリを急ぐことの方が大切。/


 適齢期は自分で決める、とか、年齢に縛られる必要なんてない、とか。騙されるな! こういうことを言っているのはみんな、商売企業のCMだ。頭の悪い、すでに人生に失敗してしまっている落伍連中を見つけては騙し、永遠の金ヅルとして、その市場賞味期限を延ばし続け、骨の髄まで喰い潰すためのウソ。

 童心を忘れない、とか言って、オモチャを買い集めたり、アイドルを追いかけ回したり、ひがなマンガやゲームに明け暮れたり。かと思えば、中年にもなって、高校生よろしく、ド派手な服を着て、フェロモン満載で、だれだれとくっついた、離れた、結婚だ、不倫だ、と、目も眩む恋愛色情に飛び回ったり。こういう現実年齢を自覚しないバカどもこそ、若者市場縮小の少子化時代にあって、旧態企業の最高のカモ。

 本人に体力や金力があれば、いくつになっても、こんなことは、やればできる。だが、まともな人間は、やれても、やらない。なぜか。すぐ先に、次のライフ・ステージの年齢期限のハードルが控えているのを知っているからだ。むしろそっちを先取りした方が、のちのち有利なのが、わかっているからだ。

 永遠に夏休みなわけじゃない。子供時代の先には、恋愛時代があり、その先には仕事、結婚、育児、家庭、貯蓄、そして老後がある。いつまでも子供みたいなことをやっていたら、次の恋愛ステージの方の時間的余裕が無くなる。へたをすれば、オモチャで買い集め、アイドルを追い回し、作りもののマンガやゲームに呆けている間に、次のリアルな恋愛ステージの方が年齢期限切れになり、そのまま仕事時代に突入。それどころか、ぜんぶスルーしてしまって、気づいたら老後が目前。

 人生は後戻りができない。そのライフ・ステージの間に、そのステージにすべきことをしないといけない。もちろん、うまくいかないこともある。しかし、だからといって、その失敗を取り戻すのは、前と同じやり方では、絶対にうまくいかない。たとえば、二〇前後のうちに良い相手が見つけられなかったから、と言って、三〇前後になって二〇前後と同じようにチャラいままで恋愛をしようとしても、いよいよ相手なんか見つかるわけがない。ほんとうに若い二〇前後のライバルに勝てるわけがない。同様に、二〇代の新卒で就職に失敗したとしても、三〇代の転職で、二〇代の新卒と同じようなスッカスカの履歴書を持ってきたって、話にならない。

 失敗は失敗だ。期限までに、その年代にすべきことをクリアできなかったとすれば、自分勝手ないいわけをしたり、インチキ企業の甘言に騙されたりせず、その現実を正面から見据えて、その年代なりのリカバリの方法を取らないといけない。そこでは、三〇なら三〇なりの大人の魅力、大人の経験こそ、リカバリの鍵。そして、そこでうまくリカバリできれば、次のライフ・ステージでは、他の人と同じスタートラインで勝負できる。

 もちろん、こんなレールに乗らない、私は結婚しない、就職しない、子供なんか作らない、という生き方もある。しかし、それならばいよいよ自分自身で先を見据えて、自分独自の次のライフ・ステージの目標の実現に邁進しないと、とうていさらにその次、その先のステージに間に合わない。

 勢いだけの、安っぽい偉そうな能書きばかり垂れていても、結局、次も、次も、どんどんグズグズになり、ほら、みたことか、と、惨めな中年、老年になるだけ。いい年して独り者でバイクに乗って遊び歩き、事故って半身不随になっても、ただの自業自得の厄介者扱いで、親族たちすら世話や面倒を嫌がるだけ。いつまでもオモチャだ、マンガだ、アイドルだ、と、引きこもりを続けていたら、兄弟姉妹さえ良縁を得られず、ともに不幸に引きずり込むだけ。

 70年代、80年代の高度成長やバブルで調子づいていた連中の末路を見てみろ。貧困独居の淋しい暮らしのやつらだらけ。たとえカネがあっても、ムリはムリ。いまだに水商売のような、時代錯誤な派手な化粧をしたって、老いのシワは隠せない。いくら整形を重ねても、まともに年齢を重ねていないから、いよいよ奇妙なサイボーグ。後からあわてて不妊治療をしたって、それは「治療」にもならない。イヌやネコを飼ってごまかしても、そんなものは、成長して大人になっていく子や孫とは違って、老後の心まで支えてはくれない。

 自分の人生だ。しかし、ちょっとでも傾くと、腐食商売の連中が群がってきて、自分たちの死にエサとして喰い潰そうと、耳元で聞こえのいいことばかりをささやく。だいじょうぶですよ、まだ間に合いますよ。期限は自分で決めればいいんですよ。ゆっくりまったり私たちの高額サービスを使って、前と同じようにずっとやり続ければいいだけですよ。だが、それは、ぜんぶウソだ。部屋を明るくして鏡をよく見ろ。それが現実だ。そして、それがすべてだ。きみは、どんどん老いていく。それは絶対に止められない。

 やり直すヒマがあったら、むしろ次のステージまでに、急いでリカバリする方法を考えるべきだ。そして、リカバリは、ノーマル以上に厳しく、つらいに決まっている。その厳しいことを、きちんと本気で言ってくれるサポートを早く見つけて、早く通常のコースに戻る、もしくは独自のコースを見つけないといけない。夏休みは、もう終わりだ。

/料理は、生活力の象徴だ。人生のマネジメントのすべてが集約されている。どうにか集められたもので、どんな料理を考えるか。それは、自分たちで努力工夫して、幸せな人生を作るのと同じ。/


 ただの遊び友だちとしての彼女ならともかく、結婚するなら、料理美人。つきあって数ヶ月にもなって、一度も手料理を出さないとなると、かなり怪しい。きっと本人だって馬脚を出してしまうのがわかっているから、出さないのだろう。見かけがどうであれ、そんな女、生活力が無い。とっとと見切った方がいい。

 そう、料理は、生活力の象徴だ。人生のマネジメントのすべてが集約されている。豪華な食材を新規に買い込まないと作れない、などと言うのなら、先々、きみにはとうてい養えない。ありあわせのもので、おいしく作れてこそ、料理の腕、やりくり上手というもの。

 なんにも作れない、などと臆面も無く言うのなら、おサトが知れる。いまどき小学校でも男も女も無くクッキングを教えるのに、二十年以上も生きてきて、自分の食べるものの料理もできないとなると、家でよほど甘やかされっぱなしで、本人も、親も、親子離れができていないのだろう。そんなガキと関わり合ったら、きみが親代わりにされ、一生、スネをかじられ続けるだけ。

 いや、料理以前に、ちょっと冷蔵庫の中を覗き見るだけでもわかる。ロクなものが入っていないなら、将来に備えた貯金も無いだろう。そもそも、独り立ちする、いっしょにやっていく心構えも無い。困ったらコンビニがあるから、なんて言うのなら、そういうやつは、かんたんにサラ金に手を出す。止めておけ。

逆に、冷蔵庫がぎっしり、というのも、考えもの。いらないものまで、なんでも買い込むタイプ。無駄遣い、衝動買いの化け物。そして、買ったら忘れて、干からびても、ほったらかし。ほったらかしにされるのは、まさに、きみ。なにがあるのか、どれを先に使わないといけないのか。それは、在庫管理、資産運用と同じ。それができないやつを嫁にするのは、腐った生ゴミをしょいこむようなもの。

 味付けがバカなのは、微妙。場数を踏んでいない、でも努力と見栄はあるのかもしれない。しばらく我慢さえすれば、まともになるかも。しかし、根っからの味バカもいる。ものごとの加減を知らない。なんでもやりすぎる。総量から素材を逆算することができず、作っていくうちに、あれこれ足していくから、どんとん総量が増えていく。結果も収拾がつかない。そして、その後始末をするのは、きみ。同じ料理、それもバカ味のものを、数週間にわたって食べさせられる。料理にかぎらない。うんざりするような毎日が待っているぞ。

 オリジナリティを追求したがるのは、かなり厄介。まともなレシピもこなせないくせに、それを意に介さず、独創料理だ、とか言って、コーヒーだの、コーラだの、わけのわからないものをデタラメに混ぜ込み、自慢げにひとに食わせる。そして、それは、ぜったい絶望的に、まずい。こういうオレ様は、人間や文化の歴史に対する敬意が無い。過去の多くの人々がいろいろ試して、鶏肉にネギ、豚肉にショウガ、というところで落ち着いてきたのだ。こういう決まりを平然と無視して勝手なことに自信を持つやつは、実家でも揉める。近所ともトラブルを起こす。そして、その板挟みになるのは、これまた、きみ。

 料理にやたら時間がかかるのも、いらつくだけ。ようするに、段取りが悪い。というより、全体の構成が見えていない。ふつうは、お湯を沸かしている間に、下ごしらえ。煮ている間に、酢の物、香の物、その他。そして、暖かいものは暖かく、冷たいものは冷たく、最後が同時になるように出す。ところが、ダメなやつは、単線でしか作業ができない。あいだで、ぼーっと湯の沸くのを待っていたりする。温め直し、焼き直しの繰り返しで、肉も魚もボロボロ。そして、なにしろ、結局、永遠に、なにも出来上がらない。

 後始末も見どころ。どんな派手で立派な料理も、惨憺たる犠牲を残したままでは、台無し。式だ、新居だ、出産だ、と、やたら準備に口うるさいくせに、その後、なにもかも放り出しっぱなしで遊び歩くような予兆は、食事の後の片付けでわかる。自分で始末できないほど手を広げたがるバカのツケを払うのは、やはり、きみ。

 こんなヨタ記事を読んで、そうそう、うんうん、言っている男も考えもの。本人が時代錯誤の亭主関白、というだけなら、ヘタに台所に手を出されるよりマシ、と思うかも知れない。だが、義実家で苦労するぞ。そんなバカ男を容認してきたのは、先方の両親。そこに嫁が来れば、ぜんぶ嫁がやるのが当然、とばかりに、料理はもちろん洗濯、掃除、はては介護まで、なにもかも押しつけてくるぞ。

 生きることは、食うことだ。ひとに食わしてもらわなければ生きていけない、というのでは、家畜も同然。自分で料理してこそ、一人前の人間。とはいえ、予算は限られている。買い物も、運良くなんでもうまく希望通りに手に入れられるわけじゃない。そうでなくても、食材には季節がある。どうにか集められたもので、与えられた時間内に、どんな料理を考えるか。それは、自分たちで努力工夫して、幸せな人生を作るのと同じ。

/イスラムはユダヤ教、キリスト教から発展してできたが、「原罪」の概念は無い。この世こそが楽園、人間はそれを楽しむためにいる、とされる。ただ、恩恵に帰依することを示すため、一日五回、清浄な礼拝が求められる。しかし、早寝早起、清潔健康で働けば、実際、だれもが仕事も人生も成功する。/


イスラム黄金時代

 中世ヨーロッパのカトリック・キリスト教では、被造物で半可知の人間ごときがものを考えることこそ「原罪」(本質的な悪)とされ、なにごとも教会にお伺いを立てるべきとされた。そのそも、この世はエデンの楽園から追放された呪われた地であり、ただ愚直・寛容・奉仕のみで教会に従うことが求められ、政治社会的にも、都市と都市は分断され、ただ教会の神聖管理でのみ、かろうじてヨーロッパとしての統一性を保っていた。ここでは、恐るべき凡庸な停滞、永劫の毎日が反復するのみ。騎士の子は騎士、農民の子は農民。それは、神の定めた摂理とされた。これが、ヨーロッパの中世暗黒時代。

 そのころ、中東では種々雑多な土俗宗教が町ごとにあった。とくにメッカは、隊商貿易の中心地として、周辺諸都市の神像三百体以上を奪い集め、これらをまとめて祭ることで、神像を奪われた都市の人々が訪れる一大巡礼地としても繁栄していた。この街の実直な商人モハメッドは、どういうわけかキリスト教にかぶれ、そのうち神の言葉を直接に聞くことになる。

 彼によれば、というより、彼が声を聞いたという唯一神によれば、キリスト教はいまいちだったそうだ。だから、その修正として彼に新たな教え、『コーラン』を授けた。まずキリスト教が根本的にまちがっているのは、人間の原罪。そんなものは無い、というのがイスラム教。たしかにアダムとイヴは神の禁を破って知恵の実を食べる、などということをやらかしたが、神は太っぱら、そんなちまいことをいつまでもウジウジと根に持ったりしていないし、追放も一時の話。つまり、この世こそが神に祝福されたエデンそのものであり、すべては神から人間への贈り物。人間は、それを楽しむべきだ、とされる。

 逆に、人間が「創った」もの、芸術や賭博、酒、豚(人工家畜)などは、厳しく禁じられる。そんなまがいものにうつつを抜かす暇があったら、神が真に創った世界こそを余すこと無く楽しめ、そのために人間は知恵を使え、とされる。たとえば、キリスト教では、砂漠で水を求めて、掘った井戸から飲めもしないベトベトしたタールが湧き出てきて、ときに火を吹くなら、それは悪魔の呪い。ところが、イスラム教では、そんなものでも神がくれた以上は、なにかありがたいもの。それがまさに石油。石油を売れば、世界中のミネラルウォーターをいくらでも買うことができる。

 キリスト教では、キリスト教以前のものを、あれもこれも邪教に汚れている、として遺棄したが、イスラムの連中は、この世のありとあらゆるものが神の贈り物であるとして、古今の知識、世界の文物をことごとく集める。おかげで、かれらは数学、幾何学、化学、建築学、医学、天文学に精通し、紙や羅針盤、火薬という三大発明から、ガラス、綿花、綿織物、風車、外洋帆船、コロン、消臭剤、炭酸水、香辛料、柑橘類、モモ類、時計、カメラ、飛行機まで、現代文明の元となるもののほとんどすべてを生み出していった。


運べる教会

 イスラム教発展の最大の鍵は、『コーラン』。これが印刷され、また、それを読むためにアラビア語が共通語とされた。『コーラン』は、いわば「運べる教会」であり、建物としての教会も、常駐する神父も必要が無かった。それを読めば、どうすべきか、ぜんぶ書いてある。つまり、教会依存の定集住を強いるキリスト教を、遊牧民だったモーゼ時代のユダヤ教の律法聖書のスタイルに戻した。

 『コーラン』は、生活のマニュアル。その中でも特徴的なのが、偶像崇拝と太陽崇拝の徹底的な禁止。人間が「創った」偶像は論外。また、唯一神は、ありとあらゆるところに、ありとあらゆる時に臨在しているのであり、太陽のように出たり引っ込んだりしない。しかし、これは、ありとあらゆるところで、ありとあらゆる時に礼拝しないといけない、ということでもある。イスラムとは、全面的に帰依すること。世界のどこにいても、一日五回の礼拝で帰依を立証しないといけない。

 イスラムは太陽を嫌い、月齢、太陰暦を使う。このため、月の季節が年によってズレてくる。ところが、その一方、じつは礼拝の時刻は、太陽を基準に決められている。現代でこそ、きっちりと時刻が決められているが、もとはけっこうアバウトだった。最初の礼拝は、黎明、次は太陽正中の後、3回目は太陽が黄色くなるころまで、4回目は日没後、そして5回目は太陽の赤い残光が消えた後。2017年7月20日の東京の場合、02:55, 11:46, 03:35, 18:55, 20:25。これに従うと、言わばお豆腐屋さんのような生活になる。三時前に起きて、昼まで働き、ちょっと昼寝。日が陰ってから、あれこれ。夕飯の前にお祈りして、寝る前にもお祈り。日が出てからしか起きて来ない異教徒たちが、日中に昼寝をしているかれらを見て、働かない、などと言うのは、とんだ的外れ。

 そもそも礼拝には、徹底的な清浄が求められる。だから、各礼拝より前に、手を三度、足を三度洗い、ウガイも三度、髪や耳の穴まできれいにしないといけない。そんな早く起きられないよ、と泣きごとを言ったって、町中に「アザーン」という礼拝招集の呼びかけが大音量で流れるのだから、いやでも目が覚める。行かないと、世間体も悪い。とはいえ、このアザーンの呼びかけは、べつに無理強いをするものではない。成功したければ礼拝においで、というもの。したくなければ、べつにいいよ、ユダヤ教でも、キリスト教でも、好きにすれば、と突っ放している。

 しかし、実際、あの暑い地域で、朝の三時前から起きて働けば、そりゃ仕事も人生もかならず成功する。なにしろ早寝早起、清潔第一で健康確実、きちんと礼拝に行けば、顔も広まり、話も入り、商売繁盛。おまけに、賭事も、酒もやらない。とはいえ、清貧なんていうしみったれたことはしない。ぱぁーっと使って人生を楽しむ。なにしろ、この世は神の贈り物、楽園なのだ。当初は税金も無しで、稼いだ一割を気前よく、世のため、人のために投げ出す。でも、これは見栄ではない。これは、自分が神さまに愛されている証拠。うらやましいなら、きみもちゃんと帰依したら、というところ。


ウンマ(共同体)主義

 礼拝は集まってやった方がいい、とはされるが、もともと『コーラン』さえあれば、一人でどこでも信仰できる。神父に事ごとにお伺いを立てる必要も無いし、そもそも神父なんていない。それで、あっという間に広まって、アフリカ西岸から、東はインドネシアまで、北はカザフスタンまで。実際、この世は呪われている、我々は罪人だ、悔い改めろ、なんていう陰鬱なキリスト教より、この世は楽園、感謝して楽しめ、帰依すれば成功するぞ、というのだから、はるかにハッピー。初対面でも、みんなアラビア語を話し、イスラム法で取引をできる。社会を表面的に見て、女性に対して差別的だ、という人もいるが、男の甲斐性の方がじつは義務が重い。ずばぬけた女性科学者なども早くから輩出している。

 けれど、『コーラン』に書いてない新しい物事に対してはどうするのか。この問題は、モハメッドの後、すぐに表面化する。一部の人々(「シーア派」=イラン)は、モハメッドの直系親族のみを指導者とし、保守ゴリゴリになったが、他の地方は、「スンニ(慣例)派」としてイスラム共同体「ウンマ」の合意を重視した。みんなが合意するなら、そこには神の御意志が宿っている、とされる。ああだ、こうだ、と議論するが、その結果、穏当なところに落ち着く。

 では、なぜこれほど強大だったイスラムの黄金時代が終わって、列強の植民地として喰い荒らされたのか。十字軍のときもそうだったが、どうするのか、対応の合意が形成されるのに、やたら時間がかかるのだ。教皇の命令一つで全軍が一斉に攻めかかるキリスト教国に初動では勝てない。しかし、もともと首都も首長も無く、国際的な動員力もあり、長期的にはかならず復興してくる。その後の帝国主義の植民地化においては国境で共同体を分断され、その後を西欧式の独裁国家が引き継いだが、それもどこも壊れ、遠からず、一つの流動的な巨大文化圏に戻っていくだろう。

 しかし、こんな温和そうなイスラムから、なぜ過激派が現れるのか。これは、スンニ派の弱点でもある。世界中から奇妙な連中が寄り集まって勝手なウンマ(共同体)を作ってしまうと、連中は仲間内だけで異常な合意を形成してしまう。にもかかわらず、自分たちの合意こそ、神の御意志だ、と独善的に思い上がる。他のウンマの宗教家たちが批判したって、聞く耳を持たないし、それどころか、おまえらの方がまちがっている、おれたちに従え、とやりかえす。さらに面倒なことに、こういう共同体が昔と違って集住しておらず、世界に散ってネットでつながっている。だから、その「拠点」の一つを潰したところで、どうにもならない。

 早寝早起のイスラムの連中は、怠惰な我々とは生活時間からして違う。宗教観も生活観も違う。たとえば、偶像崇拝を嫌うかれらは、絶対に京都なんか観光に行かない。パチンコはもちろん、宝くじさえも、人間として軽蔑される。早寝で酒嫌いだから、醜悪な酔っ払いがウロウロいる夜の街なんて、論外。その一方、古い世代の縛りは弱まっており、宗教家がゲームを激烈に批判してもスマホにひそかにダウンロードしていたり、気づかないフリをして焼き鳥屋で豚バラを食べていたり。ただ、それはあくまで内々の話。たとえ連中の実際がかなりいい加減だったとしても、連中には連中の建前があり、かれらとつきあうとなれば、その建前をきちんと理解しておかないと、それを口実にこっちが一斉攻撃される危険性もある。

 くわえて、かれらはイスラムとして一つでありながら、その内部はウンマ(宗教共同体)として多様。なにがどの連中の逆鱗に触れるか、かんたんには予測できない。あるイスラム教徒が大丈夫としていても、別のウンマのイスラム教徒の怒りを買うかもしれない。所属が見えないから、よけいややこしい。いずれにせよ、なにかを保証してくれるローマ教皇のようなイスラムの代表者、絶対権威など、もともと存在せず、存在しえないのだ。しかし、世界人口の四分の一近くを占め、今後、経済圏としても自立して大きく発展することはまちがいない。現実に同じ地球で暮らしている以上、好き嫌い抜きで、我々はかれらの存在、かれらの生活を理解しなければならない。

/初期のイエス系諸派は、古いユダヤ教の選民思想と厳格主義の尾を引きずって、公然と社会批判をやらかし、諸族諸民によって虐待殺害された。それが、テルトゥリアヌスの後、善悪是非を論じることは人間の半可知の罪とすることで、愚直・寛容・奉仕を主軸とするキリスト教となり、世界宗教へ脱皮した。しかし、それは教会への依存を常態とし、「暗黒時代」とも呼ばれる凡庸な平和の停滞が七百年に渡って続くことになる。/


ユダヤ教イエス系諸派

 歴史は曲げられる。いきなりローマで「キリスト教徒」が弾圧された、かのように語られるが、これはウソ。というのも、当時、イエスの名を掲げる集団はいくつもあったが、いずれもまだ「キリスト教」ではなかったからだ。

 もとよりローマは多種多様な文化と宗教の寄せ集め。辺境のユダヤ教も、洗礼者ヨハネやイエスの登場の前から、正統派(伝統サドカイ派・厳格パリサイ派)のほかに、他国の影響を受けた分派がさまざまに蠢いていた。イエス系諸派も、そのようなユダヤ教分派の一つで、その中でもさらに使徒派やパウロ派など、様々な小分派が執拗な本家争いを繰り広げ続けていた。

 大きな問題は、初期のイエス系諸派(「原始キリスト教」)がいずれも、あくまでユダヤ教のヴァリエーションにすぎず、古いユダヤ教の独善的な選民思想と厳格主義の尾を引きずっていたこと。当時のローマは、偽りの「寛容」によって、かろうじて多文化共存の平穏を保っていたにすぎない。にもかかわらず、そこに突然に現れたイエス系諸派は、ローマの人々の堕落と妥協の欺瞞を公然と攻撃的に批判し、白か黒かの徹底的な「回心」を迫った。歴代の皇帝がイエス系諸派を虐待殺害したのは、彼らから批判の俎上に上げられた他の多くのローマ市民の大きな支持があればこそ。当時、すでに皇帝権はかなり不安定になっており、むしろ人気取りのためにやった、という面の方が強い。

 しかし、あまりに巨大すぎるローマ帝国の瓦解は留めようがない。寄せ集めの諸族諸教の分裂対立の危機に、皇帝はみずからを神格化して国家宗教的な統一を図ろうと模索するが、弾圧されてきたイエス系諸派がさらにエキサイトして皇帝を非難。これでむしろ、諸族諸民の方も、皇帝の国家宗教の茶番よりイエス系諸派を支持するようになってしまう。この中央の状況に、地方でかってに皇帝や将軍が乱立。地方政権への求心力をつけようと、むしろ異教徒の流入を黙認、公認するようになってしまい、より混迷は深まる。


三位一体のキリスト教へ

 200年ころ、北アフリカチュニジア市出の変わった教父テルトゥリアヌスが、イエスこそ神、というパウロの教えを推し進め、三位一体(さんみいったい)を主張し始めた。すなわち、父なる神(創造主)、子なる神(イエス)、聖霊なる神(無私の善意)は、三つの位格(ペルソナ)にして、同一の本体である、などと強引なことを言い出す。ようするに、ユダヤ教とパウロ教とイエス教をくっつけてしまった。当然、当時、彼は「異端」とされたが、その後、しだいに理解を集めるようになる。

 テルトゥリアヌスのすごいのは、ユダヤ教の天地創造神話から、アダムとイヴの「知恵の実」を食べたことに発する人類すべての「原罪」を強調することで、このわけのわからない三位一体を、「不合理ゆえに我信ず」で、みなに納得させてしまったところ。どうせ人間はバカなんだから、ごちゃごちゃ言わずに、黙ってまとめて三つとも信じろ、これらはほんとは一つなんだ、と押し切った。

 むちゃくちゃな話だが、これで、ああだ、こうだ、と互いに内部で言い争っていたイエス系諸派がようやくまとまっていく。ユダヤ教的な尊大な選民思想と厳格主義を抑え込み、神の下での愚直・寛容・奉仕を主軸にする「キリスト教」になっていく。


ローマ教会帝国

 313年には皇帝みずからが、混乱するローマ市を放棄してしまい、東の現トルコ、コンスタンティノープル市へ遷都。おりしも375年、東北からゲルマン人諸族がヨーロッパに大量南下。ローマの中にも入り込んできた。そして、400年ころ、テルトゥリアヌスと同じ北アフリカからアウグスティヌスが出てきて、この世は終わりだ、最後の審判に備えて「教会」に入れ、という終末論を訴える。当時の政治と社会の実情からすれば、この終末論はリアリティがあった。

 当時、ローマ神父長(パトリアルケース)は、イェルサレム、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレキサンドリアと並ぶ五地方の一つの神父長に過ぎなかった。しかし、ローマ帝国のローマ市放棄の後、ローマ教会は、旧ローマ帝国全域各市に教会組織を拡げ、他の地方の神父長たちを押しのけて「カトリック(普遍)」を強く称するようになり、西ヨーロッパにおいて戸籍、徴税、工事、防衛、福祉、裁判まで、世俗的な行政を兼務する政教一致の「ヒエラルキア(神聖管理)」を行うようになる。

 そして、440年のレオ1世に至って、ローマこそが使徒長ペテロの殉教地であり、ローマ神父長のみがイエスやペテロから天国の鍵権を代々継承している、つまり、ただの地方教会の長ではなく、現世の「キリスト代理人(ウィカリウス・クリスティ)」だ、と言い出し、「教皇(パーパ、the神父)」を名乗るようになった。これは、ローマ神父長が、各地の諸王諸侯の権威を凌ぎ、彼らの上に乗って、彼らの公認権を持つ世俗皇帝をも兼務することを意味する。

 一般庶民についても、自分で勝手に考えることが恐ろしい「罪」とされ、愚直・寛容・奉仕を理想として、ひたすらローマ教皇庁から順に下されてくる指示命令に従った。しかし、そのためには、定期集会の場しての建物の「教会」が必要であり、ローマ教皇庁から下されるラテン語の回勅を読んで説ける神父がそこに常駐し、人々は、ことあるごとにすべて神父にお伺いを立てなければならない。かくして、町や村は建物としての教会を中心に城壁で囲まれたものとなり、遠くから移動を続けてきたゲルマン人たちは、その中に集定住することになる。その外の森は、もはや山賊とオオカミと異端の魔女に呪われた領域であり、精神的にも、空間的にも、「教会の外に救い無し」とされた。


現代と中世

 細かなことを言えばいろいろあるが、十字軍の始まる1095年まで、このローマ・カトリック教会の支配の下、およそ七百年にわたって、西ヨーロッパは凡庸な平和を享受することになる。それは、恐ろしいほどの停滞社会であり、後世に「暗黒時代」とも呼ばれるが、しかし、世俗歌などにみられるように、その中でも人々はそれぞれの身上の伝統的な生活を謳歌していた。

 これは日本の江戸時代と、とてもよく似ている。もちろん世の中には、自由で変化に富んだ社会が好きだ、そうでなければ、それは弾圧された監獄だ、という人もいるだろうが、しかし、他方には、安定と平穏を好む人々もいる。どちらが幸福か、など、かんたんには決められまい。

 「暗黒時代」の凡庸な平和が破られて以来、そこから飛び出してきた欧米人によって、世界全体が、この数百年、怒濤の混乱に巻き込まれた。そしていま、欧米は、欧米化した中東・アフリカ・中国・インドから流出する人と物の洪水に苦しめられている。ここにあって、日本は、どっちつかずに、その波間に漂っている。

 世界は、大きな文明の流れで捉えないといけない。にもかかわらず、個々の人々は、自分の狭隘な世界観のみに基づいて他者を裁き、神のように叫ぶ。しかし、それは、むしろ古い独善的な選民思想や厳格主義に回帰してしまっている考え方であり、かえって多くの人々を敵にまわし、かならず虐待殺害のしっぺ返しを引き起こす。

 宗教支配、一党独裁の是非はともかく、全知全能の神に比すれば、人間は不完全。にもかかわらず、思い上がる。言い争って、他の人々まで揉めごとに巻き込もうとする喧噪だらけの世の中より、欺瞞でも愚直・寛容・奉仕で停滞していた中世の「暗黒時代」の方が、どれだけましだったことか、それはそれで、冷静に考えてみよう。


/神は、ぜんぶの物事の摂理を知ったうえで、個々の物事をプログラムしている。ところが、人間は、自分の知っている程度のことだけを足場に、あれが良い、これは悪い、と決めつけて、かってにガチャガチャといじくり廻す。/

 もとはと言えば、神が5日で世界を作って6日目、そこに「神の似姿(イマーゴ・デイ)」を入れたことから始まる。言わば、鉄道模型を作ったものの、なんだか閑散としているということで、ミニチュア人形も置いて、そのミクロ目線のカメラでジオラマを楽しもうとしたらしい。

 神はすごい。この模型、魚は泳げ、鳥は飛べ、というように、それぞれの物に「摂理」と呼ばれるプログラムが仕込んであって、神が7日目に寝ていても、あれこれが自分のプログラム通りに役割を果たしていくことで善なる世界が完成するように作られている。

 ところが、神のミニチュアである人間は、神と同様の自由が半端にプログラムされていた。だから、神は、知恵の木の実と生命の木の実だけは喰うなよ、と、よくよく教えたのだが、蛇に唆されて、知恵の木の実の方を喰ってしまった。このままだと、生命の木の実まで喰って、ほんとに神のようになりかねん、ということで、早々に楽園から追放。模型世界の端っこのひどいところで労働や出産の苦しみに呪われることになった。

 もともとこの模型世界にあるものは、ぜんぶ被造物。自立して存在しているのではなく、神によってこそ存在している。コンセントを抜いたら、画面の中のすべてのものが消えてしまうようなもの。各瞬間ごとに神が在らしめているだけ。人間も、神の似姿とはいえ、しょせんは神の気まぐれによって在らしめられているだけの被造物。

 それにしても、知恵の木の実を喰った人間は、ひどい。世界の端っこに追いやられたにもかかわらず、その後も懲りずに、神のように思い上がった自分の判断で、やりたい放題。善なる世界がおのずからできるはずだった摂理プログラムが、どんどんガタガタになっていく。それで、いいかげん神もぶち切れて、世界を洪水でリセットしたり、背徳の街を焼き潰したり。それでも、あいかわらず、ロクなことをしない。それで、ちょっとましそうなモーゼというやつを選んで、生活マニュアルの律法を教えてやったのだが、これにさえもまた、ああだこうだと言い争って、守りゃしない。

 しょうがないから、神が自分でミニチュア人形になって模型世界の中に入り、摂理プログラムを修復しようとした。これがイエス。このイエスの世界再生プログラムに従えば、ちゃんと善なる世界になる。でも、どうしても従わない連中については、そのうちまとめてコンセントを引っこ抜いて消すことにしている。その話も伝えたのだが、まったくあいかわらず、というのが現在のところ。

 鍵となるのは、混乱の元凶が知恵の木の実だということ。神は、ぜんぶの物事の摂理を知ったうえで、個々の物事をプログラムしている。ところが、人間は、自分の知っている程度のことだけを足場に、あれが良い、これは悪い、と決めつけて、かってにガチャガチャといじくり廻す。

 人間からすれば悪とされるものも、神が構想した壮大な摂理のシンフォニーからすれば、ほんとうは善なる世界を自動的に作っていくために必要な一コマ。なのに、かってにそれをむりやり排除しようとして、かえってもっとひどい悪を自分たちで創り出してしまう。逆に、一見、人間からすれば良さそうなものでも、神の言葉や、律法だの聖書だので禁じられているのなら、それは、世界の摂理全体からすれば、なにかまずい問題を秘めている。にもかかわらず、知恵の木の実のように、それに手を出し、いよいよ世界をめちゃくちゃにする。

 つまり、全知全能でもない人間が神のように善悪を決めつけたがることこそ、人間の原罪、その存在の本質に根ざす罪。たしかに人間は神に似ている。だが、絶対に神ではないのだ。にもかかわらず、かってに思い上がって神のように判断し行動するせいで、本当の神が定めた本来の摂理を混乱させている。それで、よけい自分たちが労働や出産、ものを創ることに苦しむ。

 こんなの、しょせんひとつの神話、と言ってしまえばそれまで。しかし、およそ全知全能ではない、たかだかその時代の人間の中ではちょっと物知りという程度のやつらが、平気で世界をひっくり返すようなことを、良いとか悪いとか決めつけて、手を出す、人に勧める。そのせいで、世界中の多くの人々を地獄に落とし、後始末に何百年も人類全体を苦しめる。なんとか倫理委員会、のように、何人も集まったところで、しょせん人間は人間。ことの善悪以前に、そんな連中に、そんな大それた善悪を決めるほどの広大な知の基盤があるのかどうか。賢者と称された席に平気で座れるほど、愚か者はおるまい。

 ちまたにも、さして基盤となる知も無いくせに、神のように偉そうに人を裁きたがるやつらがいっぱいだ。いや、亡霊のように惨めな境遇にある空虚な者ほど、現実を生きている人々に取り付いて、その命を吸い取ることで、生きる感触を得ようとする。しかし、なにもしていない者は、人の善悪を裁いてみたところで、自分自身の空虚さを埋められるわけではない。それでまた、別の標的を求めるが、永遠にその繰り返し。

 未来のこと、世界のことなど、わからない。人間の知には限りがある。そもそも、たとえ我々に自由があるとしても、我々は自分自身で自分自身を善だなどと自己証明することはできないのだ。むしろ、ただ自分の思う最善を尽くし、それでむしろ裁かれる身として、みずから神の前に誠実に進み出るのがせいぜい。


/古代ローマはきれいごとの一方、裏はドロドロ。他人との関わりを断つ懐疑主義、快楽主義、禁欲主義がはやった。まして、当時、選民かぶれのユダヤは憤懣と隠謀と混乱が渦巻いていた。その地でヨハネの後に現れたイエスは、むしろ神のしもべとして人を救うために働くことを教えた。その意味をパウロが理解したとき、彼はイエスこそが神だと確信した。/

不信の悪循環

 蓋をすれば実は腐る。古代ローマは、巨大な版図とともに、多様な文化を許容しなければならなくなった。世界国家、民族平等、民主主義、と、建前は華々しいが、Wスタンダードどころか、そのときどきにどこかの州邦の理屈を持ち出すことで、ホモでもレズでも、一夫多妻でも一妻多夫でも、不倫でも乱婚でも、なんでもありの倫理崩壊。その一方、外で公言はしないものの、これらを心底で嫌う民族保守主義はかえって強化され、社会相互の偏見と反発と分断は、より陰湿になった。

 政治は、さらに陰惨。正義を高く唱いながら、まさにその正義の名において、あること、ないこと、言い立てて政敵を叩き潰す邪悪な隠謀や煽動が横行。さらには、カエサルがやられたように、集団暗殺さえも躊躇しない。恩も仇で返される、というより、最初からすべてワナ。応援してやろう、ファンなんです、なんて、みんなウソ。世話になってむしり取り、そいつを売ってまたむしり取ろうという二重取り目当てのやつらがすり寄ってくる。気を良くして中に入れたら最後、さんざんいいように利用し尽くした上で、こいつ、こんなこと言っていた、やっていた、と、さも以前は昵懇で、内情もよく知ったかのように、でたらめを言いふらして、かつての政敵、次の標的に乗り換えて、またむしり取る。

 ようするに、人が信じられない。それどころか、身近なヤツほど、うさんくさい。自分が裏切りを企むように、だれもが裏切りを企んでいるに違いない。だったら、こっちが先に裏切ってどこが悪い。やられる前に、やってしまえ。こうして、不信感の疑心暗鬼は、現実のものとなり、古代ローマは、オオカミがオオカミを襲い合って食い殺すような、裏切りの悪循環を起こした。

 だから、こんな時代、無事に生きるための思想がはやった。一つは、懐疑主義。誰にも恨まれないよう、なにごとにも白黒つけず、のらりくらりとボケたふりをしながら世を渡る。もう一つは、快楽主義。世間の物事に主義主張などいっさい持たず、むしろ露骨にその時々の損得のみで動くことを公言し実行する。けっして尊敬されないが、これはこれで恨まれない。そして最後は、禁欲主義。もっと注意深い。所与の中だけでどうにかする。いくら得でも、よけいなことには手を出さない。ようするに、いずれも他人との関係を最小限に絞り込んで身を守ろうとするもの。しかし、こんなことをしたところで、孤立する者ほど標的となり、マウンティングの踏み台として集団の餌食にされた。


辺境ユダヤのイエス事件

 ローマの東の端のイェルサレムは、もっと面倒だった。ここは地中海ベイルート港からインド洋アカバ港に抜ける交通の要衝で、祭司王が治めるユダヤ王国として独立自尊を保っていた。すなわち、彼らは、自分こそが唯一神に選ばれた民であり、本来であれば世界をも支配すべき者だ、と信じていた。

 その国の武将アンティパトロスは、ローマのカエサルに取り入り、その息子ヘロデをユダヤ王国北西部ガリレア州知事に。そして、以前からの王族内の争いが再燃すると、ヘロデはローマ市へ行って元老院に訴え、「ユダヤ王」の名を認めさせて、軍を借り、紀元前37年、王国を乗っ取り、自分の妻を含めて旧王族を皆殺し。しかし、こいつも紀元前4年に死去。長男が相続したイェルサレムを含む西南部は、紀元6年にローマが没収して直轄領に。つまり、こいつらは、ローマを利用するつもりで、ローマに利用されただけ。

 次男が相続した東部と、三男が相続した中央部は残ったが、その中央部過半を占めるデカポリスは、アレキサンダー大王によって植民されたギリシア人たちが多く、都市同盟を組んで、ヘロデ家には従わない。おまけに、次男が死んだ。このままでは、そこもローマに没収されてしまう、ということで、紀元前36年、三男ヘロデ・アンティパスは妻を追い出し、兄(次男)の未亡人ヘロデアと再婚。

 おりしも巨大帝国ローマの支配下にあって、ユダヤ人は、選民思想の傲慢さを拗らせており、現実主義のサドカイ派、原理主義のパリサイ派、厭世主義のエッセネ派が、ユダヤ内部で憎み合っており、もとよりヘロデ家は、ローマ傀儡の王位簒奪者で、ユダヤ人のだれもから嫌われていた。中でも、過激な言動で人気を集めていた洗礼者ヨハネが、近親結婚だ、と噛みついた。ところが、未亡人連れ子のサロメ(男の娘(こ)?)が、自分になびかないヨハネの首をあっけなく刎ねてしまう。

 その後、ヨハネのファン残党をイエスという男がまとめていくが、周囲はかってに洗礼者ヨハネと同じ反ローマ、反ヘロデ家を期待し、新たな「ユダヤ王」に押し上げようとした。しかし、本人にその気が無いことがわかると、こんどはその処分をローマやヘロデ家に求めた。このわけのわからない混乱のなかで、イエスは拘束。裏切ったのはユダだけではない。第一の使徒と指名されて喜んだペテロさえイエスを知らないと言い、棕櫚を振ってイエスを讃えた者ほど、磔刑を叫んだ。裏切られる前に裏切ってしまえ。これがこの時代のならいだったのだ。


イエスの教え

 イエスの教えは、山上の垂訓にまとめられている。その要点は、福音の逆説、律法の精神、神人の類比の三つ。すなわち、神が人を救うように、あなたが人を救いなさい。ただ書かれた律法を守るだけでなく、律法を与えた神の思し召しを理解しなさい。そして、いま不幸な人々こそ、これから神とともにあって幸せになることができる。

 当時、イエスのそばに使えていた使徒たちも、この思想の意味を理解できなかった。しかし、学識高いパウロは、イエス一派の残党狩りをしているうちに、気付いた。これはもはやユダヤ教ではない、イエスこそが神だ、と。これまで、宗教と言えば、みな神にすがって、我欲を満たそうとするものだった。ところが、イエスの教えは、不幸な自分はもう救いがきまっている、だから、人を救え、というもの。

 たとえば、一人暮らしを始めたばかりのきみがカゼをひく。深夜なのに、熱が出て、咳が出て、眠れもしない。薬でもあればいいが、あいにく買い置きも切らしている。へたをすれば、このまま死んでしまうんではないか、と思ったそのとき、コン、コン、と小さなノックの音がする。耳鳴りか、とも思ったが、また聞こえる。はーい、だれですか。あー、遅い時間、ごめん、隣の山田だけど。あ、いま開けます。なんかずっと咳が聞こえてるからさ。すみません、もう静かにします。いや、そうじゃなくて、なんかひどそうだね、薬、飲んだ? いえ、ちょうど切らしていて。あーそうかぁ、ちょっと待ってな、市販のだったら、うちにあるから。え? ま、とにかく薬を飲んで、寝るのがいちばんだよ。

 翌朝、御礼に行く。でも、いない。その後もなんどか様子をうかがうが、いつもすれ違い。そうこうしているうちに、いつの間にか引っ越してしまったらしい。あんな世話になりながら、自分は御礼も言えなかった。なんておれは不義理なやつだ、と夜遅くまで気に病んでいたら、隣から咳が聞こえる。居ても立ってもいられず、きみは薬箱からカゼ薬を取り出し、廊下に出てドアをノックする。おーい、だいじょうぶか?

 人が神のしもべとなって、神の思し召しを実行するなら、そこに神の御手は現実のものとなる。そして、その救われた人が、また人を救う。神がいるか、いないか、など、問題では無い。神のしもべがいれば、その主である神もまた、そこにともにある。こうして、その救いは広がり、我々は神の到来を目の当たりにすることになる。言わば、救済のネズミ講。その最初の種銭をイエスは無償で我々に与えた。だから、パウロにしてみれば、イエスこそが神。


社会の再構築

 そのころ、ローマでは、あいかわらず懐疑主義、快楽主義、禁欲主義がはやっていた。ひとはひと、他人に関わるな、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり。裏だらけの時代では、それが身を守る方法。しかし、パウロが広めたイエスの教えは、民族の壁を越えて、少なからぬ人々を魅了した。白黒をはっきりさせ、自分の損得を度外視し、現状に甘んじたりせず、いつか理想のパラダイスが実現することを夢みた。

 どうせ人は死ぬのだ。人を裏切るようなきわどい手段で、どんなに地位を得て、財産を貯め込んでも、死ともに俗世のものは俗世に返すことになる。失う不幸が絶対的に運命づけられている。一方、たとえ自分自身が貧しく無名であっても、直接に医者や教師になれなくても、餓死しかかった子供たちを親身になって救い支えれば、その子供たちの中から医者や教師になる者も出て、さらに子供たちを救い教えることができる。神のしもべとして自分が尽くした人々のうちの何人かが、自分のこと、そして神のことを思い出し、また同様に神のしもべとして働くなら、この善意の大きな流れにおいて、きみは永遠に生きることができる。

 さて、現代はどうだろう。外できれいごとを言う人が、人を蹴落とすためには手段を選ばず、裏であれこれ画策。神も、仏も、なんの信心の無いやつは、人間として絶望的で、なにをするか、わかったものじゃない。さて、ここで、こんな連中に巻き込まれないように、とにかく誰との関わりをも断って、ただ身を守ることに汲々とし続けるか。それとも、時勢に逆らい、捨て石になっても、もっと違う世の中へ、自分から一歩を踏み出してみるか。きれいごとを言っているだけでは始まらない。まずは、隣人から、御近所から、なにかできることがあるのではないか。裏切りに次ぐ裏切り、人が人を喰らう悪循環、社会崩壊をとどめ、むしろ逆に、結束、再生へと廻し始めるには、相応の覚悟が必要だ。

/一月たっても枯れない花が、花か。真に現実に存在するものは、変わり続けていく。変わり方こそが、理想を体現する。だが、うまく変わっていくのも容易ではない。四つの要因、三つのステップを踏まえ、変わっていく勇気を持とう。/


 あまり表沙汰にはならないが、ちかごろ老人施設では、昔の美容整形の始末が問題になるとか。全身シワだらけのおばあさんが胸だけプリンプリン、というのならまだしも、皮膜拘縮で石のようにガチガチ、パックの耐用年数(10年!)を過ぎて体内破裂、なんていうことも。まして顔は、骨格と表皮の萎縮でプロテーゼ(詰め物)が突出、経年の石灰沈着でデコボコに盛り上がる、などなど。

 整形でなくても、あいかわらず団塊世代向けに、生涯現役、とか、いつまでも若々しく、とか、妙なCMや広告がいっぱい。実際、街中には、薄くなった髪を真っ黒に染めて、高価なセラミックの白い入れ歯をぎらぎらさせている背の縮んだおじ(い)さんとか、時代錯誤なマスカラ・アイシャドウ・アイライナーばっちりの厚化粧に、タンクトップとミニを併せたおば(あ)さんとか。

 はっきり言って、もうゾンビ並みのバケモノ。でも、こういう連中にかぎって、やたらどこでも出しゃばり、自分勝手に若作りと年長者のダブルスタンダードをいいように使い分け、それで周囲の顰蹙を買っていても、年来鍛えた傍若無人ぶりを発揮して、まったく意に介さず、よけい面倒。これでは、子も孫も、まして嫁や婿も寄りつくまい。

 一月たっても枯れない花が、花か。一年たってもカビないパンが、パンか。イデア、永遠不変の理想の実現を唱えたプラトンに対し、その学生だったアリストテレスは、師に反発して、変化こそが実在だ、と主張した。まともに変わらないものは、唾棄すべき作りもののニセモノ。いくら見せかけが美しくても、喰えないものは喰えない、老いぼれは老いぼれ。年相応の務めもわからぬ、ただのインチキ、身の程知らず。

 真に現実に存在するものは、変わり続けていく。変わり方こそが、理想を体現する。真の「美人」は、見た目ではなく、その一生が美しいのだ。若くして愛らしく人に仕え、長じて健やかに働き、老いて静かに孫たちを慈しむ。モノでも、新しさが感性と想像力を刺激し、使って手に馴染み、古びて心に愛着を増す。時間の流れの中でこそ、存在は変化とともに輝く。

 だが、うまく変わっていくのも容易ではない。進学したいのに、進学できない。就職したいのに就職できない、結婚したいのに結婚できない、昇進したいのに昇進できない。引退したいのに引退できない。このような停滞を強いられると、現実の中に存在する余地を失い、ニートだの、姥桜だの、世の中から外れた、不自然で醜悪な、なにかわけのわからないものにならざるをえない。

 アリストテレスによれば、変化は、なりうる、なりつつある、なっている、の三つのステップがある。同じ住宅地でも、分譲地、建設中、完成後があるようなもの。うまく変わるためには、この三つのステップを一つ一つ践んでいかないといけない。たとえば、最初から有名マンガ家になりたいなどとバカな夢に酔いしれるのではなく、まずは絵や話の勉強をして、マンガ家になりうるようにならないといけない。そのうえで、いろいろ描いてみてデビューし、連載をもらう。有名になるのは、その後の話。結婚でも、収入の当てや家事の能力もないのでは話にならない。それから、ようやく婚活、そして、ゴールイン。

 ところで、海外旅行に行きたいと思っても、若いときには、カネが無い。働き盛りは、ヒマが無い。定年後は、体力が無い。そもそも海外になんか関心が無い、というのでは、なにも始まらない。逆に言うと、旅行は、これらがぜんぶ揃わないと行かれない。ステップアップも同じで、それがうまく進むためには、四つの要因が求められる。

 たとえば、家を建てるには、材木が必要。これが材料因。しかし、材木だけ置いておいても、自然に家ができるわけではない。どんな家にするのか、設計図が無いといけない。これが形相因。かといって、材木の上に設計図を載せたって、魔法でもあるまいに、それだけで家になるわけではない。設計図どおりに材木を刻んで組む大工がいないと。これが作動因。ところが、大工を呼んでも、大工は材木の上で図面を見ているだけで、なにもしない。施主がいて、支払いの契約をしてはじめて働いてくれる。これが目的因。

 変わること、三つのステップを上がっていくこと。そのそれぞれのステップアップには、四つの要因を揃えないといけない。ステップアップの材料因、それは自分。そして、形相因は夢。しかし、自分が夢を見ているだけでは、なにも始まらない。自分を夢に近づける努力という作動因を起こし、具体的に夢を叶える道筋という目的因を見つけないと、自分の夢は現実の形にはなっていかない。

 停滞は、悪だ、ニセモノだ。変わろう。変わる勇気を持とう。そして、そのために、変わる四要因を揃えよう。我々は、そして、世界も、時間の旅人だ。ここには留まれない。まして前には戻れない。年齢相応の責任、老いさえもすすんで引き受ける覚悟を持とう。流れに取り残され、居場所を失う前に、自分から前に歩み出て、みずから真の美しさを実現しよう。

/我々は目ではなく心でモノ見る。実物なんか、さっぱり見ていない、味わっていない。実物は、感覚の生じるきっかけにすぎない。実際は、自分の心の中の記憶を再認識しているだけ。しかし、ニセモノがニセモノとして機能するのは、ホンモノの影だから。逆にニセモノを調べれば、我々が真に求めるべき本当のホンモノを知ることができる。/


 写真は、真のままに写す、と思っていると大間違い。ちかごろのカメラは、はるかに優秀だ。見えたように直してくれる。え、見えたように、直す? じつは光学的に写しただけだと、冴えない、写真映えがしないのだ。

 うるさい電車の中でも話し相手の声を聞き取れるように、高度に発達した我々の感覚は、必要なものにのみ焦点を絞り、それ以外をノイズとしてうまく感受性をレベルダウンする能力を持っている。視覚に関しても同様で、暗いところでも、ものを見分けられる。それどころか、日常的に、かなり複雑な情報処理をしている。一般に我々は彩度をかなり上げてビビッドに見ている。一方、顔や記号などはコントラストを上げて、色を切り捨て、表情や形態に注目している。

 しかし、こういう生活の中での感覚と切り離された写真となると、光学的な記録のままだと、思い出に較べて色がくすんでいるように思える。逆に、ポートレイトなどは、やたら顔色が目立って、どす黒く感じられる。だから、カメラは自動的に、風景については彩度を上げ、顔などに関してはコントラストを強めている。それで、良いカメラだと「きれい」に撮れるのだ。

 しかし、もっと面倒なのは、我々は目ではなく心でモノ見る、ということ。空は青、桜はピンク、女性は色白、リンゴは赤、レモンは黄色、というように。これは、文章に多少の誤字脱字があっても読めてしまうのと同じ。光の加減で実際は色がよくわからなくても、それを記憶で補って見てしまう。いや、色だけではない。痴漢の被害に遭った女性は、男の人の関係の無い動きまで、なんでも痴漢に「見える」。梅干しやレモンを見ただけでツバがでるように、レストランのサンプルやメニュー写真がおいしそうなのも、味まで視覚に補完してしまうから。照明や補正によっていつもかっこいいところを見せつけられているタレントも、実際は冴えないおっさん、おばさんであるにもかかわらず、その実物までかっこよく「見える」。

 味ですら、そう。インチキな合成肉でさえ、高級ホテルが出せば「おいしい」。有名店の味、あのタレントが褒めた、というだけで、「おいしい」。CMでタレントがグビグビやってるあれを、自分は人より先に買って飲んでいるというのが、とっても「おいしい」。さらには、いかかがわしい宗教家や有名人のクズ本であっても、ほかの信者たちが涙を流して読んでいるとなると、なんだか「ありがたい」。ようするに、我々は、ある意味で、実物なんか、さっぱり見ていない、味わっていない。実物は、感覚の生じるきっかけにすぎない。実際は、自分の心の中の記憶を再認識しているだけ。

 こういう仕組みがわかっていると、人を騙しやすい。広告宣伝をガンガン流して、絶賛好評発売中! たちまち重版出来! いまNYのセレブで大人気大流行! と、バカな大衆どもにウソの「経験」を植え付けて洗脳してしまえばいい。そうすると、実物がどうであれ、その実物を見かけると、実際に見えるものではなく、植え付けられた「経験」の方が再現されてしまう。ほら、きみは、黄色いMを見かけただけで、いつも思わず歌う、ぱらっぱっぱっぱー。

 世の中は、こういうインチキな、見かけ倒しのニセモノだらけだ、と、古代ギリシアの哲学者プラトンは喝破した。そういう見せかけだけのニセモノに騙されるな、と、警鐘を鳴らした。だが、彼のすごいのは、そこから先だ。こういうニセモノがニセモノとして機能するのは、それらがまさにホンモノのニセモノだからだ。ニセモノは、ホンモノの影だからこそ、魅力がある。だから、逆にこれらのニセモノをうまく調べれば、そこから我々が真に求めるべき本当のホンモノを知ることができる、と。これを「弁証法」と言う。

 つまり、こうだ。たとえば、作りもののインチキ美談がある。だが、たとえそれ自体はウソでも、みんながそれに惹かれるのは、それが人々の理想の影を反映しているから。つまり、そのニセ話はともかく、その美談の核心こそ我々が理想とするところ。人が人として希求し、実現に努力すべきところ。おいしさでも、かっこよさでも、同じ。現実にあるのは、インチキなニセモノだらけ。でも、それらに我々が魅了されるなら、それらの中心にあるところこそが、我々が現実に実現すべき理想、イデアだ。

 現実に真の理想は存在しなくても、それに似たニセモノに惹かれるというのは、我々は、心の中では真の理想を知っているから。そのニセモノをきっかけに真の理想の方を思い出すから。きみが追い求めるべきは、現実に溢れかえるインチキなニセモノじゃない。それらに惹かれるきみの心は知っている、なにが理想か、を。しかし、それなら、きみ自身がそれを探求して、それをきみが現実に実現しようと努めるべきだ。

/人間は平等だ。それぞれの人に、それぞれの尺度がある。だからといって、自分の尺度に他人を押し込めようとしてもムリ。尺度の争いになるだけ。こうならないように、内容のコミュニケイション以前に、コミュニケイションの方法、プロトコルが取り決められている。この礼節を守らないならば、だれもまともに相手にしない。/


 ちかごろは親がかりの学生風情でも、教員にタメ口をきく。学校の外でもそうらしい。それはたんに敬語が使えないとかいう問題ではない。社会人としての礼節という概念が根本から欠けている。育ちが知れて、呆れるばかり。

 人間は平等だ。それぞれの人に、それぞれの尺度があり、あれこれ人に強制される筋合いは無い。たしかに、そうだ。しかし、だからといって、高圧的に、オレさまの尺度に合わせろ、というのは、どうか。それはそれで傍若無人に他人の人権を侵害するヤクザと同じ。コミュニケイションのしようが無い。

 どこかの国は、この調子でミサイルをぶっぱなしまくっているが、これではまともな外交は成り立たない。自分の国だけでなく、どこの相手の国にも自尊心はある。みな、自分の国が一番、絶対に正しい、と思っている。だからこそ、相手の国も尊重するのでなければ、交渉の糸口も見つからない。

 サミットなど、複数の国が席を同じくするのは大変だ。どこの国でも、自分が中心だと思っている。だからと言って、こんなこと、話し合いでは解決しない。いろいろな尺度を持ち出してきて、うちの方が上だ、ということになる。そして、さらに、どっちの尺度が上か、言い争うことになる。

 それで、そうならないように、国際プロトコルというのが決められている。形式的に、あくまでたんに形式的に、内容のコミュニケイション以前に、コミュニケイションの方法が取り決められている。議長は持ち回り、いつどこで、は、議長一任。そして、席次。ホスト国を第一に、あとは、国の大小にかかわらず、皇帝(天皇)、国王、大統領、首相の順。同格複数なら、日付として先に就任した方が上。並ぶときは、中央から左右左右(客席から見て)に。

 映画やテレビのクレジット(出演者やスタッフの明記)順も大騒ぎ。一般の人でも、結婚披露宴の席次や挨拶は頭を悩ますところ。順序を間違えると、なんでオレがあんなやつより下格扱いなんだ! と切れるのが出てくる。だって、オレさまの好き嫌いからすれば、なんてことをやったら、まるまる敵意の標的にされる。ヘタに上席にされた方だって、逆恨みのとばっちりを受けかねないから、欠席退席ということに。だから、こういうときは、あれこれ自分の尺度で測ったりせず、世間のプロトコルに従っておくのが無難。

 でも、いつの時代も、身の程知らずのバカガキは、たんに礼儀知らずである以上に、あえての下克上が大好き。オレさまがルールを作る。オレさまの尺度に従え。しかし、実際のところ、やつらは本音ではむしろ古いプロトコルの尺度にこそ忠実敏感で、「偉い人」にマウンティングをすることで、自分がのし上がろうと思っている。だが、そういうプロトコル破りは、上を踏みつけただけでなく、世間すべてを敵に回す。

 古代の孔子は、乱世の小国にあって、むしろプロトコルを利用することで自国を守ろうとした。つまり、プロトコルを味方にすれば、世間すべてを味方にできる。それを軽んじる大国をも屈服させることができる。それどころか、自分、自国がプロトコルの尺度と一体になり、その模範となることによって、他人、他国を実質的に従わせることができる。近代フランスの太陽王ルイ14世も、ナイフ・フォークも知らない野蛮なオレさま地方豪族どもに、宮殿で豪華絢爛たるパーティとマナーを見せつけ、われらのプロトコルに従わないなら、われらはわれらの社交の場には入れないぞ、と威圧し統制した。

 あのヒットラーですら、バカげた力づくのクーデタを放棄し、先人たちを立てつつ、まともな選挙で戦うことに方針転換。スローガンは「ヒンデンブルクに敬意を、ヒットラーに投票を」。だから、あんなやつでも、うまく首相に当選。そして、33年の最初の国会では、大仰な礼服を着て、皇太子の前でヒンデンブルク大統領に深々と頭を下げた。これによって、やつは、自分が皇太子や大統領につらなる正統な政治家であることを示した。そして、翌年、ヒンデンブルクが亡くなると、ヒットラーの手に政権が転がり込む。

 織田信長と違って、豊臣秀吉や徳川家康なんかも、同じようなプロトコル手順を踏んでいる。だから、敵たちを抑え、殺されず、天下人になれた。どこぞの総理大臣とかも、いいかげん大人になったらいいのに、と思う。自分勝手な尺度を振り回し、自分のお友だちを優先すれば、世間すべてを敵に回すだけ。いつまで同じ愚を繰り返すのやら。

 礼節は、あくまで形式的なものだ。それに従って下座に着いたからといって、自分を卑下するようなものではない。むしろ礼節を守らないならば、だれもまともに相手にしない。コミュニケイションの下地そのものが無いからだ。学生だの、ニートだの、いつまでも自意識過剰なユトリのオレさま気取りのまま、でかい口を叩くだけで、このあたりの基本的な社会常識を学んで身につけようとしなければ、社会に参加する入口の手前で、世間から拒絶されるだけ。

/民主主義は、多数決ではなく、少数派にも配慮し、かれらを包含すべきもの。だが、エセ「革新」ソフィストたちは、この規定を逆手に取って、少数派の意見を強烈にアピール。それどころか、少数派以外の人々にまで、古い「偏見」に「反省」と「回心」を迫り、従わない者たちを「虐殺」していく。/


 黒でも白と言いくるめる。いまの腐れ弁護士みたいなのが紀元前五世紀の古代ギリシアに現れた。ソフィスト(知恵者)だ。かれらは、個別案件で勝った負けたを争う弁護士より壮大。政治家たちに入れ知恵するのが仕事。当時すでに政治そのものが腐敗していた。とにかく相手を言い負かし、民衆を言いくるめてしまえば勝ち。そのとき言い勝つことだけが目的だから、その考え方を実際に実行し実現たらどうなるか、など知ったことではない。

 ソフィストの代表が、プロタゴラス。人間は万物の尺度、つまり相対主義を信奉していた。つまり、ある人がAだと言っても、それはあなたにとっての真理にすぎない、と言って叩き潰す。辛いものの後は水さえも甘いように、いまたまたまみんなもAだと思ってしまうだけだ、と言って煙に巻く。

 日本の戦後もそうだった。戦前のこっぴどい封建社会の後、もっともらしい「革新」ソフィストたちが湧き出てきて、国家、地域、家族、夫婦まで、なんでもかんでも相対主義でぶっ壊してしまった。なにもかもが個人の自由な契約関係。嫌ならいつ止めてもいい。いや、そもそもいつどこでも「因習」なんかに従う義務は無い、そういうものを自分に押しつけるやつらは、社会の敵だ! と。

 もちろん民主主義は、ただの多数決ではなく、少数派にも配慮し、かれらを包含すべきものだが、エセ「革新」ソフィストたちは、この規定を逆手に取って、戦前の統制礼賛のキズをスネに持つ新聞などを足場に、少数派の意見を強烈にアピール。それどころか、ポルポト派よろしく、少数派以外の人々にまで、古い「偏見」に「反省」と「回心」を迫り、従わない者たちを「虐殺」していった。男の子も赤い服を着るべきだ、に始まって、結婚は不要だ、出産はムダだ、家族や社会より自分個人、PTAはいらない、自治会をぶっ壊せ、等々。

 少数派がどうしようと知ったことではない。ところが、少数派は、多数派を切り崩し、結局のところ、自分たちの方が多数派になって旧多数派を壊滅しようとする。多数派に対して、自分たちの考えを認めろ、と言いながら、絶対に多数派の考えは許さない。連中は、根幹のところで自己矛盾している。「サイレント・マジョリティ(沈黙の多数派)」に対して、こういう連中を「ドミナント・マイノリティ(支配的少数派)」という。

 古代のギリシアも、こういうデマゴーグ(扇動家)のデモ、ドミナント・マイノリティの詭弁に引っかき回されて、ぐちゃぐちゃになった。しかし、そんなところに、かの哲人ソクラテスが出てきた。それでほんとうにきみは納得できるのかい? 理屈はともかく自分自身の心の声(ダイモニオン)を聞いてごらんよ、と。

 人は自分自身にさえ屁理屈を言って自分をごまかし、その後ろめたさに他人までむりやり同調させようとする。でも、一人になったとき、テレビも消してちょっとぼーっとしたとき、心静かにフロかトイレに入っているとき、布団に入って暗い部屋で天井を見上げるとき、ほんとうの自分の声が聞こえてくる。このままじゃダメだよな、やっぱりずっと一人ぼっちじゃさみしいよな、いまはいいけれど、この先どうなるのだろう、と。

 人は理屈で生きているわけじゃない。理不尽でもなんでも、どんな人も、それぞれに育ってきた、懐かしい、自分のくつろげる環境がある。社会も、ある日突然に人工的に創られたのではなく、過去の歴史的ないきさつ、わだかまり、その中での後悔と決意があって、いまがある。理屈はどうあれ、こういうものを引きずって我々は生きている。ああすべきだ、こうすべきだ、と、もっともらしくソフィストたちに言われても、そう簡単に自分自身の生きてきた足下を切り捨てることなどできない。いや、切り捨ててしまったら、もう自分自身でいることすらできなくなってしまう。

 理屈では、どんな尺度でもいいかもしれない。だが、自分が自分である限り、自分であることの証としての自分の絶対尺度がある。たとえそれで自分が犠牲になったり、損をしたりするとしても、自分が自分であるために守り通すべき尺度がある。それを自分勝手な屁理屈で、それどころか他人の自分勝手な屁理屈で曲げたりたら、そんな自分はもうほんとうの自分ではいられなくなる。

 自分自身の心の中の声は、恐ろしい。なんでもお見通しだ。自分自身から自分自身を隠しごまかすことなどできないのだ。だから、うしろめたい人々は、せめて自分の心の声を聞くまいと、パチンコ屋だの、クラブだの、都会の喧噪で耳を塞ぎ、まやかしの娯楽にうつつを抜かす。もしくは、詭弁をまき散らすドミナント・マイノリティのソフィストの御講演にうなずき、そのデモに一緒に参加して、他人の作ったシュプレッヒコールを大声で連呼し、先進的な理解者を気取る。だが、それは、自分自身の心の声から耳を塞いでいるだけ。

 だが、そんなことをしたって、絶対に自分自身からは逃げられない。勝ちか負けか、損か得か、多数か少数か。そんなことは、関係ない。これまできみ自身が生きてきたところ、そして、きみ、きみの家族、きみの地域に思うところ。それがどうあってほしいかを真剣に考えるとき、いま一時の屁理屈とほんとうにつながっているのか、疑わざるをえない。そして、その疑いこそが、哲学だ。

 正義は損得じゃない。真理は勝ち負けじゃない。少数派の変わり者がなんと言っていようと、それはそれ。それこそ、人は人。やつらは、自分たちの権益拡大のために、きみまで洗脳しようとしているが、きみはきみの中の心の声だけを真剣に心配しよう。そして、損得勝ち負けを超えて、その自分自身の心の声にこそ正直に生きよう。それこそが、きみがきみである証なのだから。

/ウパニシャッド哲学は、世界の転変から解脱しようと、自分を無にすることを考えたが、そのせいで仏陀は死にかかり、ようやく悟った。世界の転変から解脱しようなどいうわがままこそ、苦しみのほんとうの元凶だ、と。そのわがままという縁を切れば、世界は変わらなくても、苦しみは無くなる、と。/


 必然性は強い。世界を変えようと、きみがなにかアクションを起こしても、ムリ。ただでさえ、大河に一石を投じても意味がない。小さなことでさえ、きみと考え方が違うのか、それとも、アクションを起こすきみに嫉妬してか、その狭い世界にかならずきみとは反対のアクションを起こすやつもいて、どちらも相殺され、なにもなかったことになり、必然の予定通りになってしまう。

 こんな風に永遠に世界に振り回され続けるのは嫌だ、ということで、古代インドのウパニシャッドという秘教は、解脱を考えた。世界は、本来は大きな力、ブラフマン(梵)だが、その波打ち際の潮だまりのようなものとして、世界から切り離されてしまい、世界の波に翻弄されている「我」がある。これが翻弄されるのは、その前の波、つまり前世の因業の応報。この悪循環を断ち切るために、ウパニシャッドは、自分を無にする、という極端な方法を試みた。因である自分が無になれば、果も無くなり、自由なブラフマンに回帰できる、というのが理屈。

 では、具体的に、なにをするのか、というと、とにかくなにもしない。動かないのはもちろん、食べない。それどころか、息もしない。しかし、荒廃する波乱の時代にあって、当時、こんな自殺のようなことを本気で考えて実行する人々が少なくなかった。仏陀もその一人。それで実際、ほとんど死の寸前まで突き進んだ。けれども、仏陀は死にかかってようやくわかった。解脱したいなどという考えの方が、まさに煩悩。それこそが自分を苦しめる元凶。

 彼は自分の考えを、四法印の教義にまとめた。すなわち、諸行無常、すべての物事は転変する。諸法無我、その転変に我が関わる余地は無い。一切行苦、だから、我は転変から引き剥がされて苦しむ。涅槃寂静、しかし転変に我が関わろうとしなければ引き剥がされもせず、平安を得られる。

 この発想の転換の根本は、彼の因縁論だ。ウパニシャッドを初めとして、我々は原因をどうにかしようとする。だが、世界の転変ともなると、その必然性は、人の力で留めたり、変えたりできるようなものではない。そんな巨大な世界の動勢に抗えば、ただその転変に押しつぶされるだけ。

 仏陀の独創的なのは、この因が本当の因ではない、というところ。問題は、世界の転変ではない。世界の転変をどうにかしようなどという自分の煩悩こそが因。そして、どうにかしないといけないのは、因ではなく、果だけ。たしかに因は、もはや人の力の及ばない。だが、因があっても、果が生じるとはかぎらない。因から果が生じるには、条件、縁が揃い整わないといけない。逆に言うと、因をほったらかしておいても、縁の方さえ絶ち切ってしまえば、果は生じない。

 世界は転変する。としても、自分がそれをどうにかできる、どうにかしようなどと思わなければ、それだけのこと。最初から、なんの問題も無かったようなもの。人は、生まれ、老い、病み、死ぬ。そういうもの。その摂理に逆らって、いつまでも若くいたい、とか、永遠に死にたくない、とか、わけのわからないこと、できもしないことを求めるから、自分で自分の首を絞めている。それどころか、現実をわきまえず、そのとき、そのときにすべきことをしないから、そのせいで、次々にツケを作り出し、いよいよ後に自分を苦しめることになる。

 顔も見たくないやつがいる。じゃあ、そいつを殺すか。でも、そんなことをすれば、いよいよそいつは死んでなお、きみの人生にまとわり付き続けるぞ。顔を見たくないなら、見なければいいだけ。引越するなり、転職するなり、縁を切る、だけで、解決。もっと簡単なのは、顔を見たくもない、とすら思わないこと。そいつは、そこらの石ころ。たとえ会っても、無いも同然にほっておけばいい。世界はあるようにあるだけ。だから、苦など、世界の側には無い。ただ、きみの内側から、きみが自分で作り出して、自家中毒になっているだけ。

 世捨て人の連中が作り出した狭い仏教だと、なんでもかんでも縁を切って、世間から隔絶された自分の心の中だけの平安な世界を作り出そうとするが、じつは、逆に世界を取り込む方法もある。きみはもともと良い因(「仏性」)も持っている。なのに、その芽がでないのは、縁が無いから。どんな種も、耕した土に撒き、水をやり、日を当ててやらなければ、伸びない。芽が出ない=種が無い、のではない。世話をしてやる、その最適最善の縁を求め与えてやれば、きちんと実は成る。

 自分のできもしないこと、世界の方を自分の思いのままにしようとすること。自分のできること、世界を自分の思いのままにしようなどと、できもしない煩悩を抱かないこと。そして、自分のすべきこと、自分がもともと持っている良い種に良い縁を与え育て、その実で世界を救うこと。

/世界にはフリーエネルギーが満ちている。だが、それらは、いつもたがいに相殺しあっていて、全体としては、なにも起こらない。しかし、その方向とタイミングをうまく整えることができるなら、そこから莫大な力をひきだすことができる。/


 デススターの小さな廃熱口に爆薬を落とさなければならないとき、亡きオビ=ワンの声が聞こえ、ルークはあえて照準器を閉じる。フォースは、『スターウォーズ』の世界のキーコンセプト。しかし、もとはと言えば、東洋の道教仙術の思想。わけのわからない人には、なにか特別な超能力のようなものとしか思えないだろう。だが、実際の体得はともかく、原理そのものは単純明快だ。

 渋谷のスクランブル交差点を思い出してみたらいい。あっちからこっちへ来る人、こっちからそっちへ渡る人、そっちからあっちへ行く人。いろいろ。全部の人が動いたのに、総体としてはなにも起こらない。すべての動きが相殺されているから。じつは現実も同じ。なにも起こっていないのではない。あまりにものすごく大量の物事が同時にぐちゃぐちゃに起こっている。しかし、そのせいで、それらのすべてが相殺され、結局のところ、全体としてはなにも起こっていないように思える。

 1960年にもなって、ようやくレーザーが発明された。赤いポインターなんかとしても使っているやつだ。やたらと遠くまで届く。レーザーメスのようにエネルギーも強い。しかし、それはなぜか。いや、逆に、なぜふつうの光は、遠くまで届かず、たいしてエネルギーも無いのか。

 レーザーは、人工の光だ。円筒形のルビー。このルビーの中に光が入ると、屈折率のために中で反射して、出られなくなる。そのせいで光が同機して、すべての光波が同一になる。つまり、同じ波長、同じ山谷に揃う。そして、一定以上のエネルギーが、ここからオーバーフローする。

 通常の光、白色光は、さまざまな波長の光を含んでいる。プリズムにかけると、七色に分離できる。一方、レーザー光は、赤ないし青一色。一つの波長しか含んでいない。おまけに、山谷まで一致。ふつうの白色光だと、さまざまな光波を含み、山谷もバラバラなせいで、たがいにエネルギーを相殺、すぐ拡散。だが、レーザー光は、そのレーザー光の中ではエネルギーを相殺しない。そのうえ、同一波長だから、屈折率も同一。拡散せず、ひたすら直進。たとえ光ファイバーのようなものの中で曲がるとしても、ぜんぶがいっしょに均一に曲がるから、衰えることが無い。

 さて、スキーで急坂に出くわしてしまったときなど、ふつうにはうまく滑れる人でも、むやみやたらに緊張して、冷や汗ダラダラ、心臓がバクバク。自分で思ったとおりに動けず、むだに転ぶ。これは、つまり、あちこちの曲げる筋肉と伸ばす筋肉の両方に同時に力を入れてしまっている状態。なんにもならないのに、ムダに疲れる。おまけに、力を入れるときと抜くときのタイミングが全身でデタラメだから、まともに動くこともできない。

 これに対し、アスリートは、その基礎筋力もさることながら、それ以上に、それぞれの関節ごとに、一方の筋肉のみに力を入れ、他方はその動きをじゃましないように完全に弛緩させる。全身のそれぞれの筋肉がそれぞれの最適のタイミングのみで力を発揮する。ムダが無いから、持てる筋力を最大に結果に生かすことができる。

 エネルギーが無いのではない。なにも起こっていないように見えるところでも、その中で相殺され、拡散されて、結果としてなにも起きないだけ。逆に言えば、世界はフリーエネルギーに満ちている。デタラメに進むスクランブル交差点の大勢の人々の歩く向きと歩幅を揃えたら、怒濤のようなデモ隊の行進になる。いや、向きを揃えなくても、信号でそれぞれの方向に渡りたい人々のタイミングを分けてやるだけでも、そこから力を取り出せる。

 なぜきみは結果を出せないのか。力が足りないのではない。やっていることが、いつも支離滅裂で、ぜんぶがぜんぶ、たがいにつねに相殺してしまっているから。なぜ考えがまとまらないのか。なぜ力が発揮できないのか。そこにさまざまな迷いがあって、それらが最適なタイミングで最大の力を出すべきときに、その力を自分で押し止めてしまっているから。

 なぜ精神統一や、集中力が重要なのか。雑念が、きみからきみの本来の力を削いでしまっているから。ほんとうに必要なことだけに全身全霊の神経と筋力を合わせ、それ以外のあれこれは完全に解き放って、本来の動きのジャマをさせない。道教で「無為自然」というのは、この解放と集中のこと。なにもしないのではない。無理をしない、ただ道理に則るのみ。そして、無理をしないからこそ、あるべき本来の波に乗れて、物事を成し遂げることができる。

 これは、組織でも同じ。余計なことはすべてサポートに任せ、本隊は本業に専心。休む者は休むべきときに休み、動く者が動くべきときに動く。それが全体でうまく均整が取れるとき、その内部にある力を最善に発揮できる。社内で疑心がはびこり、たがいに様子見で腰が引け、それどころか、方針方向がバラバラで足の引っ張り合いをするような組織は、大きくなるほど、ムダに有り余る自分自身の力で自滅的に内部崩壊する。

 すべての雑念を断ち切れ。余計なことは考えるな。ただ一点にだけ精神を集中し、その一念のみを自分自身として、その他のムダな緊張をなにもかも解き放て。そのとき、きみはレーザー光のようにどこまでもまっすぐ突き進むことができる。フォースと共にあらんことを。

/モノを喰って自分の空白を埋めようとするのは、脳内バブルの重篤症状。しかし、そんな空っぽの人間が喰っただけで自己顕示欲を満たせるような魔法の食べ物など無い。食べものの味は、ただ自分の口の中だけの楽しみ。黙って口を閉じてこその、味わい。/


 文化も、芸術も、科学も、政治も、それどころか恋愛さえも、まったく関心無し。二四時間三六五日、喰うことしか考えていない。喰うことしか話さない。ひたすら話題の喰いモノを追っかけて生きている。近頃、そういう淋しい、人としてとても残念な、自称「グルメ」がいっぱい。それは、モノを喰って自分の空白を埋めようとする脳内バブル中毒の重篤症状。


 築地だ、豊洲だ、と揉めているが、科学者が、どちらを安全とするか、なんて、まったくどうでもいい話。重要なのは、イメージ、ネームバリューだ。同じ海峡の魚でも、一方側の漁港に水揚げすれば、ブランドものの高級品。反対側なら、ただの魚。合成肉さえでも、高級ホテルで出せば、自称「グルメ」の舌バカどもがうまいと絶賛。


 それも、そのはず。我々は、イメージ、ネームバリューを喰う。それで、腹ではなく自己顕示欲を満たそうとする。実際の魚や肉は、その憑り代にすぎない。世間で話題のモノを喰っている自分が好きなだけ。なにを喰っているのか、なんて、なにもわかっていない。重要なのは、世間で話題の、羨望の、その料理を自分は喰った、征服し、消滅させた、ということだけ。味なんか、わからなくてもいい。喰ったというだけで、それを喰った特別な人間になれると信じている。


 これは、その観光地に行った、あのコンサートを見てきた、このブランド品を買って持っている、というのと同じ。行っただけ、見ただけ、持っているだけで、なにか自分がわかった、なにか自分が変わったわけじゃない。だが、その輝かしいオーラのおこぼれにあずかれる気がする。まして、喰うことは、実物消費。その皿の上の料理を占有し、消滅させる。とにかく口に突っ込んで、くっちゃくちゃのぐっちゃぐちゃに粉砕。そして、物理的に消化吸収。やつらは、有名なモノを食べれば、その特別なパワーが自分の肉体にも宿るはずだと思っている。


 逆に言うと、自称「グルメ」バカは、たいてい経歴不詳、無力で無名の救いがたい超凡人。本人自身には、世間の話題になるようなオーラがまったく無い。だから、ひたすら食べ歩く。無限に喰い続け、それどころか喰い歩いていることを、ひけらかし、言いふらす。しかし、独占できるのは、せいぜい自分が注文した皿の上の料理だけ。あの有名な店のあの有名な料理を喰ったことがある、なんていうやつは、掃いて捨てるほどいる。掃いて捨てるほどいるから、世間で広く話題になっている。特別でもなんでもない。


 そもそも、そんなことをしてみても、本人は空っぽなのだから、どんなに食べ歩いたところで、けっして自己顕示欲そのものが満たされることはない。それで、さらにレアで有名な喰いモノ、まだあまり世間の人が食べたことがない、でも有名でオーラがつきそうな喰いモノを求めて、グルメ本を読みあさり、都会の街をさまよい歩く。しかし、そんな業の深い、空っぽの人間が喰っただけで自己顕示欲を満たせるような魔法の食べ物など、この世には無い。


 たしかに、食は文化だ。地方ごと、季節ごとに、さまざまな人々が工夫を重ねて、ほんとうにおいしいものを歴史の中で生み出してきた。しかし、それは絶対量が限られている。地元の人たちだけでも、かなり特別な品。そんな貴重で大切なものを、どこからともなく大量に押しかけてくる、どこの馬の骨ともつかない自己顕示欲の亡霊どもに投げてくれてやるやつはいない。そもそも雑誌やテレビで紹介なんかさせない。


 ほんとうにおいしいものは、有名になんかならない、なれない。世間で話題にできるほど、量が無いからだ。せいぜい知る人ぞ知る、というだけ。また、それは、プライスレス。あまりにも特別で、値段のつけようがない。いくら大金を積んでも、もとよりそれが流通するほどの市場も無く、都会ではまず手に入らない。だから、それを食べてみたかったら、ぜひいちど食べて試してみて貰いたいと、食べものの方から口元にやってくるような、食べもの負けしないくらいの、人間らしい、きちんとした人間になって、自分もまた現地を訪れないといけない。


 食べものは、その一度きりの出会い。そして、その味は、ただ自分の口の中だけの楽しみ。その地方の風土を想い、その季節の情緒を嘗める。そして、その食材、その料理を作ってくれた人、さらには伝統と創意に深い感謝。それを食べたと言いふらしてみても、世間のだれも知らないものだから、自己顕示にもならない。そもそも、むだに言葉で語ってみたところで、実際に食べてみないことには、その味は絶対にわからない。黙って口を閉じてこその、味わい。そして、ひたすら、その場所、その時点に居合わせられたことを、心から感謝、感謝。

/世界は、必然性に縛られている。それは、ちょっとやそっとの違いなど、無かったことにしてしまうほど強固だ。だが、毎日、のしかかってくる重力に負けず、必然性を追い越すなら、そこにきみの自由が開ける。そして、ここできみがどうするか次第で、きみは、世界の必然性の流れを変えることができる。/


蝶の羽ばたきだけで、世界は一変する、と、頭でっかちが言う。だが、それは、まったくのウソだ。現実の必然性の濁流は、すべてを飲み込んでしまう。川の水路で無理やりねじ曲げてみたところで、結局は、もとどおりの海に流れ込むだけ。作り話でならなんとでも作れるが、実際は、玄関を右足から出ようと、左足から出ようと、そんなことは、今日一日、それどころか、家のすぐ先の角を曲がるまでにすら、まったく影響を残さない。


我々は、運命に縛られている。すでに過去によって、なにもかもが決められてしまっている。それを変えようとあがいてみても、そんなことくらいでは、なにも変わらない。必然性の濁流においては、すぐにすべて無かったことにされてしまう。会社のためにかんばろうと、かんばるまいと、結局のところ、結果は大差無い。きみのがんばりの有無とはまったく別の理由で、ある日突然、会社が潰れてしまったりするのが現実。

あれこれじたばたしたところで、なるようにしかならない。では、そのなるようなところ、必然的なファイナル・ディスティネイション(最終目的地)「ディケ―」は何か。数学者として知られる紀元前550年頃のピュタゴラスは、世界は本来は《調和》で均衡静止する、と考えた。しかし、彼によれば、この現実は実際にはいろいろ汚れており、そのせいで、それぞれの罪への罰という反動が巻き起こることによって、毎度、その最終的な調和から外れ続けてしまう、という。

紀元前500年頃のヘラクレイトスになると、むしろ弦のように、永遠に反転し動揺し続けること、「万物は流転す」こそが、力動的な《調和》なのだ、と言い出した。さらに、紀元前475年頃のパルメニデスは、そのように完結している世界は、「存在の球」であり、その中心であるいまここの《現在》こそが、その世界全体のディケ―の結果であり、また、原因である、と説いた。つまり、砂時計のように、世界のすべての因果は、いまここに焦点を結ぶとともに、いまここで反転して、いまこここそが、世界のすべての原因になっている、という。

ところで、放物線飛行というものがある。宇宙の無重力を体験する方法だ。モノが自由落下しているとき、重力の影響がまるごと運動に解放されており、したがって、逆になんの重力もかかっていない無重力になる。上へ向けてボールを投げ上げたときも、見た目では上昇だが、「自由落下」。だから、飛行機を放物線の軌道に乗せて打ち上げて、なるがままにすれば、その頂点前後において無重力を実現できる。しかし、これも、じつはそう簡単ではない。左右対称である放物線の軌道に乗せるには、その高さに自由落下してくるときと同じくらいまで急加速して急上昇しないとならないからだ。つまり、この時点では、およそ2G、つまり、二倍の重力がかかる。

世界の必然性も同じこと。我々は毎日、必然性に追いかけられ続けている。そこには、自分の自由の余地などない。だが、自分自身が急加速し急上昇して必然性と一体化し、それを追い越すなら、過去と未来が反転する現在において、我々は、つかの間だけながら、自分の自由を得ることができる。

もっとも、こうして自由を手にできるのは、二倍の重力、二倍の必然性を乗り越えで急加速し急上昇する者だけ。我々は、人が無重力の自由を満喫しているの見るとすぐにうらやむが、それは、その前を知らないだけ。東大に入るやつは、人の倍、勉強したから。売れている芸人は、人の倍、下積みで苦労したから。必然性が支配するこの世界で、この世界を追い越し、自分の自由を手に入れるためには、相応の代償が必要なのだ。

おまけに、こうして自由を手にしても、それは長続きしない。必然性は、ふたたびその重力で、人を引きずり落とし、そのたいていの物事も、ほんの迷いとして飲み込んで、無かったことにしてしまう。歴史においても、世界の頂点に飛び出し、我が世の春を一時は謳歌したものの、その後、すぐに消え去った、それどころか奈落の底の底まで落ちていった者は数多い。それほどまでに、必然性の重力は強い。

だが、過去と未来が反転する放物線の頂点の自由な現在においては、過去はこの現実となって、それでその結果を出し切り終えている。だから、このいまここから、どう次の結果へと反転させるかについては、この一瞬の、この一点だけは、いかなる必然性も、もう免れている。とはいえ、きみは、そこに留まることはできない。きみは、落ちる。それが世界を支配する必然性というもの。だが、必然性を追い越したこの頂点の一瞬においてならば、きみは自分でどちら側に落ちるか、選ぶことができる。また、まっすぐ直降下するか、それとも、グライダーのようにゆっくりと滑空するか、きみの自由にできる。

自由とは、自分が理由になること。たしかに、結果は結果、現実は現実だ。これについては、すでにすべて必然性に支配されてしまっており、もはや自分でどうできるものではない。だが、毎日、のしかかってくる重力に負けず、必然性を追い越すなら、そこにきみの自由が開ける。そして、ここできみがどうするか次第で、それから先の未来の世界の必然性が尽きること無く展開して行く。つまり、きみは必然性の頂点に上ることで、世界の必然性の流れを変えることができる。自由は、いまここのきみの手の中にある。

/結婚は、自分自身だけでは絶対に決められない。おまけに、親族を含め、みな一蓮托生。あれこれの心労や義務で、がんじがらめ。これが「人生の墓場」。しかし、いつまでも、どこにも安心できる場が無いまま、というのも、たいへんだ。生きた証として骨をうずめるべきツイの住みかを手に入れるには、早い方がいい。/


 学生に聞くと、いまや大半が、結婚しても「メリット」が無い、と答える。混乱の元凶は、団塊世代。自由恋愛とか言って、いい年してまで、くっついたり離れたり。おまけに、適齢期は自分で決める、とか言って、下の世代まで誑かした。そのせいで、目が覚めたころには、みな手遅れ。高齢になって、じたばた不妊「治療」に走るが、それは「治療」じゃない。高齢になれば妊娠しにくくなる方が、むしろ自然の道理。


 戦後、世界、とくに日本人は、なんでも自分で決められる、決めるべきだ、と思い上がった。しかし、いくら医療が発達しても、死ぬ寿命は、最後は神仏が決める。生まれる妊娠も同じ。そして、それ以上に、決定的に自分でかってに決められないのが、結婚。それは、最終的には相手が決めることだ。


 もちろん片思いは勝手。しかし、その先、恋愛だ、結婚だとなると、相手が、うん、と言ってくれないかぎり、話が進まない。ところが、お客様は神様です、とばかりに、店や企業相手に横柄にやってきたユトリの「オレさま」は、ここで人生初めて、大きな壁にぶつかる。いくら自分が好きになったって、相手にも選ぶ権利がある。自分の思い通りになんか、できないし、なりもしない。にもかかわらず、自販機やネットでモノを買うように、ボタン一つ押す方法しか、それまで学んできていない。それで、ストーカーになったり、死ぬ死ぬと言い出したり、挙げ句はナイフを振り回したり。


 寿命や妊娠が神仏の領域であるように、恋愛や結婚は、自分自身だけでは絶対に決められない。それも、決定権を持っているのは、人間を越えた神仏ではなく、生身のタダの、そこらの人間。「メリット」がどうこう以前に、他人にひれ伏して愛を乞うなんてできない、自分の人生を決定する鍵を他人に預けるなんてできない、というのが、自己中のまま甘やかされてきた「オレさま」たちの本音だろう。実際、そういう「オレさま」の中には、人から大切な人生の鍵を預かっておきながら、平気でそれをドブに捨て、他人を檻に閉じ込めたまま、自分はどこかにトンズラしてしまうような卑劣な悪人も珍しくない。


 おまけに、結婚には大きな「リスク」や「デメリット」がある。自分が病気や失業しなくても、相手や子供、親族がそうなるかもしれない。自分自身のことなら、自分さえしっかりしていればリスクを下げられるが、親族の不摂生や不品行となると、言って話を聞くわけでなし、どうにもならない。同様に、自分一人なら不摂生や不品行も自己責任だが、家族持ちともなると、食事や洗濯、掃除はもちろん、収入や世評も、なんでもかんでもきちんとしておかないと、家族親族まで累が及び、大きな迷惑をかけることになる。つまり、恋愛と違い、結婚となると、親族を含め、みな一蓮托生。この意味では、もちろん、独り者の気楽さは無い。あれこれの心労や義務で、がんじがらめ。これが「人生の墓場」。


 しかし、かといって、いつまでも、どこにも安心できる場が無いまま、というのも、なかなかにたいへんだ。若く元気なうちはいいが、人生は何があるかわからない。最近は単身者に対応してくれるいろいろな店や企業もあるが、しょせんはカネの縁。病気になったり、失業したりしたとき、文字通り親身になって支えてくれるのは、家族だけ。


 生まれながらの家族。しかし、それは長続きしない。親も老いて、ついにはかならずいなくなる。つまり、家族は、生まれて与えられただけでは、自分自身が老いるまでに、かならず失われてしまう。そうならないためには、自分自身で新たに創って継がないといけない。それが結婚。それによって、人生にひそむさまざまな「リスク」を、大きく担保して、安定した人生を送ることができる。


 結婚には、まちがいなく「メリット」はある。一方、「リスク」や「デメリット」は、相手や相手の親族の選びようで、いくらでも下げられる。見た目だ、性的魅力だ、もけっこうだが、恋愛でも、見合いでも、とにかく最後の最後まで、ほんとうに信用できる相手、信頼できる新しい親族、自分の人生の鍵を預けられる新しい家族を見つけないといけない。そしてなにより、決定権は、絶対的に相手側にある。この事実を謙虚に受け入れ、ほんとうに信用できる相手に、そして、その相手の親族に選んでもらえるような、信頼されうる自分にならないと、恋愛さえ始まらない。


 ちかごろは、学校などでも就職指導に熱心だが、就職以上に人生を大きく左右するのが結婚。いい相手を見つけられれば、その後の人生、なにがあってもずっと安泰。しかし、ひどい相手を掴むと、なにもかも失うハメに陥る。かといって、独り身のまま年を取ったら、大海原に漂う小舟も同然。後になって結婚したくなって、いい年して若作り/厚化粧で恋愛ぶるのも、体力、気力、ともに、かなりしんどかろう。だから、性教育がどうこう以前に、こんな重大な人生の問題は、たとえ親や学校が教えてくれなくても、自分自身でもっと早くから気付いて学んで向き合うべきことだ。


 そして、とても大切なこと。いろいろな意味で、いい男/いい女から、先に「売れて」いく。それが現実。これ!という相手を掴めたら、そして、相手が手を握り返してくれたなら、離すな、迷うな、とっとと覚悟を決めろ。また後で、は無い。「残りもの」ほど、難あり、ばかりになって、選ぶのも、リスクヘッジするのも、難しくなる。遊び歩いている場合じゃない。まして、先送りにしている余裕は無い。就職よりも、進学よりも、結婚こそ、人生最大の難関。生きた証として骨をうずめるべきツイの住みか、良い「人生の墓場」を手に入れるには、とにかく若いうち、早くから真剣に探し始めた方がいい。

/きみは、あれこれバラバラの物事を、あれもこれもあちこち追い廻しているから、どれひとつも捕まえることができない。でも、きみ自身こそが、世界の元栓。それをきちんと抑えてしまえば、そこから派生する余計な面倒も抑え込め、きみがほんとうにすべきだったことに専念でき、夢を叶えることもできる。/


 世界は複雑だ。人生はややこしい。一人暮らしなんかすれば、仕事や学校だけでも手一杯でクタクタなのに、食事、洗濯、掃除、そのための買い物、ゴミ出し等々、とにかくやらなければいけないことだらけ。そのうえ、宅配便だの、ご近所のなんだかんだだの、なんだかわからない売り込みの勧誘だの、いろいろひっきりなしにやってくる。おまけに、夜中まで、ねぇ、ちょっと相談に乗ってよ、とか、変な友だちから、切るに切れない長電話。


 痩せたい、きれいになりたい、彼氏彼女がほしい、外国に行きたい、金持になりたい、等々、いろいろ希望はある。けれども、こんな毎日では、どうにもならない。それで、とにかく手っ取り早く、サプリで、整形で、出会い系で、英語教材で、ギャンブルで、ぱっと夢をかなえようと、すぐにあれやこれやに手を出す。それで、ただでさえ手一杯なのに、いよいよ毎日、手に負えなくなる。それどころか、サプリの濫用で体調を崩し、整形に失敗して変な顔、変な体になり、出会い系のせいで修羅場に巻き込まれ、英語教材のローンで留学のカネも無くなり、最後の一発逆転を狙ったギャンブルで、すべての希望まで失う。


 きみは、あれこれバラバラの物事を、あれもこれもあちこち追い廻しているから、どれひとつも捕まえることができない。いくら追っても、逃げ水のように、いつまでも、なにひとつ追いつけない。だが、それぞれはバラバラでも、世界そのものは、じつはバラバラじゃない。みんな因果関係で繋がっている。だったら、バラバラになる前の原因の方こそを抑えるべきじゃないのか。


 英語の常套句に、don't open a can of worms というのがある。直訳すれば、ミミズの缶は開けるな、ということ。缶から這い出てきて、部屋中を歩き廻り、逃げ回るミミズたちを探して集めて中に戻そうとしても、もうムリ。またすぐ逃げ出す。でも、最初から開けなければ、そんなことにはならない。


 帰省などで、しばらく家を空けるとき、ちょっと出てから、電気やガスの始末が気になる。ホットカーペットは切っただろうか、給湯器はどうだっただろうか、などなど、気になってくる。けれども、こういうとき、ブレーカーを落とし、元栓を締めておけば、あれこれ細々したことを心配する必要はない。同様に、カゼをひいてから、熱をおして薬を買いに出て、それでよけい症状を悪化させ、のたうち回るくらいなら、最初からカゼをひかないようにした方が簡単だ。


 太るのも、彼氏/彼女ができないのも、カネが無いのも、たいていは、むしろ目先の欲得に振り回された不摂生こそが原因。やらんでいいことまで、その場の思いつきであれこれやるから、すべてが支離滅裂になる。余計なことをなにもしなければ、つまり、ヤケ食い・ヤケ飲み・間食もせず、目を血走らせて男/女を追っかけたりせず、どうでもいいことにカネを使わなければ、ほっておいたって、貯金もでき、生活も落ち着き、女として/男としての魅力も出てきて、なんとなく、あの人すてき、と言われるようになって、ちょっと同僚に良い人がいるんだけど紹介してあげようか、と周りの方から話が動き出す。


 なにもしないことほど、ほんとうは簡単なことは無いはず。なのに、きみは、年がら年中、スマホをいじったり、あちこちの店をウロウロしたり。それ、どれもこれも、ほんとうはきみに関係ないし、向こうがカネ儲けしようとしているだけで、関わっても、きみ自身にとっては、なにも良いことなんか無いよ。


 ようは、きみ自身こそが、世界の大元。その元栓をきちんと抑えてしまえば、そこから派生する余計な面倒も、すべて抑え込める。余計な面倒を無くせば、きみは、きみがほんとうにすべきだったことに専念でき、きみの本来の夢を叶えることもできる。結果を望むなら、原因、つまり、きみ自身をきちんとしよう。それだけで、きみのすべての夢は、まとめて全部、叶うのだから。

/哲学は、動物園のようなもの。自分とは生き方が違うからおもしろい。しかし、それはまた旅行のようなもの。おもしろいからといって、いつまでもふらふらやっていては、自分の居場所の無い放浪者になってしまう。だから、それは、恋人探し、家探しのようなもの。早まるな、しかし、タイミングを逃すな。いろいろ知った上で、ほんとうの自分の道を見つけよう。/

/哲学は、動物園のようなもの。自分とは生き方が違うからおもしろい。しかし、それはまた旅行のようなもの。おもしろいからといって、いつまでもふらふらやっていては、自分の居場所の無い放浪者になってしまう。だから、それは、恋人探し、家探しのようなもの。早まるな、しかし、タイミングを逃すな。いろいろ知った上で、ほんとうの自分の道を見つけよう。/


哲学は、人々の考え方を学ぶ。したがって、たとえ自分とは違う考え方であっても、世の中にはそういう考え方もある、として、客観的かつ冷静に受け止められる知的度量が求められる。

もちろんその中には奇妙な考え方も少なくない。だが、ときには自分の考え方の偏狭さを思い知らされるものもある。また、一見、とても奇妙でも、よくよく考えると、いまの自分には、それを否定することができる証拠がない、ということに気付かされるかもしれない。いずれにせよ、すぐに相手を言い負かして黙らそうとしたりするのではなく、まず自分の方が黙って話を聞き、それをきちんと理解することが大切だ。対象を理解もせずに、まともに検証や否定などできない。

つまり、哲学は、人間の多様な思想というものを、ゾウやライオンのように観察する。それらは、たとえ奇妙な生態であっても、たとえ自分とは違っても、歴史上、世界の中に生息してきたものであり、また、いまもどこかに生き残っているものだ。もしかすると、きみがそれに捕らえられているのかもしれない。

牛が草ばかり食べ、ライオンが肉しか食べないとしても、それをまちがっていると言えるだろうか。考え方は、生き方につながる。自分の考え方、生き方とちがうのは、それが自分とはちがう別の存在だからであり、別の存在である以上、別の考え方、別の生き方をしているほうがむしろ当然。そして、別の考え方、別の生き方なのだから、よういには理解できないのも当たり前だろう。

ところが、きみは、牛やライオンと同じ世界に暮らしている。連中のことがわからない、わかるわけがない、と開き直っていると、きみは、自分の草を先に牛に食べられ、きみ自身がライオンの餌食になってしまう。わからないでは、済まないのだ。わからないならわからないなりに、どうわからないのか、わからないとならない。こんな時間にこんなところをウロウロしていると、ライオンが襲ってくるかもしれない、ていどには、ライオンのことを理解しておかないと、きみは生きていけない。


しかし、人間は、みなムダにプライドが高い。自分の考えと違う考え方を聞かされただけで、まるで自分自身まで根幹から否定されたように拒絶する者もいる。だから、虚勢に凝り固まって、心の余裕の無い者は、哲学できない。そうではなく、ほう、そういう考え方をする人も、この世の中にはいるのか、と、自分自身の心、知的世界を拡張していける者だけが、この広大で歴史的な人類の知の世界を楽しむことができる。


とはいえ、実際のところ、哲学者で幸せそうな者は多くない。それは、旅行ばかりしていて、自分の家が無い無限の放浪者に似ている。旅行のように、他人の生活、他人の考え方を知ることは、興味深い。しかし、他人の生活や考え方を知っているだけでは、自分自身は空っぽも同然。若いうちに旅行や哲学でいろいろ見聞を広め、そのうえで、その後には、そのどこかに、もしくは、自分で新たに切り拓いたところに腰を据え、落ち着いて自分自身の生活、自分自身の考え方を実際に作っていかなければならない。


見聞も無しに、若いうちから狭い了見の自分自身に凝り固まると、のちにおおいに悔やむことになるだろう。後になって、なんだ、もっと別の生き方、考え方があったじゃないか、と気付いても、人生は取り返しがつかない。だが、同様に、いつまでもあちこちほっつき歩いて、おもしろおかしくやっているうちに、人生の大半を費やしてしまい、結局、自分自身の居場所すら無い、というのは、あまりに惨めだ。老いて、あのとき決断していれば、と思っても、失った時間は取り戻せはしない。


哲学を学ぶなら、若いうちだ。自分では思いもつかないような生き方、考え方を、まずはできるだけ広く多く集め知ろう。そして、その長所短所をよく検討しておこう。この基礎があった上でこそ、きみは後悔の無い自分自身の道を見つけることができる。早まるな、しかし、タイミングを逃すな。哲学は、恋人探し、家探しと同じ。いろいろ知った上で、ほんとうのチャンスを掴もう。



/新生活、おもしろおかしく、都会で楽しく遊び暮らして、人生をダメにしたいなら、ヤリサー、婚活早取サー、政治宗教サーに入ろう。もしくは、バイトに明け暮れて、ニートに仲間入りしよう。しかし、高い学費をドブに捨て、こういうバカサークル、バカバイトに関わる救いがたいバカ息子、バカ娘なら、事件に巻き込まれる前に、仕送りを打ち切り、早々に田舎に連れ戻した方がいい。/


 さあ、新生活だ。入学式の前からサークルの勧誘がいっぱい。まるで夜の風俗街のAVスカウトのよう。そこで、学校に入って新生活早々、人生をダメにしたい田舎者のために、とってもヤバいサークルの選び方を教えよう。


 おもしろおかしく、楽しく遊び暮らしたいなら、活動目的が明確なサークルは避けよう。囲碁部とか、バトミントン部とか、いかにもつまらなそうじゃないか。合気道やブラバンなど、全国組織があって、全国大会があるようなところも、毎週の練習がとてもしんどい。ましてムダに熱心な顧問教職員がしょっちゅうサークルに顔を出してくるようなところは、監視されているようで、ウザいに決まってる。


 むしろ、斎藤さんだぞぉー、みたいな、ものすごくうさんくさい先輩だけで、なんのサークルだかわからないカタカナ名とか英語三文字名のところは、きっといいぞ。なんでもできて、なんでもやらかし、人生を破滅バラバラ色に染めてくれる。それも、バブルのころの創設で、広告代理店とつながりがあって、なにかボランティアめいた名目を挙げてインターカレッジなイベント(店を借りただけで高額チケットを売る箱屋稼業)とかをよくやっているところは、サカリのついた男の子や女の子の「ヤリサー」として最適。他大学の学生たちともたくさん知り合えるし、ネズミ講式にチケットの上前をはねて、いい「バイト」にもなる。主催者のVIP席にふんぞり返り、タダ酒もいっぱい飲める。法外なチケットを買う頭の悪い子たちも、酔っぱらって記憶も飛んでいるから、簡単に食い逃げ。


 見た目が清楚な田舎のお嬢様で、入った学校の規模が大きくないなら、テニスコートを何面も持っている有名大学の婚活早取りサークルに潜り込むのも、基本的な手。将来有望そうな男を「ゲット」するために、同年代で割り振りを決め、がんがん「体」当たりで「アタック」しよう。ただし、年下狙いの掴み損ね先輩とターゲットが被ると、無いこと無いこと、デタラメなウワサを広められ、サークルはもちろん、自分の学校からさえも叩き出されるので要注意。でも、うまく「体」当たりが成功すれば、どこの馬の骨だかわからないやつをひっかけられる。とはいえ、まともな家柄の男の子は、卒業して就職したら、きみよりもっと家柄のいい子に乗り換えるので、きみは学生時代のいい思い出だけをきれいに残すことができる。


 そういう派手な男女関係は苦手、という人には、政治系・宗教系がお勧めだ。もっとも、これは特別おいしいから、見つけるのも難しい。表向きはボランティアとか、セツルメントとか、憲法勉強会・聖書研究会とか、名乗っている。だが、実際は、そんな難しいことなんかやらないし、先輩もやれない。入部そうそう、大きな旗竿を渡され、顎足付(旅費食費込み)で、日比谷とか、沖縄とか、韓国とか、東南アジアとか、世界一周とか、タダ旅行させてもらえる。おまけに、就職も心配ない。本業がなんだかわからない会社や組織に入れて、結婚相手も当てがってくれ、順番で選挙に出してくれたりもする。こういうサークルをうまく見つけられたら、人生は完全にダメダメの既定路線に乗って、もう地獄の底まで安泰。


 サークルなんか、かったりー、という田舎者は、バイトに明け暮れよう。都会は、田舎と違って時給がいいぞ。それに、うわさに聞く都会のダメダメニートたちと、じかに触れ合える。おまけに、そのうち自分もオーバーワークで学校にも行けなくなって、彼らの仲間入り。だから、その前に深夜まで彼らの様子をよく学んで、人生に希望が無くなっても、絶望せず楽観的に、自信たっぷりに生きていく都会人の生き方を身に着けておこう。


 おもしろおかしく、楽しく遊び暮らしたい人には、もっとも向かない、もっともつまらなそうな新生活も、いちおうは紹介。新生活は、サークルやバイトではなく、学校中心というのが、おそらく「最悪」。とくに「奨学金」という名の、民間よりはるかに取り立てが冷酷非道な借金で学校に通う人は、最初から返済を考えて、節約と勉学、卒業、就職だけに、ひたすら四年の臥薪嘗胆。食事は、朝から晩まで、学食、学食、学食。栄養バランスを考えているから、苦い野菜も山盛りだ。空いた時間さえ、せいぜい図書館で、出たばかりの映画をブルーレイで勉強、勉強、勉強。電算機室で、ヘッドホンを借り、ちょっと怪しいネット映像を見て、世相を学ぶのも大切だ。バイトも、聴力障碍学生のためのノートテイカーとか、オープンキャンパスなどの入試業務補助など、やたら率がいいのを大学の中で探す。これでいったん信用されると、大学の方から嫌でも指名で連絡がくるようになる。うまくいけば、そのまま大学に職員として就職させられてしまうかも。


 学費というバカ高い年間フリーパス。それも年30週だけだから、1日数万円で、そこらのテーマパークや高級ホテルよりはるかに高額。講義にしたって、施設利用を無視すると、単純割りで、おおよそ1コマ6000円。だから、入学早々、いきなりバカサークル、バカバイトに関わって、講義にも出ず、苦労して工面した学費や奨学金をドブに捨てるような救いがたく頭の悪い、世間知らずのおぼっちゃま、おじょうちゃまなら、世に名を馳せるような事件に巻き込まれ、ネットに名前や写真が出て、田舎でも後ろ指をさされ、一生が取り返しがつかなくなる前に、いますぐ仕送りを打ち切り、家に連れ戻した方がいい。


/大学の単位は、どこでも、文科省の2/3ルールが徹底されている。半期10回以上の出席が無い、自分で受講放棄した者は、「不合格」以前の「評点対象外」。後から泣きつこうと、成績の付けようがない。にもかかわらず、むちゃな単位要求をすると、その記録がすべて残り、本人はもちろん親まで破滅しかねない。これから学生になる諸君は、初回から試験まで、出席だけはきちんと整えておこう。/


 この業界にいると、例年、この時期、いろいろなウワサがあちこちの大学から聞こえてくる。そのひとつが、土下座卒業。教授に泣きついて無理やり単位をもらって卒業した、とかいう話。


 たいてい語学や教養の単位だ。ふつうは1、2年のうちに取っているべき話なのに、4年にもなってまだ取り残していて、そのくせ、自分ではかってに「卒業見込」と決め込んで就職活動。めでたく内定もいただき、とっととアパートも引き払って、新居への引っ越しを終え、海外へ友達(彼氏彼女?)と卒業旅行。ところが、帰国すると、大学から留年通知。それであわてて親まで出てきて、むちゃくちゃな強訴をやらかす。自分の側の既成事実を言い立てて、いまさら、その責任を取れるのか、とかいう、どこかの学校創設申請者と同じ論法。


 土下座でもなんでもするから、お許しを、などと、言われても、そもそも語学や教養なんて、いまどきたいてい選択だから、ほかの科目で単位を取れば足りるので、最初に登録しても途中で放り出す学生は珍しくもない。だから、受講放棄を謝られる筋合いではないし、謝ったからといって、事実として受講していない以上、では単位をあげよう、などとはならない。


 昔からどこの大学でも2/3ルールというのが学則で決められていて、これが2006年の文科省の通達で、あらてめて厳守徹底された。半期15回の講義のうち、10回以上の出席が無い者は、「不合格」以前の「評点対象外」。つまり、講義登録自体に「Z」が付いて、点数は空欄。ここに「Z」がついている以上、後から点数を水増するとかしないとかの話ではない。大学によっては、4年生の「不合格」には「再試験」の救済制度があるところもあるが、それは、あくまで点数不足の「不合格」だけが対象。出席不足の「評点対象外」は、本人の受講放棄であって、「不合格」ですらないので、再試験も対象外。


 しかし、学生は、就職活動をしていたのだから出席扱いに、とか言い出す。企業が出す書類は、せいぜい「事由証明」であって、それがむしろ講義の欠席を証明してしまっている以上、それで講義を出席扱いになどできるわけがない。カゼやケガの「診断書」を持って来ても、これも学校保健安全法に規定されている「学校感染症」(結核など)でないと無意味。その学校感染症であっても、病欠が出席になるわけではなく、総講義数の方を減らして2/3ルールを適用するので、かえって出席数の縛りが厳しくなる。出席なんて、物理的な事実問題であって、同じ教室にいた他の学生たちも知っている。その事実を教員が温情で恣意的に改竄したりすれば、封筒だ、マクラだ、などと、教員の方があらぬ疑いを掛けられるだけ。とりあうバカは、いない。


 それでも、親が大学に乗り込んできて強訴、なんていう話も聞く。遠路はるばる出てきたのだから、とか、わけのわからない理由で、どうか、よしなに、とか。これが通らないと、逆ギレ。大学を信頼してきたのに、とか、大学は学生の人生を破滅させるのか、とか。さらには、訴えてやる、マスコミに言いふらしてやる、そして、最後は、本人から家族まで、死ぬ、死ぬ、死んだら大学のせいだ、と暴れ騒ぐ。まるでヤクザ。


 ところが、大学によっては、専門課程の主任だの、学部長だの、もっと偉い人まで出てきて、まあ、そこはなんとか、ねぇ、きみ、とか言い出すのだとか。とくに体育会の学生は、ヤクザそのもののOBまで顔を出し、夜道には気をつけろよ、というような話になることも。こうなると、教員の方が精神的に追い詰められ、「私が間違えました、ごめんなさい」というような顛末書、さらには学生や親に対する詫び状まで書かされて、成績修正。もちろん、発覚したときには、教員一人が尻尾切りだろうが。


 とはいえ、昔とは時代が違う。組織では、書類はすべてコピーを取るし、メールなどの電子データも残こす。大学でも、教員でも、一般企業同様、いまどき録音録画もせずに、きわどい話に関わったりしない。密室でごちゃごちゃやっても、後でかならず表沙汰になる。出席をごまかし、単位をもらって、不正に「卒業」したことだけでなく、そのごまかしをするためにやらかした強引なことも、ぜんぶ出てくる。昇進だ、結婚だ、というときに、そんな話がどこかからぶりかえせば、文字通り、本人は、人生、おしまい。むちゃをした親も職を失う。兄弟姉妹まで経歴に疑いをかけられる。


 これから、学生になる諸君。愚かなユトリ先輩たちの轍を踏まぬよう、なにはどうあれ、講義の出席だけは、初回から試験まで、まじめにきちんと整えておこう。ムリをすれば、そのしっぺ返しの方が大きいことくらい、学生としてよく理解し、誠実正直が一番と心得ておこう。土下座卒業など、頭のぬるい学生たちの間だけの、ただの伝説。そんなものは無い。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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/産業革命は、実際に機械を作るために必要な規格品互換ネジが大量生産されてこそ始まった。それで、ネジは「産業の塩」と呼ばれるが、長年の惰性や、材質の勉強不足、製造や修理の途中の工程に対する理解不足で、いま、かえってトラブルの元凶となってしまっている。/


産業革命を実現したのは、水力でも、蒸気でもない。ネジだ。機械は、頭の中でなら、なんとでもできる。だが、実際にそれを作るには、部品と部品をつなぐネジが不可欠。1800年、ロンドンの機械職人モーズリーがネジ切り旋盤を開発。これによって、互換性のある規格品としてのボルトとナットが大量生産され、こうして、実際にさまざまな機械が組み立てられるようになって、現実の産業革命を引き起こすことができた。


 車一台二万本。トースターやパソコンから橋梁、原発まで、ネジだらけ。ネジがなければ、始まらない。それで、ネジは「産業の塩」と呼ばれる。しかし、あまりに当たり前になっていて、ムダ遣い、デタラメ遣いも多い。


 まず、ほんとうにそのネジは必要か? 1本を締めるのに、ネジを取って、ネジ穴か、ドライバーの先端につけ、これを適切なところまで、適切なトルク(強さ)で、締め上げなけばならない。手間は、コストだ。フレームの片側を引っかけにすれば、ネジは反対側だけで済む。これで、手間は減るし、強度も上がる。


 つぎに、ほんとうにそのネジは適切か? たとえば、2つハンドルの洗面蛇口。樹脂のハンドルは、スピンドルの溝にはまっている。そして、そのハンドルをスピンドルに取り付けしているネジ。ハンドルを上に引き抜く力がかかることは、まずありえない。にもかかわらず、このネジの長さが、ムダに24ミリもあるのだ。図面を書いたやつがバカで、現場のことをなにも考えていなかったとしか思えない。ムダに長ければ、締めるのも、緩めるのも、ムダに手間がかかる。おまけに、折れたり、固着したり、トラブルの元凶。


 そして、ほんとうにそのネジで大丈夫か? 最近、うちの木のイスのネジが折れた。折れた頭を抜くのに、ものすごい手間がかかった。材質は、なんとステンレス。これも、企画したやつがバカ。ステンレスは、たしかに直接には鉄より固いが、粘りがない、膨張する、ウケと材質が違うと、ステンレスでもネジは意外に半端に錆びて自滅的に折れる、等の問題もある。どうしてもぐらつきをくらわざるをえないイスなら、素朴な鉄ネジの方が始末がよかったはず。だから、強度と耐久性とのかねあいで、木工や住宅などでは、あえて表面が錆びる鉄釘を使うことも多い。


 2012年の笹子トンネル天井板落下事故も、1本だけのボルトを真上向きに接着剤で止めてあるだけ、などという杜撰な設計ミスが最大の原因。現場では、こんなんでいいのか、と思っても、図面通りにやるのが仕事。本社に余計なことを言ういとまも無い。だが、設計の方にしても、長年の惰性で、昔からの規格がなんとなく引き継がれていたり、材質の勉強不足のままにデタラメな図面を起こしたり、実際の製造や修理の途中の工程を考えずに、出来上がりだけが立派な絵図を引いたり。


 組織としても、設計と現場を繋ぐ「ネジ」が劣化している。製造や修理の現場からのフィードバックをきちんとすれば、根本から設計思想を改善できるものは、我々の身近にかなり多い。サービスやコミュニケーションでも同様。ネジを、書類や連絡、会議に置き換えてみれば、よくわかる。いまだに紙で会議書類をプリントアウトして綴じて配って回収したり、緊急の伝言メモを帰社して机につくまで読めなかったり、わけのわからない掛け声だけでデタラメの決算書類を大量に捏ち上げていたり。


 その書類、その連絡、その会議、ほんとうに必要? ほんとうに適切? ほんとうに大丈夫? 産業革命から二百年。ネジも、組織も、劣化してきている。とくに日本は、惰性がひどい。天井板が落ちてくる前に、ネジを見直し、締め直そう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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/アスペルガー症候群は、専門的には、もはや疾病学的妥当性が疑われている。にもかかわらず、ドシロウトがそんなもっともらしいレッテルを持ち出してきて、自分たちに同調しない連中を排除しようとする方が、精神的な問題を伺わせる。しかし、良い大学に行けば、「みにくいアヒルの子」の話と同じように、ほんとうの仲間に出会うことができる。/


 大学はいいぞ。良い大学にいけば、ようやくそこにほんとうの仲間がいる。バカな連中とバカな遊びにヘラヘラとつきあわなくてもよくなる。自分がおもしろいと思っていたことを、いっしょに語り合い、分かち合える友達がいる。童話の「みにくいアヒルの子」と同じ。だから、もうひとがんばり、絶対に自分に合った良い大学に進むべきだ。


 それを、昨今、嫉妬なんだか、羨望なんだか、頭が良くて、つきあいが悪い、というだけで、「アスペ」だなんだとうるさいやつらがいる。だが、ドシロウトのくせに、特定の人々に「アスペ」などというもっともらしい医学用語を濫用してレッテル貼りをし、「異常者」として排除したがる者の方が、むしろ自己形成不全の重大な人格障害の病的気質があるのではないか。


 「アスペルガー症候群」というのは、ウィーン大学病院の小児科医ハンス・アスペルガーが1938年以前から取り組んでいた4人の児童の症例研究に因むもので、彼が着目したのは、高度知性、共感欠如、友情不能、身振や言語の障害、特定関心の熱中、運動障害、自己中心性、感情的な不調・不安・無関心であり、彼自身はこれを「自閉的精神病質」と呼んでいる。とはいえ、当時、まだ「自閉症」の独自概念が確立されておらず、それは外的刺激に反応を欠く「統合失調」の結果と見なされていた。


 だが、最新のWHOのICD-10(疾病国際統計分類第10版)では、F84.5で、「アスペルガー症候群」は、そもそも、疾病学的妥当性が不確かな「病気」、つまり、それが病気なのかどうかもはや怪しい、とされている。これまで、自閉症を特徴付ける相互社会関係の質的異常で、関心と行動のレパートリーが制約的で固定的、反復的、だが、自閉症と違って言語や認識の発達に遅れが無い、とされてきたが、アスペが例外である以前に、自閉症は一般に知性が低い、という決めつけの方が、検査方法論として大きく疑われている。口がきけない者は、視力検査にうまく答えられないが、だからといって、目が見えていないとはかぎらないのと同じ。このため、同様に、米国精神医学会のDSM-5development(精神障害の診断と統計のマニュアル第5版改訂作業)においても、299.80の「アスペルガー障害」は、独立の病名ではなく、もはや自閉的障害の下位に位置づけることが提案されている。


 つまり、「アスペルガー症候群」なる病名は、昨今、やたら通俗的に濫用されているものの、専門的には先天器質性の自閉症の一種の様態としてかなり限定して考えるべきものだ、ということ。東大に来る連中のなかには、たしかに狭義の自閉症や多動症などもいないではないが、その大半はむしろ幼少から幸運な文化環境に恵まれ、そのおもしろさを知ってしまい、ひたすら努力で自分を磨いて上ってきた連中。「発達障害」どころか、むだに「発達」しすぎて、あっち側まで行ってしまった、という方が的を射ているだろう。(「発達障害」というのは、もとより、低年齢に症状が発現する、というだけのことで、発達過程に障害がある、という意味ではない。)


 たしかに頭が良い連中ほど、世間のつきあいが悪い。だが、それは、連中は、ふつうの人にはわからない複雑で高度な文化領域に楽しみを持っており、そっちの方がおもしろいのだから、世間の安っぽい話になど、はなから関心が無いからだ。つまり、つきあいが悪い、関心が無いのは、そういう安っぽい話しかしない世間に対してだからこそであって、相応の文化領域を共有できるそれなりの相手であれば、昵懇に語り合うこともあるもの。ただ、その文化領域に至るには、相応の精神的な努力が必要で、そういう努力もしない、する気も無い連中に、そのおもしろさを語っても仕方が無い。だから、ハブっているだけ。


 ようするに、「気違い」というのは、たんに「気」が違う、世界が違う。しかし、違う、というのは、お互いさま。どっちが正しいか、なんて、どっちにも決められまい。自分たちの方の気に合わせろ、おれたちの空気を読んで溶け込め、という「ピアプレッシャー(同調圧力)」が、自分たちとは異質の「気」を持つ者を「気違い」とし、それに応じない者を「狂人」として排除する。それでわざわざ排除されるのも面倒くさいから、少数派は自分から先に「風狂」として世捨て人になって俗世を離れて静かに暮らしているんで、大学はそういうところ。それをまた「アスペ」だなんだと引き戻されても、迷惑なだけ。


 きょうび、器質性の自閉症ですら、幅の大きな「スペクトラム」として理解され、たんなる社会適応の問題として、むりやり一般の人々と同じくらい「鈍感」にする「治療」よりも、過敏でも無理なく不安なく暮らして、そのままの自分を生かせる生活の環境と条件の整備の方に重点が置かれている。ごちゃごちゃがちゃがちゃした生活に向いていて、そういうのが好きで得意な人がいるのと同じように、そういうのがイヤ、大嫌い、という人だっている、というだけのこと。酒が苦手、というのと大差無い。下戸に無理強いして酒を飲ませようとするやつが、対人認識と関係構築に大きな病的欠陥のある加虐志向の社会的人格異常者であるように、なんでもかんでも自分と同じでないと気が済まない方が、精神的にどうかしている。


 その意味では、なにより現代のマスコミがいちばん自己中心的で「狂って」いる。人に安酒の一気飲みを強要するタチの悪い酔っ払いのようだ。ヒラリーを応援し、トランプをちゃかし、神ってる広島の勝敗に一喜一憂、ポケモンGoを初日にダウンロードして、『君の名は。』に涙しながら、パイナポー、う、あぁ、とマネしつつ、両手の指を立てて恋いダンスを踊っていないと、それは社会的協調性に欠けるアスペの「精神異常者」だと。日々垂れ流しのくっだらない話題をへらへらと追っていないと、もう「気違い」扱い。ちょっとつきあいを断っただけで、完全に「病気」。


それなら、まあ、「病欠」ということで、よしなに、なんて、言ってられるのが、大学。いいぞ、大学は。良い大学に入ってさえしまえば、あとは「変人」の「気違い」ということで、どうでもいい多くの世間のつきあいの面倒から免れ、信頼できるほんとうの友人たちにだけ心を開いて、親しく過ごすことができるようになる。さあ、もうひとがんばりだ。春には、ほんとうの友人たちが待っている大学に行こう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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/クリスマスは、イエスさまの誕生日。世界中の子どもたちも、きょう、みな祝福される。そして、天国に生まれ暮らす子どもたちも。/

 あなた、そろそろ予約、取りに行かないと。ああ、三時か。先払いしてあるんだっけ? ええ、先週。どうだった、店長? どうだったって? いや、元気かな、と思ってね、ほら、この時期になると、いろいろ思い出すだろ。あ、そうか、話してなかったかな、キヨコちゃん、店にいたわよ。え、どういうこと? さぁ。でも、とにかく店長、ニッコニコよ。へぇ、そうなの? おっきくなってたわよ。すっごくかわいくなってて。そりゃそうだろ、あれから十年だろ。そろそろ高校も卒業かな。ええ、そうね。



 こんにちわ。あ、いらしゃいませ。いらっしゃいませ。え、なに、ほんとだ、キヨコちゃん? おじさん、おばさん、お久しぶりです。わぁ、元気そうだね。ええ、お二人も。おかげさまで。それより、ねぇ、キヨコちゃん、これ、どういうことなの? いや、うちの娘、先月からこっちに帰ってきたんですよ。わたし、春から製菓学校に通うんです。お父さんの跡を継ぐの? はい。店長、よかったじゃない? いや、帰ってきただけでもびっくりなのに、はあ……。あらあら、お父さん、デレデレね。


 ずいぶん私たちも心配していたんだよ。あのとき、突然いなくなっちゃったからねぇ。……そうですよね、あんなにおじさん、おばさんには、よくしてもらっていたのに。あんな人のところに連れてかれるくらいだったら、おじさんとおばさんのところに行けばよかった……。そうだよ、うちに逃げて来ればよかったんだよ。


 だけど、キヨコちゃん、あっちはどうなの? だいじょうぶなの? あの人ですか? あいかわらずですよ。今日だって買い物。お正月はハワイですって。へぇ、いっしょに行かなくていいの? もう、イヤなんですよ。あんな風には、絶対なりたくないんです。……。あんなバブルな人生、幸せだと思います? ああ、とにかく資産家だそうだからねぇ。だけど、お金があったって、あっちの家、ほかになんにも無いんですよ。デパートで買ったとかいう高級料亭のお総菜、毎日、そんなのばっかり。お父さんが心を込めて作っているケーキのほうがずっとすてきです。おいおい、ほら、店長、もう真っ赤だよ。やめなさいよ、泣いちゃいそうでしょ。あー、奥へ隠れちゃった。


 だけど、あのときは、びっくりしたよ。クリスマスなのに店、閉めちゃって、店長、中でわんわん泣いてたんだよ。……お母さん、お店の方のおカネまで使い込んでたんでしょ。いや、そうじゃないよ、キヨコちゃんが連れて行かれた、って。……わたし、あの人に騙されたんです、お父さんが浮気した、って。子どもだって、よく考えればわかったのに。毎日、毎日、朝早くから仕込みして、ケーキを作って並べて自分で売って、余計なことなんかしているヒマ、あるわけないのに。ほんとは浮気したの、お母さんの方だったんでしょ? それでお店のおカネまで持ち出して、開き直って、逆にお父さんのこと、怒鳴り散らしたんでしょ。それくらい、もうわたしだってわかりますよ。


 ……とにかくよかった、キヨコちゃんが帰ってきて。ほんと、すみません、ずっと御連絡もできずに。高校は? もうすこしだから、こっちから通うことにしました。じゃ、これからずっとここにいられるんだ。ええ、お父さんの店でさっそく修業です。そうか、じゃ、おじさんたち、毎日、様子を見に来ちゃうよ。はい、お待ちしていまーす。


 キヨコちゃんも、よかったら、また前みたいにうちにも遊びに来てね、すぐ近くなんだから。ええ、ぜひ。昔、キヨコちゃんがうちで遊んでいたオモチャなんかも、ぜんぶ取ってあるのよ。えー、そうなんですか? なんだかいつもおじさんおばさんのところにおじゃましてばかりいましたもんね。お父さんは毎日、お店が忙しかったし、あの人はいつもどこか遊びに行って留守ばっかりだったから。いや、いいんだよ、ほら、うちはずっと夫婦二人っきりだから、キヨコちゃんがくるとにぎやかになって、ほんと楽しいんだ。ええ、そうなの、だから、キヨコちゃん、また来てね。いや、ほんと、キヨコちゃんが帰ってきてくれて、うれしいよ。なによ、あなた、真っ赤になって泣きそうじゃない? こ、こら、からかうなよ……。



 きよこ、これを。あ、はい。ご予約のケーキ、これですよね。そう、これ。えーと、ロウソクは? いや、きよこ、いいんだ。え? ええ、いらないのよ、キヨコちゃん。でも、小さいのだったら、サービスで何本でもおつけしますよ。ほら、ほかにも、この季節、こんなかわいいサンタのロウソクとか、ツリーのロウソクとかもあるんです。きよこ、早く手提げに入れて、山村さんちはロウソクはいらないんだ。 ? ……ええ、うちは、毎年、いらないのよ、クリスマスケーキじゃないから。 ??? きよこ、もうやめなさい! ……あのね、一歳にもならなかったからよ。えっ? あいつ、生まれる前に死んだんだ、死産だったんだよ。……ご、ごめんなさい、わたし、すみません……


 気にしないで、あの子、天国に行くのがちょっと早すぎただけだから。ああ、でも、なにも天国に直行しなくたってよかったのになぁ。ええ、それもなにもこんな日にね……。ちゃんとこっちの世界にも立ち寄ってくれていたら、キヨコちゃんと同級生だったはずなんだけどなぁ。……そうだったんですか。


 きよこ! 店長、いいじゃない、キヨコちゃん、知らなかったんだから。まあ、うちに遊びに来てくれていたころには、キヨコちゃんもまだ小さくて、話すのはどうかと思ったけれど、ほんと、あのころのキヨコちゃんは、じつの娘のようにかわいくて、かわいくてなぁ。あら、いまだって、キヨコちゃん、かわいいじゃない? ああ、じつの娘が帰ってきてくれたようにうれしいよ。あなた、泣いちゃダメよ。


 ……なんていう名前だったんですか? え、あの子か、……ほしこ、だ。……あのとき、そんな名前しか思いつかなかったんだよ。そう、ほしこ。きょうは、あの子が星になった誕生日。……じゃあ、たぶん、きっと天国の方で元気にやっていますよ。……ええ、そうね、きっと。ああ、そうだね。


 あの……、きょう、店が終わったら、ちょっと遅くなるかもしれないけれど、遊びに行ってもいいですか。うちに、キヨコちゃんが来てくれる? そりゃ、大歓迎だよ。だけど、ここ数日、疲れているだろうし、お父さんだって……。ね、お父さん、いっしょに行きましょ。え? あ、うん、でも、ほんとにいいんですか? そうそう、店長もいっしょにぜひ。そうだよ、前から誘おうと思っていたんだ。私たち夫婦だけじゃ、毎年、料理も余ってしまうし、なんだかしんみりしてしまうからねぇ。


 それと、あと、やっぱりケーキにロウソク、つけませんか? 18本、ほしこちゃんのために。……そうか、天国で18歳か。ええ、そういうことになるわね。……じゃあ、キヨコちゃん、代理で吹き消すのやってくれる? いいですよ、そのかわり、その前に、みんなでハッピーバースデーも歌ってくださいね。え? クリスマスにかい? あなた、いいじゃないの、クリスマスって、もともとイエスさまの誕生日なんでしょ。ああ、そうだったね。


去年のクリスマスのお話 「クリスマスの夜、サービスエリアで」

2014年のクリスマスのお話 「なぜサンタは太っているのか」

2013年のクリスマスのお話 「最後のクリスマスプレゼント」

2012年のクリスマスのお話 「サンタはきっとどこかにいると思うんだ」


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/人権は、『世界人権宣言』で決議された達成すべき努力目標。しかし、権利は国や他人の義務によってしか実現しない。おまけに、人権論の根底には、市民権論、実定法論、自然権論の違いがあり、くわえて、現代社会はもはや自由や平等の調整の余地を失ってしまっており、簡単な問題ではない。/


 人権週間だ。だが、人権って? 人それぞれ、なんて、もっともらしいことを言って茶を濁す? 答えは『世界人権宣言』として、1948年12月10日に国連で決議されている。それにちなみ、毎年12月10日が「世界人権デー」。そして、この宣言、全30条に書かれているものが「人権」。とはいえ、わりとぐちゃぐちゃな構成で、反差別と生命の安全に始まり、奴隷・残虐・無法・干渉の禁止、所有・信仰・表現・交流・結社・選職・移動移住・結婚家族の自由、保護・教育を求める権利など。休息する自由、なんていうのもある。さらには、参政権や著作権も含む。一言(二言?)でいうと、第一条に記されている「自由と平等」。フリーメイソンの三信条から「博愛」が落ちたもの。それが「人権」。


 てなことを言ったって、世界を見てのとおり、そんなのがうまく実現できているわけじゃない。あくまでも達成すべき努力目標。なんで簡単に実現できないのか、というと、これが人権、つまり権利だから。権利や義務というのは、モノではなく社会的な規範で、それも権利は、本人の側に本質が無い。国や他人が義務を果たすことによってのみ、権利は外側から実現する。つまり、もともと本人自身でどうこうできるものではない。しかし、国や他人は、わざわざ進んで義務を負って、他人の権利を実現してやろう、なんて、面倒くさいことをしたがらない。それどころか、したくない動機ばかりが大いにある。


 人権は、米国独立戦争においてすでにいわゆる「人権宣言」(1776)としてすでに表明されているが、その後のフランス革命とナポレオン戦争で、各国各地のメイソンリー諸団体同士がぐちゃぐちゃにあい争って、逆に王政復古。それが1830年代にようやく再結成してきて、人権が現代社会の理想目標として掲げられることになる。


 この人権、歴史的には、三つの理論で進展してきた。第一は、市民権。国や他人から人権を与えてもらいたいならば、まず自分が国や他人に兵役や納税などで参加協力しないといけない、というもの。つまり、双方向義務だ。親が義務を果たしていれば、子は最初から自動的に自由で平等な人権が与えられるが、それでも、古代ローマから現代合衆国まで、その義務はかなり重く、あえて離脱したい、という人もいる。この理論の特徴は、自分が義務を果たさないと、人権も失う、ということ。反逆者や犯罪者に人権なんか無い、死刑、それどころか、即時射殺も当然だ、という考えは、この発想。そうでなくても、市民権を持つ者と持たない移民、市民権を苦労して新規に得たにしても劣等市民扱い、と、この発想は、かえって差別の温床になってしまっている。


 第二は、実定法。『マグナカルタ』(1215)、『権利の章典』(1688)、さらには『ナポレオン法典』(1804)などの刑法や民法、訴訟法、徴税法の体系。これは、国や他人の好き勝手な自由を法律で制限することによって、実質的に人権の余地を開けるもの。言わば、外堀を固めて、中に自由と平等を確保する。たとえば、人を殺したり、傷つけたりしてはいけない、と法律が国や他人に義務づけることによって、実質的に生命の安全が守られている。しかし、これは、もとよりむしろ国や他人の自由を制限するもので、そのせいで、実定法化されていない、罰則の無いことなら、どんなズルいこと、どんなをヒドいことをやっても自由にいいんだ、などとと考える連中を多く生み出してしまう。


 第三は、自然法。引力万有のごとく、すべての人間は生まれながらに天賦の人権を持つ、という考え。最初のホッブズ(1651)は、万人が自分の人権を主張すると、万人の万人に対する闘争に陥ってしまう、とし、それゆえ、各自が自分の人権の一部を抑制割譲して、社会理性(均衡配慮)としての国を社会契約として作った、とする。この発想では、国は闘争の防止解決のみを消極的に委託されているにすぎなかった。ところが、その後、人権の実現拡大という積極的な役割まで国に期待する人々も出て来て、パレート最適化(再配分によって既得権者を不利益にせず、別の者の利益を捻出する)、さらには自然の不自由や不平等の解消さえも求めるようになり、どんどんと自由を制限する実定法を増やそうとする。このため、同じ自然法人権論の中でも、小さな政府による自由主義、と、大きな政府による平等主義、が争うことに。


 現代の人権問題の困難は、ひとつには、第一の双方向義務の市民権人権論と第三の一方的要求の自然法人権論が原理的に真逆で相容れないこと。たとえば、大量殺戮兵器を準備しようとするテロリストなどのように、他人の生命の権利まで侵害しようとしているやつは、第一の市民権人権論からすれば、保護の対象ではなく、むしろ「人権の敵」として国や市民を挙げて抹殺すべき対象、ということになる。が、自然法人権論からすれば、テロリストであろうと人間であり、確たる犯罪の実行、準備の証拠も無しに、また、しかるべき公判手続も無しに、容疑のみで殺すことは許されない。


 もうひとつには、不自由や不平等は人権侵害のせいとは限らない、ということ。身体の障害、病災害など、運の不平等。いくら実定法で国や他人による人権侵害を抑制しても、この問題は解決しない。しかし、市民権人権論に基づくせよ、自然法人権論に基づくせよ、国や他人は、自分たちのせいでもないのに、これを平均水準まで補填してやらないといけない義務を負うのか。しかし、たとえば、平均以下ながら自力で苦労して生活を成り立たせている人々からも税金を取り立て、無力な人々の生活を平均まで生活保護で引き上げてやるのは、公正か。国庫は無尽蔵の財布ではなく、だれかの生活向上は、ほとんどの場合、だれかの負担増によって賄われている。これは、むしろ国を介した人権侵害ではないのか。そんなことまで政府に委任した覚えは無い、と、今日、米国のティーパーティを初めとして、同じ自然法人権派から、人権を口実にむやみになんにでも介入してくる国にノーを言う動きが出て来ている。


 さらにまた、個人のレベルでも、近年、実定法人権論をはるかに越えて、自然法人権論が爆発的に肥大し、あちこちで摩擦を生じている。たとえば、まずい店の口コミは名誉毀損か。ブサキモに酌をしないのは人種差別か。まずいものはまずい、いやなやつはいや。そんな表現の自由、心情の自由にまで、人権を理由に人権侵害されないといけないのか。どちらの側もとりあえず、人権問題だ、と大声で喚き散らせば、相手がひるむ。それに付け込んで、他人の人権を踏みにじってでも自分の好き勝手を拡大するのは、まさに万人の万人に対する闘争。


 人権を大切にしよう。それはそうだ。しかし、そんなきれいごとを口先で唱えるだけで、やり過ごせるほど簡単な問題ではない。これだけ世界が狭くなり、あちこち人間が接しあって暮らしている以上、自由だ、平等だ、と言っても、調整できる余地は、ほとんど残されていない。だれがか動けば、だれかを傷つけてしまう。だが、自分だって傷つけられたままでいたくないから、アクションを起こし、それがまた別の人権問題を引き起こす。殺生して肉を食べているように、それどころか空気を吸うように、我々は、日頃、あらゆることでなんらかの人権侵害をやらかしてしまっていると思った方がいい。他人の自由と平等のための余地をより広く空けてあげられるように、せめてむだに他人の人権を侵害していたりすることがないように、この一週間、身の回り、毎日のことを見直してみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/すべては就職のため。企業に評価されそうな科目を取って、縁故ができそうな課外活動をして、四年間という時間、高額の学費と生活費を無駄にしないように。大学の自由は、むしろ、自己責任で、自分の将来の夢と生活に向けて最善の選択をしなければならない、という義務だ。/


 大学に何しに行くの? 学問を究めるため、なんていうのは変わり者。ふつうは、卒業後に就職して、喰いっぱぐれないように、でしょ。高い学費も、生活費の仕送りも、すべて、そのための先行投資でしょ。


 大学になると、自分で講義を選択する。で、なんで最初から楽勝科目ばっか狙ってるのよ。そりゃ、もちろん単位を落としてしまったんじゃ話にならない。でも、いくら単位を取っても、卒業しただけ、っていうんじゃ、どうしようもないんじゃない? 大学の成績表って、企業に行くんだぜ。それも、就活が3年の終わりからとなると、まだ3年の成績は出揃っていないから、むしろ1,2年の一般教養の成績こそが問われる。そこで、そんな妙な科目ばかり取っていて、それで企業が君を取ってくれるか? それじゃ、喰いっぱぐれるよ。


 なんかよくわからない新書みたいなカタカナ名前の講義ばっかり取って、それが、優、だったって、なんだかなぁ、と思われるだけ。たとえば、同じ一般教養でも、「リクレーション入門」と「国際経済学概論」だったら、どうよ? リクレーションなんて、わざわざ大学で高い学費払って習うことか? というのが、企業の反応。実際になにをやるかはともかく、どうせなら、昔からあるような、硬そうな講義、漢字ばかりが並んでるようなやつの方が、成績表も見栄えがいい。


 それから、社会活動家とか、政治家になるのならともかく、そうでないなら、正直なところ、ややこしそうなの、ばかりだと、ふつうの企業からは敬遠されると思う。たとえば、同じ漢字ばかりでも「人間権利論」や「組合闘争史」みたいなのだらけだと、うわぁ、すごいですね、ということになる。同様に、右でも、左でも、テレビで吠えているようなバリバリの攻撃的活動家教授に関わったりすると、別に本人はそんなつもりが無かったとしても、世間ではその一派と見なされ、就職で苦労する。


 部活やサークルも就職前提で考えるべきだ。趣味は趣味。自分がいくら熱心にまともな活動をしていたとしても、趣味のサークルなど、企業の印象は概して悪い。スポーツ愛好会なんてどこも、スーフリ同然のちゃらいヤリサーとしか思われていない。まして、パーティの箱屋稼業でカネ集めしている国際ボランティアサークルみたいなのになると、いよいよ、うさんくさい。かといって、オタクだ、コスプレだ、なんていうのも、本人たちが思っているほど、また、マスコミが持ち上げるほど、企業側も好印象などということは絶対にない。意識低い系の吹き溜まりで、同類が傷を舐めあっているだけ。


 わざわざ大学で課外活動する以上、歴史的な大学横断組織がしっかりしているところに所属し、幹事や渉外なども進んで引き受け、年配のOBやOGの社会人とも交流し、広く縁故を得る、というのが、就職の王道。野球とか、サッカーとか、ラグビーとか、一般的なチームプレイの体育会系は、たとえ弱小でも、テニスやゴルフなどより、はるかに好印象。マスコミ志望なら、最初から、放送研、広告研などに入るのが当然。工学系なら、ソーラーカーや人力飛行機、ロボコンみたいなのもいいだろう。


 アルバイトも、そうだ。報酬が目当てなら、夜の仕事の方が高いに決まっている。だが、それで学業に差し支え、留年したのでは、元も子も無い。むしろ、たとえ報酬が安くても、それどころか、ボランティアや持ち出しでも、将来の仕事につながるアルバイトをすべきだ。たとえば、ミニコミ誌でも手伝えば、出版の基礎がわかる。選挙の手伝いをして政治家を目ざすのもいい。絵本の読み聞かせのボランティアで、自治体の人とつながりを作る手もある。


 大学は、自由だ。しかし、それは同時に、自己責任、ということでもある。なんでそんな妙な科目ばかり取っちゃったの、どうしてそんな変なサークルに入っちゃったの、と、就職の面接で聞かれて、自分に恥じるところがないのなら、それもまたいい。だが、だからといって、企業もまた、自分と同じような好評価をしてくれる、などとは思わない方がいい。もちろん企業の中にも理解のある人はいる。が、仕事として面接する以上、自分の個人的な理解ではなく、社会一般の「常識」で判断する。そのとき、君がはじかれてしまうようなことを大学でやるのなら、それはそれで自己責任だ。


 大学の自由は、好き勝手に、おもしろおかしく過ごしてよい、ということではない。むしろ、自己責任で、自分の将来の夢と生活に向けて最善の選択をしなければならない、という義務だ。四年間という時間、その間の高額の学費や生活費を、けして無駄にしてはならない。なにをするにも、目先の損得、好き嫌いではなく、それで将来、大きく元が取れるか、取り返せるのか、よく考えて、慎重に一歩を踏み出そう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。

/正面二列目で待つ。姿勢よく、だれにでも笑顔で会釈。声はゆっくりしっかり、むしろ聴き役に。手帳とペンで、メモを取るふり。スマホより腕時計。ご近所でもあいさつ。そして、今日一日のことをよく書き留めておこう。いつか思い出すことが必要になる。/


 さあ始まりだ。試験のときは、あんなに気が張っていたのに、初日からもう気が重い? でも、入ったら終わり、じゃない。これからが始まりだ。もう夢じゃない。現実。だから、おそらく失望と幻滅だらけ。でも、それに文句をつけて拗ねる、なんて、幼稚なことはやってもムダ。だれも機嫌取りなんかしてくれない。もう大人なんだから、自分でどうにかしないと。


 最初でもっとも肝心なのは、朝、行って座って待つ場所。とりあえず、なんて、出入り口に近いところにいると、ずっと使いっ走りだぞ。むしろ、これからは毎日が抜き打ちの面接試験。まずは意欲を示すべく、正面二列目あたりへ。最前列だと挑戦的だと思われる。出る釘は打たれる、というのも、大人の常識。二番目あたりでちょうどいい。そこに座っていれば、ほっておいても、同じ程度に意欲をもって常識をわきまえた友人同僚ができる。恐ろしいことに、この友人や同僚こそが、これからの君の一生を決める。


 もちろん、第一印象が大切。ショーンKじゃないが、世の中、見た目が7割、声が3割。中身なんか、黙って立ってるだけなら、だれもわからないし、もともと人間、そんなに差があるものじゃない。運よく美男美女なら最高。そうでないとしても、姿勢が大切。猫背だったり、ポケットに片手を突っ込んでスマホ弄りだったり、かっこいいわけがない。まっすぐ立って、背筋を伸ばし、顔をあげ、いつでも声をかけてもらえるように、明るい笑顔で、とりあえずだれにでもニコッと会釈しておけ。どうせ右も左もわからない新人なんだから、ちょっとバカっぽいくらいでちょうどいい。


 次は、声だ。緊張して裏返ったり、早口になったりする必要はない。もう君は中に入ったのだ。余計な売り込みも不要。下手にウケを狙うと、場違いで確実に滑るぞ。それは、夜の歓迎会になってからでいい。どうせ形式だけの自己紹介なんだから、長話も迷惑。必要最小限のことを、ゆっくりしっかり語って、よろしくお願いします、と深く頭を下げるだけで十分。後は、暇を見て、向こうからいろいろ聞いてくる。そのときも、ペラペラ饒舌に話すことはない。新生活は、これからが長い。むしろ、笑顔でニコニコと、みんなの話を聴く側に回ろう。


 これまでスマホでなんでも済ましてきたかもしれないが、手帳とペンはあった方がいいぞ。会議でも打ち合わせでも、出るのに手ぶらというわけにはいくまい。よくわからなくても、ときどき話者とアイコンタクトを取って、話にうなずきながら、手帳になにか書いていれば、すごく積極的に参加しているように見える。どうせみんな、そんなものだ。腕時計も同じ。どうでもいい暇潰しでも、これまではスマホでニュースチェックだったかもしれないが、オリエントあたりのちょっと気の利いた機械式腕時計をじっと眺めている方が、どことなく忙しそうな、できるやつに見える。


 忘れていけないのが、あいさつ。どうせ誰が誰だかわからないんだから、だれにでもあいさつはしておけ。これから、いつ誰の世話になるか、わかったもんじゃない。そのとき、向こうは、けっこう君のことを覚えていたりするものだ。買い物でも、御近所でも、おはようございます、じゃ、おやすみなさい、と、一言、添えよう。なにかあったとき、ろくにあいさつもしない変な人です、となるか、とても感じのいい人ですよ、と言われるか、大きな違いだぞ。


 帰ったら、今日一日のことを、手帳かブログにでも、ちょっと長めに書いておこう。人生で一度きりの最初の日。この時の新鮮な気持を思い出す必要がある日が、いつかかならずやって来るから。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/どのみち男なんて、若いときはみんな、まだぱっとしないもの。でも、そこからが、がんばりどころ。共働きを含め、ともに支え合い、助け合って、どうにかやりくりしていってこそ。最初からなんの苦労もせずに暮らせる甘い嫁ぎ先なんて、この世の中にそうそうあるわけがない。/


 いまだに使い方がわからないくせに、SNSとやらに登録だけはしている。と、思わぬ人から連絡が来たりすることもある。ずいぶん前の教え子だ。前に仲人を頼まれた。が、断った。それから音沙汰が無かったので、ずっと心配していた。


 当時、彼には学生時代から付き合っていた彼女がいて、就職して何年目かというところで先方の親に挨拶に行ったそうだ。ところが、勤め先の将来性だのなんだの、いろいろ言われて、そもそも仲人も立てずにうんぬん、と文句たらたら。それで、後先になってしまいましたが、どうか先生、とのことだった。


 話を聞いただけでも、面倒くさそうな親だ。ちょうど、ちょっとした大手企業を管理職まで勤め上げて定年退職になったばかりらしい。一人娘がかわいいのはわかるが、就職の面接でもあるまいに、娘が決めた相手にごちゃごちゃ言うとは、なんとも大人げない。で、彼女は? 仲人なら、それこそ二人で頼みに来るものだろう、と聞くと、それが、電話も出てくれないんですよ、とのこと(ちょうど携帯が普及し始めたころだった)。


 ま、そういうことだよ、と言った。だけど、と彼は言う。いや、ちょうどいい機会じゃないか、断ったのは先方なんだから、後くされもあるまい。私なんかが、いまさら出て行って、どうにかなるとも思えないし、たとえいま、どうにかできたとしても、これから先、その父親はもちろん、彼女まで、事あるごとにその調子だぞ。止めとけ、止めとけ。


 昨今、ただでさえ仕事に就くのが難しいのに、入ってからずっと一つ所にまじめに勤め続け、彼女のこともきちんと考えて、自分から挨拶に行くだけ、なかなかのやつ。一方、親がなんぼのものだか知らないが、娘はただの娘。それを引き受け、娘もまたその男とやっていこうと言っているのだから、相手がよほどの犯罪者や博打打、女誑しでもなければ、ふつつかな娘ですが、末永くよろしく、と、後は二人に任せればよいものを、いやいや、オレ様がじかに検分してやろう、などというのは、勘違いも甚だしい。


 退職してしまった年金生活者など、世間では無も同然。むしろ、将来的にはいずれ病気だ介護だと、娘夫婦に世話になることばかり。せいぜい孫の面倒でもなんでも、できるうちになんでもやらしてもらえてこそ、老人の幸せ。最近は、婿や嫁に嫌われ、実家に寄り付かず、孫の顔を見ることもできないままの年寄も少なくない。


 よほどのボンボンでもなければ、どのみち男なんて、若いときはみんな、まだぱっとしないもの。でも、そこからが、がんばりどころ。共働きを含め、ともに支え合い、助け合って、どうにかやりくりしていってこそ。最初からなんの苦労もせずに暮らせる甘い嫁ぎ先なんて、この世の中にそうそうあるわけがない。たとえあったとしても、若い夫婦が自分たち自身で掴み取った幸せでなければ、たいていはその後に転落してしまうだけ。


 結局、あの後、彼の御両親が田舎から出てきて、先方にお詫びとお願いに伺ったが、家風が合わないとかなんとか、体よく言われて、やっぱり破談。しかし、その後、彼は会社の取引先の社長に気に入られ、事実上の入り婿。今では何人もの人を使う側。夫婦円満で、双方の家も仲が良く、子供たちもみな元気だそうだ。一方、彼女は、何度か見合いもしたらしいが、母親も亡くなり、以来、父親と二人暮らしで、地元の病院の送り迎えをしているのを見かけたとか。自分の思い上がりのせいで、娘が幸せになるせっかくの機会を潰したとあっては、死ぬまで悔いても悔いきれまい。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/古典名著や専門書は、無味乾燥で無意味に思えるかもしれない。だが、それらこそが宇宙と世間、自分に展望を開き、日常の物事、自分の人生に意味を与え、支える。その内なる「学」の基盤が無ければ、すべては無意味で虚しい。/


 ロバート・マッキー『ストーリー』(1997)の日本語版がようやく出版された。すでに19か国で翻訳されていながら、日本だけが取り残されていた。理由は単純。いくら名著でも、他の国はともかく、日本では部数的に出版社が儲かりそうもないから。今回の出版もAmazonを含めて書店では販売せず、その名もダイレクト出版という出版社が読者からの注文に直接に応じる。無駄な中間コストや返品コストを抑えるため。それでも、5400円+外税。この国では一夜の酔いの酒代に万札が当然だが、一生に役立つ本代にその半分さえ出そうする人は多くない。


 1867年、ドイツのレクラム社は、文化こそ国の礎、と、装丁を極端に簡素にした「文庫」というものを発明し、万人に知を解放した。米国のフォードは、製品の価格を下げても、量産効果でコストも下がり、利益が出る、という逆説的な経営方法を考案し、この「フォーディズム」のビジネスモデルは、二十世紀にあらゆる産業分野で用いられた。日本でも松下幸之助が、公園の水のようにじゃぶじゃぶと製品を作れば、だれもが豊かな文化生活を送れるようになる、という「水道哲学」こそを企業存立の使命とした。


 おかげで、いまではほとんどのものが百均で買える。知識や知恵も、文庫どころか、ネットでタダ。しかし、まさに公園の水のように、タダでも誰も飲もうとしない。小難しい古典名著や専門書など、だれも読もうともしない。一方で、なんの役に立つのかわからないようなブランド品があれこれ宣伝で売りつけられ、テレビや新聞、雑誌は、どうでもいい醜聞と雑学ばかり。収入も増えず、買い物も控えると、こんどは毎日が暇で仕方ない。


 神様や仏様が信じられた時代には、人間は死んで天国極楽へ往生できるよう、生きる間、節制精進に努めた。だが、神仏もどこやらという現代では、なにをやっても意味が無い。それで、突然に仕事を辞めて政治家に立候補したり、独立起業したり。さもなければ、アイドルになるだの、小説を書くだの。そんな才能は無いくらい自覚しているやつでも、必要も無い、役にも立たないのに、あれがはやっている、と言われれば、そこに行列し、これが売れている、と言われれば、我先に買い求める。だが、どこへ行っても、なにを買っても、君自身がなにか特別な存在になれるわけじゃない。しょせん多数のフォロワーの中の無意味無価値の一人。もっと安直なやつは、手軽にスマホでゲーム、出会いで不倫、ネットで薬物。それも酔いが醒めれば、現実があまりに空っぽで、さらに中毒の深みに落ちていく。


 昨今、世間の意味にしがみつき、自分の存在の意味を渇望するやつがいっぱい。だが、なにをやっても、どんなに功を遂げ名を成しても、人生は虚しい。それは、君に内なる「学」が無いからだ。自分自身が拠って立つ、意味を支える強固な地盤。「学」の無いやつは、まっすぐ歩くことはもちろん、まっすぐ立っていることすらもできない。まさに酔っ払い。あれこれ放言して好き勝手をやろうとするが、そのうちふらふらと自分からドブに落ち、傷だらけの前科者になる。


 この世は死の待合室。どうせ人生はムダだ。しかし、ニーチェは、神仏や他人から与えられる意味が無いこそ、自分自身で自分自身の人生の意味を打ち立てる余地があるのだ、と考えた。そして、自分自身の人生の意味を打ち立てることにこそ、自分自身の人生の意味があるのだ、と説いた。創価学会だって、もともとはまさに、価値そのものを創る、ことこそが幸福だ、という思想に基づく名称だ。


 すべての人は、自分自身の人生という物語の主人公になる義務がある。そしてまた、その物語の作者でもなければならない。君の物語は、どこかに出来合いで売り物になっていたりしない。だれかに頼めば作ってくれる、というものでもない。たとえ他人が作った物語の上を生きたとしても、それでは君が君の人生を生きたことにはならない。つまり、君は自分で自分の物語を作って、その主役を務めなければならない。


 昔から語り継がれてきた物語、小説や映画は、ただの暇潰しではない。庶民の知恵、哲学だ。自分の人生から距離を置いて鏡に映し、来し方、行く末を俯瞰する。言葉にならない思いが心を突き動かし、人生の軌道修正を迫る。専門書も同じ。自然科学でも、社会科学でも、人文科学でも、大きな展望の下に、宇宙や世間と自分を眺め直し、その意味を見極める。たしかに、「学」そのものは意味が無い。ある意味では、きわめて無味乾燥だ。しかし、その「学」こそが、日常の細々した物事の意味を支える。内なる「学」というのは、そういうことだ。


 目が見えなければ風景が見えず、耳が聞こえなければ音楽が聞こえない。同様に、「学」が無ければ人生は味わえない。酒に酔って気を紛らわしても、酔いはいつか醒める。たまには公園に行って、タダの水を飲み、ベンチに座って、季節の風を感じながら、ふだん読まないような、まともな名著古典、専門書をゆっくり読んでみないか。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/日本の「奨学金」は借金だ。無職無収入の貧困失業債務者の苦学生の分際で、人並みに青春を謳歌しよう、などというのは勘違いも甚だしい。君は君。人とは違う。生活を切り詰め、勉学に打ち込み、自分自身の大きな夢にこそ努力すべきだ。/


「奨学金」の返済に行き詰まる話をよく聞く。しかし、そりゃ行き詰まるだろう、と思う学生も少なくない。およそ借金をしている者の生活ではない。人並みのすてきな部屋で暮らし、人並みのこぎれいな格好をして、人並みにおもしろおかしく遊び歩き、人並みに大学をさぼりやがる。そんな分限知らずの生温いやつが、たとえ人並みに卒業して就職できたとしても、人並みの毎日を続けるかぎり、返済に回すカネなど、死ぬまでできるわけもあるまい。


近年、米国では「アフルエンザ」(金満病、金持の倫理麻痺)が話題だが、日本では「アヴェリエンザ」(人並病、凡人の倫理麻痺)とも言うべき病状が蔓延している。「アヴェレイジ」という語は、もともとはアラビア語のハルワリヤ、訳あり欠陥品、に由来する。大航海時代に、輸入品の欠陥相当分を投資家たち全員が均等に負担したことから、平均の意味に転じた。


かつて「人並み」は、底辺から脱出する向上心の動機づけになった。ところが、生まれながらの中産階級は、社会的なセフティネットや救済策の整備充実のせいか、どこか感覚的におかしい。手抜きをして自分自身が「欠陥品」になっても、その損失は社会全体で均等に負担してくれる。だったら、怠けないと損、がんばったら負け。人並みにいい加減でも、人並みにさぼって遊んでいても、みんなそうなのだから、ヘラヘラ笑って許されるはず、誰かがなんとかしてくれるはず。とくに、ほめて伸ばす、自己推薦のAO入試、なんていう生温い教育しか受けてこなかったユトリ学生たちは、お勉強をすれば御褒美をもらえて当然、と思っている。そんな連中にカネを渡せば、借金だろうとなんだろうと、後先考えず、あるだけ使ってしまう。そんな愚かしい風潮が、学生から学生へと感染。


日本の「奨学金」は借金だ。だが、問題はそこじゃない。ふつうの借し付け金なら、いや、たとえ違法なヤミ金でも、債権の保全回収が第一だから、できるだけ「相談」に応じ、でたらめむちゃくちゃな「追い貸し」を含め、現実に「返済」可能なプランを再調整してもくれる。ところが、お役人が考えた「奨学金」は、回収なんか気にしない。杓子定規の容赦無し。ちょっとでも返済が滞れば、いきなり一括請求。鬼より怖い。


そんなの、自己破産すればチャラ、手続も簡単、と弁護士は言う。しかし、それには会社に「退職金計算書」を作ってもらわなければならず、いくら個人情報保護といっても、いずれどこからともなく社内外のウワサにもなってしまうだろう。また、ブラックリストに載って住宅ローンはもちろん、クレジットカードも、ずっとダメ。なにより、契約時に温情をかけてくれた連帯保証人へ一括請求が回り、親戚まで地獄に引きずり込む。こうなったら、仕事も結婚も、なにもかも、将来まで道を絶たれる。


つまり、「奨学金」は、およそ人並みではない、自分自身の一生そのものの浮沈を懸けた一世一代のハイリスクな大博打。しかし、この賭けは、地道に努力さえすれば、かなりの程度まで勝率を上げることができる。大学では、一心不乱に勉学に励んで知識と技能を習得し、自分自身の資産価値構築を第一に考えないといけない。また、リスクヘッジのために、大学外でも自動車免許や簿記その他の資格を取って、早くから実体実形(ストック)化する。すてきな部屋だの、こぎれいな格好だの、若者らしい娯楽だの、完済までは自分のような苦学生には縁が無い、と割り切って、毎日の生活で節約し、残したカネを卒業時に繰り上げ返済。就職してからも、返済をすべてに優先。


借金は、借金だ。「奨学金」だろうとなんだろうと、借金をする以上、君はもはや「人並み」ではない。学生ながらに「貧乏人」の「債務者」だ。同世代でほかに幸せにおもしろおかしく暮らしているやつがいるとしても、それは、親が金持ちか、自分で稼いだか。一方、君は無職無収入、おまけに借金漬け。将来の就職も確約されているわけではない。この厳しい現実を、もっときちんと直視しろ。そんな貧困失業債務者の分際で、「人並み」の青春を謳歌したい、などというのは、思い上がり、勘違いも甚だしい。もちろん、悔しいのはわかる。だが、無いものは無い。できないことはできない。無理に人並みの見栄を張るより、とっとと貧乏金欠をカミングアウトして楽になってしまえ。


君は君。人とは違う。カネは無い。夢はある。君は、部屋や格好や娯楽などのような卑近な物事より、もっと大きく、もっと大切な、自分自身の将来にこそ、自分自身を賭けたのではなかったのか。人に貧乏を恥じる暇があったら、怠惰怠慢で自分自身を裏切っていることこそを恥じるべきだ。



(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/小さなドラマはどこにでもありうる。ほんの少しの気づかいと思いやりで、あなたがそれを始めることもできる。/


 サービスエリア、と言っても、端の隅。「悪いなぁ、こんな夜に」「シフト表どおりですよ。ちゃんとよく寝てきましたし。それより、店長、早く帰らないと。お子さんたち、待ってますよ」「でも、きみだって」「?」「ほら、こないだ、バイクの後に、彼女、乗せてたじゃないか?」「ああ、あいつね。小学校以来の幼なじみですよ」「じゃあ、きみと同じ年か」「ええ、まあ」「……正社員の話、今度また、社長にかけあってみるよ」「ありがとうございます。でも、前にも無理って言われたんでしょ。この業界、昨今、厳しいですよね」「いや、社長も、きみのこと、いろいろ考えてはくれているんだ。ただなかなか……」


 「店長にも、社長にも、感謝してますよ。バイトなんて、若くて安いやつがいくらでもいるのに、オレみたいなのを、ずっと長く使ってくれてるんですから」「もうしわけないな、力不足で……。きみの彼女にまで心配かけてしまってるんじゃないのか……」「なに言ってるんですか。へへっ、じつは、ちゃんと明日、デートなんですよ」「そうか。それはちょうどよかった」「? ……それより、店長、ほら、もう、早く帰ってあげないと、お子さんたちといっしょにケーキ食べられないですよ」「ああ、わかった。こんな寒い夜はお客さんも少ないと思うが、あと、頼むよ」「ええ、いくら少なくたって、うちが開けてないと、お客さん、困っちゃいますからね」


 クリスマスの夜。高速道路のガソリンスタンド。雪は無いが、広い谷筋を冷たい風が吹き込む。店長も帰って一人。客も、だれも来はしない。向こうの売店の方にはトラックや自動車が出入りしているが、ここの前は素通り。ラジオだけが賑やかしく、クリスマスソングを流し続けている。事務所の中を掃除。ガラスに自分の顔が映る。いくら車が好きだからといっても、いつまでも学生気分でバイトのままというわけにもいかないな。それはわかっているんだ。でも、街中は苦手だ。せせこましくて、息ができない。ここには、山もある、川もある。空も、湖も。ただ仕事が無い。イスに座り込んで、ほおづえをつく。ちょっと疲れた。最近は夜勤がきつくなってきた。


 「オイ、店長サン!」「え? は、はい、いらっしゃいませ。あの、店長はもう……」「ソコノ、アナタよ。給油シテネ」「はい、いますぐ」 外国人か。ひげもじゃだ。それも白い。けっこうな年だろう。ボア付きの作業ジャンパー。大型トラック。雪汚れがついている。かなりの長距離らしい。「すみません、それ、軽油なんで、こっちに移動してもらえますか」「アア、ワカッタ」 ぶるるぅん。しゅるしゅるしゅる。「はーい、ストップ! オッケーです!」「ジャ、ヨロシク」「あの……急ぎますか?」「モチロン急イデル。朝マデニ届ケナイト」「でも、いま、ちょっとエンジンの音が……」「エ? コノ車、オカシイ?」「いえ、念のため。安全第一ですよ。ちょっと見させてもらっていいですか?」「オネガイスルよ!」「じゃ、寒いですから、中でお待ちください」


 「ドウダッタ?」「ちょっとファンベルトが緩んでいました。もう大丈夫です」「アリガトウ。ホントウニ、タスカッタ。音ダケデワカル、アナタ、スゴイネ。アナタ、ワタシノ国ニ来マセンカ?」「ははは」「ワタシハ本気ダよ。ホラ、コレガ連絡先」「はぁ、ありがとうございます」「ドウシタ? 若イ人ハ、ナニゴトモちゃれんじダよ」「……それが、もう若くもないんですよ」「?」「……まだちゃんと聞いたわけじゃないんですけど、オレの子ができたのかもしれない」「オォ! ソレハ、オメデトウ!」「おめでたいのかなぁ……。とにかく彼女や子どもをしあわせにしないと」「イヤ、ソレガしあわせナンダよ。ナンナラ、家族ミンナデ来レバイイ。電話、待ッテルよ。ヨイくりすますヲ!」


 また、誰もいなくなった。星も見えない。足下から底冷えする。事務所に戻る。「あれ?」 レジ裏に立方体の箱が二つ。きれいに包まれ、リボンまでかかっている。「あ、店長、忘れてったんだ。たいへんだ!」 電話をかける。「どうした? 何かあったのか?」「すみません、こんな時間に。でも、店長、お子さんたちにあげるサッカーボール、二つとも忘れてったでしょ」「ボール?」「レジの下の箱ですよ」「ああ、あれ、ボールじゃないよ。朝、仕事が終わった頃に電話しようと思っていたんだけど、あれはきみにと思って」「オレに?」「ちょっと気になったことがあってね。朝になったら開けてよ」「はぁ……」「じゃ、もうあと数時間、がんばってな」


 「何だろう……」 二つの箱のテーブルの上に置いて眺める。それきり、だれも客は来なかった。外は白い霜が降りている。あたりが青くなってきて、やがて鳥の声が聞こえ始める。ラジオが朝の番組に変わる。もういいかな。リボンをほどく。フルフェイスのヘルメットじゃないか。中にカードが入っている。「安全第一」だって。交通安全の御守も。もう一つも、お揃いのヘルメット。「彼女用」だと。おまけに、なんだ、こっちは安産祈願? まだそうと決まったわけでもないのに、ちょっと気が早すぎるだろ。それに、クリスマスに神社の御守だなんて。いや、あの店長らしいか。


 向かい側の山を朝日が照らす。あたりが黄金に輝き出す。さて、今日のデートは、どこに行こう? 自分たちでも、きちんと神社にお参りするか。それに、週明けには同窓会。東京に行った連中も、みんな帰ってくる。オレたちのこと、なんて言われるやら。そうそう、それより、あとでまた店に戻って、彼女といっしょに店長に御礼を言わないと。いろいろ大変だ。でも、オレももうすこし、この町で、がんばってみようかな。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/自分なんて地平線と同じ。いくら探したって、見つかるわけがない。これまでの二十年間がまっすぐ、これからの五十年間に延長していると考える方がおかしい。むしろ、これから仕事、貯金、結婚、出産、転勤、教育、病気、介護など、経験したことも無い出来事が襲いかかる。そこで、どんな自分になりたいのか、そんな自分に、その会社に入ってなれるのか。分析というより、決断だ。/

 就活のエントリーシートなどに、そもそも志望企業探しのために、「自己分析」をしろ、と言われる。おまけに、それを面接でもアピールできるように、具体的で印象的な過去のエピソードを見付けろ、と。で、自己分析ってなんだ? 自分がどんな人間であるか、見つめ直し、理解して、特性を活かせ、ということ?


 哲学なんで、就職で役に立たない、関係が無い、と思うかもしれないが、じつは、この話、哲学の大物、カントがさんざんに論じている。カントに言わせれば、自分なんて、どう分析したって見つかるわけがない。それは、これが地平線だ、という線と同じ。いくらあちこち歩き回って探してみたって、そんな永遠の向こう側に、だれも絶対に手が届くわけがない。つまり、自分探しなど、理論的に、根本から時間のムダ。


 いろいろな過去のエピソードを寄せ集めて、そこから共通する「本質」を探り出す、というのは、帰納法。そして、一般の物事であれば、こうして見つけたその本質を延長して外挿する演繹法で、未来も正確に予測することができる。


 ところが、人間は、カント以降の実践哲学、実存哲学で注目されるように、過去がどうであれ、未来は、自分がどうするか、に懸かっている。君の自由意志しだい。つまり、こと人間に関しては、過去の事実から帰納法で導かれた結論は、そのまま未来へまっすぐ延長しているとは限らない。もとより学生の自己分析など、たかだかサンプルが二十年そこそこの話。これからにこそ、いろいろな経験を積んでいくのに、そんなガキのころの話が四十歳、六十歳になっても、まったくぶれない、変わらない、という方がおかしい。


 かといって、自己分析なんてムダ、なんて言っているやつも、どうかと思う。バカの自覚を持ったやつだけが、しっかり学ぼうと思うもの。ブスの自覚をもったやつだけが、きれいになりたいと願うもの。つねに自分に足らぬ物事の勉学に努力している人が、賢明、どんなときにも自分の至らなさを気に掛けて愛想を心がけている人が、かわいい、というもの。


 人間は、過去をすべて捨て去って、いきなりまったく別人になることなどできない。あくまで、いまここ、が出発点だ。しかし、かといって、出発点に留まり続けているやつは、その延長線上にある未来さえ手に入れることができない。自分がどんな人間であるか、ではなく、問題は、自分がどんな人間になりたいか、だ。未来は、たしかに過去の延長だ。だが、延長線など、どんな風にも曲げて引くことができる。そして、その延長線が辿り着くべき、果てしないかなたにある地平線は、実在ではなく、君が歩いていくべき永遠の目標。


 自分がどんな人間であったのか。それは無視はできない。だが、より重要なのは、最終的に、どんな人間になりたいのか。五十年後、七十歳のとき、どんな人々に囲まれ、どんな生活をしていたいのか。そこから逆算して、これからの五十年の間に、どんな会社、どんな仕事、どんな経験を積んで行くべきなのか。たった五十年。五十回の春、五十回の夏、五十回の秋、五十回の冬。いいことばかりとはいくまい。面倒や事故、不幸や災害もあるに決まっている。だから、それらへ備えもして当然。こんなギリギリの状況で、とりあえずみんなと同じ人気企業へ、などと寄り道をしている時間の余裕は無い。


 自己分析、というが、ほんとうは、厳密な意味での帰納法的な「分析」ではない。むしろ決断だ。仕事、貯金、結婚、出産、転勤、教育、病気、介護、などなど、これまでの二十年間には経験したことも無いさまざまな出来事が山のように襲いかかる。会社選びは、これらすべての問題とのバランスによってのみ決まる。一口で飲み終わる缶コーヒーを自販機で選んでいるのとはわけが違う。むしろ自分選びだ。何かを得るために、別の自分を捨てることだ。どんな自分になりたいのか、そんな自分に、その会社に入ってなれるのか。選ぶのは会社ではない。君が人生を選ぶ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/いくら正論を言ったって、通らないときは通らない。世の中がデタラメな以上、デタラメなのが正解。そういうもんだ、と、認めてしまって、いろいろ適当にやってみて、どれかうまくいけば、それでいい。/

 最近は子供の学習教材もパソコンだ。ところが、うちのやつが英語の問題にごちゃごちゃ言っていて、ずっと先へ進まないまま。仕方ないから見てやった。「次の言葉の終わりと同じ発音の言葉を選びなさい。問題1.door 選択肢 a)fox、b)desk、c)table」まあ、言いたいことはわからないでもない。どう見ても、問題がおかしい。「ねえ、やっぱり変だよね、こんなの、どうしたらいいのさ?」


 だが、私は東大卒だ。だてに熾烈な受験勉強をくぐり抜けてきたわけではない。問題が変でも、どうしたらいいのかは、わかる。で、a)を押す、ダメ。b)を押す、ピンポ-ン! 以上、終わり。さあ、次、やれよ。「え? door と desk じゃ、言葉の終わりの発音が同じじゃないよ」そうかもしれない。だが、そんなことは知ったこっちゃない。とにかく正解は正解だ。


 「それ、ズルじゃん」まったくこうるさいガキだ。問題が変なんだから、ズルもへったくれもあるものか。問題がまちがっているのだから、まちがっているのが正解で、どこがおかしい?「でも、選択肢の三つとも、どれも押して、うまくいかなかったら?」そんときは、そんときだ。その問題は無かったことにして、とっとと次の問題に行く。「だけど、問題を飛ばしたら、100点は取れないよ」それがどうした。なんで100点を取らないといけない? そんな変な問題で100点を取ろうとすることがまちがっている。


 いくら正論を言ったって、通らないときは通らない。むしろ、適当におべんちゃらを言って、キミのプロジェクト、よくわからんが、予算はつけてやったよ、まあ、がんばりたまえ、ということになれば、それでいい。そんなのハイカロリーなものを喰ってたらダイエットの意味が無いだろうに、と思っても、デートで彼女をスィーツの店に連れて行って、それで上機嫌なら、それでいい。なんでこんなガラクタみたいなの買うのかなぁ、と思っても、顧客が見栄をはって、バカスカと、むだな買い物してくれるなら、ありがとうございました、と、頭を深く下げて、それでいい。


 世の中がデタラメなのだ。矛盾している、とか、首尾一貫してない、とか、文句をつけても、世の中が矛盾していて、首尾一貫していない以上、答えもまた、矛盾していて、首尾一貫していなくて、それでちょうどいい。丸い地球に、きっちりした三角定規を当てても、なにも計れない。地球が丸いのだから、むしろ曲がった巻尺を使う方が正しい。


 なんで女はそうなのか、なんで男はそうなのか、なんで子供は、なんで年寄は、なんで人生は、なんでこの国は、などなど、いろいろ不満を言い募ってみたところで、なにも変わらない。なんでオマエはネコなんだ!と文句をつけても、ネコはニャーと鳴くだけで、イヌになるわけではない。女は、男は、子供は、年寄は、人生は、この国は、そういうもんだ、というところから始めないと、どうしようもない。


 いくら考えたところで、正解なんかわかるわけがない。もともと他人が勝手に作った、まちがった問題だ。わからないこと、どうでもいいことに頭を悩ませるな。そういうもんだ、と、認めてしまって、いろいろ適当にやってみて、どれかうまくいけば、それでいい。100点なんか、取ろうと思うな。この世の人生は、まちがった問題だらけで、最初からぜったいに100点なんか取れっこない。まあ、これがダメでも次がある。むだに考え込んで立ち止ったりせず、手探りに、とりあえずなにかやってみよう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

/気晴らしやガス抜きはやめておけ。明日の朝、君をまた不満の現実に引き戻すだけ。それを繰り返していても、ただ年だけとって、いよいよ泥沼にはまり込むだけ。本気なら、その毎日の不満を、ただ未来の脱出口の一点だけに集中しろ。/

 ユトリ世代が社会に出て、いまや新しいサービス業のいいカモ。もともと自己管理のできない自堕落な連中だから、ほっこり、のんびり、ゆったり、「癒やし」だの、「気晴らし」だの、「自分への御褒美」だの、適当な美名をつけ、チヤホヤと甘やかしてやれば、入っただけのカネを、すべて吐き出す。そして、明日も、ちょっとしたことで仕事や人間関係で不満を募らせ、また気晴らしに来てくれる。


 ようするに、ストレス耐性が無い。我慢して節約して貯金する、なんていうことができない。そのくせ、半端に自己慢心のプライドと見せかけの向上心だけはあるから、努力しなくてもいい、しかし実際にはまったく役に立たない低テンションの語学教材や健康食品、トレーニング機器に飛びつく。それで、ちょっとがんばったと言っては、低アルコール低カロリーの缶をプシュっと開け、緩いSNSに緩い写真を載せ、自分を褒めてあげる。


 昔から上司は酒の席で酔った部下に好き勝手に語らせ、わかった、今日、オレはオマエの話をしっかり聞いた、後は任せろ、などと言ってガス抜き。結局、何もしない。会社や政治も同じ。いくら文句を言ったって、上司も会社も政治も変わらない。変える気も無いし、そもそも変える能力が無い。よし、じゃあ議論しよう、とか、おたがい話せばわかる、とか、もっともらしく言うが、それは単なる時間稼ぎのやり過ごし。どうせ君が自分自身では何もできない、逃げ出すこともできないのを見透かされているから。


 それがいまや個人レベルでも。ごちゃごちゃガタガタ、やたら口先で大言壮語を語るばかりで、決定的なことは何もしない。いや、これまでなにも具体的なことはやってきていないのだから、今日もまたやはり何もできないのは当然。それでまたすぐに不満が溜まり、それでまたすぐに自分で気晴らしのガス抜き。文句を垂れては、気張らしのガス抜き。夜になるたび、気晴らしのガス抜き。毎日、その繰り返し。そのうち、ただ年月が過ぎ、年だけとって、不満そのものにも勢いが無くなっていく。結局、何にもならない。


 先日、うちの子に水鉄砲を買ってやった。とはいえ、昔のピシャァというだけの力無いやつじゃない。ポンプ式でプシュプシュやると、エアが水タンクに貯まり、10メートル近くも飛ぶ。人間も、不満こそが向上心の源泉。こんなところに居たくない、こんな自分で居たくない。もっと別の自分になって、もっと別の世界に飛び出していきたい。


 しかし、ほんとうに生活を変える、自分を変えるとなると、その敷居は驚くほど高い。資格を取る、語学を身につける、転職する、国外脱出する、小説家・漫画家・デザイナーになる。自分で自分に自信が持てるだけの実績を積む。どれも一朝一夕でできることじゃない。まるで刑務所から脱獄するようなものだ。周到な計画と準備、周囲への完全な隠蔽、そしてなにより、たった一点に穴を掘り続ける、けっして諦めない本人の執念。


 本気なら、気晴らし、ガス抜きはやめておけ。仕事や職場で腹が立ったら、家族や友人、彼氏彼女に納得できないことがあったら、資格の教科書、語学のテキストを開いて、すべてを忘れ、その勉強に打ち込め。スポーツジムで、ロードランニングで、体を鍛えろ。自堕落仲間からケチくさい、付き合いが悪いと言われようと、カネも、時間も、労力も、いっさいの無駄遣いをせず、いずかならず必要になることのためだけに貯めておけ。すべての不満を脱出口の一点に向けて集中しろ。


 少なくとも気晴らしやガス抜きはやめておけ。明日の朝、君をまた不満の現実に引き戻すだけ。それを繰り返していても、ただ年だけとって、いよいよ泥沼にはまり込むだけ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/カネを出す以上、口も出す。それが出資の絶対条件。いくら思想と良心、信教の自由があるとはいえ、それはせいぜい、国立大学や公立美術館に徴用されない権利でしかない。こうなるのがわかっていたから、先見の明のある人物たちは、苦労を重ねて私学を興し、私財を投じて民間美術館を作ってきた。独立自尊の気概気骨と財政基盤を抜きに、学問の自由、芸術の自由は成り立たない。/

 建築家や工務店が勝手な家を作っていたら、依頼者たる施主が文句を言うのは当然。国立大学の文系潰しや国歌国旗強要、巨大建造物の計画中止、公立美術館からの作品撤去など、みな同じ問題。戦後ずっと、学問の自由、芸術の自由、という美名の下、国民の税金を好き勝手に使って、ワガママ放題にやってこれた方が不思議。


 学問や芸術の振興は、天上の神仏への喜捨ではない。あくまで現世の事業だ。カネを出す以上、口も出す。それが出資の絶対条件。カネは出せ、口は出すな、学問と芸術の自由だ、などという、無茶がまかり通ったのは、戦前のあまりの悪行に対する世間の反動で政府が萎縮させられていたから。しかし、政府にはさらに税金を払うスポンサーの国民がいる。いくら学者だ、芸術家だ、と言われても、国民が反発すれば、政府の方も、いつまでもその好き勝手を容認しているわけにはいかない。


 ふつう、大人の社会常識として、朝礼などで、あえて社歌に口をつぐみ、社旗をないがしろにする社員は放逐される。もちろんちょっとやそっと勤務態度が悪いくらいで会社側が簡単に解雇にできるわけではないが、会社の業務や信用にまで著しい影響を及ぼすのであれば、社内不倫などと同様、私的な自由では済まない。ただし、歌や旗の拒否は、たしかに解雇禁止事項(労働基準法第3条)の「信条を理由とする」に抵触する虞があり、それを直接の解雇理由にしたら裁判はかなり面倒。しかし、だからと言って、それで図に乗っていると、会社は別の致命的なアラを探して合法的にやる、というのが大人の世界。


 もちろん、学者や芸術家も、憲法によって個人として尊重され、思想と良心、信教の自由を認められるべき国民。だが、その他の国民一般と同様、国立や公立の組織の方針や運営まで勝手に決めたり変えたりできるほどの高次権限は与えられていない。せいぜい、就職を強要されない自由(むりやり公務員として強制労働させられない自由、国立大学の教員にならない自由、公立美術館で展覧会を開かない自由)。あえてみずから進んで自由意志として国立大学や公立美術館の職務契約のパッケージ(これをこれまで信義則に頼って労使双方とも曖昧な口約束で済ましてきたのが、大きな問題の元凶)を受けておきながら、後になってその職務の一部を一方的に拒否改変するのは、どうみても契約違反だろう。それどころか逆に、思想を根拠に、御同類の特異な反体制的連中ばかりを優先採用、優遇抜擢してオルグしている気配がある、となると、政府も放置というわけにはいくまい。


 国と国民の象徴たる天皇がいっさい口を出さないのをいいことに、国と国民に仕えるはずの政府や与党ですら憲法を曲解するのだから、同様に憲法を利用して個人のワガママをゴリ押しする学者や芸術家が出てくるのも時代の流れか。端から見ていれば、どっちもどっち。この国にして、これらの小人あり、という印象。学者たちや芸術家たちが国民の代表であるかのように振る舞うのも、ずいぶんな思い上がりだと思うが、それを管理支配しようとする、たかだか一時の政権が、本来の主権者たる国民一般の声を正しく反映しているとも思えない。コソ泥たちと押込強盗のケンカのようなもの。


 いつかこうなるのがわかっていたから、先見の明のある人物たちは、湯水のように国民の税金を無限投入して暴れ回る国立大学、公立美術館の民業圧迫の下で、苦労を重ねて私学を興し、私財を投じて民間美術館を作ってきた。カネの問題を自分たちで解決しないかぎり、学問や芸術であろうと、金主の意向の従僕、政府の方針の奴隷。モーツァルトは、それが嫌で、パトロンの下から逐電し、郊外の免税館劇場で庶民に直接にチケットを売って『魔笛』を成功させた。学問の自由、芸術の自由は、独立自尊の気概気骨と財政基盤を抜きには成り立たない。税金にぶら下がる限り、政治の介入は防げない。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大学の意義は、講義で教わる内容ではない。不思議なことに、まじめに講義に出ているだけで、ほんとうに人は四年間で大きく変わる。人の話を聴いている間に、人はいろいろ考える。長い人生に備え、心の覚悟を整えるために、どうにか行かれるなら、多少の無理を融通してでも、若いうちに行っておけ。/


 大学には行っておけ。どうにか行かれるなら、多少の無理を融通しても、若いうちに行っておけ。もちろん、いまどき大学の講義で教わる程度の内容など、いくらでも本が出ているし、知らなくても、その場ですぐにネットで調べられる。だが、大学の意味というのは、そんなところには無い。なぜ古代から人間は学校というものを重視してきたのか。人間を変えられるのは、人間だけだからだ。


 私の担当は一般教養の「哲学」だから、いつも大教室だ。目は良い方ではないが、学生の席から教壇の教員が見えるのと同様、教壇から最前列はもちろん、最後列の教室の隅の学生までよく見える。年30回。同じ学生は、たいてい同じ場所に座っている。メールで毎度、講義後に小レポートを送らせているので、どの学生が何を考えているのか(なにも考えていないのか)も、よくわかる。まあ、学生の側からすれば、週の間にも多様な教員の講義や演習があり、それぞれのコマは、その中の一つにすぎないのかもしれないが、教員の側からすれば、むしろ一つのコマを通じて、それぞれの学生を通年で見続けることになる。


 これが、変わるのだ。本当に変わる。驚くほどに。さぼりまくって学期末、年度末になって久しぶりに出て来た学生とは、まったく違う。後者は、最初と同じ、ガキのまま。顔が緩みまくって、ヘラヘラとにやけている。いや、前者だって、最初はガキだった。教室に来たって、友人たちと落ち着かず、ごそごそもそもそやっていた。それが半年、一年を経ると、男も、女も、りりしく、ひきしまった顔、落ち着いて遠くを見据えた目つきに変わる。大学というものが、昔から人間が少年少女から青年に変われる時期に設置されているのも、なるほどと思わせる。


 一年の講義が終わっても、意外に教員は、以前の学生たちの顔を覚えている。いつも最前列にいた学生、文句ばかり言いながら三年も取り直してきた学生。ろくにノートも取らず、後ろの方でずっと腕を組んで聞いていた学生。学内で会えば、声を掛ける。よう、元気? 専門科目の方はどう? 向こうが私を知らないことはない。だが、なんで自分のことを覚えているんだ、というような怪訝な顔。それでも、ええ、大変ですよ、と話始めてくれる。賞を取ったんです、留学することにしました、と、うれしそうに自慢を語ってくれることもある。これが一番、私もうれしい。


 街中で、何年もたって声を掛けられることもある。すっかり社会人になって、しっかりとした大人の雰囲気に変わっている。それでも、覚えている。ああ、君か、いま何してるの? ええ、いろいろあって。ほんの立ち話だが、あまりの変わりようにびっくりする。十年もすれば、子供を連れていたり、自分で会社を経営していたり。一方、受講を途中で放りだした学生はダメだ。顔を背けて、コソコソといなくなる。どうせ自由選択科目の一つにすぎないのだし、その単位を取れなかったくらい、大したことではなかろうが、おそらくその後もすべてにおいて、その調子なのだろう。あいかわらずガキ。


 なぜ大学で講義を聴くと人間が成長できるのか、私にもよくわからない。正直なところ、それほど御立派な話をしているわけじゃない。それどころか、大学の教員も多様だから、どうしようもなくひどい講義もないわけではあるまい。だが、自分の経験からしても、黙って座って人の話を聞くことにおいて、人はいろいろ考える。そのとおり、と思うことも、違わないか、と思うことも。その分野のおもしろさを真剣に語ってくれる熱血先生、いくら偉くてもこんな人間にだけはなりたくないなと思わせる反面教師。言ってみれば、それはいろいろな人間像を見る動物園のようなもの。週25コマ、30週、4年間。自分のこれからの人生について考えるところ。


 役に立つとか立たないとか、専門がどうこう、就職がどうこうとか、そんな話は、じつは大したことじゃない。若いうちに4年間、人の話を聞いて、友人たちと付き合い、遊びや恋愛、バイトや旅行など、子供でもなく、大人でもない、まさにモラトリアム(執行猶予)を満喫しつつ、長い人生に備え、心の覚悟を整える。たしかに学費は安くはない。だが、行かれるなら、多少の無理を融通してでも、大学には行っておけ。きちんと勉強すれば、一度限りの人生において、それだけの意義と価値はまちがいなくある。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/努力すれば努力するだけ、いいように人に搾取される。いくらがんばったって、その道は出口には繋がっていない。とりあえず生き残っていくには、臥薪嘗胆、のらりくらりと我慢が肝心。/

 あれを買うべきだ、ここへ行くべきだ、行政のムダを削減すべきだ、世界の平和に貢献すべきだ、ポジティヴに生きるべきだ、等々、なんとなくもっともらしい。しかし、古代ローマ時代にも、我田引水、党利党略の宣伝と演説が蔓延。


 そんな中で安心哲学が出てくる。最初が懐疑主義。人の言っていることなんか信用しない。そもそも人のことなんか信用しない。得だ損だ、善だ悪だ、と喧し いが、そんなに得、そんなに善なら、まずはあんたが黙って一人でやってりゃよかろうに。健康にいい、と言われ、その後に発売禁止になったものがどれだけあ ろうか。短期的に得でも、いつかとんでもない損になるものなんか、おっかなくて手を出せるものか。よくわからない時代に身を守るには、よくわからない話に は乗らないのが一番。


 ついで出てきたのが快楽主義。あえて積極的に快楽を求める、というのではない。むしろ、自分の得になること以外は、まったくやらない。世界のために、と か、社会のために、とか、体のいい話は、たいていうさんくさい。とくに昨今、少子化で、どこもかしこも、タダで便利に使えるバカな子分や人手が欲しくて仕 方がない。自分でやらないヤツらに限って、口先ばかりできれいごとを言う。おまけに、ヤツらは人の肩車を踏み台にして、もっと高いところを目指し、さっさ と逃げ出す。利用するだけ利用したら、人を紙くずのように捨てる。だったら、こっちも最初から、よほど確実に自分が得になるのでもなければ、そんなヤツら には関わらない方がいい。


 そして禁欲主義。これも、べつにムリに我慢するのでもない。現状で満足。それだけきちんと守って、それ以上のことは望まない。そんなのは向上心が無い、 なんて言われたって、いまの時代、ジタバタしたところで上など望みようもない。人口が半減するというのに、経済がこれ以上に発展するわけもないし、いまの 領土だって守りきれるわけがない。絶対にできっこないことでムダに悪あがきする方が、むしろ危険。せいぜいクビにならぬよう、変な濡れ衣を着せられぬよ う、最低限のやることだけやって、できるかぎり手を引き、ひっそりと市井に埋もれ、隠れて生きる。


 古代ローマも政争だらけ。かってに皇帝や将軍を僭称する連中が続出し、それらが互いに争って謀略と暗殺が横行。そんな連中に関わり合っても、いいことな んかない。昨今の日本の会社も、似たようなもの。傾き始めると、むちゃくちゃな帳尻合わせで、去るも地獄、残るも地獄。なんとかやりすごして、なるように なるのを待つだけ。


 残念ながら、努力すればどうにかなる、などというのは、もはやよほど恵まれた、ごく一部の人々のみ。大半は、努力すれば努力するだけ、いいように人に搾 取される。「ワーキングプア」というやつだ。いくらがんばったって、その道は出口には繋がっていない。それどころか、時間ばかりがいたずらに費やされ、道 はどんどん細くなる。選択肢が無くなったところで、最後は自分自身のクビを絞める縄をなうはめに陥る。V字回復戦略企画室長、別名、リストラ本部長なん て、その典型。


 ろくな仕事も無い、貯金も無い、結婚もできない、家族も持てない、という若いやつらの中には、いっそ箱根だか富士山だかが吹っ飛んで東京が壊滅し、すべ てがひっくり返ったら、なんて不謹慎なことを心の底で望んでいるやつもいるのではないか。まあ、そうでないまでも、世の中は、いつかはかならず適当にひっ くり返る。


 そうなるまで、おもしろくもないだろうが、とりあえず生き残っていくには、臥薪嘗胆、のらりくらりと我慢が肝心。ヤケを起こし、調子のいいヤツの話に乗 せられても、捨て駒にされるだけ。自爆テロと同じ。時代の巨大な潮流は、きみが一石を投じたくらいでは絶対に変えられない。ポジティヴにがんばるべきだ、 なんて人に言っているヤツらには絶対に騙されるな。


 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京 藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステ リ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/「世界」が君の夢にすぎないだけではない。君こそが世界の夢にすぎないのだ。/

 年来、『七つの習慣』のコヴィーだの、個人心理学のアドラーだのがはやりだが、どうしていまさらこんなのが、と思う人も少なくあるまい。仏教をか じったことがあれば、それは理解していて当然の話だから。哲学でも、ショウペンハウアーの『意志と表象としての世界』に出てくる。戦前は学生歌の「デカン ショ節」として、デカルト・カントと並び称せられるほど、ショウペンハウアーは人気だったのだが。


 ようするに、君が言う「世界」は、君が見ている夢にすぎない。現実の世界とは別物。テレビだかインターネットだかで君は情報を集め、君のねじ曲がったコ ンプレックスに基づいてそれらの情報を理解し、自分勝手に継ぎ接ぎにつなぎ合わせて、「世界」を捏ち上げている。君は自分の目や耳で、ほんとうの世界をじ かに取材しようともしない。にもかかわらず、自分自身で作り上げてしまった、映画の『マトリックス』のような仮想現実の中に君自身も登場人物として入り込 んでしまい、むだにもがき苦しんでいる。『ボヘミアン・ラプソディ』の悪夢。


 たとえば、星空を考えてみよう。星座は、それらの星の点をどうつなぐかで、できあがっている。だれかに習って、それが当たり前になると、星空を見ただけ で、それらを星座に切り分け、星をつなぐ。だが、その切り分け方は、君が勝手にやっていることだ。別様に切り分けることもできるし、別様につなぐこともで きる。そうすれば、まったく違った星座の形に見える。


 事実でも同じこと。物理的な事実がある、としても、その事実を過失と見るのか、故意と見るのか、は、君がやっていること。事実そのものとは関係が無い。 いや、故意だという証拠の事実がある、と言っても、これまた、君が、あることを別のことの証拠として関連づけているだけで、妄想の陰謀説と大差ない。で も、君は、自分の発見とやらを疑いもせず、人にまで言い散らし、同じ妄想仲間を増やすことに躍起になる。しかし、増やさないと増えない、増やせば増える、 というところが、まさにおかしい。本当に真実である物事が、そんなに恣意的でありうるだろうか。


 仏教は、アドラーなんかより、はるかに奥が深い。世界が君の夢であるだけでなく、君という存在そのものが世界の夢にすぎない、と言う。君は、妄想にせ よ、自分が「世界」を見ている、と思っている。だが、それは、世界が、君がそう思っている、という夢を見ているから。つまり、君は、世界が見ている夢の中 の登場人物。世界がまどろみから醒めれば、君という存在そのものが消えてしまう。


 君は、「世界」の出来事に、喜び、悲しみ、笑って泣く。だが、その喜びも悲しみも、笑みも涙も、世界の一時の夢。水素と酸素、炭素、窒素にミネラル少々 が、しばらくの間、人間の形となり、「仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明」として、互いにふれあい、周囲を照らし、瞬いて消えていくだけ。いず れ寿命が来て消えていく古い場末の酒場の看板のネオン灯もまた、きっとその場にあって、自分なりに「世界」を見て、喜び、悲しみ、笑って泣いているのだろ う。だが、そんなことは、誰も気にしない。それ以上でも、それ以下でもない。


 人もまた同じ。大きな世界、宇宙の時間からすれば、そんな小さな発光現象が、どんな「世界」を夢見ていたか、何を喜び、何を悲しんでいたのか、など、知るよしも無い。結局のところ、ちょっと風が吹いただけ。まあ、なにごとも、あまり気にするな。大したことじゃない。


  (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

/大学は知のテーマパーク、文化のサーカス。そんなところに遊びに行くのに、役に立つとか、立たないとか、貧乏くさいことを言っていたら、すこしも楽しめないよ。/

 大学は役に立つべきだ、なんて言っている人、まず教養が無い。もっとはっきり言ってしまうと、育ちが悪い。すべて金儲けの損得勘定で世界を計れ る、という発想が、人間の品性品格として貧しすぎる。そんな考え方しかできないんじゃ、どんなにカネを儲けても、けっして人として幸せにはなれないよ。 ちょっとはちゃんと大学で勉強してみてはどうだろう?


 たとえば、海外旅行が役に立つか? ヨーロッパ10日間名所巡りに行っただけで、英仏独語ができるようになって、向こうで友達ができて、大きな商談がまとまり、参加費用以上の収益が出たりす るか? ディズニーランドやUSJが役に立つか? あれこれ見て、あれこれ乗って、それで教養が身についたり、体力が身についたりするか?  落語を聞いたり、小説を読んだりして、言葉や漢字が覚えられるか。そもそもそんなことを求めて、落語や小説に親しむやつがいるか?


 大学も似たようなもの。知のテーマパーク、文化のサーカス。見たことも聞いたこともなかったような世界の不思議な話が集まっている。それがときには役に 立つこともあるかもしれないが、おうおうにまったく役に立たないというところが、すごくおもしろかったりする。たとえば、ガロア理論なんて、この世に生き ていて必要になるなんていうことは絶対に無いし、そんなの学んでも、まったく役に立たない。でも、これが、ものすごくおもしろい。いったい、だれがこんな すごいことを考えたのか、と考えるだけでも、わくわくする。


 大学が役に立つべきだ、なんていう決めつけが、日本人だけの極端なガラパゴス的発想。明治維新以来、和魂洋才、欧米に追いつけ追い越せ、で、「大学」と いう名のなにかが情報輸入と産業開発の拠点とされてきてしまった。でも、それ、世界標準の、本来の大学じゃない。そっちの方が変。もともと大学なんて教会 や寺院の付属機関で、神仏の作りたもうたこの世界の驚嘆を学び知るための場所。学び知ったところで、それは神仏だからこそできたことで、人間が学び知った ことを役に立てようなんて思ってもみなかった。せいぜい神仏の御意思を理解し、みずからもまた非力を尽くそうとするくらい。


 大学は役に立つべきだ、なんて馬鹿なことを言っている人、ちゃんと大学で勉強してごらん。この世に人間というものが登場して以来、人間は役に立たないこ とばかりやってきた、ということがよくわかる。極言すれば、人間なんていうものがこの世界に存在していること自体、なんの役にも立っていない。まず、大 学って何か、役に立つってどういうことか、落ち着いて考えてみたら、どうだろう? 昨今、中途半端な日本の「大学」=官僚制のドロップアウターたちが旧全学連のポルポト派よろしく大学解体論で庶民を煽るが、大学は何だかわからん、自分た ちにわかるものにしろ、って、それ、勉強じゃないよ。よくわかんないから、勉強してみようか、っていう話なのに。


 海外旅行と同じ。行きたくないなら、行かなければいいだけ。役に立たないことなんか勉強したくない、というのなら、しなくたって、べつに何の問題も無い。他に専門学校とかが無いわけじゃないんだから、「実学」とやらをやりたいならば、そっちに行けばいい。な のに、なんで全部の大学を捻り潰してまで、大学で勉強したいという人たちの邪魔する? なんでも欲得で計算するやつらの言うことには、なんか裏に別の欲得 の計算があるようで、よけいうさんくさい。大学が「実学」だらけになったら、キッザニアじゃあるまいに、知のテーマパーク、文化のサーカスとして、安っぽ く、俗っぽくなるだけ。世界から取り残され、日本人が精神としてより貧しくなるだけ。オリンピック同様、偉大なるムダも大切なことだと思うけどなぁ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/○○しさえすれば、と言うやつらは、しょせん商売。それに乗せられて変えてみたところで、もっと大変になるだけ。やっかいで、うまくいかない、気に入らない物事でも、それは君の世界の一部。それらを理解し、感謝し、協力し合わなければ、君の世界を良くはできない。/

 市を潰し、都にしさえすれば、って、乗っかって騒いでいる連中を見ると、哀れだ。勝っても、負けても、その発想、その生き方が、永遠の負け組。政 治家、アイドル、スポーツ選手。やつらは、自分たちの人気取りのために、みんなに嫌われている敵を定めて攻撃し、それに勝つための応援をよろしく! と、連呼する。それがやつらの商売だから。でも、シロウトの君がいくらやつらを応援しても、君は利用するだけ利用され、最後には捨てられる。


 阿Qって、知っているか? 魯迅の短編小説の主人公。こいつがクズの中のクズで、「精神的勝利法」とか言って、ダメダメな状況でも、屁理屈で自分自身をごまかし、人を小馬鹿にして、 それでよけい村人たちから呆れられている。それが、辛亥革命だ、って言うんで、ようやく自分の時代が来た、って、勝手に「革命家」を名乗り、村で好き勝手 をやらかしまくるが、銃殺。


 王様を処刑さえすれば、と始まったフランス革命は、大混乱の恐怖政治で、だれもかれも断頭台送りにした後、結局、ナポレオンを皇帝に戴き、その皇帝も島 流しにして、また王政に復古。本人がどこまで本気だったのか、ユダヤ人を絶滅さえすれば、と熱弁を振るったヒトラーも、瞬く間に失業者のクズ連中が大量に 周辺に集まってきて、本当に実行せざるをえなくなり、世界中を敵に回して、国民の多くを戦死させ、都市のほとんどすべてを壊滅させ、第一次大戦後の復興を すべてワヤにした。


 ダメな連中は、自分がうまくいかないと、すぐ、制度が悪い、と言う。東大を無くしさえすれば、政権を取りさえすれば、憲法を変えさえすれば、天皇制を廃 止さえすれば。個人でも、そう。転職さえすれば、離婚さえすれば、カネを借りられさえすれば。でも、君にそう吹き込む改革政治家も、左翼新聞社も、転職支 援企業も、離婚弁護士も、悪徳サラ金も、しょせんそれはやつらの商売。頭の弱い連中が騙されて乗ってくれないと、仕事にならない。でも、現実は、改革し たって、廃止したって、転職したって、離婚したって、カネを借りたって、それはそれでまた、もっと大変になるだけ。


 もちろん、今の状況がダメなのは事実だろう。それで、連中は、抜本的改革、を売りものにする。けれども、連中に乗せられ、変えた状況も、どうせなにかが 致命的にダメ。今の状況なら、どこがダメかわかっているだけ、対策も立てようがある。が、変えた状況では、何がダメなのか、まったく予想もつかず、信じら れないほど恐ろしく手痛い思いをする。それで、後になって、前の状況に戻りたがるが、もう手遅れ。


 物事がうまくいかないのは、もちろんやっかいな制度やモノ、相手のせいもあるだろうが、それ以上に、そういうやっかいな制度やモノ、相手を使いこなせな い自分のせい。ギターも、買っただけで弾けるわけじゃない。自転車も、手に入れただけで乗りこなせるわけじゃない。ブログだって、ユーチューブだって、始 めただけで人気者になれるわけじゃない。有名企業に就職したって、司法試験に合格したって、選挙で首長に当選したって、すぐになんでも好き勝手にできるよ うになるわけじゃない。


 まともな人間は、うまくいかないと、うまくいかないところを見極め、鍛錬を重ね、次こそは、と再チャレンジする。そうやって少しずつ失敗を減らし、やっ かいな物事でも、やがて自分の手足のように、うまく使いこなせるようになっていく。一方、ダメな連中は、ちょっとうまくいかないと、すぐ制度のせい、モノ のせい、相手のせいにする。自分を省みること無く、暴言を吐きまくって放り出す。そうやって次から次へとなんでもケチをつけて、乗り換え続ける。結局、ど れもうまくはいかない。人として大成しない。絶対に幸せにはなれない。阿Qのように自分自身に呪われた永遠の敗北者。


 なにかを変えさえすれば、と言うやつらがいたら、それがやつらの商売で、君を乗せて自分たちの権益利得を増やそうとしているだけ、ということくらい気づ けよ。他人の応援なんかするヒマがあったら、自分自身ががんばれよ。自分の手元にあるもののありがたさは、失ってみないとわからない。失ってしまってから では、取り戻そうとしても、それは二度と君の手には入らない。問題は、制度やモノや相手じゃない。もともと世界は君一人でできているわけじゃない。やっか いな制度、うまくいかないモノ、気に入らない相手まで含めて、それが君の世界。君自身が変わって、心を入れ替え、君の手元にある物事のありがたさを理解し 感謝し協力し合わなければ、君の世界を良くはできない。

 

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/昨今の恋愛はオークション。選ばれるのは一人だけ。入札に応募できるのは、ピラミッドの上の方だけ。それ以下に勝ち目は無い。でも、どのみち世界 が違うなら、もともと関係も無いし、存在もしない。君にふさわしい相手は、君の世界のすぐ隣にいる。あとは、君が直接に会って話しかけてみようとするかだ け。/

 デパートやショッピングモールのレストラン街、すごいねぇ。有名店は、ずらーっと人が並んでいる。前の方はイスもあるが、そこから隣の店を越えて トイレの方まで立っている。一時間待ちです、なんて言われても、まだまだ後に並んでいく。あれ、ほんとうにそんなにおいしい店なのか? そりゃ、一度、並んで入ってみないとわかるまいし、いくら人がいいと言っても、自分の口に合うかどうか。一日中ひまな人はいいけれど、君のように仕事の合 間なのにそんなところに並んでいたら、昼休みが終わってしまって、何も口にしないまま夜まで仕事だよ。


 情報化社会なのはけっこうだが、拡大しきった国境無き市場のおかげで、ピラミッドの上の方には、下の方からケタ違いの数のお客が駆け上ろうとするように なってしまった。それで、新発売だの、人気商品だのは、すぐに売り切れ、入荷待ち。なのに行列。レストラン、飲料や玩具なら、待っていさえすれば、いずれ はきっと順番に買える。でも、限定品のオークションとなると、後から来たやつが高い入札で君を追い越していく。売り切れたら、そこでおしまい。待ってい たって、絶対に君は手に入れられない。


 驚いたことに、恋愛でも、同じ現象が起こっている。まさにオークション。それどころか、締め切り無しに、ただみんなのビットだけをかっさらい続けて釣り 上げるプロのアイドルまがいの連中もいる。それさぁ、いくら君ががんばって入札しても無理じゃない? いくら並んでいても、いくらカネと愛情を注ぎ込んでも、君が落札できる見込み、ゼロでしょ。だいいち向こうからすれば、君なんか絶対多数のワンオブゼム で、顔も名前も知らないよ。無償の愛。永遠に生きられるなら、それもいいけれど、四十になって一人っきりの部屋って、そのときになってから後悔しても遅い と思うけどなぁ。


 めかし込んで、着飾って、美男美女がいそうなおしゃれな場所に出入りするのもいいけれど、ごめんね、はっきり言うけれど、君に勝ち目は無いんだよ。客観 的に見てごらん。世の中には君よりも魅力的な人がいくらでもいる。君は高学歴、高収入、高身長か? 中高のころから、ミスなんとか、ミスターなんとか、って、近所で評判だった? そうでないなら、時間と努力のムダ。落札できるのは、一人に、たった一人だけ。競争になるのは、ピラミッドの上の方だけ。それ以下は、壁の花、どころか、 外に並んで待っているだけで四十越えのタイムアップ。きびしい言い方だけど、ただのストーカーで一生を終える。


 無理な場に無理に行っても、どうせ無理。そういう場に慣れているやつらにかなうわけがない。どうせすぐに馬脚が出るし、そんなお高い相手と君が長続きす るわけがない。君とは最初から住んでいる世界が違うんだ。でも、だからといって、家にいて、ネカマだか、ネナベだかわからない相手とゲームをしているだけ では、なにも始まらない。まあ、オフで会ってみたらどうだろう。ネットもしない、ゲームもやらない、知り合いなんかだれもいないなら、とりあえず、スー パーでも、図書館でも、公園でも、公共のスポーツ施設でも、どこでもいい。ちょっと外に出てみよう。ランニングやトレッキング、ちょっとしたハイキングも 悪くない。一人じゃ気恥ずかしいというのなら、子犬でも飼って、その散歩ということにすればいい。いっそネコに首輪をつけて散歩でもしていれば、だれか きっと声をかけてくれる。それが、おばあちゃんでも、なかなかの孫娘や孫息子がいるかも。


 君は自分に騙されている。直接に会って話したことも無い相手なんて、君の世界には最初から存在なんかしていなかったんだ。君は、人気レストランで素敵で 豪華なメニューを見せられているけれど、実際には、どれを注文しても、ぜんぶ売り切れ。結局、最初から最後まで、なにも口にはできない。本当に存在するの は、もともと君の世界のすぐ隣の世界にいる人。もともと君の世界のすぐ近くだから、会って話しかけさえすれば、話もはずむし、心も打ち解ける。あとは、君 が自分の狭い世界から、そのすぐ隣の世界にまで足を運んで、直接に会って話しかけてみようとするかどうかだけ。


 一人ではあまり収入が多くなくても、二人で協力すれば、部屋でもなんでも折半で、生活もすこしは楽になる。一人でテレビやマンガを見ているより、二人で 商店街でも歩ければ、いままで気づかなかったいろいろな楽しみが見つかる。スマホなんかペコペコやらなくたって、目の前に相手がいれば、いつでもその場で 話ができて、その場で生きた言葉が帰ってくる。なにより余計なムダ使いも減るし、幸せは増える。さあ、いろいろ始めるにはいい季節だ。せっかくの人生、 チャンスを逃すな。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/わかった、わかっている、と思う君自身こそが、君の思考力、想像力、共感力のリミッターになってしまっている。すべての現実を芸術作品のように、わけのわからないものとして見直すならば、そこには新鮮な発見がある。/

  これ、なぁんだ? 見りゃわかるだろ、って、そりゃそのとおり。ウサギだろ。えっ、アヒルじゃないの? ウサギはアヒルじゃない、だからアヒルなんて言っているやつは、頭がおかしい。いや、そもそもアヒルだって。アヒルだったらウサギのわけがないじゃない か。政治でも、経営でも、しょっちゅう、この手の言い争い。でも、これはほんとうはウサギアヒルかも。


 ウサギはアヒルじゃない、というのは、観察に基づく事実問題ではない。君が君の頭の中でかってに言ったこと。君は、君の頭の中でそう思ったとたん、事実 を観察するのを止めてしまう。ひとつのことがわかったら、それですべてだ、と君が決めつけ、それを絶対の基点にしてしまって、後はすべて頭の中だけで済ま そうとする。


 1から100までの数字をすべて足せ。これなんか、もっとひどい。こんな問題を与えられても、どうせ君は読むだけで、なにもやりもしない。面倒くさい。 でも、面倒くさいというのも、事実問題じゃない。君が頭の中でかってに言ったこと。逆に、あぁ、これ、ガウスの足し算じゃないか、と、すぐにわかって、 101x50=5050と即答する人もいるかもしれない。しかし、こういう人も、わかってない人と似たようなものだ。100+(1+99)+ (2+98)+……(49+51)+50=100x50+50という、ひとつずらした解法だって他にある。


 ようするに、人間、なにかわかると、わかった、解けた、って、そこで観察したり、考察したりするのを止めてしまう。面倒だ、とか、ムダだ、とか、できっ こない、とか、わかるのも同じ。そうわかると、そこで止めてしまう。でも、わかる、なんて、そもそも事実問題じゃない。君の頭の中のできごとにすぎない。 君がわかっても、わからなくても、事実の方はなにも変わってはいない。目の前に問題としてあり続けている。


 マニュアルや図解、警告音なら、読んですぐ、見てすぐ、聞いてすぐにわからないといけない。その先にやるべきことがあるから。一方、芸術は、いくら考え ても、結局、むしろよくわからないものが多い。もっともらしく、わかったかのような解説をしている評論家連中がいるが、そういう連中は、そもそも芸術とい うものそのものがよくわかっていないのだろう。むしろ、芸術は、ありのままのわけのわからないものに向き合うことで、自分の小賢さを思い知り、自分がかっ てに作ってしまっている思考と感情の壁から自分を解き放ってくれる。


 面倒だ、ムダだ、できっこない、いや、もうわかっている。でも、それこそが、君をムダに苦労させている元凶だ。君がいつまでも同じことを毎日繰り返し、 すこしも前に進めないのは、君自身が君自身の頭と心のリミッターになってしまっているから。君がそこに自分自身で思考と感情に壁を建ててしまっているか ら。たとえ、面倒だ、と思ったとしても、次には、さて、いったいどこがどう面倒なのか、じっと観察し考察を続けてみたらいい。こうして面倒の場と形がわ かったら、それに触れない道を探求してみたらいい。ガウスのような面倒ではない道が他にあるかもしれない。


 すぐにわかってしまう君の小賢しさ、君の怠惰が、せっかくの君の無限の才能、君の思考力、想像力、共感力を妨げている。どんな現実からも目を逸らさず、 むしろそれを芸術作品のように、むしろまさにわけのわからない問題として見直すならば、そこにはいままで気づかなかった新鮮な発見がある。いつも見慣れた 通勤途中の車窓からの風景、うんざりするほど毎日、顔をつきあわせている上司や部下、取引先。君の目を曇らせてしまっているのは、君自身だ。わかったふり を止め、でも、あれは、どうしてなのかな、何なのかな、と、すこしもわかっていなかったことに気づけば、そこに新たな発見がある。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)

/今年、萩本欽一さんが大学に入ったとか。人生や社会の当たり前を疑って、よくわかっていないということがわかると、そこから新しいパラダイムが見えてくる。賢ぶって無理な見栄を張り続けているのを止め、大学でちょっとバカに学んでみることも、ときには大切。/

 プラトンはこう言った、カントはこう考えた、って、いまさらそんな現実離れした昔の人の変な話ばっか並べられても、なんの役にも立たないよ、現代 科学だけやっていれば十分、そもそも大学なんかよりネットの情報の方がずっと詳しい、大学の先生は世間知らずのバカばっかだ、って言うけど、そりゃそうだ よ。大学って、バカばっかだよ。バカのためにこそ大学はあるのだから。

 古代ギリシアの昔から、オレはなんでも知ってる、なんでも聞いてく れ、君に人生を教えてやろう、これで勝てる、これで成功できるという、とっておきの秘訣を伝えてあげよう、という自己啓発のグルみたいなのがいっぱいい た。彼らは「ソフィスト(知恵者)」と呼ばれ、街々で法外に高額の講演会をやって、人々から大金を巻き上げていた。でも、それ、ホントか、よくわかんない ぞ、と言って出て来たのが、ソクラテスみたいな「フィロソフィスト(知恵渇望者)」。つまり、もともと知恵が無いから、バカだから、哲学者。

  「パラダイム」なんていう言葉を聞いたことがあるだろう。野球とかサッカーとかいうのは、みなパラダイム。同じトランプで、七並べもできれば、ポーカーも できる。人生や社会も同じこと。体力が有り余って、なんでも冒険してみたい若者と、家族を守り、仕事をやり遂げたい大人、残り少ない余生を最後まで深く味 わいたい老人とでは、同じ人生でもゲームがまったく違う。生まれながらの身分世襲社会と、どんな方法を使ってでもカネを儲けたヤツが勝ちの資本主義社会、 組織の中で他人を蹴落として昇進すれば身分もカネも手に入る立身出世社会もまた、それぞれ別のゲーム、別のパラダイム。

 あるパラダイムが 主流になり、そこでさまざまな工夫が試されると、やがておおよその必勝法ができあがってくる。こうなると、その必勝法を徹底的に磨き抜いた連中の最先端の 戦いになるが、ゲームの競争からこぼれた連中の方の不満が高まり、こんなの、つまんねぇよ、なあ、みんな、別のゲームやろうぜ、って、パラダイムの大転換 が起こる。

 問題なのは、あるパラダイムにどっぷり染まると、そのパラダイムでの必勝法は当然絶対のもので、それ以外の可能性はありえな い、考えられない、となってしまうこと。しかし、そこには、そのパラダイムの中であれば、という大前提があって、じつはそのパラダイムの方はすこしも当然 絶対ではない。

 地球から夜空を見ていた時代、その動きを再現するために精緻複雑な天球儀が探求された。しかし、ガリレオが出て来て、地動 説という新パラダイムになると、地球の方が太陽のまわりで自転、公転している、という話になった。ニュートンが、天界も地上も運動法則で理解できる、と、 二つの研究ゲームを統一。そしてアインシュタインは、時間も空間も互換性がある、と、さらに統一。じゃ、最新最先端の現代科学だけ勉強すればいいじゃん、 と思うかもしれないが、世界がのっぺりとエネルギーで満ちた空間なのか、それとも、粒々と真空の隙間でできているのか、いまだに両方の研究ゲームが連携し ながら並立していたりする。人生だって、世襲ゲーム、資本ゲーム、昇進ゲームのように複数のものが絡み合って同時進行している。

 それぞれ のゲームの中で、どうすれば最適最善か、なにが必勝法か、みたいな話は、企業が命運を賭けてやればいいし、巷に溢れる有名なソフィストの「先生」に習えば いい。一方、大学でやっているのは、理系でも、文系でも、根本はみな一種の哲学。いま○○ということになっているけれど、根本的な見方を変えたらXXなん じゃないだろうか、って、バカみたいなこと考える。生物と物質、情報と道徳、歴史と現在、個人と社会、等々、ぜんぜん別のパラダイムと思われているけれ ど、一つのゲームに統一できるんじゃないだろうか、とか。

 オレは頭がいい、大学の先生なんかより、歴史のことなら、映画のことなら、ずっ といっぱい知ってるぞ、ぜったい勝てるぞ、というような秀才は、せいぜい世間で評論家でもやっていればいい。それは、わかっている、のではなく、わかって いると思っているだけ。あくまでも、現行パラダイムの中でのソフィスト。一方、うーん、やっぱりよくわかんないんだよなぁ、と、わかっていないことをよく わかっていて、ぼやいている天才肌の「バカ」な人だけが、現行のパラダイムの隙間やアラに、まったく別の新しいパラダイムに抜ける突破口を開く。

  だから、大学の先生方に「バカ」はむしろ褒め言葉。数学バカ、化学バカ、歴史バカ、文学バカ、大学は「研究バカ上等」の業界。べつに世間がなんと言おう と、同時代同分野の凡百の研究者がどう評価しようと、業績の意義は、業績の結果、そこから見え、そこから切り拓かれてくる新しい時代、新しいパラダイムに よってのみ決まる。もちろん最近は、大学の中でも企業化してしまって、パラダイム内での研究開発競争に明け暮れている分野も少なくないが、たとえどんなに 隅っこに押しやられていても、本筋はあくまで研究バカ。みんな、それぞれに研究を楽しんでいる。

 時代に決められ、人に与えられたゲームの 中で、あれこれのソフィストのビジネス書で、その必勝法を極めるのもいいけれど、べつにそれだけが唯一絶対のゲームじゃない。人間、年齢や健康とともに ゲームを乗り換えていかなければならないし、世の中も、同じゲームがいつまでも続くわけじゃない。旅をして他の国の他の生き方、暮らし方を知るように、大 学でバカな研究を知るのも、人生を豊かにする方法のひとつ。

 若いくせに、すでに狭いパラダイムの中に頭も心も凝り固まり、なんの伸びしろ も無いなんて、あまりに情けない。いったん大学の先生のバカさ加減に本気でつきあってみれば、こんなバカなことをやって生きてる変なやつらもいるんだ、と 驚くだろう。フルタイムの学生に戻るほど、カネや時間や体力の余裕は無いという人でも、昨今、どこの大学でも聴講生という手がある。オレはもう功遂げ、名 を成したなんていう、どこかの終わったパラダイムでのつまらないプライドなんか放り出して、若い連中に混じって、近所の大学にでも、毎週、遊びがてら勉強 に行ってみてはどうだろう。年寄り同士が集まって昔の自慢合戦ばかりしているより、よほど新鮮で刺激的だ。

 人生、いつでもまだ、なにも終わってはいないし、なにも始まってもいない。ちょっと大学にでも行って、いったんバカになって、世界の常識の方を疑ってみれば、いくらでもまた他の生き方、考え方、仕事の仕方の可能性はある。


(大 阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲 学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン  洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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